第2話

文字数 9,016文字

 二月八日、大学の春休みまであと三日だ。東琉夏が在籍する機械科の二年生計八十人はC―3A大教室で期末試験を受けていた。いや、受けさせられていたの方がしっくりくる。何せ哲学のテストだからだ。
 その哲学のテストの題材に挙げられていたのは“愛”そのものについてだ。しかし、こんなのが将来なんの役に立つのだろうか。役に立つわけがない。いや、教養として身に着けておけてということだろうが、ペニアとポロスからエロスが生まれたという神話的で抽象的な愛の概念を学んで何になる―こんなことを考えながら生活している大人がどれだけいるだろうか、おそらくいない。
 世界中探しても一人しかいない。それは教壇の上から今にも学生を食い殺してしまいそうなほどの鋭い眼差しでこの試験監督をしている前田教授だけだろう。今俺は世界唯一の男を前にペンを走らせている、と琉夏は決めつけた。 
 前田を見たのは初回の講義とこの期末試験の二回だけだ。初めて見たときは気持ちいいくらいに禿げた丸顔の笑顔が優しいおじいちゃんという印象だった。
二回目からの講義は出欠だけとってすぐに退室していた。別にこの教授が嫌いというわけでもない。それに真面目に勉強するのが格好悪いと思う年ごろというわけでもない。ただ本当に何となく授業に出るのが面倒な時がある。ほとんどの学生がそうだろう。
 出欠は講義室の前方と後方に取り付けられたICカードリーダーに学生証をかざすと学生証に内蔵されたICチップが反応し自動的に出席が記録されるという仕組みだ。
この仕組みを発明した人は二十一世紀最高の天才だと思う。いや、俺以外にもきっとすべての学生たち、そして一部の教員たちもそう思っていることだろう。
 なんせ従来の名簿に書き込んでいくアナログ式の出欠の取り方は面倒だ。それに比べると鍋蓋とスッポンほど手間のかかり方が違う。
 そして学生たちはこのデジタルな仕組みゆえの穴をつく。始業数分前に講義室を訪れると学生証をカードリーダーにかざし何の用事もないのにせかせかと講義室を後にする。教授に接触することなくやり過ごせるのだ。
 そういうわけで前田を見るのは念のために受けた初回の講義と今の二回というわけだ。
前田は初回の講義で見た時よりも禿げたような気がした。もう禿げるための髪の毛も残されていないのに禿げたような気がする。
 前田が何かの手違いで顔に取り付けられたようなアンバランスに小さい口をしている。そしてその口を開いた。「残りじっぷ~ん」
 ―何故工学部の授業に哲学などあるのか…
 なんて考えながら琉夏は事前に入手した過去問通りの試験をすらすら埋めていった。
 ペンが紙をこする音だけが耳に入る。
「はい、終了です。集めるので各自席に着いたままで」前田はそう言うと教壇を降り解答用紙を集めて回った。80人分1人で集めるわけだからそれなりの時間がかかる。
 ―もっと効率の良い集め方があるだろうに。
 おそらく教室にいる全員がそう思ったが誰も口には出さない。何も生まない数分間を全員で過ごした。
 前田が再び教壇に戻り、トントンと全員分の解答用紙で机を鳴らした。
 「初めましての人が多いな~」ボソッとつぶやいた。そして黒板に書いたタイムテーブルを乱暴に消し、前田は講義室を後にした。
 黒板消しから余韻のチョークの粉が舞っていた。

 生徒たちも筆記用具を片付けぞろぞろと講義室を後にする。講義室の前方と後方に一つずつある出口に行列ができていた。俺は人が密集しているところが嫌いだ。だから敢えてワンテンポ遅れて退室する。
 荷物を片付ける視界が暗くなった。誰かの影だ。
 「ほんまあいつ嫌味しか言わへんわ」宮田敬がいつもの調子のいい口調で話しかけてきた。
 「いつもって前田のいつも知らんとやけどな」前田が嫌味を言ったことに気付いたことは評価してやろう。
 「せやん、琉夏いつもおらへんやん」食い気味に敬が被せた。
