第1話

文字数 14,576文字

 背凭れの無い丸椅子は子供の頃から苦手だった。落ち着かないのは腰だけではない。冷静でいるつもりだったのに、手足が震えそうになるのを堪えるのに一苦労している。鼓動も落ち着きを失って久しい。暦の上ではもう盛秋なのに、効き過ぎている診察室内の冷房も相まって、鳥肌が立ちそうだ。声を発すれば、またどもるに違いない。喉の奥で音にはならない発声練習を繰り返している自分に気付く。
 目前にいるのは無二の親友であり、関東の水郷の地にある大学病院の消化器外科准教授だ。久保翔太は、肘掛け椅子に深く座り、横顔を見せている。厳しい表情だ。内心の苛立ちが汲み取れる。彼の妻であり、ぼくの従妹である由美がよく愚痴をこぼす悪癖が、膝に現れていた。ルームシェアをしていた頃、ぼくも閉口したことを思い出す。しかし、無二の親友は、物事が順調に進んでいる時は行儀が良かった。壁にぶち当たった時に出るサインが貧乏揺すりだった。
 翔太は、患者の治療法を見出せないのだ。青江遼一という患者の、つまりぼくの胃袋に見付かった腫瘍は悪性の癌で、しかも既にかなり進行しているらしい。腰が更に落ち着きを無くしていた。物理的にすら揺れそうな心の中で身構える。彼は、苛立ちを隠すように凭れていた背をスッと伸ばした。同時に膝の小刻みな動きも止まる。
 無二の親友は、手にしているエコー写真を睨みながら口を開いた。
 「バカちゃうか、お前は」
 ぼくが丸椅子に腰を下ろし、壁掛け時計上の分針が指す数字を一つ進めたのちに、ようやく発せられた言葉だった。
 アホちゃうか、ではなくて、バカちゃうか。イントネーションは下降気味で、語尾に疑問符の存在は欠片も感じられなかった。
 「バカか……ホンマに」
 十代の頃は、どちらかの口から二言目の「バカ」が発せられた時点で、必ず取っ組み合いの喧嘩になっていた。翔太は、父母ともに熊本出身だが、生まれてから小学六年生の夏休みまで大阪で育っている。故に、滅多なことではその言葉を使わず、代わりに「アホ」という言葉をよく使う。
 翔太とは、かれこれ三分の一世紀近い付き合いになる。熊本にある中学校と高校も同窓だった。ともに関東にある大学こそ違ったが、それぞれのキャンパスの中間地点にある町で家賃を折半して二DKのアパートを借り、翔太が研修医を終えるまでの八年もの間、一緒に住んだ。互いの結婚相手まで紹介し合うことになった関係は、最近は主に携帯電話という便利な通信機器を介して、一度も途切れることなく続いている。いくら専門医だからとは言え、そんな仲である男に診察を頼んだのは、やはり間違いだったのかもしれない。
 翔太は、兄のような弟のような存在である男のエコー写真と内視鏡写真、そして紹介状を机の上に重ねて置き、両手で白衣の襟を正した。険しい目をしたまま、腕を組んだあとに、椅子を回して患者であるぼくと初めて向き合った。しかし、視線を合わせようとはしない。はっきりした二重瞼の団栗眼を瞬かせ、一呼吸おいて口角をひくつかせる。言い辛いことを口にしようとする時に出る癖は、小学六年生の頃と変わっていない。小さく笑いそうになったが、自分も口角をひくつかせていることに気付く。
 視線をそらしたまま、翔太はようやく口を開いた。
 「ベッドに横になって、腹を出して」
 努めて冷静を装った口調だった。
 丸椅子から立ち上がる際によろめきかけた。スニーカーを脱ぐのに隙取ったあとに、白いシーツの上に身を横たえる。ポロシャツを捲ってベルトを緩めると、痩身の若い女性看護師が「失礼します」と言ってブルージーンズとトランクスを少し下げた。照れ臭くはあったが、僅かに地肌に触れた彼女の手の温かさに、ほんの少しだけ落ち着きをもらう。
 翔太は、再び手に取って凝視していたエコー写真を机の上に置き、鷹揚さを装いながら椅子から立ち上がった。冷たく湿っぽい彼の右手が、贅肉のすっかり落ちた腹をゆっくりと、加減しながらこねくり回す。親友の溜息が漏れた。
 「腹には、ホンマに痛みは無かったんか?」
 「無かったばい。違和感は有ったばってん」
 咄嗟に方言が出た。標準語ではどもりがちになる。もっとも、ぼくと彼の会話は殆どが熊本弁と大阪弁で成り立つのだが。
 「……お前、右足の人差し指やったか、小六の三学期に骨を折ったことがあったなあ。一週間もほったらかしにしたあとに病院で診てもらったら、既に繋がっとった。その時は痛かったか?」
