第3話

文字数 2,131文字

 理事長室に戻った甘粕は、手を後ろに組んで構内を見渡せる窓に向かって立っている。眼下には、新京郊外の原野に建てられた広大な撮影所の全景が見渡せる。

 一方、その理事長室には、あどけない宗一少年がソファに座って甘栗を頬張っている。となりで伊藤野枝がそれを優しく見守っている。大杉栄は、というと、長い足を思いっきり投げ出して、本来甘粕の席である大きな事務机の椅子にふんぞり返っている。三人とも、どう声をかけていいものか、きっかけを探そうとしてちらちらと甘粕の後姿を見ている。

 そこへ甘粕の秘書が部屋に入ってくる。彼は、理事長のそばに立ち、直立不動の姿勢で所員たちの給料の相談を始める。甘粕は、外を見たまま、目を合わそうとはしない。そして、 「今朝は、三人の遅刻がいました。彼らは、給料を下げられて当然でしょう。そのかわり、その分を、毎日、時間通り出社して、下積み仕事を懸命にこなしている中国人スタッフの給料を上げやってください。差別がない方がいいのです。彼らにこそ、ここでの映画作りの自負を持って仕事をしてほしいのです。この撮影所はそのためにあるのですから」

 秘書が大杉達には目もくれず、部屋を出ていくと、大杉は、相変わらず立って外を見続けている甘粕に向かって声をかける。

「やっぱり満州は噂に違わず寒いな。もっとも我々が裸でムシロに巻かれただけで放り込まれた古井戸よりはましだがな。甘粕さん」

 甘粕は答えず、窓外を眺めたまま、麻布の憲兵隊時代のことを思い出していた。あの時に野枝と宗一も一緒に大杉を連行したのは間違いなく甘粕大尉と部下たちだ。関東大震災の直後は、どさくさ紛れにテロまがいのガセ情報が飛び交っていた。それを恐れた官も民も血が上って、いたるところで中国人や朝鮮人に対して不条理なリンチや殺戮が行われていた。彼らが、結託して暴動を起こし、井戸水に毒を流し込んでいる、とまで思われていたのだ。そしてそのバックには、社会主義者たちがいて、彼らをそそのかしていると。

 その中でも最も危険視されていた無政府主義者大杉は、決して放置しておけない存在として見られていた。そして甘粕は、そんな不穏分子の摘発に燃えていたのだ。

 震災の数日後、大杉栄と伊藤野枝は、自分たちの子どもを家において、親類の家の見舞いに出かけた。そして、そこから甥の宗一を預かることになっての帰り路、公安警察と甘粕率いる憲兵隊に三人は捕らえられてしまった。

 その時点では、甘粕たちに殺意があったのかどうかは分からない。だが、連行した大手町の麹町憲兵分隊で取り調べを受けている最中のことだ。何故か3名の命が絶たれ、さらにその証拠を隠滅するためだったのだろうか、その遺体は古井戸に放り込まれてしまったのだ。それは、戒厳令下とはいえ、余りにも行き過ぎた犯罪行為だった。そして、その一連の殺人は、憲兵分隊長の甘粕大尉自身が手を下したことになっている。いや、事実はどうあれ、裁判ではその罪状で甘粕は裁かれ、服役したのだ。

 甘粕は振り返って三人に目をやると、 「宗一君、許してくれ、少なくとも君だけは手に掛けるつもりはなかった」

 その甘粕の声が聞こえているのかどうか、宗一は無心に甘栗を口に運んでいる。大杉が口を開く。

「キ、キ、キミ、君には誰も殺せないよ」生まれつきの吃音交じりだ。

「タ、たとえ手を下したとしても、キ、君の本心からではないことを十分に理解しているよ。それにしても、キ、君は純粋すぎるんだよ。自分の名誉心からではなく、軍人教育が身に染みこんだ君は、国家のために、国体を守ることに、自らの信念をかけて忠実に行動したんだ。ト、ところでね、僕はといえば、社会主義運動に血道をあげ、アナキストとしての自負を持って、幾多の闘争に身を投じてきた。もちろん非合法な活動も少なからずやってきたよ。ツ、ツ、つまりそれは、君と同じように自分に忠実に生きたかったからなんだ」

「不遜だ。君たちの考えは、自分に忠実なのではなく、自分勝手なだけなのだ。世の中には守るべき秩序が必要だ。人々が平和に安心して暮らしていくには、一人一人が道徳をもって、きちんとした法に照らした生き方をしなくてはならない。そして、それをはみ出し国家をも害そうとするものに対しては、世の中から排除し、統制を掛けていくことが必要なのだ」

「異議あり。その排除、統制を生きようとした君が、僕たちを殺害したことで皮肉にもその志があえなく潰えてしまったではないか。キ、君はもともと軍人として将校を目指していたのだろう。だが、教練中に落馬して足を痛めた。それで憲兵隊に回されたんだね。そしてそれからだ、それからどのような生き方をしてきたんだね?まっとうな生き方をしてきたわけじゃあるまい。僕から見えるのは、君がやってきたことこそ無法者の戯れ事、我々の言うアナキズムに通じるものがある。君はそんな生き方をしてきたんじゃないのかね」

 甘粕の頭に、大杉の言葉がのしかかる。

「美はただ乱調にある、か」

「そうだ、君のやってきたことは乱調そのものだ。皮肉にも、君が僕たちの命を絶つことによって、僕の情念が、キ、キ、君の心に乗り移ったんだよ」
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