オセロ男

文字数 1,358文字

「ちょっと、あんた――居間の照明が消えちゃったわ」おれのカミさんがいった。「さっさっと取りかえてよ」
「わかった、わかった。いまやるよ」
 おれは白いワイシャツに腕を通しボタンをはめた。
 現在の時刻は午前七時まわったところだった。朝っぱらからたまったもんじゃない。アルミ製の脚立によじ登り、蛍光灯を取りかえることにした。天井にどん漬けの丸型シーリングライトだった。本体のカバーを左右にまわして力任せに外そうとした、つぎの瞬間だった。
「あっ、しまった」
 思わず手がすべってカバーをテーブルのうえに落っことしてしまった。プラスチックの表面は完全にひび割れた。
「なにやってんのよ!」カミさんが怒鳴った。「このドジ、マヌケ、グズ」
「ごめんなさい……」
「ほんと役立たずなんだから」
 カンカンになったカミさんはおれを睨みつけた。
「そろそろ、会社に行く時間だ」おれは白々しく腕時計をじっとみつめた。「行ってくるよ」
 時計の針は意味深く進むものだ。
「ちゃんとしっかり働いて稼いでくるんだよ」とカミさんは呆れたような顔でいった。「まったくもう」
 
 おれの髪型はいつもセンター分け。
 黒のスーツ姿で人気のない街のなかをすたすた歩く。
 おれは午前八時ちょうどに、いつもの喫茶店に行く。
 カミさんに気づかれないように……細心の注意を払う。

 うちのカミさんよりも数段うまい定食をたいらげた。
 おれは熱いブラックコーヒーをすする。
 しんと静まり返った店内ではサイフォン管がコポコポ音を立て煮だっている。
 すると、店のマスターが低い声でおれに話しかける。「今日はこいつを殺して《やって》くれ――」
 この親父とは二十年以上の付き合いだ。
 彼は最も信頼のおけるビジネスパートナーでもある。
 本日の獲物となる男の顔写真をそっと受けとる。
 たまに女の時もあるが、そんなことでおれの強靭な精神面(メンタル)は一ミリたりとも揺らぐことはない。「了解」

 地下鉄の電車に乗る。
 おれの正体を知る者は、ここには誰もいない。
 午前九時ちょうどに現場へ到着すると、おれは一変する。
 キビキビとした動作で獲物を殺害したあと、テキパキと証拠を隠滅する。
 ヘマをやらかしたことはない。
 おれの掟は完全犯罪だ!

 午後四時ちょうどに喫茶店へ戻る。
「――どうだった?」とマスターが話しかける。
 おれは無言のまま親指を突き立てた。
「ごくろうさん」
 おれはマスターから多額の報酬を受けとった。
 しがないサラリーマンを演じるのも一苦労だ。

 午後五時ちょうどに自宅へ帰る。
 寄り道はしない。
 どうやらおれは愛妻家らしい……
 黒いスーツの上着をソファーに脱ぎ捨て白いワイシャツ姿になった。
「ただいま」
「晩飯ができたよ」
「いただきまーす」
「あんたのせいで、部屋じゅうが真っ暗だわ」
「たまにはこうしてロウソクの灯りで晩ご飯を食べるのも乙じゃないか」
「このドジ、マヌケ、グズ」
「ごめんなさい……」
 おれはカミさんに罵られても口答えもできず、こんがりと焼けたステーキにフォークとナイフで細かく切り刻むと、くちゃくちゃと咀嚼音を立ててまずい肉をほおばった。顎がくたびれちまった……そう、顎だけが……
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