 「少し、な」
 「少しって……ボケ。骨が折れとって右足を引き摺って歩いとったくせに、少しってあるか」
 翔太の右手が下腹に僅かな圧力を加えた。ふざけて大袈裟に「いてっ」と言う余裕など無い。
 「今週の火曜日、って言ったら明日やな、朝一に空きがあるわ。またこれるか? いや、絶対こいや。精密検査するで。詳しくは、その結果を見んと説明できん……。薬を出しとくから、今日から絶対に飲んどき。心配すんなや。お前の苦手な粉薬とちゃう。カプセルに入ったやつや。今日はもうええで。はよ帰り」
 翔太は、ぼくの腹から右手を離し、今度は肩を怒らせながらスタスタと歩いて、ドカッと肘掛け椅子に腰を下ろした。
 「おっ、お前が切ってくれるとやろうな? オレの腹。他の医者に切られるとは御免だけんな。じゃなかと、オレは切腹して果てんばいかんごとなるばい」
 上体を起こして着衣を直しながら軽口を叩いてみた。精一杯の強がりだった。声が震えるのを、やっとの思いで堪えたつもりだ。
 「アホか。職業軍人の孫ってか。島津家臣団の末裔の話も、もう聞き飽きたわ」
 「アホ」という言葉に、また少しだけ落ち着きをもらう。しかし、診察室内には久保先生の苛立ちが依然として張り詰めていて、若い女性看護師が気の毒なくらい顔を強張らせている。
 「遼一……今晩、付き合えや。ちょっとだけな。あんまり飲ませる訳にはいかんから。いや、お前はウーロン茶しか頼むなや。酒を飲むのはワシだけや。食う物も、全部ワシが決める」
 「……最後の晩餐ってやつか?」
 翔太は、なおも視線を合わせようとしない。
 「……場所は、いつものところや。時間は、あとでメールする」
 とりあえず今晩、馴染みの居酒屋でワンクッションを置きたいらしい。ぼくのために、そして彼自身のために。そう思うぼくも、そう思わせる翔太も、互いの頭の作りを知り尽くしている。
 ぼくは、ベッドから下りてスニーカーをまた隙取りながら履き、出入口のドアへ向かった。翔太は、また手にしたエコー写真に一段と険しい目を向けている。上歯が厚い下唇を強く噛んでいた。

 改装間もない大学病院のロビーは、高級ホテルのそれのように悠々としている。ただし、会計窓口前だけは混み合っていた。前もって翔太に電話を入れておいたので、診察は殆ど待たずに済んだが、会計支払いには時間がかかりそうだ。五人掛け椅子の真ん中に座ったことを後悔した。しかし、両隣の人と肘を付き合わせるような圧迫感は今月中だけ我慢すればいい。落ち着いたクリーム色の柱に貼られたポスターが、この大学病院で十月から電子会計システムが導入されることを予告している。我が社製のシステムだ。どちらも担当者でこそ無かったが、翔太とともに一枚噛んだ仕事の恩恵に自分が浴することになるとは思いもしなかった。
 この夏の終わりに、我が社では国政より一足先に「政権交代」が起こった。動かぬはずの派閥の力関係がひっくり返ってしまった。一部のキャリア官僚と同様に――ぼくは派閥に属していなかったにも関わらず――大波に飲まれてしまった。新総理同様に「宇宙人」という渾名を持つ新社長に疎まれては、広報室長という要職に留まれるはずが無かった。
 この三年間の、職場の健康診断に行くこともままならぬ程の忙しさは、離婚の寂しさを半減させてくれたように思う。先月まで仕事人間だったぼくは今、九月も下旬になって遅い夏休みを取っている。担当記者が自宅にまで押しかける広報室長のままであったならば、取れるはずのない休暇だった。いや、著作権課長だった頃にも、夏休みなど取った覚えはない。両親の病気や死、そして不妊治療のために何度も休暇を取らざるをえなかったが故に憚られたし、新設されたポストの初代課長の仕事もまた忙し過ぎた。夏休みを取り、夫婦揃って互いの故郷に帰省したのは五年前、一際暑く、フェリーで渡った有明海がいっそう青かった二〇〇四年だ。両親もまだ健在で、看護師の妻との考えのずれもまだ顕在化していなかった。
 先週の木曜日の退社時に、久し振りに長い休暇を取るに当たり、ぼくは頭を抱えてしまった。時間を潰すあてなど無かったからだ。帰宅途中に自宅マンション近くの居酒屋に寄り、カウンター席に座って思案を巡らせていた時に、たまたま隣席にいた恒松医院の二代目に声をかけられた。顔見知りで同年代のその内科医は、その場で簡単な問診をしたあとに、ぼくに検査を勧めた。
