残り香

文字数 534文字

目をさますと自室だった。

二階のぼくの部屋は、いつものように雑然としている。
ぼくはその中心にあるベッドの上に横になっていた。

ベッドを囲む本棚には本があふれ、机の横には楽器が立てかけてある。
床には書籍の入った段ボールが積まれ、その上には、古いパンフレットやカタログなどがさらにおりかさなって、雑然としている。

階下で声がした。玄関口のほうである。
お気を付けて、おかまいもできませんで、と母が見送りの言葉をかけている。
ええ、では、と返事する声には、聞き覚えがあった。

ヨシダさんが帰ろうとしていた。
落ち着いた雰囲気の美しい四十代の女性だった。
音楽の才があり、よくとおる声で、フォーク・ギターの弾き語りを演奏した。何度かカフェ・ライブを訪れたことがある。

ぼくは焦った。
どうしてその人がいるのか分からなかった。
とにかく、帰ってしまう前に挨拶しなければいけない。

「待って。寝てたんだ。夢見が悪かったんだ」

あわてて大声で叫んだ。
そして部屋を出て、急いで階段を降り、玄関口をみた。
だがそこにはもう誰もいなかった。

立ち去り際だったので、ぼくの声は届かなかったのだろう。
ただ、ふわりとよい匂いを感じた。
ヨシダさんの髪の香りのようだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み