美花 第1話

文字数 6,408文字

1.

美花は、帰りのメトロでは1番前の車輌に乗る。
改札出口に1番近い、ただそれだけなのだが、
改札へ行くための上りの階段を先頭集団で行けるのが、どこか気分がいい。
この先頭集団で移動すると、中学生時代、駅伝選手に選ばれたことをよく思い出す。
ー最初から前の集団にいないと、1位にはなれない。駅伝はチーム戦なんだ。苦しくても仲間を思って誰もが先頭集団に食いついていけ。
陸上部の先生が、いつも言ってたっけ。

帰宅は大抵最終。この時間のメトロは酔客やカップルも多く、そのゆっくりした足取りに巻き込まれたくない、という気持ちもかすかにある。
早足で改札を通り抜け、エスカレーターを登れば地上だ。
最近新しくなった神楽坂駅は、以前のように急な階段だけで登り下りすることがなくなり、少し快適になった。

神楽坂に越してきて10年。
落ち着いた街並み、日本のフランス。
美味しいレストランが裏の裏まであり、昔は高級料亭がしのぎを削っていた風情ある大人の街。
そんな印象を持つ人も多いだろう。
実際、昼間は主婦層、夜はビジネスマンやOLがほとんどだ。
怖がりな美花が連日終電で帰宅しても、安心して自宅まで帰れる、東京の中でもずば抜けて治安の良いエリアである。
それを知って越してきたわけではない。
仕事場に近い所がいいだろうと、父親に選んで貰った場所にそのまま住み続けている。

ーいつもそう。自分はどうしたい、これがいいという本音をなかなか言えない。

美花は大人しい女ではないが、強烈なこだわりもない。こだわりがないことがこだわり、というとりとめのない所がある。
内向的な八方美人タイプ。そう自己判断していた。

赤城神社の鳥居を横切り、いつもの帰路を急ぐ。
季節は初夏。
少し水分を含んだ夜の空気が、神社の奥から青く芽吹いたような香りを運んでくる。
ー今が1番好きな季節だな。

季節を感じたのはいつぶりだろう。若手のスピード感と先輩のベテランさの狭間で、遅れまいと朝から晩まで仕事、仕事の毎日に追われる34歳。
彼もいなければ、遊べる友達もいない。
ー割と負けず嫌いのはずなのだけど。
ふふ、と声にならない笑いがもれる。
やるならそこで1番。これだけはこだわりのあるモットーかも知れない。
その負けず嫌いが、深夜まで仕事をするほどに追い込んでいることまでは気がついていない。


と。何かが足元をよぎった。
とっさに立ち止まり、辺りを見渡す。
板塀の隅にうずくまっているのは、黒猫だった。
まるで、影法師のような黒。
緑に光る目で警戒するようにこちらを見ている。

「かわい。おいで」。
神楽坂は猫の街だ。そこかしこで猫を見る。
あちこちに猫をモチーフにしたお店もある。
なので、驚くこともない。街並みに溶け込む風景である。
「黒猫ちゃんは見たことないなあ。新顔?」
バッグの中に何か、猫が気を引くものがないか、手探りしながら声をかけてみる。

背後の、黒塗りの板塀が囲む家から、人が出てくる気配がした。こんな時間に、帰宅途中のお勤め人以外のひとを見ることはほとんどないが、駅前にも古い門構えの家がいくつかある。
家がある以上、住人もいるだろう。
玄関の灯りはぼんやりと明るく、道側は暗いのでよく分からないが、女性のようだ。
浴衣を着ている?
「黒、入りなさいな」
女性が、美花の肩越しに声をかけた。すると影法師のように丸まっていた黒猫は立ち上がり、玄関の中に吸い寄せらるように、すっと入っていく。
「、、、ああ。黒猫ちゃんはこちらの」。
美花が思わず声をかけると、自宅に入ろうとしていた女性が、つと振り返った。
高齢のようだが姿勢が良い。薄明かりの下でも鼻梁の通った美しい面立ちだと美花は思った。
「はい。夜分にうちの黒が失礼を……。夜道のお帰り、お気をつけて」。
凛とした声だ。ごめんください、と会釈をして玄関をガラガラと閉め、そして灯りが消えた。

しばらく灯りの消えた玄関を眺めていたが、ふと我にかえった。いつもなら帰宅を急ぐ人が何人かいるはずだが、今日は誰も通らない。

どこかで、風鈴の音だろうか。
ちりんとなった。
それを合図に再び、自宅へと足を向けた。
思いがけない夜中の小さなハプニングは、美花は覚えていないはずの祖母を思い出していた。

2.

