第2話

文字数 2,273文字

「あきぞめ」

 前日、疲れて帰宅直後に全身の筋肉が弛緩するのを感じて気を失った私は、けたたましい着信音に深く沈んだ意識を引きずり出された。
 「んあー……」
 もうろうとした意識のまま携帯を探す。しかし普段置いてあるラックの上に携帯がない。どこに置いたか、記憶をたどる内に意識が徐々に鮮明化し、昨日の夜中に気を失って眠ったことを思い出した。となると、バッグの内ポケットだ
 「ケータイ……ケータイ……」
 さながらゾンビのようにバッグの中を漁り、携帯を取り出す。9時18分の表示とともに友達の美嘉から連絡が数件入っていた。
 「うわっ……やっちった……」
 9時開始の1時限目が始まっている。早急に着替えて学校へ向かおうと考えたけど、べたつく体で登校するのは私の倫理観が許さなかった。講義開始から45分で出席が認められず欠席扱いとなるのが私の通う大学の規則だ。すでに20分が過ぎ、残り25分。身支度を15分で済ませたとしても家からキャンパスまで15分。アウト。体をベッドに投げる。
 「あ"あ"あ"あ"ぁ"―――――」
 眠たい……。枕に顔を埋めて感じる幸福感に身をゆだねて再び……。
 ―――ブブブブ……
 右手に持ったままの携帯が震え、目を開く。深い眠りを妨げられたような不快感のまま画面を確認する。
 (いつまで寝てんだー!出席点もらえないぞー!)
 ……美嘉の目に私がどう映っているのか知らないけど、ここで必死こいて学校へ行くほどまじめじゃないんだよね……。
 (ごめん、今起きた。間に合いそうにないから2限から行きます。)
 でも、正面切って言う度胸もないから、関係維持に努める。嫌いなわけでは断じてない。たぶん、眠いだけ。
 そしてまた枕に顔を埋めるが、すかさず携帯が震えた。美嘉だ。
 (アホー!いつまで寝てるんだ)
 特に返す言葉もないので放置。
 「9時半かぁ」
 どちらかと言うと美嘉からの返信よりも時計に目がいった。2時限目は10時45分から。そろそろ支度を始めなければ遅刻してしまう。純粋にサボるのはさすがに気が引ける。
 「はあ。めんどいなぁ」
 クローゼットから適当な服とバスタオルを取り出し、風呂場へ行く。
 今日は月曜日。3限が空きで5限までのハードスケジュール。土日にしっかり休んで英気を養うつもりだったが、友達に誘われて日帰り温泉へ行っていた。その後、なにを血迷ったか日をまたぐまでカラオケで歌い、電車のない中、5キロもの距離を歩き始めたのが3時。眠気と今日の1限目のことを考えると泣きそうだった。そして案の定起きられず欠席という結果。なぜカラオケに乗ってしまったのか、当時の私に問い詰めてすぐさま帰らせたい。

 風呂から上がり、髪を整える。洗面台を使うたびに大学入学のときに買ったクレンジングオイルが視界に入って胸がきゅっとなる。大学では必需品だと思い込んで買った化粧品も、今ではすっかりバッグの肥やしとなっている。すっぴんに自信があるわけでは決してなく、わざわざ時間をかけて自分を綺麗に見せることの意義が見いだせなかった。おかげで彼氏がいたこともないし、欲しくもない。
 鏡を眺めて最低限の形がとれれば完成。洗面所の扉を開く。
 「ふうぅ……」
 風呂の湯気で温まった洗面所内の空気と開けっ放しの窓の影響で冷えたリビングの空気が、私を中心に入れ替わる。すう……と首元を冷たい風が撫でる。体に残った水滴が冷やされてお風呂で上がった体温を奪っていく。
 ふらふらと吸い込まれるように風の出所、ベランダから空を眺める。全く気にしていなかったが、青空に羊雲がかかり、自分の居場所がわからなくなるほど空が高かった。暖かな日差しにカラッとした涼しい風が吹き、様々な匂いを運んでくる。
 「そっか、もう10月か」
 なびく髪を気にもとめずスマホのカメラレンズを空へ向ける。写真を撮るわけではなく、ただ、機械越しに見た世界が好きなだけ。
 「秋」
 私の季節。言いかけて恥ずかしくなってやめた。誰がいるわけでもないのに照れ隠しで笑う。
 「さて、そろそろ行こ」
 空に掲げたスマホで世界を切り取ってから、カバンを背負って外へ出た。
 時間は10時25分。愛用のクロスバイクで飛ばせばいける。
 クロスバイクにまたがり、一漕ぎで秋の風が全身を駆け巡る。ベランダよりも日差しが暖かく、風が冷たく感じた。そのたびに運ばれてくる匂いを全身で感じ、すべてが解放された感覚に襲われた。どこまでもいける気がした。この空すら飛べる気がした。
 気がつくと私は自転車を路傍に止め、携帯を取りだしていた。最後に届いた美嘉からのメッセージに既読をつけて電話をかける。
 ………………。
 『どしたの?』
 「美嘉?ごめん、今日は休む」
 『えっ!?なんで?』
 「んー……。秋だから」
 『は?どゆこと』
 「そういうこと!じゃね!」
 『ちょ!!秋葉!?
 電話を切って、電源を落とす。美嘉には明日謝っておこう。
 クロスバイクを学校とは逆に走らせる。今日は気の向くままに走っていたかった。初めてのサボり。罪悪感がないことはないが、このクロスバイクの速さと秋の風が全部吹き飛ばしてくれる気がした。
 「いっくぞー!!!!
 いつも以上に力強くペダルをこぐ。風はいつになく冷たい。空は平和を象徴するように青く高い。太陽は今日もこうして道を照らしてくれる。人生で一番心が軽い日。心なしか、クロスバイクも軽快に私を運んでくれている気がした。
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