 翌金曜日、内視鏡とエコーの検査、そして触診を済ませたあとに、恒松医師から胃に腫瘍があることを告げられた。痛みを感じたことはない。時折石ころを飲み込んだような違和感はあったが、胃が縮んだように感じるのは、先日減量を試みた際に食べる量をほぼ半減させたせいだと思っていた。倦怠感はあったが、仕事々々の毎日で蓄積した疲労と加齢のせいだと思っていた。管理職に就いて以降は、ストレス性の下痢が長く続くことが珍しくなかった。今月一日付けの左遷のストレスを思えば、尚更に納得がいった。
 紹介状に加え、内視鏡とエコーの写真をもらって恒松医院をあとにした時に、漠然と思った。腫瘍は父や祖父のそれのように悪性でもかまわないと。じきに最期を迎えても構わないとも。ぼくのサラリーマン人生には、もはや先はないだろう。派閥の力関係が再度ひっくり返ったとしても、野に下った派の新しい領袖は一匹狼を気取っていた前広報室長を快く思っていない。そして、何より、ぼくには守るべき家族がいない。
 ふと、穂波の顔が脳裏を掠めた。――会いたい。混み合った待合席のほぼ中央で、声には出さずに唇だけをそう動かしていた。一人っ子のぼくには、骨を拾ってもらえる親族と言えば唯一仲の良いいとこの由美しかいない。そして、彼女のダンナの翔太。今となっては親友の元同僚という関係に過ぎないが、穂波にも拾ってもらえないだろうか。虫の良過ぎる話だと自嘲しながらも、その思いを脳裏から消し去ることができない。今日が元妻の三十九回目の誕生日だからかもしれない。
 ぼくと穂波は、互いを嫌いにならないうちに別れるという選択肢を取った。二人揃って役所に離婚届を提出しに行き、不思議そうな顔を見せた役人から十五分後に受理した旨を告げられ、その場で別れてから三年の歳月が流れた。以来、連絡は一切取っていない。今更会いには行けないし、行こうにも居場所すらわからない。メールアドレスや携帯電話番号は暗記しているし、万が一で失念した場合に備えて、メモ用紙にも書いて財布と貴重品入れに保存しているのだが……。

     *

 ある約束を思い出し、ぼくは電車に乗って会いに行くことにした。旧姓に戻った森山穂波にではなく、彼女の名前の由来となった稲穂の波に。翔太の仕事が終わるのは早くても日が暮れたあとなので、ちょうどいい時間潰しにもなる。
 「穂波」という名前は、彼女の父親が付けたのだそうだ。九州の米所熊本ではなく、その有明海の向こう、島原半島の稲穂の波に由来している。彼女がこの世の生まれ出た時に、父親は穏やかな秋晴れの空の下で島原鉄道の電車を運転していて、黄金色の稲穂の波が有明海や雲仙岳を背景にして爽やかな風に揺れるさまを目にしていたという。
 穂波は、父親がイメージした通りの女性になったように思う。優秀な看護師であるのに決して驕らず、患者や同僚に対して素直に頭を下げることができ、他人の起こした波風を受け止める懐の深さがある。ぼくたちが離婚するまで、翔太は差しで飲むたびにそういった旨を何度も頷きながら口にし、
 「結局、一言で言えばな、ナース服がこの上なく似合う女や。優しくて時には厳しい、看護師が天職の女」
 といつも同じ台詞で「穂波評」を締め括っていた。
 同じ病院に勤めていた訳ではなく、単に一言語聴覚士と一看護師という関係だった由美も、一つ年下の穂波に同じ医療従事者として心酔していた。
 穂波は、有明海のような穏やかさを漂わせつつも、雲仙岳のような厳しさをも合わせ持っていた。整った顔立ちをしているかと言えば少々微妙だが、目と鼻と口の形が良いので、折り目正しい所作も手伝い、角度によっては美人に見える。ぼくに言わせれば一番飽きのこない顔だった。物事に集中している時は顔付きが厳しくなり、目や口が鼻に寄ると、その美しさにハッとさせられたものだ。「一仕事終える間際に見せる顔もしかり」と、久保先生からもお墨付きをもらっていた。
 「底の抜けたザル」と翔太にからかわれた二十代の頃が嘘のようだ。胃に腫瘍があることを考えれば仕方が無いのかもしれないが、病院の会計支払い後にコンビニで買ったレギュラー缶一本のビールにすっかり飲まれてしまった。いけないとは思いつつも、やはり飲まずにはいられなかった。現実としては受け入れがたかった。それでも、医者の命はやはり聞くべきなのだ。診察室で極度に緊張したせいもあってか、電車の座席に腰掛けてからの記憶がきれいさっぱり吹っ飛んでいる。終着駅到着を告げるアナウンスは鼓膜で遮断され、脳まで届かなかったらしい。横着な若い車掌に肩を揺すられて深い眠りから目覚めた次第だ。