翌日からの通勤を、美花は同じ道を選んで行くことにした。そのルートは急な坂道を乗り越えなければならないので、神楽坂駅に向かう時にはあまり使わない。しかし昨日のことが、どこか現実離れしたような気がしていた。
スピリチュアルなどは信じない、現実的な美花であるが、
ー黒猫ちゃんの飼い主っぽいご婦人の自宅が、なかったりして。
などと思うと、少しだけ楽しいではないか。
何より、あの黒猫の黒ちゃんにも偶然またあえるかも知れない。
きつい坂道の途中にできた、フィロソフィルというパン屋さんで、チーズパンといちぢくのパンを買ってから駅へ向かう。できた頃は閑散としていたが、今は人が並ぶほどの人気店になっていた。

また、坂を登り切った所にコーヒーロースタリーができていた。
ー神楽坂はいいカフェがなかったから、気になるな。
いつもの道を変えれば新しい発見もある。横目で見ながら進めば、あの場所はもうすぐ。

ご婦人の家は、当たり前だがそこにあった。道路からすぐ玄関の上がりがある、昔ながらの古風な一軒家。
時間は午後1時。神楽坂の散策を楽しむ一行とすれ違う。
ーいた、黒ちゃん。
ご婦人の黒塀の上に長く寝そべっているのは、きっと昨夜の黒猫だ。
気持ちよさそうに目をつぶっている。

ー羨ましいなあ。
心底思う。
私は何のために泥のように働いてるのか、黒猫ちゃん、教えて。

などと言っている場合ではない。2時から社内でのアポイントが入っている。黒猫にバイバイ、と手を振って足早に駅へと向かった。

この日から毎日の通勤に楽しみができた。
あれ以来、ご婦人は見かけないが、黒ちゃんとは3回に1回の割合でお見えする。
相変わらず懐きもしないし、愛想もないが、どうやら美花のことは認識しているようだ。

ある日のこと。
いつものように、塀の上の黒猫を愛でていると、
がらがらと玄関の開く音がした。
目の前に見知らぬ人がいることに驚いた様子だったが、美花も咄嗟のことに、その場から動けなくなった。
ご婦人は、黒猫を見て、美花を見た後、合点がいったようだ。笑顔で
「ごきげんよう」
えらく古めかしい挨拶をされる。
美花は、その古い挨拶を美しい日本語だな、と感じた。
「あ、、の。お世話様です」
返した途端に恥ずかしくなる。仕事上で日常的によく使うこのお世話様という言葉は、ごきげんように比べるとなんて散文的で雑な単語なんだろう。
「、、、。あら? 先日の?」
玄関掃除の途中だろうか、手にレトロなホウキを持ったご婦人が、目を細めて記憶を手繰り寄せている様子が見て取れたので、美花は慌てて
「はい。以前に深夜に、、黒猫ちゃんの、、」。
答えてからこれもまた、なんとまとまりがなく、頭の悪い返しなんだろうと思った。
ご婦人の涼しげな瞳をチラリと見たら、語彙力のない頭の中まで見透かされそうで、目を合わすことができない。いたたまれない。
「では、、、」。
美花は、そそくさとその場を後にした。
背後で、にやぁ、と黒猫が鳴く声がした。

いつものように最終で帰り、いつものように駅前のローソンでアイスコーヒーとお菓子を買う、いつもの帰路。
今朝あった、ご婦人の家の前を通り過ぎる。
横目で家を見ながら通り過ぎる時に、
古い木の表札に、白木 と書いてあった。
ー白木さんていうのか。
うん、真っ直ぐした背筋、凛とした声は白木というイメージにぴったりだ。
名は体を表すというがまさにその通りのご婦人だった。

