第2話

文字数 9,780文字

 腹囲がメタボ該当まであと二センチである事実が発覚したのは、今年の梅雨の盛りのことだ。三年前から毎日飲食しているビールと外食とコンビニ弁当が原因であるのは明らかに思えた。熊本在住であれば「恰幅の良うなった」の一言で済むかもしれないが、ぼくにとっては男子としての美学に反し、生涯痩身を保ち続けた祖父や父に対して面目ない由々しき事態だった。
 ぼくは毎日の悪習には目を瞑り、一日二食、もしくは一食にすることで減量を試みた。二ヶ月で体重を八キロ、腹囲を八センチ減らした時には、九割の誇らしさと一割の訝しさを覚えた。もっと訝しんで、産業医にかかっていれば……。しかし、最初の診察で翔太が露わにしたあの苛立ちは、既に癌がステージⅣまで進んで時間が経っていた事実を推測させる。一日三食に戻したこの一ヶ月半で、体重が意に反して更に三キロ減り、腹囲も三センチ減って、ぼくの体は高校一年生の頃のサイズに戻ってしまった。
 祖父も、父も、九州男児らしい見事な最期だったと、四十四歳になった今、改めて思う。二人の死に様は、尊敬というよりむしろ畏敬の念をぼくに抱かせてくれた。
 祖父は米寿まで生き、肺癌による多臓器不全で亡くなっている。八十五歳で末期癌の宣告を受けても好きな煙草や焼酎を飲み続け、治療を拒み、高齢のために手術の話も出ず、やがて徐々に足が弱り、耳が遠くなり、食が細くなり、最後は眠りに落ちるように穏やかに逝ったという。元職業軍人らしく痛みを決して口にせず、素振りにすら見せなかったのだそうだ。
 父は六十五回目の誕生日を迎えて程無く、膵臓癌で亡くなっている。癌だとわかった時点で、既にステージⅣだった。一切の延命治療を拒み、素振りにこそ見せたが痛みを口にせず、可能な限り普通の生活を続けながら丁寧に身辺の整理をして、自身の葬儀の手配まで終えた半年後に、律儀に余命宣告通りに逝った。
 母は父の四十九日を終えた翌日、あとを追うように心筋梗塞で急逝している。初恋の相手だった高校の同級生を捕まえて離さず、両親の反対を押し切って夫婦となり、見事に添い遂げた訳だ。由緒ある裕福な商家のお嬢さんと、戦後に落ちぶれた元職業軍人の倅の郵便局員の結婚は、今でいう格差婚のように言われたらしい。しかし、母の選択は決して間違っていなかった。
 左遷を喰らってから恒松医院に出向くまでの四週間足らずは、時が怖しいくらいに緩やかに流れて行った。目まぐるしく行き交う情報の処理に追われる広室長だった頃が夢のようで、無味乾燥な文章に目を通して機械的に決済する庶務担当部長相当の仕事もまた非現実的だった。しかし、自覚症状や服薬の副作用を問う穂波からのメールが朝と晩に届くようになったこの二週間は、時が現実味を帯びて急ぎ立っている。
 癌細胞がより活発に増殖しているのか。十月に入ってから、まるで指摘を受けて思い出したかのように、胃袋が鈍痛を訴えるようになっていた。四十路男が年相応に物忘れをするくらいの頻度だが、以前の数ヶ月分の付けを催促しているかのような痛みに、脳の機能の多くは支配され、立っていることすら難しくなることもある。加えて、抗癌剤TS―1の副作用も律儀に説明書通りに現れていた。
 ――口内炎及び吐き気のために朝食喉を通り難し。
 ――本日夕刻までに下痢四回。
 ――昼食を摂ったのち倦怠続く。
 といった穂波への短い返信メールを打つことすら辛く思えることもある。

 既に問診と触診を済ませ、ぼくと相対している翔太は、肘掛け椅子に座って団栗眼を輝かせながら何度も頷いている。担当患者がTS―1の副作用を嘆いても、首の高さまで持ち上げた血液検査表に見入ったまま、相手にしようとはしない。
 「いよいよ第一回の結果発表をするで。良かったなー。腫瘍マーカーの数値が前回の八十六・五から五十七・三にまで下がっとる」