 ここは、北関東へ下る電車の始発駅でもある。由美が長男を出産する前まで通勤で利用していた駅だった。西口の目前の一等地には今日も雑草が茂っている。もったいない。せめて駐車場にすればいいのに。そう思うのは今日でたったの三回目なのに、ホームから見える新に旧が入り混じった町並みに懐かしさを覚える。空き地や畑や平成生まれの家屋に囲まれつつ、昭和生まれの屋敷が泰然と根を下ろしているさまが、翔太と一緒に育った団地の雰囲気を思い起こさせるからだろうか。以前にやってきた二回ともに、穂波と一緒だったからかもしれない。

 改札を抜けて東口ロータリーに出る階段を下りると、真っ先に目に入ってきた小振りなケヤキ並木はまだ夏の佇まいだった。人間の都合などお構いなしに枝や葉を伸ばし、道路標識を隠している。青々と茂った葉の下を通り抜けながら信号のある横断歩道を二つ渡ると、由美が言語聴覚士として勤めていた女子医大系列の総合病院に着く。信号待ちの時間を入れても歩いて五分とかからない。しかし、もう病院は見るのも御免だ。それに、寄り道する時間はあっても体力はないかもしれない。気力もあやしい。ぼくは、一つ目の信号を渡って左に折れ、片側一車線の幹線道路の歩道を歩き出した。
 駅前から広がる閑静な住宅街には、区画整理で取り残された小さな畑が点在していて、サツマイモやサトイモの葉の緑が眩しい。ナスやピーマンやエダマメは自家消費用だろうか、少々不恰好な物もあるが、しっかりと実をなしている。
 冷房の効いた電車内と異なり、スモッグが天幕を張って晴れているのか曇っているのかよくわからない空の下の関東平野の央には、秋とは名ばかりの季節が保温されていた。盛秋の九州と同じくらい気温が高いがカラリとしていて、首根っこがヒンヤリとして気持ちが悪い。おまけに、ぼくの到着を待っていたかのように、鉄柱に乗っかった拡声器から光化学スモッグ注意報発令を告げるアナウンスが流れている。
 短いが深かった眠りから覚めても、事実上の癌宣告が脳を混乱させている。運動機能まで低下させているのか、酔いを差し引いても体が重たく、動きが覚束ない。スモッグに隠れた遠くの山々から下りてくる弱い風がせめてもの救いだ。風に身も心も洗われながら十五分程歩けば、ぼくは内海のように開けた風景の中で穂波に会える。渡された低い橋のような幹線道路に分断されているが、その左右に百メートル程の奥行きがある田んぼが枚数を重ね、黄金色の稲穂が風に吹かれて小波を打っているに違いない。
 中空で、ハトの群が舞っている。幹線道路の両脇にある空き地で、一方ではネコジャラシが穂波を成し、もう一方ではスギナが一面を覆っていた。中規模の公園内にある、プラスチック製の滑り台と、飛行機の胴体のような宙に浮いた潜り通路に目が行く。色落ちしているが、どちらも紫色をしている。数本の赤い鉄柱に支えられたその遊具には、あとは青い登り梯子と雲梯しか付いておらず、滑り台の先にある砂場にはやけに凹凸が多い。その奥にあるソフトボールができそうな広場で、雑草が背丈を伸ばしていた。この公園の目玉は、遊具や砂場のあるスペースと広場とを鉤形に区切る藤棚だ。鬱蒼としたフジの葉から下膨れの青いさやが覗いている。
 八年前のゴールデンウィークにこの町にきた時に、ぼくも穂波もこの藤棚のオーロラのような花房に目を奪われた。「本物の藤色はやっぱり綺麗だな」と彼女が目を細めながら言ったのは、ぼくがまったく同じ台詞を口にしようとした時だった。まるで生後間もなく何らかの理由で引き離された双子のきょうだいのように、同じ物を見ている時にまったく同じことをよく考えていたぼくたちは、それぞれ六千万人もいる日本人の男性と女性の中で最も相性の良い組み合わせだったのではないか。今更ながらそう思えてならない。
 静寂な空気を切り裂く轟音と地鳴りを耳にしながら、支柱にツタが絡み付いた新幹線の高架橋の下を通り抜けると、幹線道路の両脇に中小規模の工場が姿を現す。