 ―ああ、勿論だ。身につかない授業など出席する価値がない。しかし真面目に出席する敬のことを馬鹿にするわけではない。
 敬は調子のいい関西弁に加え、赤い頭髪、端正な顔立ちで両耳に結婚指輪のようなピアスを付けていることもあって和紙よりも軽い男に見られることが多い。  
 案の定女性関係については和紙どころか空気より軽い男だが、根は尊敬できるほど真面目で礼儀や規律を重んじる男だ。そういうことで敬のことは嫌いになれない。
 悪戯に笑った。「まあ、テストが過去問通りやけんどんな嫌事言われようがいいとやけどな」
 「ええ?」敬が頭の上から声を出す。
 「あれ過去問通りやったん?あんなん過去問でもないと解けへん思ったんや」敬の声が二人きりの教室に響く。大学生活二年目にもなって過去問の存在に気付かないとは―
 「確かに過去問あっても時間ギリギリのテストやったけどさ。過去問持ってなかったと?」
 「まずある思わんかった」
 敬は真面目な男だ。
 「言ってくれれば全然あげたとに」
 「いや、過去問とかいらんわ、自分で解きたいし」
 敬は真面目な男だ。
 ただのチャランポランな男なら相手にしないのだが、敬のこの真面目さが俺を引き付けるのかもしれない。そんな訳で俺たちは入学時からつるんでいる。
 「ほな、飯食い行こか」敬が俺の袖を引っ張った。
 「うい~」とつぶやき講義室を後にした。
 講義室の重い扉を開いた瞬間、ドンっと俺の背中に強い衝撃が走った。
 奴だ―と直感的に分かった。
 「おい杉崎、お前その急に押すのやめろ」
 「別いいやん、私と琉夏の仲やん」
 杉崎ツバメは俺が人生で初めて仲良くなった女性だ。ちょうど一年前のこの時期にハンバーガ ー店でバイトを始めたのだが、そこで彼女と出会った。同い年が二人しかいないこともあって距離が縮まるのは早かった。何より女性に慣れていない俺でもとっつきやすいほど、ツバメは男勝りな性格をしていた。
 本当俺のことが好きだな―
 「その急に背中ドンってするとは、幼馴染みで黒髪ボブの童顔巨乳の女の子だけて法律で決まっとると!」つまり俺の理想だ。
 「え、私一個も違うやん…」茶髪ロング年相応顔貧乳のツバメが肩を落とす。幼馴染みでないのは言うまでもない。そうツバメは俺の理想には当てはまらない。
 「ほんまツバメちゃん琉夏のこと好きやな~」影を潜めていた敬が割って入った。
 「あ、敬もおったんやね」スンっとツバメは真顔になった。「ただタイプじゃないって言われるのが気に食わんだけ」
 い~と歯を食いしばりまるで敬を威嚇するようだ。
 しかし、敬は嬉しそうだ。「俺にきびしない?」そう言う顔は笑みを隠しきれていない。
 「気のせい、気のせい」と素っ気なくツバメは返す。
 敬はツバメに思いを寄せているのだろう。しかしツバメは俺に恋をしている。これは確信に近い自信だ。俺は女性経験がないというだけで決してモテないという訳ではない。常に輪の中心に存在し、誰よりも注目を浴びる人間だった。勿論、極度のシャイで女子とは喋れないのだが、そういうところが可愛いと一部の女子に人気だった。ツバメは正にそれだ。俺のことが可愛くてしょうがないのだ。
 講義室から出てすぐの階段を下り、三人は仲良くC棟のピロティにでた。
 風つよ―俺は一瞬目を瞑った。
 ワックスで無造作に遊ばせていた敬の髪の毛が風になびき軍隊のように風下側に整列していた。それ程強い風だ。
 次に目を開けたとき「あ、みさき~」とツバメが食堂の方から歩いてくる女に手を振っていた。おそらく友達だろう。しかし向こうは気づいていない様子だった。寸胴のような女だ。
 「あ、じゃあ私ここで」そう言うとツバメは寸胴娘の方へ駆けていった。女性らしいバニラの甘い香りが風にのって鼻を抜けた。
 「え、イチャイチャタイム終わっちゃうの?」
 「もー、やめてよ。イチャイチャとかしてへん!」そんなツバメと寸胴娘の会話が聞こえてくる。ような気がする。
 ―愛しの宮田君とは仲良くなったの?