 予想に反して、TS―1の効果は出ていた。待合席に座っている穂波にとっても朗報だ。昨晩よこしたメールでの予告通り、元妻は夜勤明けであるにもかかわらず、九時に病棟から急ぎ足で消化器外科外来へやってきたが、さすがに診察室に同行することは遠慮している。
 「どんな薬にも副作用は付き物や。次の診察まで二週間ちゃんと飲んどき。そしたらな、その次の二週間は開放したるわ。それと、最後にもう一回聞いとく。痛みの方はどうや? 医者にはな、沈黙したらあかん。正直に話しといた方がええで」
 「……有る、って言わざるをえんな。時々ばってん」
 「そうやろうな……そっちの薬も出したろうか?」
 「いらん。オレはファザーコンプレックスだけん、親父が頑張ったところまでは我慢したか。じゃあ、また再来週くるけん。時間は、また朝一でよかとやろ?」
 ぼくは、翔太が頷いたのを確認して丸椅子から立ち上がった。出入口のドアを開けながら、ふと思った。田んぼの刈株から伸びていた葉は、どうなったのか。鼻で大きく息を吐いて廊下へ出ると、待合席の最前列から行儀良く立ち上がった穂波が近寄ってきた。TS―1の効果の程を一刻も早く知りたいことが、高い鼻筋に寄った両目から伝わってくる。肩にかけた茶色のトートバッグの持ち手が、固く握り締められていた。
 腫瘍マーカーの数値の減少を具体的な数字を挙げて伝えると、元妻は「うんうん、良かった」と言いたげに頷きながら次第に両目の間隔を広げていった。この二週間、事実上の担当患者の自覚症状や服薬の副作用は、全て彼女の頭にインプットされている。
 「遼ちゃん、顔色が良いね。体調はどう?」
 「上々だね。大病人だってことを忘れるくらいに」
 「じゃあさ、ちょっとだけ、デートしない? 久し振りに話もしたいし」
 穂波は、今日も両の瞳に星を宿している。ぼくは、その輝きから目をそらす。喜色を帯びた鼓動が、今日も高鳴っている。
 「夜勤明けで疲れてるんじゃないのか? もう四十女だからさ」
 「失礼ね。まだギリギリ三十九です。しかも最近なったばっかり。私は大丈夫よ。昨日の夜勤は、わりと暇だったから。仮眠もきっちり取れたし」
 「そうか。じゃあさ、散策に付き合ってくれないか。由美が勤めてた病院は覚えてるよな。あの辺りに行きたいんだけど」
 「うん、良いね。遼ちゃんらしくて。徘徊に限りなく近い散策か。久し振りだなあ。昔、よく付き合わされたよね」
 彼女は、元々垂れ気味の目尻を下げ、おそらく五年振りに作り物ではない笑顔を見せた。デートが散策になることを予想できたのか、今日は茶色のスニーカーを履いている。

    *

 終着駅の東口ロータリーに出て、ぼくは先々週と同様に一つ目の信号を渡って左に折れた。元夫の体を案じてか、影のように半歩後ろにいる穂波が続く。地盤沈下しているのか、交差点付近のタイル敷の路面は窪みが多く、足元が時折覚束なくなる今のぼくにはそんな気遣いが有難い。
 防衛医大を目指していたこともある自衛隊オタクの翔太から、「無趣味でつまらん男」とバカにされるぼくにも、一つだけ趣味に近いものがあった。散策だ。当ても無く電車やバスに乗って、何となく降り、また当ても無く数時間ただただ歩き回り、疲れを覚えたところで駅やバス停を探して帰路に着く。こうして言葉にしてみると、なるほど徘徊とからかわれても仕方が無いのかもしれない。
 祖父にも徘徊癖があった。隔世遺伝したのか、単に影響を受けたのかは定かではないが、いずれにしても父の父との一番楽しい思い出は、幼い頃に二人で徘徊したことだ。彼は歩いていた時にだけ多弁になり、ぼくが孫の中で島津家七百年来の家臣の血を最も濃く引き継いでいると、いつも嬉しそうに言った。ぼくは先祖が従軍した戊辰戦争や西南戦争の話や、志願兵上がりで特務大尉まで登り詰めた男の艦隊や航空隊での体験談に夢中で聞き入った。