美花はといえば、今日起こしてしまった仕事のミスが頭の片隅にこびりついていた。
ビニール袋に入っているコンビニのアイスコーヒーがと倒れないか心配もしている。
そして、帰宅したらまずはシャワー浴びて、その前に一昨日から溜まった洗濯物を片付けて、、とこれからやることを考えていて、思考がまったく取り留めもない。
頭の中のタスクが沢山開いている中に白木、という表札の横の貼り紙が飛び込んできた。

表札の横には、色あせた字で何か書いてある。今までも目に入っていたかも知れないが、その張り紙に意識をフォーカスしたのは初めてだった。

三味線教室 白木
と書いてあり、開催する日時が縦書きに綴られてあった。
ーあのご婦人、白木さんは三味線の先生なのかな?
真っ直ぐな姿勢や古風な言葉、粋な顔の造形が浮かんだ。
ー元芸妓さんなのかも知れない。
ふいにあちこち飛んでいた思考がぴたりと止まり、晴れやかな着物と、昔、本で見た神楽坂の古い街並みが浮かんできた。

料亭が並び、華やかし頃の神楽坂で芸妓をしていた白木さん。
そして時が経ち、料亭はほとんどなくなってしまったけれど、そのままこの土地に生き、昔ならした腕を生かしたお稽古で身を立てている。そして
まんまるな黒猫と一緒に、静かに暮している。

この推理はあってそう。あのご婦人が少し分かった気がしてなんとなく嬉しい。いつもは疲れた足取りになる深夜の夜道が、心なしか軽くなったような気がした。今夜、黒猫はいなかった。

それからは意識的に時間を決めて、白木さんの自宅前経由で通勤するようになった。
時間とは、三味線教室の日。そのお稽古時間に通ることにした。

専門職の仕事についている美花は、かなり不規則だ。週2回の教室に合わせて午前10時頃に出勤することは、思ったより大変な作業ではあったが、外まで流れてくる三味線の音を聞くことが、それを上回る楽しみとなっていた。
あとは黒猫の黒ちゃん。稽古中に家の前を通るうち、黒ちゃんは、概ねささやかな門の上で丸くなっていることに気がついた。
ー邪魔扱いされるのか、人間が億劫なのか。
理由は分からないが、会えることが心底嬉しい。 

途切れ途切れに聞こえる平和な三味線の音色を聞くことと、黒ちゃんを見つけること。
それは仕事と自宅の往復しかない人生の美花にとって、ほんの一瞬ではあるけれど、どこか違う世界に足を踏み入れたような、懐かしいような、日常を忘れる一服の清涼剤のような時となっていた。
足を止めるのは、稽古中のほんの数分。
なので、お師匠さんである白木婦人はもちろん、生徒の姿を見ることとない。
この気楽さが、美花は気に入っていた。

3.

時はあっという間に過ぎ、初めてあの黒猫と合ってから1年が経っていた。
すっかり日課になっている通り道だが、少しだけ声を交わしたあの日以来、ご婦人には会っていない。

ー四季の移ろいにも気がつかないまま、歳だけ重ねたなあ。
美花はそれを感傷的に思う気持ちの余裕もなく、いつもの通り、先頭集団に混ざって改札を出て、地上に出た。
いつもと違うのは、久し振りに宵の口に退社してきたこと。
どうも最近体調がよくない。どうやら風邪気味なので、今日は自宅作業に切り替えた。

帰宅時間がいつもとは3時間くらい違うだけなのに、神楽坂の雰囲気は全然違う。
賑やかに人が行き交う。これから食事にいく人、帰宅するために駅に向かう人のざわめき。
角の割烹にある小さな看板、まだ開いている雑貨屋からこぼれる光、赤城神社の鳥居をくぐる人は、境内の中のカフェに行くのか夜の参拝としゃれこむのか。

美花はその光景になぜか郷愁を感じた。さんざめく人の流れや外灯、店の明かりがまるで望遠鏡を覗いたように、懐かしく、そして遠い日のことのように感じられた。

白木家の前にきた。
今夜は玄関の外灯がぼんやりと付いているが、深夜と変わらず、相変わらずひっそりとしている。

店と店との間の暗闇からのそりと影法師が現れた。黒ちゃんだ。
「宵は街のパトロールしてるの?」
通りすがる人の視線など気にせずに中腰になって声をかけた。
黒ちゃんは、今夜ばかりは逃げたりせず、
にゃあと一声鳴いて、トツトツと美花の前まで来ると、ストンと腰をおろした。
「こんな近くにきたの、初めてだよね」。
しゃがみ込み、そっと手を伸ばしてその艶やかな毛並みを撫でようとすると、ふいと動いて離れてしまう。
「つれないなあ」。
思わず声に出して、黒ちゃんをじりじりと追いかけていると、
「こんばんは」
いつからいたのか、背後には黒ちゃんの飼い主である白木婦人がつと立っていた。
気配を感じなかった。いつから見られていたのか。

