夏の月
文字数 1,999文字
降りしきる雨。はるばる山道を登ってきた使者の笠には幾筋も小さな川ができ、縁から流れを落としている。
使者は、一通の書状を差し出した。
女中の私は、それをお座敷に入れると、土間で食事の支度に取り掛かる。
今日は、ちゃんと食べてくれるかな?
私は身を反らし、そう~っと障子の向こうを覗き込む。
だけど、いつもと同じよ。書状に目を落とすお奉行様の、身じろぎもしない背中が見えただけ。
ここは山奥の番小屋。寂しい所で、山の端にかかる月がきれいに見えること以外、特に面白いものはないわ。
やって来る藩士は、地元の百姓にお奉行様って呼ばれてる。夏は水害が多いから、川の上流部を見張るのがお役目だって。表向きはね。
でも本当は、ご城下で問題を起こした人が流されてやってくるの。そのせいか前の人も、その前の人も、怖くて乱暴な人だったわ。
今度のお奉行様はずっと若い人だった。髪に白いものが混じってるけど、まだ三十前なんじゃないかしら。とにかく立派な家の人だって、名主の甚兵衛さんが言ってたわ。
で、これがいい男なのよぉ。
私はしどけなく着物を崩してみせたり、竈 を見るのに必要以上に腰を突き出してみたり、時には熱っぽく目配せをしてみたり。
でもお奉行様の反応はなし。私のことなんか目に入っていないみたいだった。
まるで世捨て人よ。念仏を唱えたり、日誌を書いたり、林で素振りをしたり、一体何が楽しいんだか。
村の若い男女はみんな旺盛よ? 猟銃でズガーンと熊を撃つ、あの猛々しさで、暇さえあれば裸で抱き合ってるもん。
お奉行様はあの若さなのに。もったいないなあ。目の前にこんないい女がいるってのにさあ。何で触ろうともしないかなあ。
だけどその日、夜食の御膳を下げるとき、ふいに私の名が呼ばれたの。
お奉行様は真顔で、私に話を聞いて欲しいと仰った。おお、やっとこの日が来たかって、私は浮かれ調子で正座する。
この人がここへ来て半年。ご自分のことを話して下さるのは、初めてのことだった。
私が目で促すと、お奉行様はためらいつつ、その声を絞り出す。
……私は傲慢な人間だった。
上士の家に生まれたせいか、誰もが自分に頭を下げるのを当然と思って生きてきた。
家老に抜擢されたのは二十一の時だ。
折しも領内では洪水の被害が相次ぎ、川沿いの堤防作りが急務だった。私は普請のため、有力商人から融資を募ることにした。
商人たちによる、接待の競争が始まった。
次第に私は家庭を放り出し、遊里に繰り出すようになった。小判をばらまき、複数の女を侍らすのが当たり前。民が飢えに瀕しているその時に、私はうまい物を食い、酒を呑み、絹の着物に袖を通した。自分にはそれが許される、それだけの価値があると思っていた。
ある日の夜、妻が泣いていた。子供ができないため、私の母から離縁をほのめかされたという。
私が真っ先に感じたのは、完璧だった自分の人生に汚点がつけられたということだ。つまらぬ問題に巻き込むなと妻を怒鳴りつけ、それ以上相手にしなかった。
数日後、妻は土蔵の中で首を吊った。
奇跡的に息を吹き返したが、昏睡から目覚めることはなかった。
重い年貢に苦しむ百姓たちが、強訴に及んだのはそんな時だ。それまで私と対立してきた政敵は一気に巻き返しを図り、私は主君の前で、私腹を肥やし藩政をほしいままにした不届き者と糾弾された。
家は改易となり、一族は離散。私は配流と決まった。
名家の誇り高い私の親族は、この決定に不服だった。汚名を雪 ぐため、私に腹を斬れと迫ってきた。
私自身は罪を自覚し、深く反省もしていた。その意味で、切腹もやむなしと思った。
だがふと脳裏をよぎったのは、意識のないまま生家に戻された妻のことだ。
こんな状況に至って初めて、私はやり直したいと願った。せめて残りの人生は、全力で妻を看病することに当てようと。そのためには恥を忍んで生き延びようと思った。
だが今日ここに書状が届いた。妻がついに息を引き取ったそうだ。
しからば、もうこの世に未練はない。家のため、名誉のため、潔く切腹を受け入れようと思う。
そなたに頼みたいのは、どうか私の死を縁者に伝え、遺髪を菩提寺に届けて欲しいと……
「駄目! 死なないで!」
話を途中で遮って、私は叫んだ。
抑えていた涙が怒涛のようにあふれ出す。
あなたが優しい人だって、私は知ってる。この半年、真面目なあなたを見つめてきたの。あなたの必死さを知ってるの。
確信してる。過去に誰かを傷つけたとしても、あなたは誰かを救ってもきたはずよ。
奥様のお墓参りに行きましょう。迷惑をかけた人に謝りに行きましょう。
あなたのこれからを信じたいの。自然の猛威に苦しむこの国で、あなたにはやるべきことがあるでしょう?