 穂波は時間さえ合えば散策に付き合ってくれた。歩いている最中は、ぼくが一方的にしゃべった。彼女は相槌を打ちながら、ずっと耳を傾けてくれた。田舎育ちだけに足が達者で、散策がダラダラと長引いても弱音一つ吐かなかった。それどころか、何が面白い訳でもないだろうに、笑顔を絶やさなかった。しかし、不妊治療を始めてからは、散策中の笑顔は作り物へと変わっていったように思える。そして、離婚を期に、ぼくは徘徊に近い散策とも縁を切っていた。
 五年前まではろくに休憩も取らずに二、三時間は平気で歩き回っていたが、今現在の体力を考えれば一時間くらいで切り上げるのが無難だ。それに、女性にしては体力がある穂波も、もう四十路目前で、おまけに夜勤明けときている。幹線道路と国道の交差点近くにあるファミレスまで歩いて三十分弱なので、そこで昼食を摂って一休みしたあとに駅まで戻ればいい。
 セイタカアワダチソウが、歩道のアスファルトとコンクリートの僅かな隙間をネコジャラシと共有し、目の高さまで気味の悪い黄色の花房を伸ばしている。振り返ると、ケヤキ並木は緑色を薄め、茶色をちらほらと現し始めていた。地表に近付くにつれて水色が薄まっていく空や、宙ぶらりんの白い雲の群、そして乾き始めた風は、すっかり秋めいている。しかし、ぼくはグレーのスーツの上着を脱ぎ、腕にかけた。その動作と足取りを確認してか、看護師の元妻が肩を並べる。眩い太陽が、長袖シャツでちょうどいい日差しと陽気を関東の平たい大地に恵んでいた。

 五年の交際を経て結婚するまで、穂波はぼくに五回も逆プロポーズをした。いずれも彼女の誕生祝いの席でのことだった。「誕生日のプレゼントは何がいい?」と前もって尋ねても、穂波は「何もいらない」としか言わなかった。馴染みのレストランで必ず一番安いコース料理を所望し、食べ終えて「美味しかった。ごちそうさま」と言って微笑んだあとに、椅子に座り直して背筋を改めて伸ばし、「私と結婚して下さい」とぼくを正視しながら宣言するように言った。
 結婚する女性は、穂波以外には考えられなかった。しかし、祖父の晩婚主義に影響を受けていたぼくは、「まだ結婚はできない」と四回も拒んでしまった。男は一仕事を終えたあとでなければ結婚してはならない。そんな時代錯誤とも思える観念から逃れることができなかったのだ。もっと早く、彼女が二十代半ばのうちに逆プロポーズを素直に受けて結婚していれば、不妊治療は必要なかったのではないか。穂波の特異と言える体質は、三十路を目前にしてから現れたのではないか。この三年の間、元妻を思い出すたびに、つまり毎日、そう後悔し続けてきた。
 結婚してから不妊治療を開始するまでの五年の間、ぼくたちの関係は波立ったことさえなかった。ぼくの残業や穂波の不規則な勤務から生じた擦れ違いは、セックスを含めて互いに飽きがくるのを妨げてくれた。ただ一つ、子供を授からなかったことを除けば、満たされた関係だったように思う。ぼくは、そのただ一つのことを、妻の唯一の切なる願いを、十分に理解してやることができなかった。
 穂波が思い詰めた末に、不妊治療を受けたいと初めて言ったのは、自身の三十四回目の誕生日を祝う席でのことだった。刻々と迫るタイムリミットに焦りを感じていた女性の一種の気迫に、一気に寄り切られるように開始した不妊治療は、皮肉にも唯一の離婚原因となってしまった。
 ぼくの精子にも、穂波の卵子や排卵にも、問題は無かった。いったん原因不明の不妊症と診断された時点で、治療を打ち切るべきだったのかもしれない。子供は授かるものであって、作るものではない。治療期間中、ぼくはそんな固定概念を捨て切れなかった。男女の生涯でそれぞれ形成排出される精子の数に卵子の数を乗じた、天文学的数字を分母にして生まれてくる命に、人間が手を加えていいのかという疑念を払拭し切れていなかった。そんな心中は表情に現れていたのだ。いけすかない不妊治療の専門医は、ぼくに一瞥を投げて鼻で笑ったあとに、夜勤明けにセックスをして疲れ切っていた妻を打ちのめした。