 赤トンボが番いつつ、目前を横切り、ぬるい風に乗って宙に舞い上がって行った。中空では白鷺の群が舞っている。ぼくは、穂波に会えなかった。いずれの田んぼにも黄金色の稲穂の波は既に存在していない。まだアスファルトが新しい濃紺の幹線道路の両脇には、藁色を基調とした刈田の行列が広がっている。右手の一ヘクタール近くありそうな正方形の田んぼには、坊主頭のような刈株の行列と、その隙間に撒かれているザク切りの葉や茎があるだけだ。地面をついばんでいる白鷺とカラス、そして排水路の土手に生えた雑草が、枯れた田園風景に小さくアクセントをなしていた。
 道下の刈田からコンクリートの農耕機械用通路を上って歩道を横切り、車道を縦断して横道にそれたキャタピラの跡が、水気を残した土塊や藁くずで形作られている。一仕事を終えて家路に着いているコンバインを遠目に追いながら、ぼくはフットサルコート程の大きさの田んぼの前で立ち止まり、溜息を吐いた。
 この田んぼだけ、色合いが異なる。稲を刈った匂いがまだ辺りに立ち籠めていて、眼下には藁色と芝色の縦縞模様の長方形が広がっている。真新しい縦長の絨毯のような刈田で、スズメやハトが忙しくついばんでいるのは、地面に零れ落ちた刈りたての籾米だろうか。コンバインの刃の鋭い切れ味を想像させる刈跡は、まだ新しい。ついさっきまで、角度の高い日差しが注がれているこの田んぼでは、稲の穂が小さく波を打っていたに違いない。
 四十キロの制限速度を守りながら幹線道路を走り去ったパトカーに背中を押され、ぼくは肩を落としつつ、幅が一定しない歩道を再び歩き出した。全体の二、三割程あるだろうか。既に耕運機で鋤き起こされた田んぼは、哀れだった。葉や茎、そして刈株がロータリーで細かく切り刻まれ、表土に紛れているのはまだいい。根こそぎ掘り起こされてひっくりかえった刈株や、根を張った土塊もろとも切り刻まれて馬糞のようになった刈株を、直視するのは忍びなかった。
 幹線道路と交差している国道から、クルマの風切り音とタイヤの摩擦音が混ざり合って聞こえてくる。眼下にある二枚の細長い刈田が、田園地帯の最果てだ。どちらも奥行きは百メートル程あるが、間口は十メートルに満たない。
 「稲の葉は穂を覗かせる時期が一番綺麗だよね」と、穂波は三年前の梅雨明け間もない頃に、この場所で巨大な鰻の寝床のような田んぼを眺めながら言った。八年前のゴールデンウィークにきた時には、田植え機が水を張った田んぼをノロノロと動き回り、この遠浅の内海のような一帯で田植えが済みつつあったことを思い出す。九州では六月に田植えをして十月に稲刈りをすることが多いが、この町では九月末に稲刈りが終わっていても不思議ではない。
 「まあ、いいさ」
 と独り言を呟いていた。視線を右斜方に向ける。濁った水色の空の下に、あるはずの筑波山はやはり見えなかった。稲の穂波は、美しい背景がなければ映えない。九州の高い青空と白い雲、阿蘇や雲仙の山々、あるいは有明海。名前も知らない小さな山や丘の緑でもかまわない。そういった後景がなければ、稲の穂波は黄金色ではなく単なる黄色に見えてしまう。この町からは筑波山も、赤城や秩父の山々も遠すぎるし、おまけに低い空を覆ったスモッグに姿を晦ましている。
 今のぼくは、視界の下半をその行列で占めた稲の刈株に似ている。四十四歳で左遷を喰らったサラリーマンは、積み上げてきた実績や経験という穂や葉茎を切り取られたに等しい。更に、根こそぎ掘り起こされるように、主治医の親友から余命宣告まで喰らうのだろう。翔太は延命のために化学療法を勧めるに違いない。それに応じれば、足元の畦で不自然な赤色を帯びた屍を晒している雑草のように、薬で殺されてしまうかもしれない。
 また溜息を吐く。右手の鋤き起こされた田んぼに視線を落とすと、表土に真横に倒れている刈株が目に留まった。十センチに満たない緑色の葉を四、五本生やしている。その刈株だけではない。表土もろとも耕運ロータリーで切り刻まれてもなお生き残った幾つもの刈株が、その内側から外側から幼い葉を伸ばしていた。切り刻まれたうえにひっくり返り、縮れた赤い根っこを真上に向けている刈株でさえも、地を這うにように葉を伸ばしている。刈株の墓場のような細長い田んぼの中で、数え切れない程の葉が上に斜めに横に丈を伸ばしていた。焼かれて焦土と化している左手の刈田でも、黒焦げの刈株の半数近くが緑色の葉を伸ばしている。
 「……けなげだねえ、お前らは」