 そんな声も聞こえたような気がした。
昼飯時になると食堂は腹を空かせた貧乏学生たちでごったがえす。コンビニなんかで弁当を買うより遥かに安いこともあり普段から俺も食堂を利用する。味はさておき早い安いに関して大学の食堂の右に出るものはない。
講義室を遅く出たのとツバメの妨害のせいですっかり出遅れた。そのせいで俺は新型のゲーム機の発売日ばりに伸びた列の最後尾につけることになった。
―うっわ、最悪。この貧乏人どもが…
ブーメランのように自分に返ってくると気づいたのはそう思った後だった。
ずっと下を向いたままだった敬が顔を上げた。緑の木々を見ながら呟く。「ツバメちゃんいつも明るくてええな~」どうやら敬はツバメのことで頭がいっぱいのようだ。
「次は杉崎なん?」
「次は、とかやめてや~。まるでコロコロ好きな人変えてるみたいやん」
―記憶イカレとるんか?
敬は好きになる女性がコロコロ変わる。そのたびに一途にその人のことを想う。しかし、そのコロコロの回転数がピッチャーなら十分プロで通用するレベルだ。俺の知る範囲で敬は入学して13人の女性と恋に落ちている。無論それぞれ真剣な恋だ。おそらく恋に恋するタイプなのだろう。
なにより俺自身がツバメからの好意を気付いている分、敬に対して少しの申し訳なさがあった。
「第一杉崎のどこがいいと?」単純な疑問を敬に示した。確かに世間一般では美人の類に入るツバメだが俺の中では男のような女という風にしか写っていない。だからこそ女性であることをあまり意識せずここまで仲良くなれたのだが―
ツバメは俺より一か月早くバイトを始めており、出会いは俺の先輩としてだ。だが、その一か月ですでに店の業務はすべて完璧にこなせるようになっていた。パートのおばちゃんたちにこの店始まって以来の神童と呼ばせるほどだった。
ある日、在庫管理の仕方についてツバメが店長を言い負かしているのを見たとき単純な恐怖心と尊敬を抱いてしまった。よく男は理で論じ女は感情で論じると言うが、ツバメはどの男よりも理で論じるタイプだった。
―何で杉崎を女と見れるかわからん。
そんな疑問を抱く俺を馬鹿かと思っているだろう。そういう顔で敬は俺を見つめてくる。
「あんなに全部良いて言葉がしっくりくる女の子おらへんて。」俺は「は?」と言ったが敬は気にせず続けた。「ゆるふわパーマが似合う端正な顔立ちに女の子らしい性格。ほんまに全部ええんや!」
敬の熱量にあっけにとられた。どうやら敬は見ている景色が違うようだ。
俺はツバメのバイト先での数々のたくましいエピソードを敬に話した。しかし敬は全てに可愛いとしか答えない。決して可愛い話ではないのだが―
ツバメのすることなすこと全てが可愛いのだろう。
試しに自分のおっちょこちょいな失敗談を交えたがそれにはきょとんとした顔をしていた。
そこ、かわいいちゃうんかい―雛壇芸人ばりに鋭く、だが心の中でツッコんだ。
「いや、そこはかわいいちゃうんかいってツッコんでや~」敬は呆れた顔で言った。
―うざ、
どうやら敬は「可愛い」としか答えなかったのは意図的らしい。そのうえでツッコミ待ちしていたのだ。一丁前にツッコミを欲しがる。関西人のそういうところが嫌いだ。
敬とあれこれ話しているうちに列はなくなりようやく食にありつけた。敬は唐揚げに白ご飯とみそ汁。俺はみそ汁の代わりに納豆を頼んだ。昼食では必ず納豆を食べるのが俺の自分ルールだ。
