美花 第2話

文字数 3,026文字

1.

玄関のたたきをあがり、黒光りする短い廊下の先にある障子を開いた和室に案内された。
広くはないが清潔な和室は、ほどよくエアコンが効いていた。かすかにお香のような香りがする。
低い箪笥はシノワズリのような面持ち。
その上の一輪挿しには赤いバラが1輪刺してある。

部屋の中央には真四角の木のテーブルがあり、
布張りの1人掛けようのソファと揃いのオットマンがあった。
美花は勧められたソファの方に浅く座った。
タンスから茶托と湯飲みを出すと、お茶をついでくれた。
湯呑みはマイセンのものだ。ヨーロッパ食器が好きな美花はすぐに分かった。
和と洋がセンスよく整った部屋は、家主のイメージ通りの部屋。とても居心地がいい。
「本当に素敵なお部屋」。
美花が言うと
「生徒さんがいらっしゃるから。外見通りの古くて陰気な部屋は嫌でしょう? そう、貴女くらいのお若い生徒さんもいるのよ」。
屈託なく笑う姿が粋だった。
「三味線教室の貼り紙を見てから、実はお稽古の日を狙って通勤してたんです」。
美花が白状すると、婦人は、まあと言った後、ふふと笑って、
「三味線、お好きなの?」と聞いた。
美花は首を傾げて、
「好き、かどうかはやったことないから分かりませんが、何というか、音色がきれいだなと」。


記憶が急に過去に飛んだ。
あれはまだ幼い時。住んでいるのは一軒家で、
隣は街の集会所になっていた。
夏の、そうこんな日の夜。子供向けのテレビが終わると、歯を磨いて二階の自分の自分の寝室に行く時間。
洗面室から階段へと向かう廊下こ窓は、網戸になっていて、そこから三味線の音がにぎにぎしく聞こえる。
それに合わせて聞こえるのは民謡だろうか。
それは隣の集会所から楽しげな音だった。住人向けに定期的に教室でもやっていたのだろう。

幼い美花はひとりで自室に行く廊下が怖かった。
冬などはシンとしていて、自分の足音がやけに響く。
遠い茶の間から、かすかに聞こえる両親の声やテレビの音も、階段の踊り場までくるともう聞こえない。
でも、夏の夜は、三味線の音や陽気な民謡の歌が間近に聞こえて、なぜかとても安心したものだ。

そう。空調のきいた茶の間から出ると、むわんとした夏の香り。それと重なるように、三味線の音が聞こえると、その夜はワクワクするような気持ちすら
抱いて階段を上がっていったっけ……。

「はい。三味線の音色は明るいから好きです」。美花は答えると、出されたお茶をすすった。
「そうね。でも面白いでしょう? 昔は猫の皮をはいで作った三味線。それを引く人間が猫を飼っていて」。
「そういえばそうですね。でも三味線と飼い猫って、違和感のない組み合わせですよね、、」。
ひとしきり話すと婦人は立ち上がり、
「ね、湯豆腐があるの。ほら神楽坂の豆腐屋知ってる? 元テレビマンが継いだお店。知らないの? 毘沙門天さんのそばにあって、、。有名なのよ」
といそいそと、部屋を出ていった。台所へ行ったのだろう。

いつのまにか、黒ちゃんがオットマンの下にいた。
「そこが1番涼しいの?」。
エアコンの低いモーター音しか聞こえない。
とても静かで、外が駅前だとは思えない。
とても静か。


はい、どうぞ?
遠くから声が聞こえた。
どうやらソファの上で一瞬寝てしまったらしい。
「ごめんなさい! 私、、寝てしまった……?」
恐縮する美花に、あら、いいのよ。とこともなげに言うと
「ほらみて、グツグツと美味しそうでしょう」。

いつのまにか、四角いテーブルの上に、シンプルな湯豆腐と取り皿、小鉢が用意されていた。
「質素で簡単だけど、美味しいの」。
鍋を囲みながら、婦人は始終笑顔である。
つられて美花も笑った。

