あるいはお誘い

文字数 3,469文字

 目が覚めると同時に、サイドテーブルの置き時計に視線をやった。文字盤と針が主張する時刻を読み取り、思わず叫ぶ。
「七時半?」
 四時二十分に起きられるよう、目覚ましをセットした。そのはずなのに、何で?




 上半身を起こしながら時計を掴み、両手で揺さぶる。時計に詰問しても、鳴らなかった理由を白状しそうにない。それに、目覚まし機能のオン/オフボタンは引っ込んでいる。これではベルが鳴るわけがない。誰か人の手によって押し込まれたのは間違いなく、そしてこの住まいにいるのは僕一人だけ。物好きな泥棒でも入って、目覚ましのセットを解除して出て行ったとかでない限り、自分自身でベルを止めたんだろう。
 いや、こんなことをしている場合じゃない。松田(まつだ)さんに電話して、遅れたことを知らせて……ううん、もうとっくに遅刻だ。知らせるまでもなく分かっているはず。とにかく謝らなくちゃ。
 僕は携帯端末を探し始めるも、はっと思い出して手が止まる。
 一昨日、修理に出したんだった。小さな子供に踏まれただけなんだけど、よほど角度が悪かったのだろうか、物の見事に壊れてしまった。
 普段、目覚ましは携帯端末のアラームを使っているのに、昨晩は手元になかった。だからこそ、目覚まし時計に頼ったわけ。こういった諸々を一切合切忘れてしまっていたのは、それだけ大幅な遅刻に気が動転している証なのかもしれない。
 そしてさらに困ったことに、うちには他に電話がない。 携帯端末で充分だと思って、ここに越してきた当初から設置を断ったのだ。
 あとはノートパソコンがあるから、ネット電話という手があるかな……でもやり方知らないから、一から検索して調べて、ネット電話できるように環境を整える必要がある。相手を待たせているというのに、そんなのんきな真似、やってられない。
 となると……公衆電話かな。使ったことないんだけど。駅前に一つ、電話ボックスがあった気がする。どうせこれから電車に乗らなくちゃいけないんだし、駅に向かうとしよう。最低限の身支度をして――うわ、髪、ボサボサじゃん。ちょっと水つけて、ドライヤー当てたいとこだけど、時間がもったいない。しょうがない、帽子でごまかそう。

 これでよし。忘れ物は……松田さんの電話番号は改めてメモしたから大丈夫。ああ、そういえば公衆電話ってお金がいるんだった。使えるのは確か、十円玉か百円玉。持ってたっけ。携帯端末をしばらく持てないから、現金を下ろしては来ていたんだけど、細かい硬貨までは……うーん、やっぱりない。これも仕方がないから、途中で何か買って小銭を作らなくちゃ。缶コーヒーかガムでも……あっ、切符を購入する必要があるのだから、わざわざ余計な物を買わなくていいんだ。




