第1話

文字数 713文字

 私は、家庭教師のTに背後から忍び寄った。クラシックバレエを習っているから、つま先立ちで音を立てずに歩くのは得意だ。
 壁に向かって置かれた私の勉強机の前で、Tは細い身体を丸めて座っている。そっと近づく私には気づかない。ミントのような清涼感のある香りが微かにした。Tはここに来る前にガムでも噛んでいたのだろうか。
 トイレに行くと席を立った私を待つ間、Tはテストの丸つけをしていた。数学が苦手な私の解答だから、バツつけという方が正しいかもしれない。
 Tの背後で、私は、黒鳥を踊るときのように右腕をふんわりと伸ばした。指先で、無防備なTの首から背中をすうっと、それでいて、ねっとりと感じられるように撫でた。
 ひっと声を上げたTの肩が跳ね、筋肉が緊張するのが、白いポロシャツの上からでも分かった。
「驚かせないでくれ」
 振り向いたTの顔は、面白いくらい急速に、首筋まで赤くなっていく。その顔を、私は声を出さないで、目だけで笑いながら観察した。
「さっさと座って、間違った問題を計算し直しなさい」
 たった四歳しか違わないのに、医学部の学生で私の家庭教師だから、偉そうに言う。
 私は椅子に座った。机の上のテスト用紙は、案の定、沢山のバツ印が赤ペンでつけられている。
 私はペンを持ち、すぐ横の丸椅子に座るTの顔を斜め下から見上げた。
「先生、さっき、ビクッてなったわね。ドキドキしたんでしょ。ねぇ、心臓と肩の筋肉って連動してるの?」
 Tは、眉間に皺を寄せ、落ち着かないように、ポロシャツの首元を触った。またミントの香りがした。
「黙って、問題を解いて」
 私は、ふんと鼻から息を出し、シャーペンの芯もかちゃかちゃと出し、つまらない問題を読みはじめた。
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