 今から葉を伸ばしても無意味じゃないか。近いうちに土ごと鋤き起こされて殺される。そう思うと同時に泣けてきた。ぼくは、今や日本人の三人に一人が殺される病気に侵されてしまった。しかも、人生の比較的早い段階で。目を瞑り、深呼吸をして俯き、湧き出てくる涙を懸命に堪えた。零れた涙が頬を伝い、ポロシャツを掠めて足元の赤い雑草の屍の上に落ちた。追い討ちをかけるように風が強くなってきている。関東の乾いた秋の風だ。なおも晩夏の名残を感じさせるが、首根っこはいっそうヒンヤリとして、ぼくの体は震え出した。

     *

 翔太と飲むのは、ほぼ半年振りだ。大学病院に程近いこのチェーン店の居酒屋で、彼の出世を二人きりで祝って以来になる。三年前まではどんなに仕事が忙しくても月に一度は差しで飲む機会を作っていたが、大厄を過ぎてからは互いに時間的にも体力的にもそんな余裕が無くなってしまった。久保准教授も四月以降は、いよいよ仕事三昧の日々に追われている。今現在の時間を相当無理して作ったことを、研修医だった頃を思い起こさせる目の下の隈が無言で語っていた。
 中ジョッキが座敷席のテーブルに、ゴトン、と置かれるや否や、翔太はまだ泡が凍っている生ビールを一気に飲み干した。そして、「おかわり」と言って女子大生風の無愛想な店員を呼び付け、ムッとした顔でジョッキを突き出した。目前のジョッキの中身は、まだ萎んだ泡の嵩しか減っていない。――泡だけならいい。翔太は、ぼくにも生ビールを注文してくれた。しかし、口を付ける気にはなれない。昼間、田んぼの前で泣いたあとに覚悟を決めたつもりだったが、そう簡単にはいかない。
 今日はさすがに乾杯をしていないことを思い出し、軽口を叩いてみる。
 「翔太、しばらく会わんうちに肥えたな」
 「恰幅の良うなったて言いえんのか」
 「オレから落ちた贅肉が、お前に付いたごたるばい」
 「……洒落にならんことは言うなや」
 翔太は、今日初めてぼくと目を合わせた。「飲まなやっとられんわ」と続けて言って、二杯目の中ジョッキがテーブルに、ゴトン、と置かれるや否や、また一気に飲み干し、ドン、とジョッキの底でテーブルを叩いた。彼の目は、もう据わっている。元々酒量が少ない男だ。体に溜め込んだ疲労を考えれば仕方が無いかもしれない。しかし、混み合った店内を見渡す余裕はまだあるようだ。近くに大学病院関係者がいないことを確認したらしい。
 「外科医はな、肉親の手術はしない方がいいと言われている。だから、ワシの場合、親父とお袋と妹の手術はしない、いや、できんやろうな、と思ってたんや。お前は友だちやから、何かあったらワシが切ったろうと思うてたけど、やっぱり無理みたいや。多分、冷静になれへんわ。一番の親友、いや兄弟分やからな。今日の診察で、内視鏡写真を目にしただけであのザマや」
 翔太は、また女子大生風の店員を呼び付け、空のジョッキを突き出して生ビールを追加注文した。そして、ダン、ダン、と左右の肘をテーブルに突き、パン、と左右の掌を合わせて指を絡めた。団栗眼が瞬く。色付いた頬の脇で、口角がひくつく。
 ぼくが口を開く。いよいよ覚悟を決めながら、父のように冷静であろうと繕いながら。
 「初診者カードの『はい』に丸ば付けといたやろうが。あなたがもし治療できない不治の病である時は告知を望みますか? とかいう質問に。お前が言いいきらんとなら聞くぞ。オレは、胃癌なんだよな」
 翔太は、目を泳がせる。父の病状についてセカンドオピニオンを求めた時と同じように。
 「……そうや。しかも、紹介状にも書かれとったが、自覚症状が出にくいスキルスタイプで間違いなさそうや。内視鏡であれをスキルスと指摘できる医者は結構少ないで。見落としも多いからな」
 そう答えて、彼は俯き加減になった。ぼくは話の核心に触れる。
 「ステージは? Ⅳか?」
 「……そう、やな。そう、覚悟しとけや。エコー検査で肝臓に転移があるとわかった時点で、事実上、ステージⅣ確定や。お前のエコー写真で、それが確認できた、ということや……」
 「……やっぱり、そうか。臓器は違うけど、ステージは親父と一緒だ。ばってんが久保先生、だけんて診察室で貧乏揺すりばしたらいかんですばい」
 無理に翔太をからかいながら、ぼくは笑顔を作ろうとした。自分の口角がひくついているのがわかる。やがて、翔太の視点はようやく定まり、ぼくのおそらく笑っていない目に向けられた。視線をそらしたくなるのを何とか堪える。