食堂はすでに食事を終えて席を立つ人もいるが九割程度は埋まったままだ。食事が終わったにも関わらず世間話に花を咲かせ一向に席を離れようとしない輩がいるおかげで席を求めてお盆を持った人がちらほら。まるで掲示板の中から我が子の受験番号を探す母親のように必死だ。早くしないと午後の授業が始まってしまうからだ。
午前で授業が終わる俺と敬はゆっくり席を探す。言うなら裏口入学の母だ。
数分歩き回ったところでようやく席につけそうだ。食堂の隅の方の四人掛けのテーブルにお盆を置いた。敬の真後ろには大きな窓があり、その向こう側に軽くキャッチボールくらいならできるほどの広場がある。
「昼飯時人おおすぎやわ~」お盆を置くなり敬がつぶやく。「食堂もっと広くしたらいいと思うねんな」
俺もそう思う。
「まあ、しょうがなかやん。社会の縮図よ。誰よりも早く動くか敢えて遅れて動く。中途半端な時に動いたら上手くいかんてことよ」 
敬は途中から話を聞いていないようだ。
「とりあえず飯食おうで」敬が言った。
「お、おう」少し申し訳なさはあるが、口が勝手に動き出すのだ。
そんな俺をよそ目に、「いただきます」と敬は手を合わせ仏に感謝し食べ物に箸を伸ばす。敬の箸の持ち方はお手本の様に綺麗だ。親の教育がしっかりいきとどいているのだろう。
しかし、敬の行儀がいいだけに余計気になる。視界の左端に映る二人組だ。キャメルのチェックシャツに同系色のワイドパンツ、黒髪のマッシュヘアだ。その男子大学生の初期装備を纏った二人組はクチャクチャと咀嚼音を鳴らす。当然の如く箸の持ち方も滅茶苦茶だ。まるでヴィオラ・ダ・ガンバの弓を持つかの様だ。
「奏者になればよかとんば」小さく呟いた。
敬は首を傾げた。「ん?なんか言った?」聞き取れていないようだ。敬にとっては突然の長崎弁は異国の言葉に感じるだろう。
「何も言ってなかよ、気にせんで!」作った笑顔で返した。
くちゃ、くちゃ―不快な音が俺の鼓膜を揺らす。
「そうか」敬は気にすることなく別の話題を持ってくる。「にしてもまだ暖かくならんのやな~」
「まだって、まだ二月やぞ」俺は少し戸惑った。九州でも二月は寒い。
三日後から一応春休みと名付けられた大学生だけの大型連休が始まる。がしかし、決して春ではない。おそらく大学は旧暦で動いているのだろうと勝手な解釈をしている。
「いや、九州って年明けから暖かくなるって爺ちゃん言うとったからこの大学選んだのに」敬は至って真剣だ。
くちゃ、くちゃ―不快な音が大きくなる。どうやらこの音の発生源はあの初期装備の二人組のようだ。
この音は無視しよう。敬との会話に没頭すると決めた。「どんな爺ちゃんやて…九州もしっかり冬やるけんね」
「そっか~、でも全然雪降らへんな~」
今年の冬は例年にも増して暖冬だ。未だに初雪も観測されていない。敬がそういう勘違いしてもしょうがないか…
くちゃ、くちゃ―またこの音が大きくなる。
「寒いのが一番嫌やけんが全然よかとやけどね」俺は寒いのが嫌いだ。暑いのが得意という訳でもないのだが。
くちゃ、くちゃ―この音も嫌いだ…
敬は振り返り大窓の向こうを見た。「言うて、今日も寒いっちゃ寒いねんけどな。風くそ強いし」
―くちゃ、くちゃ
窓の外にはさっきよりも強い風が吹き荒れている。食堂の中は暖房が効いていて無風。シバリングしながら広場を歩く前田教授とは天国と地獄だ。
くちゃ、くちゃ―だんだん大きくなる…
吹き荒れる風が広場の砂を巻き上げる。そして前田教授に襲いかかった。まるで大炎のようだ。
くちゃ、くちゃ
くちゃ、くちゃ―頭の中がこの音でいっぱいになった。
―いや、別の音も聞こえる。
俺の中で理性を吊るす糸が切れる音が聞こえる。明らかにさっきまでの自分と違う。
