第7話

文字数 2,099文字

 「る~か~、やっぱここおったか~」端正な顔立ちをした少女が遠くから甲高い声で叫んでいる。長い髪は色素が薄く茶色をしていた。
 ―ん。んあ~
 大きく伸びをして起き上がった。どうやら俺は広場のベンチで読書をしていたが、太陽が温かくつい眠りに落ちていたようだ。小高い丘の上にありここらへんじゃどこよりも太陽が近い。
 ベンチの後ろは崖になっている。邪魔するものはなく眼下には一面に家々が敷き詰めてあった。ここから見える景色がお気に入りだ。まるでこの大阪の街を独り占めにした気になれるからだ。
 「るか~、野球するで~今日は負けへんで~」少女の甲高い声が鼓膜を揺らした。
 汗だらけの少女がベンチに腰掛ける俺を見下ろしている。日に焼けた小麦色の肌が彼女の活発さを表していた。
 大きな広場は子どもが野球をするにはちょうどいい広さだ。
 「あれ、敬と一緒に来たのにおらんやん」
 そう言うと少女が振り返り遠くを見た。「ほら、来たで」
 無邪気な彼女が好きだった。初恋の相手である彼女と一生を共にしたいと子どもながらに思っていた。
 「も~、ツバメちゃん…急に走り出さんといてや…」遠くから走ってきたであろう少年が少女の前で立ち止まった。膝に手をつくと肩を揺らした。二人はどうやら家が隣同士の幼馴染らしい。そんな二人が純粋に羨ましかった。
 「さっそく勝負や」少女は体を動かしたくてしょうがない様子だった。「じゃ、とりあえず私がピッチャーで琉夏がバッターな」
 「俺も打ちたいよ~」少年が眉を傾ける。
 「敬は後でな」
 野球と言っても九対九でするわけではなく、ふわふわのゴムボールとプラスチックバットを使ったピッチャーとバッターの対決だ。残る一人は外野でボール拾いだ。
 俺はバットを握りベンチと反対の方に歩き出した。崖に向かってバットを構えるのがこの広場のルールだ。そうしないと空振りするたびにボールを失うことになる。
 俺はバットを構えた。運動神経はさほどいい方ではないのだが、なぜか今日は自信があった。
 少女が長い髪をなびかせ大きく振りかぶった。所謂女の子投げで渾身のストレートを真ん中高めに放った。俺のバットはするりと動き出し完璧なタイミングでボールを捉えた。大きく上がったボールはなかなか落ちてこない。まるで時が止まったようだった。
 ボールは敬の頭の上を超え崖の下に落ちていった。過去最高に飛んだので俺は嬉しかった。
 敬が崖の下を覗き込んでいた。
 「も~一球目からそんな飛ばしちゃあかんで」
 少女は悔しいのかムキになっている。「ついでに敬も可哀相やわ~」
 自分がバッターになるチャンスがなくなったと少年は少し涙目になっていた。そんな少年の肩を少女は優しく叩いていた。
 俺は崖の下を覗き込む二人が気に食わなかった。この広場史上最高飛距離を記録した自分を褒めてほしかった。何より仲がいい二人が羨ましく自分独り取り残されたような気がして寂しかった。
 ―自分のものにしたい…
 つい、本当につい、二人の背中を強く押してしまった。俺の視界から二人は一瞬で消えた。少女の悲鳴が遠くなり、ドンっと音と共にプツリと途切れた。
 目の前からいなくなった二人が寂しがり屋の自分のためにずっと心の中にいてくれるような気がした。そう感じた。

 ―懐かしいことを思いだした…
 冷たい牢獄の中、心の中でずっと閉じ込めていたことを夢で見た。俺は大阪での出来事を記憶から消していたはずだった。
 そうだ、俺は幼い頃大阪に住んでいたのだ。なんで長崎に住んでいたのか。確か仲の良かった友人を二人事故で亡くしたからだ。それが原因で祖母が住む長崎に移り住んだのだ。
 警察は丘の上で起こったことを事故として処理したが、俺の両親は真実を知っていた。俺が全て真実を話した。あの人たちは自分の社会的地位を守るためには何としても隠し通したい事実を知っていた。愛する両親のおかげで俺はあの時警察に行かなくて済んだのだ。
 確か母は「息子には空気が良く食べ物がおいしいとこで暮らしてほしい」と言っていた。何て良い母親だ。俺はその要望で長崎の祖母と暮らすことになった。
 当時子どもだった俺は自分一人祖母のところに送った愛する両親に何も疑問は抱かなかった。だがおそらくあの二人は坦々と事実を話す息子が気味悪かったのだろう。何より『自分のものにしようとして突き落とした』『好きだから』という狂気じみた動機が我が子とは思えなかったのかもしれない。
 両親と離れ離れになるのは凄く寂しかったのだが、そんな気持ち吹き飛ばす程長崎はいい街だった。海も近いし食べ物もおいしい、そして大好きな祖母がいつも一緒にいてくれるのだ。
 祖母は若い頃は美人だったらしい、笑うとその面影が見ることが出来た。よく近くの銭湯に連れて行ってくれて、俺はその時間が永遠に続いてほしいと思っていた。
 小学校五年生の時、愛するあまり祖母を失ったときは凄く悲しかった。遺影を見たときは涙があふれていた。だが、立ち上がる線香の煙を見たとき何か自分の中にスイッチを発見したような気がした。大好きな祖母が実際に生きて近くにいるような気がした。
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