雨降って…… ⑤

文字数 3,113文字


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 お会計は悠さんがもってくれて、わたしたちはカフェの前で別れた。

 貢の方は、悠さんやご両親にお任せすれば大丈夫。あとはわたし自身の問題だった。

 思えば父が倒れてからの一年間、わたしには気持ちの余裕がなかった気がする。時間に追われていたせいもあるけれど、自分のことでいっぱいいっぱいで、彼のことにまで気が回っていなかったのだ。結婚はわたしだけの問題ではないのに……。
 焦っていたのはわたしだけだった。彼が焦っていないのなら、結婚についてはもっとじっくり時間をかけて考えてもいいのかもしれない。せめて、彼の覚悟が決まるまで、プロポーズは待っていてあげよう。

「――そうよね。わたしたち、まだ若いんだもん」

 ゆとりのない自分自身を反省し、東京メトロの新宿駅へ向かっていたわたしは、車道を走る一台の真っ赤なスポーツカーに目を瞠った。
 赤のランボルギーニ……、まさか!

「やっ、篠沢のお嬢さま。こんなところで会うなんて奇遇だね」

 左側の運転席から颯爽と降りてきたのは、案の定有崎さんだった。この日もヴェルサーチだかアルマーニだかの派手なシャツに、オレンジ色の細身のパンツを合わせた奇抜な格好をしていた。イヤミったらしい笑顔といい、キザなことこのうえなくて、わたしは思いっきり他人のフリをしたくなった。
 それだけではない。前日の夜、貢の様子が明らかにおかしくなったのは、彼が原因なのだ。そんな人と、親しげに話す気にもならなかった。

「…………ええ、そうですね」

 わたしは素っ気なく返して、その場をさっさと通り過ぎようとした。

「待ちなよ。今日、仕事はいいの? あれ? もしかしてカレシとケンカでもした?」

 彼の一言に、わたしの眉がピクリと動いた。彼はわたしにカマをかけようとしているのか。そうとしか思えなかった。

「…………どうしてご存じなんですか? あの人が彼氏だって」

「その反応は図星か。まぁ、俺のカンかな。そんなことよりさ、マジでキミたち別れたの? 当然だよなぁ。アイツと君とじゃ生まれ育った環境が違いすぎるもんなぁ。アイツ自身、それで悩んでたっぽいし? だから俺が、そこんとこをちょっと揺さぶってみたのよ」

 悪びれもせず、人の心を(もてあそ)んだこの男に、わたしはふつふつと静かな憤りを覚えた。

「……貴方だったんですね、彼とわたしの関係を壊そうとしたのは」

「まぁね。やっぱ君には、俺みたいな男の方が合うからさ。あんな安物の車しか買えない男より、高級外車に乗ってる男の方がモテるんだよ、世間では」

 安物……。彼が四百万円もかけて購入して、一生懸命ローンの返済を頑張っているあの車を、この男は簡単にバカにした! 彼の苦労も知らないで!
 この瞬間、わたしの怒りはピークに達した。

 わたしは傘の()を握りしめる手に、ぐっと力を込めた。小降りになりつつあった雨足もまた強くなり、遠くの空には(いく)(すじ)もの(いな)(びかり)も見えた。

「…………楽しいですか?」

「は? なんて?」

「貴方、人の心を弄んで、人の気持ちを引っ掻き回してそんなに楽しいですか? 彼の心も、わたしの心も、貴方のおもちゃじゃないんです。何でもかんでも自分の思いどおりになると思わないで」

 静かな怒りほど怖いものはないらしい。それまで得意げに話していた有崎さんの表情が凍り付いた。

「だいたいわたし、左ハンドルの車って好きじゃないんです。いかついし、乗り心地悪いし、乗ってる人ってだいたいイヤミったらしいし。彼の車は国産車だけど、安全運転だしすごく乗り心地いんだから。貴方、自分はモテるって勘違いしてるみたいですけど、いい加減現実見たらどうですか? 貴方を本気で好きになってくれる女性なんていないと思います」

 これは完全に、有崎さんに対するマウンティングだった。貢の方がよっぽど貴方よりステキだという。

「とにかく、わたしは彼以外の男性を好きになることなんて、絶対にありません。貴方がどんなに汚い手を使おうと、何をしようと、わたしと彼との絆は絶対に壊せませんから! ムダな努力でしたね。残念でした。じゃ、さよなら」