 「卵管に届く前に精子が全滅してますねえ」
 とヒューナーテストの結果を露骨に表現したのだ。穂波は、抗精子抗体検査で引っかかってしまった。どれだけ子供が欲しいと願おうが、妻の体にとって夫の精子はあくまでも異物だ。彼女は自らの体が抗体を作り出しうることを、職業柄いやでも認めざるをえなかった。専門医は更に穂波の粘液がぼくの精子を喰い殺しているとまで言い切り、妊娠を切に望んでいた彼女に有罪判決を宣告した。ぼくは俯いて肩を震わせていた妻を目にして憤慨し、「言い方ってもんがあるだろうが」と専門医に声を荒らげてしまった。
 病院を変えようと提案したが、穂波は「あの先生は、口は悪いけど腕は確かだから」と言って拒んだ。「医療の世界ではよくあることよ」と続けて言って無理に笑顔を作った彼女に、ぼくは何も言えなかった。
 タイミング法に加えて人工授精を試みたが、「まず無理でしょうね」という専門医の言葉通りに失敗に終わった。
 「体外受精か顕微授精しかないですよ」
 と彼は閉店間際の焼き鳥屋の店員のような口調で言った。穂波は仕方ないと言いたげな表情で頷いた。しかし、ぼくは拒絶してしまった。卵子を体外に取り出すことなどやってはならない。自然の摂理を超えた受精方法に対してそこで線引きをし、治療を打ち切ると決意した。結婚間もない頃に一度だけだが、普段はきっちり二十八日周期の妻の生理に遅れが生じたことがあった。ゼロとは言い切れない自然妊娠の可能性を信じたくもあった。更には祖父と父の死にざまを思った。そんなぼくの主張を耳にするたびに、彼女は自らの思いを口にすることすらできなかったのだ。
 「私が言うんだから、よそで診てもらっても結果は同じですよ」と高慢ちきに言い切った専門医を睨みつけながら、ぼくは穂波を置き去りにして診察室をあとにした。実験好きの化学部員のような男の顔を、もう二度と見たくなかった。手淫で精液採取をするたびに感じた屈辱に耐え難くもあった。しかし、彼女が受け続けた屈辱は、ドクハラを含めて、ぼくの想像を超えていた。女性が生理的に嫌うオタクっぽい男に陰部やその内部をまさぐられ、金属器具やカテーテルや注射針を挿入されながら、心身の酷い痛みにひたすら耐えながら子供を産みたいと願い続け堪え続けたのだ。
 穂波はまず翔太と、附属の看護専門学校新入生と医大六年生の関係で、サークルの新歓コンパで知り合った。専門学校を卒業してから三年前までは、彼と同じ大学病院の消化器外科で勤務していた。同僚たちと飲んでいた時に、たまたま翔太のポケベルを鳴らしたぼくがその場に呼ばれ、彼女は仲の良い医師の親友である隣県人に一目惚れをしてしまった。
 その瞬間を目の当たりにした翔太は、ぼくたちは上手くいくと直感し、「遼一と付き合いたいんやったら自分から積極的にいかなあかん」と穂波にアドバイスをして、三人での飲み会を企てた。彼らの企みや想いなど知らなかったぼくは、言語聴覚士になりたての従妹の由美をその場に連れて行った。翔太と由美は初対面ながら意気投合し、二年後に先に結婚してしまった。
 穂波と由美は気が合い、ぼくと翔太の付き合いは、やがて家族ぐるみのそれへと変わっていった。しかし、由美が四人目の子供を妊娠したのを機に、穂波は翔太一家との接触を避けるようになった。子供の写真がプリントアウトされた葉書を目にすることにすら、苦痛を覚えるようになっていたのだ。一時的に病んでいたと言ってもいいのかもしれない。ついには、不妊治療中に届いた翔太一家からの年賀状を真っ二つに引きちぎってしまった。四人の子供の七五三とお宮参りが見事に重なった家族写真を目にすることは、その頃の彼女にはあまりにも酷だった。

 ベージュ色の長袖シャツに黒いデニムパンツ姿の穂波は、歩道沿いの小さな畑を眺めながら目尻を下げた。実りの秋を実感しているのか、はたまた「C」の字に実ったナスが可笑しいのか。
 「遼ちゃん、どうして、ここにきたの?」