さあ、ゆだって、スができてしまうといけないのよ。お食べなさい。
婦人は凛とした姿勢を崩さず、優しい眼差しで美花を見ながら、
「ほらほら、若い子はたんとね、食べないとだめ」。
涼しい部屋の中で、ぐつぐつのお鍋の中で揺れる白い湯豆腐。
モワモワと立ち昇る鍋の湯気で婦人の顔がよく見えない。


その後、小一時間ほど食卓を囲み、客人は帰っていった。

玄関の外まで出て姿が見えなくなるまで見送ると
「夜半になるとさすがに涼しくなること。黒も早く入りなさいよ」
言って、玄関を閉めると外灯を消した。

婦人は片付けを終え、ビールを出してきて江戸切子のグラスに注いだ。
「黒や。私はお節介をしたかしらねえ」。
黒は何も言わずにオットマンの下で丸まっている。
くいと切子を傾ける。

婦人は今夜のことを思い返していた。
車が通って、そして並んだとき。
「影がね、確かになかったね、あの子の影が。黒も気がついたろう?」。
黒はしんと目をつぶったままだ。

「命ってものはねえ、恐ろしい病気にかかっていなくたって、ある日突然、その灯りが消えることがある。
あの子はそれに気がつかないほどに、頑張ってがんばって、疲れ果てていたのさ」。

黒が伸びをして婦人の膝の上に乗ってきた。
「ええ、ええわかってるよ。
お前はあの子が好きなんだね。大丈夫。賢そうな目をしていたよ。きっと気がついただろう」。
そう言って、黒猫の滑らかな短毛の毛をそっと撫でてやりながら
「死の神様は、己の気配に気づいた人間には、手を出さないよ。後はあの子の気持ち次第さ」。

2.

美花はお腹の中にある温かい湯豆腐を感じながら、歩いていた。
ー私、頑張ってのかなあ。
ひどく疲れて登った神楽坂の駅から上がると、
そこにいる人は遠く、どこか懐かしかった。
そして、その中に入りたいのに入れないもどかしさを感じていた。

その後は……。何だか夢の中のよう。まどろみの中で、婦人の声が聞こえて、黒ちゃんが見えて。

気がついたらこうしていつものように、夜道を歩いて帰っている。

いつからか、先頭集団についていかないといけないと思って生きてきた。
駅伝のコーチは、苦しくとも先頭集団にいなければ、足を引っ張るだけの存在になるからな、と言っていた。

大人になっても変わらない。
先頭集団で走ることは苦しい。自分のペースではなく、周りに合わせなくてはならないから。
でもそれを諦めてはいけない。周りの足を引っ張ってしまうから。

ー誰の足を引っ張るだろう。

突然、白木婦人のご神託のような言葉が胸をつく。

頑張ることは、他人に向けているから自分に無理しているんです。
努力することは、自分に向けているから糧になるんです。
今まで辿ってきた後ろを見ながら、前を向いてしっかり歩くんですよ。

何で急にあんなことを言ったのだろう。
本当にそんなことを言っただろうか?

分からない。
お腹の底が温まっているからか、幸福なほどにぼーっとする。
夏の気配を含んだ夜風がとても心地よい。
この風は、幼い日のあの夜、廊下で感じた安心感につながっている。そう思った。
耳の奥で、三味線が聞こえる。
これは集会所のものか、白木婦人のものか。

幼い頃は、ゆったりと時間が流れていた。
風の香り、揺れるカーテン、猫の影法師、揺れる湯気。

ちりん。

何かが切り替わるように風鈴が頭の中でなった。
そんな気がして、後ろを振り返ると黒い車が下り坂を走ってくる。
美花のギリギリ横を車が通り抜けていった。
よく見えなかったが、運転席の男は驚くような顔をしているようにも思えた。
ーあのタクシー、逆走してる。
電気自動車のプリウスは、エンジン音が出るようにセットしないと音がならない。
こんな静かな夜道でもエンジン音は聞こえない。
ーもう、危ないんだから!


急な坂道を下る。
背後には大きな月が出ていて、長い影が黒ぐろと美花の前に伸びていた。



























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