「……えっ!? ……えっ!? ちょっと待っ……!」

 わたしは言うだけ言ってしまうと、スッキリした顔でクルリと彼に背を向け、新宿駅の方へ引き返していった。
 晴れ晴れとしたわたしの心と比例するように、雨はまた小降りになり、次第に止んでいった。

****

 ――彼からの電話は、夜八時ごろにかかってきた。

「はい、絢乃です」

 悠さんの言葉を信じて、ずっと電話を心待ちにしていたわたしは、発信元が彼だと分かるや否や躊躇なく通話ボタンをタップした。

『桐島です。今やっとアパートに帰ってこられました。実家でずーーっと兄から説教食らってて』

 彼の声は、思っていた以上にぐったりして聞こえた。これは相当絞られたに違いなかった。

「――ねえ、貢。貴方がそんなに思い詰めてたのは、わたしにも原因があったのよね? だから、夕方は謝らなくていいって言われたけど、やっぱりゴメンなさい」

『いえ、それは……。生まれや育ちの問題は、絢乃さんの意思とは関係ないですから。それはどうしようもないことなんです。それに拘ってた僕がバカでした。そんなことより、絢乃さんと僕自身の気持ちの方が大事だったのに、そのことをずっと忘れてました。僕の方こそすみませんでした。絢乃さんに愛想尽かされても仕方ないですよね』

「ううん! 愛想尽かしてなんか……。わたし、今度のことで痛いほどよく分かったの。わたしには、貴方が必要なんだって」

 たった一日会えなかっただけで、心にポッカリ穴が開いたようだった。自分で言いだしたことなのに、乙女心というのは勝手なものだ。

『……ありがとうございます。兄に、思いっきり説教されました。「親父に失礼だと思わねえのか!? お前の言ってることは、親父だけじゃなくて絢乃ちゃんにも失礼なんだぞ!」って。「大事なのはお前たち自身の気持ちなんじゃねえのか!?」って。――それで僕もやっと目が覚めました。改めて、絢乃さんにお伝えしたいことがあります』

「うん。……言ってみて」

『僕、恋愛小説によくいるようなヒーローっぽくないですよ? カッコよくもないし、平凡だし、強くもないです。こんな僕で、ホントにいいんですね?』

 わたしはスマホを握りしめて、かぶりを振った。電話だから、彼には見えないのに。

「うん! 貴方がいいの。貴方じゃないとダメなの。貴方は、わたしが初めて心から愛した人だから。結婚はもう焦らないことにしたわ。貴方がちゃんと覚悟を決めるまで、プロポーズはいつまででも待っててあげることにしたの」

 焦る必要なんてなかった。二人の絆が強固なら、形に拘る必要もないのだから。

『いつまででも、って……。じゃあ、一年後でも五十年後でも?』

 彼が笑いながら言うので、わたしも笑って「もちろんよ」と答えた。

『――絢乃さん、明日は出社されますよね?』

「うん。いつまでもママに迷惑かけられないから」

『分かりました。では、また明日、学校の前までお迎えに上がります』

「お願いね。電話ありがとう。じゃあ、また明日」

 彼の返事を聞いてから、終話ボタンを押した。窓の外を見れば、薄雲のかかった夜空に星が瞬いていた。

「よかった。明日は晴れそう」

 やっぱり天候と人の心は繋がっているのだろうか。星空を眺めていたら、わたしの心も穏やかでいられた。「わたしたちはもう大丈夫だ」と、何の根拠もないけれどそう思えた。

「――さてと、お風呂に入るにはまだ早いし、明日の予習でもしておこうかな」

 わたしは机の上に教科書とノート、参考書と筆記用具を並べ、教科書のページをめくった。
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登場人物紹介

篠沢絢乃(しのざわあやの)

私立茗桜女子学院・高等部二年A組。

四月三日生まれ、十七歳。O型。

身長一五八センチ、体重四四キロ。胸はDカップ。

趣味は読書・料理。特技はスイーツ作り・英会話。好きな色は淡いピンク。

主人公。高二の一月に『篠沢グループ』の会長だった父・源一(げんいち)をガンで亡くし、父の跡を継いで会長に就任。

小学校から女子校に通っているため、初恋未経験。

大のコーヒー好き。ミルクと砂糖入りを好む。

桐島貢(きりしまみつぐ)

