第1話

文字数 1,753文字

「アイウエオ、イウエオア、オエオアイ、エオアイウ、オアイウエ」
 今日も発声練習に余念がない。
 藤堂加恋(とうどう、かれん)は率先して大声を上げた。彼女の声は他の受講生がうらやむほどの美声であり、講師陣からも一目置かれていた。ここの校長は元人気声優で、アニメに詳しくない人でも、一度は耳にした事があると言われる程の大御所であり、彼の名声や人脈で横浜ヴォイススクールは過去に何人ものアイドル声優を輩出するほどの業界で一・二を争う名門校であった。加恋はそんな横浜ヴォイススクールでは正に敵なしと言ったところで、その美貌やスタイルの良さから、アイドル声優への道は誰の目から見ても確実と思われていた。

 ある日の事である。
 いつものようにレッスンを終えると、校長から呼び出された。二年間通っていたが、呼び出されたことはこれまで一度もなく、少し不安になった。
 校長室に入ると、彼は両手を広げながら笑顔で加恋を迎えた。
「藤堂君。実はとっておきの話があるんだが……」
 そう言って、まあ座りなさいと、ソファーを勧めてくる。校長は強面なのだが、その親切ぶりが却って不気味さを増していた。
「何ですか? とっておきの話って」加恋が訊き返すと、彼はテーブルの上に、一枚のチラシを出してきた。
「これなんだけどな。俺の知り合いのプロデューサーが、『ときめきセインツ』という新作アニメを企画しているんだよ。それで、主役の『島原塚ハルカ』役のオーディションを開催する事となった。そこでわが校からは、是非、キミを推薦したいと思う。どうかね。一つ考えてはくれないだろうか? 返事は今じゃなくてもいい。来週までには……」
「やります! やらせてください! 絶対に合格する自信があります!!」そのアニメは聞いたことが無かったが、それでも加恋の勢いはすさまじく、校長を圧倒する迫力があった。
「……そ、それは頼もしいな。しかし、横須賀声優学園の堀崎(ほりさき)マリンも参加するみたいだぞ。君なら大丈夫だと思うが、くれぐれも油断しないように。判ったかな?」
 了解です、と言う代わりに背筋を伸ばして敬礼をした。

「聞いたわよ。ときめきセインツのオーディションを受けるんですって? しかも横須賀声優学園の堀崎マリンも参加するって話じゃない。マリンと言えば、業界でもトップクラスの声優候補生でしょう? アイドル活動もやっているし、わき役とはいえ既にデビューも果たしているのよ。いくら加恋とはいえ今回ばかりは相手が悪いわ。ここは辞退して、次のオーディションを待った方が絶対にいいと思うけどな」
 放課後、帰り支度をしていた加恋に、同じ声優仲間であり親友の風花(ふうか)が忠告を入れてきた。
「風花の言うこともわかるけど、そんな事はしたくない。せっかくのチャンスなんだから、絶対にチャレンジしたいし、例え落選したとしても後悔だけはしたくないの」
「そこまで言うなら止めないけど。いい? 絶対に無理だけはしないでね。加恋は頑張り屋だから、無理して体調でも崩したら元も子もないでしょう。この前だって練習のし過ぎで声を枯らしたことがあったじゃない。私はそれを心配しているの」
 そうなのだ。半年前の発表会の際、気合を入れて発声練習をしていたら、喉を傷めて、結局参加できなかった苦い経験があった。今回はその轍を踏まないよう、くれぐれも注意せねばなるまい。
「大丈夫。あんなヘマはしないわ。ほどほどに頑張るから、風花も応援よろしくね」
 とはいうものの、相手がマリンでは一筋縄ではいかない。彼女に打ち勝つためにはどうしても今まで以上に訓練をしなければならないだろう。
「ところでオーディションはいつだったっけ?」
「来年の一月十五日だから、あと三か月ちょっとね。さっそく走り込みから始めますか」
「ほら、気合の入り過ぎだって。もっとリラックスして臨まないと、本番で実力を発揮できないわよ」
「そうでした。でも、軽く流す程度だから、問題ないわ。それに何かしないと、却って落ち着かないのよ」
「相変わらずね。いい? 何度も言うようだけど、くれぐれも無理しないでね」
「わかってるって。台詞読みの練習は一日五時間までにしておく。それに徹夜も三日までにとどめておくわね」
 二人は笑い合い、それぞれの家に帰宅した。
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