 「先々週、初診を受けたあとにも、ここにきたんだ……」
 轟音を立てながら視界上部に入ってきた新幹線が、支柱に絡み付いたツタが色付き始めている高架橋を通り過ぎて行くのも構わず、続ける。
 「穂波に会いにね……」
 元妻は、聞き取ったらしい。意味も汲み取ったようだ。驚いて目を見開いている。ほぼ上下対称の唇も小さく開いていた。セミロングの横髪が一瞬間強くなった風になびき、その形の良い唇を隠す。ぼくは、照れ臭紛れに小さく笑い、そして沈黙する。彼女も、しばらくは言葉を発せそうにない。ぼくたちは、幅の狭まった歩道を進む。
 穂波に対してだけは嘘を吐けないのだ。かりにどんなに酷い嘘を吐いても、彼女は許してくれる。雲仙の山々や島原の大地に濾過された湧水のように澄んだ瞳は、一点の濁りも浮かべることなく、嘘吐きのぼくをも優しく包み込んでくれる。不妊治療を始めてから情緒不安定になり、夫に当たることが多々あったが、瞳が濁ったことはついに一度も無かった。
 視界に中小規模の工場が現れる。通り過ぎる家並みは古くなっていく。沈黙は長引いている。やはり、ぼくが破るしかない。
 「穂波に会いにきたって言うのは、おかしいよな。稲穂の波を見にきたんだから。……でも、この辺り一帯は、もうすっかり稲刈りが済んでてさ。刈株とザク切りの葉や茎しか見れなくて、ガッカリしたよ」
 「この辺りの稲刈りは九州より一ヶ月くらい早いもんね。九月の週末や祝日までに全部済ませちゃったんだ。でも何でだろうね。秋の長雨とか気候の違いかな。八年前のゴールデンウィークにきた時に田植えをしてたから兼業の仕事との兼ね合いかな。そうだ遼ちゃん覚えてる? あの日のオーロラみたいなフジの花房はすごく綺麗だったよねえ。新幹線の高架橋の手前にあった公園の藤棚の」
 いつになく早口だった穂波は、南西の空を見上げた。灰色の雲の群が昨日通ったかもしれない故郷の空を思い出しているのか。ぼくの視線に気付き、彼女はこちらを向いて「どうしたの?」と言いたげに眉を吊り上げた。ぼくは、また小さく笑い、視線を正面に向ける。
 「稲の刈株を見ながら、思った。こいつらは、オレみたいだって。根こそぎじゃないけど、根元からバッサリ切り取られちゃってさ」
 穂波は俯き加減になり、黙って耳を傾けている。
 「でもさ、刈株から伸びた、ああ、ちょうど歩道の右手に見えてきた。もうあんなに伸びてる」
 「ああ、ヒコバエだね。久し振りに見るなあ」
 「ヒコバエ?」
 「うん。ヒコバエのヒコはね、孫のこと。孫が生えるって意味からきてるの」
 彼女はそう言って、追懐の情を凝縮するように目を細めた。ヒコバエは二十センチ近くまで背丈を伸ばしている。中空では、雁の群が白い腹でV字を描きながら見事な編隊飛行を見せていた。
 傾斜の急な屋根に立派な瓦を葺いた庄屋屋敷のような平屋は、普通の二階建て家屋と同じ高さがある。優に三百坪はありそうな庭の歩路沿いの一角には、外国産高級車と軽自動車が停められている。キンモクセイの花と柿の実が同じ色を成し、既に通り過ぎた医薬部外品製造工場と同じ香りを漂わせているこのお屋敷が、宅地の最果てだ。両岸の土手で濃緑色の雑草が背比べをしながら繁り、死の色を映した液体を溜め込んでいる排水路を渡ると、急に視界が開ける。
 ザク切りの葉や茎が撒かれたままの田んぼには、刈株から伸びた幾つものヒコバエが雑草とともに根付いていた。根付いていないヒコバエも少なくない。既に半分近くにまで数を増やしている耕運機で鋤き起こされた田んぼには、なおも生き残ったヒコバエが点在していて、「まだ生きているぞ」と言いたげに葉や茎をでたらめな方向に伸ばしていた。ひっくり返されて縮れた赤い根っこを晒している刈株も、生命力を感じさせる青い葉や茎を地に這うようにしっかりと伸ばしている。
