異世界転生バッタ

文字数 3,067文字

 街灯に照らされながらキコキコと自転車を漕いでいた。季節は、夏が少し前に終わった頃。七時にもなればもう外はだいぶ暗い。
 今日もバイトが終わった。
 家へと着き、玄関のドアを閉める。すると、部屋の中は完全な暗闇に包まれる。しかし、私は電気を付けず、そのままズンズンと廊下を歩いて行き居間へと入って行く。そして、荷物を置き、電気を付けて手を洗う為にまた廊下へもどる。いつものルーティンである。
 私の部屋は、玄関のドアを開けると三メートルほどの廊下があり、その先に五畳程度の部屋がある。廊下にはキッチンと洗濯機、風呂場への入り口があり、風呂場の入り口の前には珪藻土マットを置いている。風呂はもちろんユニットバスだ。
 間取り図を見ると、棒と四角のみで構成されているよくある安アパートである。
 こんな平凡な場所で、平凡な暮らしをしている私に夢のような事件が起きた。
 廊下の電気を付け手を洗いに行こうとすると、珪藻土マットのど真ん中に緑色の何かが佇んでいた。
 正体は、成人男性の手のひらサイズのショウジョウバッタだった。
 私は全く理解が追いつかなかったが、瞬時にさまざまな説を考えた。
 まず、玄関から侵入説。帰宅時に部屋の電気を付けないとはいえ、玄関を開ければ建物自体の明かりで部屋は一時的に明るくなる。その時に成人男性の手のひらがニュッと侵入してきたら確実に気付く。このことから、玄関から侵入説は消えた。 
 次に、窓から侵入説。もしかしたら窓が空いていたのかもしれない。しかし全ての窓が締め切っていたため窓から侵入説もすぐに消えた。
 となると、隙間から侵入説。この部屋のどこかに隙間が空いていたというのか。そんな隙間はない。隙間から侵入説は考える間も無く消えた。
 全ての説が消えた今、考えられることはただ一つである。それは、異世界転生説だ。
 私が珪藻土だと思っていたマットは、どうやらこの世界と異世界を結ぶ魔法具だったようだ。
 きっとこのバッタは向こうの世界では三十歳の引きこもりニートだったのだ。いろんな人間に騙されたり、心無い言葉を浴びせられるうちに人を信用出来なくなり、挙げ句の果てには自分を苦しめた人間が幸せをつかんでいたり、薄っぺらい説教をして気持ち良くなりたいだけの人間に「お前は逃げているだけだ」などという言葉を投げかけられているうちに、自身も喪失してしまった。しかし、自分の人生を生きなければと思い、成人式ぶりに外の世界へと飛び出した。約十年ぶりに訪れる街。約十年ぶりに感じる風。飲食店から漏れる美味しい香り…。あれ?背中が熱い。そう思った瞬間に地面が目の前に現れた。どうやら背中から血を流し倒れ込んだらしい。通り魔に刺されたのだ。周囲から悲鳴が聞こえたが段々と悲鳴が小さくなっていく。理不尽な世の中だ。次はもっと良い人生がいいな。いや、普通の人生で十分か。そして目が覚めるとバッタに生まれ変わっていた。
 いや、私の知ったことか。一刻も早くこのバッタ(転生者)を外に出さねば。
 とりあえず捕まえようと思い、一歩近づいた瞬間ビチビチッと羽根を広げて飛び上がった。うわっ!羽ばたくタイプだ!そう思い居間へと逃げ込み、ドアを閉めて居間に立て籠った。そのままドアのガラス越しに廊下のバッタの様子を伺った。バッタは大暴れしていた。羽ばたいては壁にぶつかり、また羽ばたいては壁にぶつかりという自傷行為を繰り返しており、その異様な姿が不気味で体が震えてしまった。
 これほどまでに興奮状態のバッタならば噛み付いてくるに違いない。噛みつかれるのだけは、どうしても避けたい。きっと、このサイズのバッタに噛みつかれれば、確実に肉を食いちぎられる。
