世界と繋ぐ

文字数 1,084文字

 誰も彼もが私を通り過ぎていく。
 行ったり来たり、その度に都合よく使われて、私に残るのは積もった手垢だけ。人の痕跡は溜まっていくのに、私の存在は薄いままだ。
 時々、私ってなんなんだろうと思う。

 この部屋は、何年かごとに人が入れ替わる。
 初めて一人暮らしをする女子大生、単身赴任の会社員、いつまでも芽が出ない画家のたまご。いろんな人が住んできた。
 彼らがそれぞれの道の分岐に立ち、部屋を出ていく時には私も期待した。何か特別な感情を抱いてくれるんじゃないかって。
 でも駄目だった。
 手が触れた時に、なんの気持ちもないことが伝わってくるのだ。
 今住んでる男もそう。取っ替え引っ替え女を連れ込んでるくせに、どこにも本当の気持ちがない。当然、私なんか気にも留めない。
 おまけに酒グセも悪く、友人を集めて部屋呑みをしては、しつこく絡んでいる。
 誰かに使われるしかない私は、誰に使われるかも選べないわけで、そんなことは百も承知だ。
 なのにいつからだろう。
 自分の役目を果たすだけじゃ満足できなくなったのは。
 きっと私が人間だったら、ため息ばかりついてるんだろうな。

 だけど、こうやって腐る度に、思い出す言葉がある。
 それは私が仲間たちと並んで旅立ちを待っていた頃、まだ甘い夢を信じていた頃だ。
 工場に貼ってある自社のポスターの中で、私たちの写真の横に、こんなキャッチコピーがあった。
「世界と繋ぐ」
 正直、私たちはそんなに大それた存在じゃない。でもその言葉はずっと私の中にあって、辛い時にはいつも支えてくれた。ちっぽけでも、自分は価値のあるものだと思えた。
 意識を向けられないのは寂しいけど、私に触れてくれた人が世界と繋がっていくのなら、これほど嬉しいことはない。

 今住んでる男は確かにロクデナシ。だけど人の出入りが増えると私の出番も増えるから、嫌いになりきれない。そんな自分がたまに嫌になる。
 役目を果たす喜びと、嫌いな人間に使われる悲しみ。私に選ぶ権利はないけれど、相反する気持ちというのはどうしてもある。この部屋に来るまでは知らなかったことだ。
 でもそれはきっと私だけじゃない。現実を知った後は、誰もが矛盾を抱えて生きていくんだと思う。
 だって誰からも必要とされない人生は、やっぱり空しくなってしまうから。

 コツコツと足音が近づいてくる。
 派手目なメイクの知らない女だ。案の定インターホンを鳴らしてきた。
 軽薄な笑みを浮かべて男が部屋に招き入れると、女は私を振り返ってこう言った。
「なんかこのドアノブ、汚れてない?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み