 ぼくは、二十五メートルプール程の大きさの刈田の前で足を止めた。まるで黄色い水を張ったように籾殻が整然と撒かれ、ヒコバエの葉や茎の青さを際出せている。穂波も立ち止まり、微笑みながら口を開いた。
 「背はずっと低いけど、色は梅雨明け間もない頃の稲に負けないくらいに綺麗だね」
 「また、実らせるのかな?」
 何気なく尋ねたつもりだったが、肯定的な答えを期待している自分に気付く。彼女は、歩道から赤茶けた屍の隙間に新たな雑草が生えている畦に足を踏み入れ、しゃがんで近くのヒコバエを指差した。
 「あったよ。見て」
 柔らかい畦を踏んで、穂波の隣で中腰になって指差されたヒコバエに目をやり、息を飲まされた。三十センチ余りの背丈だが、一本の裂けた茎から幼い穂を覗かせている。
 「こっちの方が成長してるね」
 次に指差された隣のヒコバエには、萎んだ白い花を垂らして堂々と直立している穂がしかと存在していた。
 「実るんだ」
 とぼくは呟くように言った。彼女は小さく微笑みながら頷いた。
 「これからもっと、たくさんのヒコバエが穂を伸ばして、花を咲かせて実らせると思うよ。もうすっかり秋なのに、夏の稲の半分の背丈もないのに、逞しいよね」
 ぼくたちは歩道に戻り、爽やかな秋風に揺れるヒコバエの小波を目で追いながら、再び肩を並べて歩き出した。既に穂を成しているヒコバエは少なくない。離れ小島のような塚や排水路の土手では、ススキとセイタカアワダチソウが勢力争いをしている。白い穂と黄色い花房の形勢は五分五分だ。最近衰えの目立つ気力が奮い立ってくるのを感じる。
 「遼ちゃん、寒くない?」
 穂波は、さすがに現役の看護師だ。ぼくの体は脂肪の鎧を剥ぎ取られている。太陽が雲に隠れただけでも体温調節が容易ではない。灰色の雲の群は雨を降らしそうにはないが、南の空を厚く覆っている。スーツの上着を羽織ると、赤トンボが番いつつ、ぼくと元妻の目前を横切って彼方へと飛び去って行った。
 「ねえ」
 彼女はヒコバエの小波より遠くに目を向け、
 「まだあるね、あれ」
 と言って目尻を下げ、右手で横髪を耳にかけた。
 「本当だ。名前も外装も変わってない。でも、風雨に晒されて、オレたちと同じくらい年を取ったよな」
 国道沿いにある人目を引く建物は、おそらく青だった側壁は水色に、たぶん赤だったデザイン文字は橙色に褪せている。
 「あそこで休憩しない? 夜勤明けだから、さすがに疲れちゃった。確か、次の角を曲がれば近道になるよね」
 「……ラブホテル嫌いの女から、またそんな台詞を聞かされるとはね。八年前もビックリさせられたけど。あの時も、あくまでも休憩ってことで入って、結局はそうなっただろう」
 何だか赤ちゃんを授かりそうな予感がする、と穂波が突然言い出したからだ。
 元妻は歩調を緩め、黙ったまま小首を傾げて微笑んでいる。
 「冗談きついよ。オレを殺す気か?」
 「遼ちゃんがこのままTS―1の服用だけを続けて癌に殺されるんなら、私が殺したいわよ。殺す場所は嫌いなラブホテルでもいい」
 冗談とも本気とも取れる口調だった。
 「勘弁してくれよ。多分、もうそんな体力はないよ。できるかどうかもわかんないし。真っ直ぐ歩いて、この先のファミレスで昼飯を食って、帰ろうぜ」
 「私が上になって、早く終わるように頑張るから」
 穂波は腕を絡め、元夫を引き摺るように一転して歩調を速めた。元妻の早足は、幹線道路の歩道から路肩のアスファルトが崩れた脇道へとそれて行く。彼女の腕を振り解くことなど、できない。
 やがて、穂波は形の良い顎を引き、ぼくを見詰めた。上目遣いにドキリとさせられる。
 「稲の花って、二時間くらいしか咲かないって、知ってた? 受粉するのに、それだけあれば充分なんだって。考えようによっては、人間と変わんないね」
 ぼくは、苦笑しながら彼女に歩調を合わせるしかなかった。
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