 やっと着いた。焦っているせいか、いつもに比べると遠く感じたなあ。汗掻いちゃった。帽子に染みができたらいやだな。でも今はそれどころじゃない。一刻も早く電話をしなくては。松田さん、怒ってるだろうなあ。
 そうそう、先に切符を買わないと。――えーっと、七二〇円か。お釣りが二百八十円。電話代、これだけで足りるのかな? 公衆電話から携帯端末に掛けたら、普通よりも高くつくって聞いた記憶が朧気に……。往復切符で買えばどうだろう? お釣りは五六〇円になる。けど、五百円玉で出て来たら? 五百円玉、公衆電話に使えないんじゃなかった?
「どうしよう」
 思わず、呟いてしまった。
 すると、隣の券売機で切符を買おうとしていた中年女性が、一瞬、びくりとした様子でこちらを向いた。
 すみませんて感じで軽く頭を下げる。と、相手のおばさんは意外といい雰囲気の笑顔で話し掛けてきた。
「どうかしたの?」
「あ、いや、公衆電話を使いたいんですが、小銭がなくて。それにどのくらい硬貨が必要か分からないので、どうしようかなーって困ってたというか、迷っていたんです」
「なんだ。だったら」
 おばさんは駅舎を出てすぐのところにある、自動販売機が何台か固まって設置されているコーナーを指差した。
「あそこの一番端っこの自販機で、テレホンカードを売っているから、それを買えばいいわ」
「テレホンカード」
 その単語を聞いて、ぼやーっと思い出してきた。公衆電話には専用のカードもあるんだと聞いた覚えがあったことを。しかし、そのテレホンカードなる物が自動販売機で売られているなんて話は、初耳だった。
「お札が使えるから。どこに掛けるんだか知らないけど、千円分もあれば、行けるんじゃない?」
 伯母さんのアドバイスに従うことにした。お礼を言って、すぐさまテレホンカード販売機へと急ぐ。千円分のカードを、デザインは適当に選んで購入。何故か一〇五度数と記してあるけれども、五回分はサービスってこと?
 とにもかくにも、そのカードを持って、今度は電話ボックスに駆け込んだ。今の時代、公衆電話を使う人なんてほぼいないのか、ドアを開けるとき、妙に“密閉”されていた感触があったし、中の空気も長年溜まっていたような気がしないでもない。
 いやいや、そんなこと気にしてないで、電話! メモを取り出し、番号を確かめながら数字のボタンを押す……って、カードを入れるタイミングが分からない。受話器は手に持ったけれども、これでいいのかどうか? 焦りが募る。が、電話機本体に掛け方の手順が書いてあるのを見付けて、ほっとする。
 ようやく電話することができた。松田さんへの言葉を考えながら、相手が出るのを待つ。
「はい。もしもし、松田ですが……」
 怪訝そうというか、探りを入れるような口調で、松田さんの声が聞こえてきた。公衆電話から掛かってきたら、ディスプレイには誰だか表示されないわけだから、警戒するのも道理と言えよう。こっちも何だか緊張してくる。
「や、やあ。僕です。遅れてしまいました。すみません」
「……」
 応答がない、あるいは極々小さな声でぼそっと何か言ったようにも思えたが、聞き取れなかった。やっぱり、怒っている。間違いない。
「本当に申し訳ありません。それでですね、今からでも向かおうと思うんですが、どちらにいますか? 待ち合わせ場所にいるんでしたら、あと一時間前後を見てもらうことになると思うんですが、かまわないでしょうか……?」
 次に出る電車が何時何分発なのかを未確認のため、曖昧な言い方になった。十五分おきに出るはずだから、仮に通話が長引いて一本逃してしまったとしても、一時間強あれば辿り着ける。
「ええ、動かないでいるわ」
「じゃ、じゃあすぐにでも向かいます。また近付いたら連絡を入れられるかもしれかもしれません」
「――そんなことよりも、他に言うことがあるでしょう?」
 急にヒステリックな口ぶりに転じた松田さん。怒りを溜め込んでいるのは明らかだ。ガス抜きをしておきたいけど、何て言えばいいんだろう。
 考えるため、黙り込んでしまった僕の耳に、松田さんの金切り声が鋭く届いた。
聡士(さとし)の声を聞かせてちょうだい! 約束したじゃないのっ」
「……あー」
 そうだった。忘れていた。
 僕はジャケットの内ポケットから旧い旧い小型テープレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。受話器の送話口の側にスピーカー部分をあてがい、聞かせてあげる。
 しばらくしてから、機械を止め、改めて受話器を自分の耳に当てた。
「どうでした、聞こえました? あいにくと録音で済みません。現在、外におりまして、さすがに連れ出すことは難しかったんです」
 僕は、嘘を、ついた。
 本当はね、間違って死なせてしまったんだ。元々の計画では、携帯端末を使って聡士ちゃんのご家族にあれこれと指図するつもりだったのに、あろうことか、聡士ちゃんは僕の部屋に来て早々に、携帯端末を踏んづけ、破壊してしまったんだ。思い通りにならないことが嫌いな僕は一瞬、我を忘れ、小さな子供を相手に本気の力を出してしまったんだ。
「とにかく、無事であることは保証します。会わなければ事態はずっとこのままです。会わないと、終わりませんよ。――ええ、ではこれから会いに行きますので、今しばらくお待ちください、松田さん」
 電話を終え、受話器をフックに掛ける。
 途端にぴーぴーと音がしたのには跳び上がりそうになったけれども、テレホンカードが挿入口から吐き出される音だった。驚かせやがって。カードを摘まみ取ると、財布に仕舞い込む。




 電話ボックスを出た僕は、電車の入ってくる音を聞きつけ、プラットフォームに急いだ。跨線橋を渡らなくちゃいけないが、どうにか間に合いそうだった。

 おわり
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