敬も俺の表情の変化でそれを読み取ったに違いない。
敬が俺の名前を呼ぶよりも先に俺の拳はチェックシャツの左頬を捉えていた。
「ぶへ」チェックシャツは椅子ごと転げ落ちた。仲間のチェックシャツはそれを目で追う。スローモーションに見えただろう。ヴィオラ・ダ・ガンバの演奏は止まっている。
周りのテーブルに座る全員の箸が止まっていた。敬もその一人だ。あまりにも突然の出来事でまるで金縛りにかかっているかの様に誰も動けなかった。
俺はチェックシャツにまたがり再び拳を振り下ろした。周りからの視線など気にせず俺は殴った。
拳が血で赤く染まる。チェックシャツの血か自分の血か分からない。ただその赤が余計俺を刺激した。「口ん中で餅でも作りよっとか!」怒号が響いた。
その怒号で敬の金縛りが解けた。
「おい、琉夏何しとんねん」敬が俺を引きはがそうと掴みかかった。しかし俺は岩場に張り付くアワビより固く地面に張り付いている。引きはがすせるはずもない。敬の拘束を振り払いチェックシャツを殴り続けた。
「やるならとことん。中途半端が一番だめだ」呟きながら俺は殴り続ける。
赤い拳で口元を拭う。赤が頬についた。
チェックシャツにはもがく元気もない。おそらく訳も分からずこんな目にあっているだろう。
―こいつはもうこの辺でいいか…
立ち上がり、仲間のチェックシャツへと視線を向けた。その時、ドンっと左半身に強い衝撃を感じた。敬が俺を思いっきり蹴り飛ばしたのだ。俺は地面に倒れこんだ。
敬が俺に向かって吠える。「お前、ほんまどうしたんや!」
全員の注目が二人に集まった。
俺は立ち上がり敬を睨んだ。敬は怯えながらも心配の色を目に浮かべている。
俺の視線は敬よりも奥、大窓の向こうを捉えた。前田が見えた。どうやら砂嵐を抜けたようだ。

「おーい、どしたん?」敬が俺の顔を覗き込んでいた。視線の方向を遮るように手を振った。「ほんま大丈夫か?」
遠くに行っていた魂が自分の体にもどってきたような感覚に襲われた。
「ご、ごめん。ぼーってしとった」
「ふーん、琉夏てたまに意識どっかいく時あるよな」敬がご飯を口に運んだ。
「なんやろな、意識はあるとやけど、現実におらんような。自分でもよう分らん」笑顔で返した。
 「そうなんやな、なんかかっこええな」箸を置き、満を持した顔で敬が提案した。「でさ、テスト終わったら飲みいかへん?」
 「え、全然よかけど。そんなかしこまらんちゃ、いつも行くやん」悪戯に答えた。
 「ツバメちゃんも一緒に」敬の声が小さくなった。
 ―やっぱりね
 敬がそう言うことはお見通しだ。
「え~、自分で誘ってね」
 敬が目を見開く。「無理無理無理、東様お願いしますよ」
敬は俺のお皿に唐揚げを一つ置いた。交渉の材料のつもりだろう。しかし俺は敢えて眉一つ動かさない。
 敬は苦痛の表情を浮かべながら残り一つの唐揚げを俺のお皿に移した。口角が上がる。
「まあ、前向きに検討しとってやろかな」
敬から貰った唐揚げを一口で胃袋に収めた。やるならとことんが、俺の座右の銘だ。
 敬の顔が明るくなる。「ほんま頼りにしとるで」
 俺は決して誘うとは言っていない。しかし敬は「ツバメと飲める」と確信しているようだ。
 残りのご飯をかきこみ、箸を置いた。茶碗には米粒一つ残っていない。食事を終えると無駄話をせず、お盆を片付けた。
 横目で見たがチェックシャツはまだ食事を終えていない。会話に夢中になり箸が進んでいない。こんな奴らが親のすねをかじって大学に通っているとなると腹立たしい―
 食堂を出ると二手に分かれた。