 そう思った私は、ゴミ袋を手に取った。これで捕獲すればいい。私はゴミ袋の口を両手で持ち接近を試みた。いや待て。この方法だとバッタが手に大接近する。自ら噛みつかれに行くようなものではないか。この方法ではダメだ。しかし、他に方法がない。完全に万策尽きた。私は絶望に駆られながらバッタを眺めるしかできなかった。
 しかし、十分ほど眺めていた時、ある方法を思いついた。ところてん方式だ。ゴミ袋を盾にしながら、居間から玄関に向かったズンズン歩いて行き、バッタを外へと追いやる方法だ。これなら噛まれる確率がぐんと減る。さっそく私は、両手でゴミ袋を広げ、バサバサとしながらバッタを玄関まで追い詰めることに成功した。
 ここで新たな問題が発生した。なんとバッタは玄関のドアノブの高さまでビョンビョンと羽ばたきながら跳ねているのである。これでは、私がドアノブへ手をかけたときに飛びついてきてしまう。これはもう自分が人間であることを忘れ去り、突撃するしかないのか。しかし、噛みつかれるのは怖すぎる。どうすればいいのだろう。
 ウジウジと考えていると、バッタがとんでもない行動に出てきた。直角にそびえ立つ玄関のドアという名の壁をよじ登ってきたのだ。そして、ドアノブに到着すると、そこで休憩し始めたのである。
 屈辱的だ。
 このバッタは、すっかり私がビビり散らしていることを理解しているのだ。自分がバッタに転生したことを利用してドアノブを封じることで、私が絶望している姿を楽しんでいるのだ。おのれ転生者め。いっそ熱したフライパンでぶっ叩いてやろうか。そんなことを考えていると、バッタは再び上を目指して登り始めた。どうやら私の考え過ぎだったようだ。この転生者はそんなに悪い奴ではない。
 これでようやく問題が解決する。このまま登っていってもらい、玄関のドアを少し開けて、上にできる隙間から外へと出ていって貰えばいい。そう思い、私は玄関のドアを開けた。しかし、ドアを開けたまま待っている時にバッタが私の顔面に落下してくる可能性がある。それだけは避けなければならない。
 私は右足を犠牲にすることにした。玄関と廊下の間が段差になっているためそこに腰掛け、右足をピンと伸ばしてドアを支えることにしたのだ。そして、バッタが頂上へたどり着くのをひたすら待った。外から見ると、玄関が少し開いており、その隙間からぷるぷる震えているすね毛が顔をのぞかせ、ドアの内側をバッタが一生懸命よじ登っているという状態だ。おそらく見る人が見れば、芸術的な光景だったであろう。
 バッタはゆっくりと登って行き、ついに天辺まで辿り着いた。やっと解放されると安堵した瞬間、私の足が限界を迎えドアが閉まってしまった。ドアが閉まる反動でバッタは横向きに落下し、ドアノブのあたりで腹の部分を挟んでしまった。
 挟まった瞬間に足をジタバタとさせ、もがき苦しんだ。私の脳にはバッタの断末魔の悲鳴が響き渡った。
 その間約1秒。
 私は早く救出せねばと思い、すぐさま震える足でドアを蹴り開いた。するとバッタは落下し、ドアの下の隙間から外側へと消えていった。それを見届けると同時にドアが閉まった。
 あまりの衝撃的な光景にしばらく玄関に座り込んでしまった。いくら大きめのバッタとはいえ、あの体で玄関のドアに挟まるなんて相当な苦痛だろう。自分の指を軽く挟んだだけでも相当痛いのに、あの体では想像を絶するものであるに違いない。
 私はハッとしてバッタの安否を確認しようと急いでドアを開けた。しかし、もうバッタの姿はなかった。どうやら元の世界へと転生してしまったようだ。きっと向こうの世界で幸せな日常を取り戻しているに違いない。そう思いながら私はドアをそっと閉めた。もちろん虫が侵入してこないかを警戒しながら。
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