 「ええか、ここからが本題や。お前は早く決断……とまではいかんでも、考えておいた方がええ。明日のCT検査で、転移がどこまであるかと、腹膜播種の有無がおそらくわかる。でもな、内視鏡とエコーの所見からして、今の時点では手術は適応除外や。お前の癌を手術で治せるのは、ブラックジャックだけやろうな。そうなると、化学療法が中心になる訳や。いわゆる抗癌剤での治療やな。治療と名前が付いてるけど、効く可能性は約三割や。それに、腫瘍が小さくなることと生存期間が延びることとは意味が違う。相当な幸運がなければ、腫瘍が小さくなり、なおかつ生存期間が延びることはないと思う。話してて嫌になるけど、これが現実や。そして、もう一つ、お前には選択肢が無くは……」
 翔太は、また目を泳がせる。
 「オレは、そのもう一つの選択肢ば取るばい。何もせんちゃよか。緩和ケアばしてもらうかどうかしか考えとらんけん。診察室でお前に切ってくれて言うたとは、冗談た、冗談。不妊治療と同じくらい、外科手術にも抵抗があるけん……。強がりと思うてくれてもよか」
 「……お前なら、そう言いかねんと思うとったわ。島津家七百年来の家臣の末裔で、クビ覚悟で組合活動にのめり込んで停職十二ヶ月を二回もくらった闘士の、あの親父さんの息子やからなあ。潔さこそ男子の本懐ちゅう、青江の不文の家訓を守る訳やな……。ただな、一応言うとくで。明日は病院では言わんから、よう聞いとけや」
 一つ、翔太は溜息を挟む。
 「さっきは否定的なことを言うたけど、化学療法をしない手はないで。その若さで。ワシが医者に成り立ての頃と比べたら、効果は充分に上がっとるよ。症例報告の域は出えへんけど、かなりの進行胃癌が抗癌剤で縮小して、手術可能となったケースもある。副作用も徐々に改善されとるわ。まあ、そう言うことや。今日出した薬だけは必ず朝と晩に飲んどき。抗癌剤の飲み薬の中では副作用が少ないやつや。それも飲まんとは言わせへんで。それと、隔週で診察を受けにこなあかん。CTも定期的に撮るで」
 また一つ、彼は溜息を吐き、突出しのどぎつい緑色の枝豆に手をやった。ぼくも枝豆に手をやり、また笑顔を作りながら口を開いた。強がらざるをえない。
 「オレの骨は、お前と由美で拾うてくれよな」
 「アホ。嫌や。由美もそう言うで。そうや、ホナミちゃんに頼めや。まったく、この大バカたれが。お前らが別れた理由は、ワシにはさっぱりわからん。何回も、お前から聞いても、ホナちゃんから聞いてもや。もし別れなんだら、彼女がもっと早う気付いてくれたはずやで。その勘の良さと言ったら、ワシを含めて医者が舌を巻くからな」
 翔太は、俯いて続けた。
 「……今な、ホナちゃんな、うちの病院の消化器外科に戻ってきてるんや。病棟の方やけどな。口止めされとったんやけど……」
 ボト、ボト、と手にしていた枝豆が座敷の畳に落ちた。ようやく女子大生風の店員が現れ、「大変お待たせしました」と無愛想に言って、ゴトン、ゴトン、とテーブルに中ジョッキと大根サラダを置いた。空いたジョッキが下げられる。翔太は、酔い潰れる寸前のように背中を丸めていた。この半年の間で計三度、兄弟分からの飲みの誘いを断ったことを悔やんでいるらしい。穂波と別れた今、ぼくを蝕んでいく病魔を感じ取れる人間は、やはり彼以外にはいない。

 *

 ――ステージⅣのスキルス胃癌。肝臓へは血行性のいわゆる遠隔転移。膵臓、大腸への浸潤の疑いあり。腹膜播種も確認でき、現状では手術適応除外。余命は、三ヶ月から長くて半年。
 小ぢんまりとした患者相談室の中で、肘掛け椅子に背筋を伸ばして行儀良く座った翔太は、昨日とは打って変わって淡々とした口調で、テーブルを挟み面と向き合っているぼくに告知をした。貧乏揺すりが出そうな気配はない。鼓動の高鳴りを抑えるのは不可能だが、ぼくも椅子の上で姿勢を正し努めて淡々と受け入れる振りをする。
 壁に設置されたライト内蔵の白いアクリル板には、CT画像フィルムが嵌め込まれている。翔太は、頭を掻いたあとに腕を組んで息を吐き、フィルムに並ぶ輪切りにされた腹の行列を目で追いながら付け加えた。
 「お前の腹の中はな、大袈裟に言えば、体力の無い人間やったら死んどってもおかしくない状態や」