 去り際に「ほな、またな~」と敬が手を振った。
 敬は俺とは大学を挟んでちょうど反対側にマンションを借りている。それは俺と違い大学まで徒歩圏内だ。
俺は駐輪所に向かった。イタリア製のクロスバイクが一際かっこいい。十回払いで買っただけある。
俺はそのクロスバイクにまたがり帰路についた。
風は止んでいた。

 マンションに到着し自分の部屋に入ると鼻がつぶれるような異臭を感じた。
 ―流石に片付けんとな…
 足の踏み場がないほど散らかっている。俺は鼻での呼吸を止めた。
学習道具を入れたリュックは背負ったままとりあえずそこら中に落ちているティッシュや菓子のゴミを部屋の一角に集めた。
 順調にゴミを片付けていく。
 しかし、ゴミ袋をきらしていることに気が付いたのはすっかりゴミを集めた後だった。
 「しまった…」と俺は独り部屋で発狂した。こういうストレスが一番嫌いだ。 
部屋の隅にかためられたゴミが俺の方をジッと見る。中途半端に掃除を終わるのが嫌だったのでコンビニまで愛車をとばした。
 小学生だろうか、小さな子ども達が鬼ごっこをしている。そんな公園を乱暴に突っ切るとコンビニまでの近道だ。二分も掛からず着いた。駐輪場はない。しかし、自転車が数台停められる程のスペースならある。そこに自転車を降りスタンドを立てた。
 ゴミ袋が置いてある場所は知っている。コンビニに入ると他のモノには目を向けずそこに直行した。
 ―うわ、家庭用ゴミ袋高いな
 家庭用ゴミ袋は他のゴミ袋の比べ、二百円高い。これは既に知っていたことだが購入しようするたびに思う。俺はこれを『ゴミの分別をするな』と市役所から言われている様なものだろうと都合のいい解釈をしている。いや、そう解釈する方が自然だろう。だから俺は普段から安いプラスチック用のゴミ袋を使用している。分別などしない。
 そんなことを考えながらレジに向かった。勿論片手にはプラスチック用のゴミ袋だ。
 レジへの直線に入ったとき、突然、歩く歩幅が狭くなった。自分で意識して狭くしたわけではない。足へ使う分の神経を目に盗られたのだ。その視線の先には一人の女が立っている。俺の神経を奪ったのは彼女か。
艶やかな黒髪の女だ。カウンターの向こうにいるから店員だろうか。初めて見る顔だ。
 彼女を見つめながらゆっくり距離を詰める。
華奢だが女性らしい膨らみがある。くりっと丸い目に小さい鼻、上がった口角。歳よりも若く見られそうな顔立ちをしていた。
 俺は彼女から目が離せなかった。
人生初の一目惚れだった。
 視線を感じたのか不思議そうに彼女も丸い目で俺を見つめた。目が合った時間は一瞬だったが、永遠にも感じられる。店中の光を集めたかのように彼女の瞳孔は輝いていた。
カウンターの上にゴミ袋を置いた。少し手汗で光っていた。このゴミ袋は様々なゴミが乱暴に詰められる運命にある。しかし、俺はプラスチックしか捨てない顔をした。
彼女に相応しいのはそんな男だろう―
彼女がレジ袋に詰める間に胸元の名札を凝視した。『有谷咲月』という名前らしい。
いい名前だ―
お釣りを受け取った。手が少し触れる。
財布の小銭入れは二つの空間に分けられている。普段は五十円以上の小銭とそれ以外を細目に分けるようしている。しかし彼女に小さい奴だと思われないよう一か所に入れた。
コンビニから出てしばらく経っても彼女の顔が忘れられなかった。彼女と触れた右手を揉んだりしてみた。
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