美花は猫と話している幼稚さを恥ずかしく思い、
ことさらにコートをパンパンと強く叩いて立ち上がると、会釈をした。
「黒は愛想なしで」。
婦人が薄く笑う。
美花も仕事用の笑顔を作りながら
「こんばんは。黒ちゃんに振られちゃいました。猫は飼ったことがなくて、、距離感が分からないんです」。

立ち話をする2人の間に、急にプリウスが侵入してきた。黒塗りのタクシーだ。ここは細い道だが、駅前なので意外に車がよく通る。

白木家の玄関の前まできて、車を通す。
「ここは昔からタクシーが多いんですのよ。この道は。ほら、下の方に大通りがあるから」。
婦人はどこか申し訳なさそうに添えて、何となく世間話となる。
「プリウスはエンジン音が聞こえないので、急に背後にいても気がつきませんしね」
婦人は、美花の言ったことが理解できただろうか。首を傾げて聞いていたが、
「いつかもこちらを、お通りになっていたわね。
お住まいはこの辺りで?」。
さりげなく話題を変えてきた。
「はい、この坂の下の方に住んでいます」
「あの辺りも印刷所が減って、マンションがずいぶん増えましたものねえ」。
「印刷所、、? そういえは、うちのマンションの隣は大きな印刷会社ですね」。
「あら、もしかしてあの辺りなの?」
これだけで土地勘がピンと来るとは、この界隈に精通しているようだ。ならば、駅まで遠回りしてるのではと思ったのかもしれない。

「はい。この道は会社の帰り道だけ使ってたんですが、最近、朝もたまに通ってるんです」。
「そうなの、、。夜中にも一度、お会いしたかしら」
美花は、ささいなことを覚えてくれていることに喜びを感じながら
「はい。影法師のような黒ちゃんがいて、、」。と少しくだけた口調で返した。
「遅いお時間まで働いては、いくらお若くても体に毒ですよ。ご自愛なさってね」。
心がこもっている。しんみりと嬉しい。
幼い頃には、父方、母方ともに祖父と祖母はすでに他界していた。なので、自分の親よりも年上の人と話す機会が少なく、小さい頃からおじいちゃん、おばあちゃんという存在に憧れていた。
それもあり、人見知りな美花も、見知らぬご婦人とも気安く話せているのかも知れない。

婦人が、すっと着物の下から時計を見た。着物は大島紬だろうか。荒々しくも見える大胆な織り方がモダンな紡ぎが、婦人によく似合う。
「あなた、お食事は?」
聞かれて、食欲がないことに気が付いたが、美花は、とっさに
「いえ、はい。これからスーパーのテイクアウトかデリバリーを、、」
と返した。相手に気を遣わせない最良の返事かどうかは分からない。
そう。婦人は、じっと道に目を落とした。何かを思案しているようにも、そろそろ立ち話も潮時だという合図にも見て取れた。
ともあれ体調が良くない。熱が出る前のように、どこかふわふわしている。早く帰って寝よう。
美花はそう決めて、婦人の目線を自分から逸らすように深く会釈をすると
「黒ちゃん、またね!」と黒猫に挨拶をして踵を返した。
にゃあ。黒ちゃんが美花の足元まできて、目の前に座る。
思わず振り返ると、婦人が涼しげな顔で
「よろしければ上がっておいでなさい。女1人の世帯だから、ご遠慮なさらず」。
すかさず、ささ、と手を取るような仕草に、美花は一瞬とまどい、
「いえ。私は、、」。
想定外の誘いに口ごもったが、白木さんの三味線が鳴るあの家の中に入る、という好奇心なのか、それとも婦人のあまりにも自然さに、抵抗するか理由がなかったのか。
わからない。がそのまま、はい、と素直に玄関をくぐっていた。
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