篠沢グループ本社・篠沢商事・秘書室所属。大卒。

五月十日生まれ、二十五歳。A型。

身長一七八センチ、体重六〇キロ。

絢乃が会長に就任する際、本社総務課から秘書室に転属し、会長付秘書になった。マイカー(軽自動車→マークX)を所持している。

恋愛に関しては不器用で、現在も彼女なし。

絢乃と同じくコーヒー党。微糖を好む。スイーツ男子。

中川里歩(なかがわりほ)

私立茗桜女子学院・高等部二年A組。

五月二十四日生まれ、十七歳。B型。

身長一六七センチ、体重五三キロ。胸はCカップ。

初等部からの絢乃の同級生で大親友。バレーボール部に所属し、キャプテンを務めている。

数ヶ月前から交際中の、二歳上の彼氏がいる。

コーヒーは、ミルク多めを好む。

※このアイコンではセーラー服着てますが、本当の制服はブレザーです。

篠沢加奈子(しのざわかなこ)

篠沢グループ会長代行。篠沢家当主。短大卒。

四月五日生まれ、四十三歳。O型。

身長一六〇センチ、体重四五キロ。胸はDカップ。

絢乃の母で、よき理解者。娘が学校に行っている間、代わりに会長の務めを果たしている。

亡き夫で婿養子だった源一とは、見合い結婚だったがオシドリ夫婦だった。

大の紅茶党。ストレートティーを好む。

ちなみに、結婚前は中学校の英語教諭だった。

桐島悠(きりしまひさし)

フリーター。飲食店でのバイトを三ヶ所ほど掛け持ちし、調理師免許を持つ。

六月三十日生まれ、二十九歳。B型。

身長一七六センチ、体重五八キロ。

桐島貢の兄。一人暮らしをしている弟の貢とは違い、実家住まい。高卒でフリーターになった。

貢曰く、かなりの女ったらし……らしい。兄弟仲は決して悪くない様子。

愛煙家である(銘柄はメビウス)。

阿佐間唯(あさまゆい)

私立茗桜女子学院・高等部三年A組。※絢乃、里歩とは三年生から同じクラス。

七月二十四日生まれ、十七歳。B型。

身長一五四センチ、体重四一キロ。胸はBカップ。

三年生で初めて絢乃、里歩のクラスメイトになる。マンガ・アニメ研究部に所属。

男子バレーボールが題材の『ドラゴン・アタッカー』というアニメにハマっている、いわば「オタク少女」。その縁で、バレー部員である里歩と親しくなり、絢乃とも仲良くなった。

一つ年上の大学生・谷口浩介(たにぐちこうすけ)という彼氏ができたばかり。

レモンティーが好き。

村上豪(むらかみごう)

篠沢グループ本社・篠沢商事の代表取締役社長、常務兼任。大卒。四十五歳。

絢乃の父・(旧姓・井上)源一とは同期入社で、同じ営業部だった。源一が会長に就任した際に専務となり、常務を経て社長に。源一亡き後、絢乃の会長就任に際して再び常務を兼任する。

源一とは恋敵でもあったようで、結婚前の源一と加奈子を取り合ったことも。現在は一つ年下の妻と、絢乃より三つ年下の中学生の娘がひとりいる。

源一の死後は、父親代わりに絢乃を支えている。

コーヒーにこだわりはなく、インスタントでも飲む。

山崎修(やまざきおさむ)

篠沢グループ本社・篠沢商事の人事部長。専務兼任。大卒、五十二歳。

総務課で続いていたパワハラ問題に頭を抱えており、人事部長として責任も感じていた。

真面目でカタブツだと誤解されがちだが、実は情に脆い性格。三歳年下の妻と二十二歳の娘、二十歳の息子がいて、自分の子供たちが篠沢商事に入社してくれることを期待している。

広田妙子(ひろたたえこ)

篠沢グループ本社・篠沢商事の秘書室長。大卒、四十二歳。秘書室に異動した貢の直属の上司。

入社二十年目、秘書室勤務十年のベテラン。バリバリのキャリアウーマン。職場結婚をしたが、結婚が遅かったためにまだ子供には恵まれていない。

絢乃とは女性同士で気が合う様子。

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