 「……わかった。セカンドオピニオンもインフォームドコンセントも必要なか。朝と晩にちゃんと薬ば飲んで、二週間後にまた診察ば受けにくるけん。時間は、また朝一でよかとか?」
 ぼくは、翔太が頷いたのを確認して立ち上がり、神妙な顔付きをしている痩身の若い女性看護師に目礼して出入口のドアへ向かった。末期癌の告知は、硬くて重たい荷物を慎重に患者へと引き渡す作業に似ているのではないか。何度経験しても神経を磨り減らす仕事に違いない。
 背負わされた荷物の硬さと重さを実感しながら俯き、廊下に出ると、すぐ脇の椅子に座っていた女性が立ち上がった。品のある所作と見覚えのある黒いパンプスにハッとさせられ、視線を上げる。目前にある二つの黒い瞳には、テレビ画面にアップで映っている女性芸能人のそれらのように、それぞれ三つの星が輝いていた。
 「遼ちゃん」
 と私服姿の穂波は呟くように言った。どことなく小鳥に似ていて、ちょうど今現在のように考え込むと目や口が鼻に寄って整う顔立ちも、ぼくが好きだったセミロングの髪型も、ユニクロで揃えた薄茶色のシャツに茶色のパンツ姿も、手にしているブランド物ではない黒いハンドバッグも、三年前と変わっていない。
 ぼくは、元妻に付き添われながら支払い窓口に向かって歩き出し、やがて口を開いた。
 「翔太から聞いたんだ」
 「うん。昨日の診察時間が終わったあとに……。今日は、急遽休暇を取って、悪いとは思ったんだけど、遼ちゃんより先に大まかな検査結果まで聞いちゃった。ゴメンね」
 「いや、いいさ、別に。必要とされるならこの病院に献体するつもりだし、翔太に個人情報云々を言うつもりもない。後学のためになれば何よりだ」
 一つ足音を飛ばした穂波が、遅れを取り戻そうと二足三足急ぐ。
 翔太は残り僅かな命のぼくを殺す気なのか。自分の専門分野である消化器癌に兄弟分を殺されることが余程悔しいのか。事実上二度目となるステージⅣのスキルス胃癌の告知に加えて、元妻との予期せぬ再会。二つ重なっては、危うく心筋梗塞を起こすところだった。
 ぼくは、何度も軽く目を閉じ、喜色を加えて高鳴り続ける鼓動を努めて静めながら、穂波とともに歩を進めた。昨日とは異なり人の疎らな会計窓口前の待合席の最後尾に並んで腰掛けるまで、ぼくたちは口を開かなかった。元妻は元夫の病気の全てを、本人より詳しく知っている。
 「今のオレたちってさ、癌宣告を受けた夫とその妻、って傍目には映るかな? まさか、元夫と元妻、とは思わないよな」
 背凭れに上体を預けながら、照れ臭まぎれに軽口を叩いてみせた。
 穂波は俯き加減になり、ぼくが好きだった仕草を見せる。右手でセミロングの横髪を耳にかけると、横顔に笑みを作って口を開いた。
 「遼ちゃんは、癌宣告を受けた夫にも、元夫にも思われないよ。よくそんな平気そうな顔をしていられるね。昔からそういうところがあったけど」
 「……役所に婚姻届を一緒に出しに行った時にさ、言ったよな。オレは、祖父ちゃんみたいに米寿まで生きるか、仕事のし過ぎでその半分くらいでポックリ逝くかのどっちかだから、覚悟しとけよって。あと、墓の面倒を看てくれっても言ったっけ」
 心の中で溜息を吐いて続ける。
 「それにさ、今月一日付けで閑職に左遷されたんだ。バリバリ働いていたエリートサラリーマンが、出世の道を閉ざされた直後に落武者狩りに遭うように癌に殺されるって、ありがちな話だ。だから、家の近くの診療所で胃に腫瘍があるって言われた時も、勘が当たったかな、ってしか思わなかったよ」
 精一杯に虚勢を張って見せた。記憶を辿りながら、落ち着いた振りをして。昨日、田んぼの刈株を目にしながら泣いたことは言えない。元妻の目や肩は、癌宣告を受けた男の妻のように、すっかり力を失っている。
 「ああ、そうだ。良かったな。オレの生命保険の受取人は、まだ変更してないよ。青江穂波のままだ。森山穂波に変更しなきゃな」
 また軽口を叩くと、瞬時に力を取り戻した元妻の目が、ぼくを睨んだ。
 「そんなもの、もらえる訳ないでしょう。……だけど、私は今でも青江穂波なの。離婚届を出して、いったんは森山に戻ったんだけど、そのあとすぐに別の届を出して、青江に戻したの」
 目はまた力を失い、口は締まりを失って、彼女はそのあとに長い台詞を発することはなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み