不死の湯飲み

文字数 2,646文字

その日、男は夢を見た。人に殺される夢だ。その前の日は住んでいる街に爆弾が落とされて死ぬ夢を見た。男はなぜこんな夢を見たのか。それは、何故か今になって死ぬことに恐怖を感じ始めていたからだ。今まで考えたことがなかったが、死ぬ時はどんな感覚なのだろうか。死んでしまったらもうその後はないのだろうか。そんなことが頭の中に浮かんでは消えて、どうかしてしまいそうだ。
男は朝起きた後、何もやる気のない顔つきで職場に向かう準備を始めた。悪夢にうなされた後なので、どうもやる気が出ない。しかしそんなことで仕事を休むわけにはいかないので、男はすぐに準備をしてから職場に向かった。電車に乗って、窓の外の、どうでもいい景色を眺めながら三十分ほど過ごすとやっと目的地の駅に来た。男は電車から降りてその辺に転がっている、タバコのゴミや噛んだあとのねっちょりしたガムなどを避けながら歩いていった。
やがて、職場のあるビルに来ると男は近くにいる知り合いに、虫の鳴き声のような、良く耳をすませないと聞こえない声で挨拶をし、ビルの中に入っていった。
 男はこのまま無限に続くんじゃないかしら、と思うような長い階段を上っていき、目的の階まで来ると、廊下を渡って部屋のドアを開けた。部屋に入ると男は、例の虫の鳴き声のような声で近くの先輩などに挨拶をしながら自分の席についた。
しばらくして、男は何か用があるらしく部屋を出て行った。まもなくして、男は先ほどの部屋に入ろうとしてドアを開けた。
その時だった。この時男の人生は一変した。ドアを開けても先ほどの部屋ではないのだ。男は狐にでも化かされた気分でドアを閉め、もう一回開けたがやっぱり違う部屋なのだ。男は場所を間違えたのか、いやそんなことはない。などとひとりで考えていたが、男はその部屋に入っていった。普通だったらそんな見たこともない部屋になど誰も入ろうとしないが、その部屋はどうも人を誘い込むところがあるのだ。それもそのはず、その部屋には赤い絨毯が敷き詰められ、何に使うのかわからないような人形などがたくさん置いてある、古道具屋のようなどこか奇妙な雰囲気を漂わせているのだ。男は、そのたくさん並んだガラクタを見物しようとこっそり中へ入った。
中には、気色悪い置物が大量に置いてあったが、男は中でも一つの湯のみが気になった。湯のみ中を絶対に覗かないでください、と書いてある札が置いてあった。男はそれに興味を持ったのだ。人間誰しもがそんなことを言われると除きたくなってしまうものだ。しかし、こんな気色悪い部屋で言われると、どうも不気味にも聞こえる。だが、不気味だからこそ何となく気になってしまう。
男は部屋のドアを閉め、その奇妙な湯のみに近づいていった。その湯のみはよく見ると、なんだかカビが生えているんじゃないかと疑いたくなるほどに汚くなっており、ところどころにはほこりでできた小さな山さえも見えた。そんな汚い湯のみを男はまじまじと見つめ、ついには湯のみを手に取ってしまった。中を覗かないでください、と書いてあったがそう書いてあるから余計覗いて見たくなった。そして男は湯のみの中を見てしまった。
中には札が入っていた。その札にはこう書いてあった。「この湯のみにお湯を注いで飲むと、不老不死になれます。もし、不老不死になったあとに死にたくなったら自殺してください。しかし、本当に死にたいと思っていないと死ぬことはできません。少しでも恐怖を感じていたら死ねません。この点だけはご注意ください。では、幸運を。」誰が書いたのだろうか、汚い字だ。しかし、男はそんなことは気にもせず変に目をギラギラさせて、その札の文字を読んだ。どうやらこの男は完全にその湯のみに興味を持ったようだ。それもそのはず、この男は読者のみなさんの知っているとおり死ぬことに恐怖を感じていたのだ。
男はその札を読むと、大急ぎで湯のみにお湯を注いで飲んだ。こうして男は不老不死になった。しかしみなさん、この男の判断は正しいと思いますか。この後いったいどうなるか検討が付きますか。
その男が湯のみに出会ってから50年が経った。家の周りにあった森も今ではまったく見えず、かわりに汚い空気の下で真っ黒なアスファルトが、なんとも言えぬ雰囲気で敷き詰められていた。そんなに街の風景が変わった今でも男はあの時と全く同じ体を保っていた。あの湯のみに出会った時のギラギラした目も、細くも太くもない体格も、全く同じだった。
不老不死になった男だが、今はもう寂しいという気持ちしかなかった。それもそのはず、家族が自分以外全員死んでしまったのだ。そのため男は、今ではもう古くなった家の窓からその汚い町並みの様子を眺めているしかなくなった。

男があの湯のみに出会ってから、もう何千年、いや、何万年も経った。しかし、今地球に生きているのはあの男一人だった。人間同士が争い、人類が滅亡してしまったのだ。独り、とはどんなに寂しいものだろうか。
男はひたすら寂しい夜空を眺めたりしたが、ついにやることがなくなって決心した。自分はもう死ぬ。男は早速刃物を手に取り、腹に刃を向けた。しかし、どうしても恐怖を感じずにはいられない。だが男は勇気を振り絞って腹に刃を突き刺した。その瞬間、目の前に赤い血が飛び散ってだんだん楽になっていく・・・。そう男は想像していた。しかし、全く体が痛くない。刺したところの傷口もいつの間にかもうふさがっている。その時、男は初めて思った。死にたい。
その後男は高い崖に登ってそこから落下してみたり、自分を土の中に埋めてみたりしたが、一向に死ぬ事が出来なかった。男は、もうこれで最後だ、と思ってもう一度例の高い崖に登り始めた。そして頂上まで来た。男はその直角になった崖から真下を見下ろした。そして自分に言い聞かせた。怖くない。俺は死にたいんだ。そして男は飛び降りていった。だんだん地面が近くなっていく。そして地面にぶつかった。

とてつもない音が鳴って辺りに血が弾けた。この時男は久しぶりに幸せというものを感じた。と同時に目の前が真っ暗になった。


「この湯のみにお湯を注いで飲むと、不老不死になれます。もし、不老不死になったあと死にたくなったら自殺してください。しかし、本当に死にたいと思っていないと死ぬことはできません。少しでも恐怖を感じていたら死ねません。この点だけはご注意ください。では、幸運を。」
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