第1話

文字数 1,954文字

 史実に重きを置いた歴史小説というジャンルは、戦後に大きな発展を遂げたのが特徴的である。
 その黄金期を築いた一人に、司馬遼太郎を挙げない歴史小説ファンはいないだろう。偉人たちの華やかな業績にあやかり「司馬遼太郎を愛読しています」がビジネスマンの教養をアピールするお決まりの挨拶だった時期もあるほど。半面、歴史小説とは「偉いおじさんたちが読むお堅い作品」というイメージがそこで形づくられてしまったとも言える。

 だからこそ今の作家たちは、様々な意味で従来の歴史小説の修正を迫られているのかもしれない。最近の作品になるほど英雄でも名君でもない人物をあえて取り上げ、その誠実な生きざまを見せる傾向が強くなる。人々の共感を呼びやすいという意味では、黄金期より進化を遂げていると言えるだろう。

『小説現代』11月号掲載の今野敏氏「天を測る」は、そんな今の歴史小説のまさにど真ん中。主人公・小野友五郎のキャラクター造形が素晴らしいのに加え、彼の挙げた輝かしい実績と、それに相反する謙虚な姿勢にまずは目が行く。一方で、これまで偉人扱いされてきた歴史上の「スター」達に皮肉を寄せ、かなりパンチの効いた作品にもなっているのだ。

 時は幕末。咸臨丸が太平洋を横断し、アメリカに向かうところから始まる。日本人が太平洋を横断する、初めての試みである。
 小野友五郎は、その咸臨丸の測量方兼運用方。つまり船の正確な位置を割り出し、航路を決める航海長の立場である。

 彼は笠間藩士だが、幕府が創設した長崎海軍伝習所の一期生に抜擢され、さらに測量術の高さを買われて咸臨丸の航海に参加している。
 この経歴だけでも友五郎の並外れた能力がうかがわれるが、読者は物語の冒頭でいきなり彼の技量を見せつけられる。友五郎は古くからある月距(げっきょ)法を用いて経度を割り出し、最新式クロノメーターの補正をしてアメリカ人技術者を驚嘆させるのだ。

 他の日本人、あるいはアメリカ人の方にもどちらの技術が上かという競争心に囚われている者が多いのに、友五郎はそんなことに頓着しない。西洋人にお前は間違っていると言われようが、自らの技術に対する自信が揺らぐこともない。
 彼がこだわるのは、目の前の仕事を正確にできるかどうか。それだけなのだ。

 咸臨丸の航海の他にも、小笠原群島の実測図を作るなど友五郎の知られざる功績は多く、作中では在野の研究者・藤井哲博氏の著作を参考に、それらの紹介がふんだんになされている。
 だが何より、この作品には小説ならではの魅力があふれているのだ。中でも主人公・友五郎のキャラクター造形に関して、洗練度が際立っている。

 読んでいると、ズバズバと物事を言い当てる真顔の友五郎と、痛い所を突かれて苦笑いをしている周囲の人々の様子が目に浮かんでくるのだ。現代でも理系の優秀な人に「高機能自閉スペクトラム症」が珍しくないが、友五郎もこれに該当するのではなかろうか。そんな想像をかきたてられてしまうのも、優れた小説作品ならではのことだろう。

 友五郎が非常に優しい性格なのは、読者にはよく分かるのだが、得てしてこのタイプの人間は冷たく見えてしまうものだ。
 しかしこの物語では、そんな友五郎が周囲に煙たがられることなく、むしろ人々の信頼を得、愛される様子が描かれる。読んでいてうれしくなるのは、そうした部分だ。周囲の人々の忍耐力、理解力もまた優れていたことが感じられる。
 もちろん友五郎が出世した理由は、彼の真摯な仕事への姿勢と、確実に成果を出し続けた点にあるのだろう。だがこれは、コミュニケーション能力が問われ過ぎる今の世の中への反論と受け取ることもできるかもしれない。

 小野友五郎が平和な時代に生まれていたら、日本の科学技術にどれほどの足跡を残せたことか。
 しかし厳しい時代のこと。他の幕臣とともに、友五郎はまったく身に覚えのない罪を着せられ投獄されてしまう。旧幕のスケープゴートにされたのだ。

 見方を変えれば歴史は様変わりするもので、ここでは坂本龍馬も武器商人グラバーに乗せられて内戦を喚起するテロリストとして描かれる。パフォーマンスのうまい福沢諭吉や勝麟太郎(海舟)は悪役として何度も登場するが、逆に地道に職務にまい進していた友五郎は有能であればこそ、人々の嫉妬を受けてしまったのだろう。

 これほどの打撃を受けた友五郎が、一体どんな結論に至るのか。すがすがしい読後感をもたらすこのラストが胸を打つ。表舞台に立った華やかな人々とは別に、本物の仕事をした者はここにいたのだ。

 幕末という激動の時代に、こんなテクノクラートが存在した。ひたすら技術に生きた友五郎の人生は、静かに光芒を放っている。それは目立たない場所で辛抱強く働く現代人に、大きな希望を与えてくれることだろう。
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