第1話 実業家の跡取り

文字数 3,179文字

経営者エンゲルス
Saven Satow
Nov. 12, 2017

「自由は外的な事実の中にあるものではない。それは人間の中にあるのであって、自由であろうと欲する者が自由なのだ」。
フリードリヒ・エンゲルス

1 実業家の跡取り
 今日の中国の成長の発端が鄧小平の「改革・開放」政策にあることは間違いないでしょう。その際、彼は社会主義市場経済を提唱しています。マルクス=レーニン主義によれば、社会主義社会は資本主義克服として登場するのですから、矛盾しています。

 しかし、フリードリヒ・エンゲルスはそれに異を唱えなかったかもしれません。と言うのも、彼は経営者だったからです。鄧小平は「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である(不管黑猫白猫 捉到老鼠就是好猫)」と言いましたが、エンゲルスは確かに「良い猫」です。

 エンゲルスはマンチェスターの紡績工場を経営しています。有能で、マンチェスター財界の有力者です。貴族の狐狩りに参加、得意の乗馬を披露しています。彼には豊かな収入があり、その一部でマルクスを援助しています。エンゲルスはプロレタリアではありません。ブルジョアです。資本主義の成功者が資本主義の終焉を語ったというわけです。

 フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)は、1820年11月28日、バルメン・エルバーフェルト(現ヴッパータール)に8人兄弟の長男として生まれています。父もおなじなまえで。フリードリヒ・エンゲルスと言い、実業家です。

 父のフリードリッヒ・エンゲルスは、1837年、製造業者ペーター・アルベルトゥス・エルメン(Peter Albertus Ermen)とマンチェスターを訪問します。帰国後、彼らは1838年8月に「エルメン&エンゲルス社(Ermen&Engels)」を設立します。同社は85年まで本社をドイツのバルメンン(Bermen)に置いています。1840年、エンゲルスキルヘン(Engelskirchen)に「エルメン&エンゲルス紡績工場(Baumwollspinnerei Ermen&Engels)」を創設、44年から生産を開始します。

 エンゲルキルヘンはジーク川の支流アッガー川の岸辺にあります。当時の動力は蒸気機関ではなく、水力ですから、川沿いが工場立地の必要条件です。この地域は開発が進んでいなかったので、水利の余裕が大きく、安価な労働力が豊富です。

 この紡績工場は1970年に生産がアジアに移転、79年に閉鎖されています。しかし、貴重な産業遺産だとして保存され、現在、 「LVR産業博物館(LVR Industrial Museum)」の一部となっています。工場立地としてこの地を選んだ父の目は確かだったと言わねばなりません。

 エンゲルスは頭脳明晰で活発、好奇心旺盛、外向的な性格の子どもだったと伝えられています。現在のヴッパータールはルトライン=ヴェストファーレン州にあり、ルール地方の工業都市です。しかし、当時はまだまだ前近代的な慣習が残り、エンゲルスはそれに反発しています。

 エンゲルスは、1837年、エルバーフェルトのギムナジウムを中退、新たな事業展開を進めていた父の仕事を手伝うようになります。また、ブレーメンのロイボルド商会でも修業をしています。1841年、兵役のため、ベルリン近衛砲兵旅団に入ります。好奇心旺盛な彼は、軍務の合間にベルリン大学で聴講、ヘーゲル左派の思想に触れています。

 除隊後、1842年、エンゲルスは英国のマンチェスターに赴きます。エルメン&エンゲルスはドイツ以外にも投資を行い、同地の紡績工場を経営しています。共同経営者の父が息子にその仕事を勉強させようとしたわけです。

 エンゲルスは、そこで、資本主義先進国であるイギリスにおける都市の労働者階級が置かれた貧困状態にショックを受けます。彼は多くの資料を収集・分析、それえを『イギリスにおける労働者階級の状態』として1845年に出版します。エンゲルス自身が社会調査を実施してはいませんが、彼と政治的立場を異にする側の資料を使い、公正さを確保しています。これは貧困研究の古典の一つとして現在でもその歴史解説の際に言及されます。

 カール・マルクスは、1844年時点ではまだフォイエルバッハの強い影響下にとどまっています。いわゆる初期マルクスです。古典となる著作を書き上げているエンゲルスの方が思想家として彼よりも先行しています。

 エンゲルスは1842年にマルクスと初めて会います。ただ、両者共に初対面の印象は悪かったと伝えられています。マルクスはユダヤ系の弁護士の息子で、ベルリン大学を卒業したジャーナリストです。一方のエンゲルスは、実業家の息子、いずれ経営者の道に進むだろうというストリート・スマートです。お互いに「なんだ、こいつ」と思っても不思議ではないでしょう。

 ところが、44年に再会した時には、二人は意気投合しています。歴史上名高い協力関係が始ります。明らかに先行していたにもかかわらず、エンゲルスは自らを「第二バイオリン」に位置付けています。マルクスがコンサートマスターというわけです。おそらくマルクスの潜在能力を見抜いたからでしょう。

 二人は、1845~46年、『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆しています。これは未完に終わりますが、この共同作業を通じてマルクスは一皮むけます。ここから独自の思想家の道へと歩き始めていくのです。次いで、エンゲルスの草案『共産主義の原理』に基づいて、『共産党宣言』(1848)を共同執筆します。

 1848年、欧州各地で革命が勃発します。反動的なウィーン体制がこれにより崩壊しています。ちょうどこの年に『宣言』が出版されたため、革命家として二人の名前は欧州に知れ渡ることになります。

 エンゲルスはマルクスと共に1849年までにドイツのみならず大陸各国から追放され、イギリスに亘ります。マルクスはアメリカ行きも検討したようですが、資金面で断念しています。プロイセン当局は英国政府に対して、エンゲルスとマルクスの追放を要求します。しかし、ジョン・ラッセル首相はそれを拒否しています。この人物は思想家のバートランド・ラッセルの祖父で、孫ほどではないにしろ、表現の自由を大切にするリベラルな政治家です。

 エンゲルスは、以後、英国を生活の拠点としていきます。エルメン&エンゲルスのマンチェスターの紡績工場の仕事に携わることになります。1850~60年は一般社員、1860年~64年には業務代理、1864~69年にマネジャー、それ以降は共同経営者を務めています。現場から始まり、中間管理職を経て管理職に昇進、その20年の経験の後に経営者へと就いています。

 エンゲルスは入社後も執筆を続けていますが、それはあくまで仕事の合間です。今も昔も資本主義において会社経営は道楽でできるものではありません。政治や経済の情報を丹念に収集・分析してそれに対応していかなければ、生き残れません。エンゲルスは相当な量の新聞や雑誌を詠んでいたと伝えられています。

 堤清二元セゾン・グループ代表は経営者であると同時に辻井喬という作家でもあります。彼は作家として呼ばれた食事会などではいつもにこやかです。ところが、そんな時でも部下から緊急の連絡が入ると、経営者へと変わります。席をはずし、電話をとり、厳しい口調で叱責、指示を出します。その際、顔つきまで変わってしまうのです。エンゲルスも経営者の時と思想家の時とでは違う人格だったかもしれません。

 もしくは、エンゲルスは思想家としてのアイデンティティがあるから、経営者の自分を冷静に見ることができたのかもしれません。理論家だからこそ実業家として成功できたというわけです。
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