ほら、外の風雨が止んでるわ。
行きましょう、お奉行様。涼を運ぶ、夏の月が見えるかもしれない。
使者は、一通の書状を差し出した。
女中の私は、それをお座敷に入れると、土間で食事の支度に取り掛かる。
今日は、ちゃんと食べてくれるかな?
私は身を反らし、そう~っと障子の向こうを覗き込む。
だけど、いつもと同じよ。書状に目を落とすお奉行様の、身じろぎもしない背中が見えただけ。
ここは山奥の番小屋。寂しい所で、山の端にかかる月がきれいに見えること以外、特に面白いものはないわ。
やって来る藩士は、地元の百姓にお奉行様って呼ばれてる。夏は水害が多いから、川の上流部を見張るのがお役目だって。表向きはね。
でも本当は、ご城下で問題を起こした人が流されてやってくるの。そのせいか前の人も、その前の人も、怖くて乱暴な人だったわ。
今度のお奉行様はずっと若い人だった。髪に白いものが混じってるけど、まだ三十前なんじゃないかしら。とにかく立派な家の人だって、名主の甚兵衛さんが言ってたわ。
で、これがいい男なのよぉ。
私はしどけなく着物を崩してみせたり、
でもお奉行様の反応はなし。私のことなんか目に入っていないみたいだった。
まるで世捨て人よ。念仏を唱えたり、日誌を書いたり、林で素振りをしたり、一体何が楽しいんだか。
村の若い男女はみんな旺盛よ? 猟銃でズガーンと熊を撃つ、あの猛々しさで、暇さえあれば裸で抱き合ってるもん。
お奉行様はあの若さなのに。もったいないなあ。目の前にこんないい女がいるってのにさあ。何で触ろうともしないかなあ。
だけどその日、夜食の御膳を下げるとき、ふいに私の名が呼ばれたの。
お奉行様は真顔で、私に話を聞いて欲しいと仰った。おお、やっとこの日が来たかって、私は浮かれ調子で正座する。
この人がここへ来て半年。ご自分のことを話して下さるのは、初めてのことだった。
私が目で促すと、お奉行様はためらいつつ、その声を絞り出す。
……私は傲慢な人間だった。
上士の家に生まれたせいか、誰もが自分に頭を下げるのを当然と思って生きてきた。
家老に抜擢されたのは二十一の時だ。
折しも領内では洪水の被害が相次ぎ、川沿いの堤防作りが急務だった。私は普請のため、有力商人から融資を募ることにした。
商人たちによる、接待の競争が始まった。
次第に私は家庭を放り出し、遊里に繰り出すようになった。小判をばらまき、複数の女を侍らすのが当たり前。民が飢えに瀕しているその時に、私はうまい物を食い、酒を呑み、絹の着物に袖を通した。自分にはそれが許される、それだけの価値があると思っていた。
ある日の夜、妻が泣いていた。子供ができないため、私の母から離縁をほのめかされたという。
私が真っ先に感じたのは、完璧だった自分の人生に汚点がつけられたということだ。つまらぬ問題に巻き込むなと妻を怒鳴りつけ、それ以上相手にしなかった。
数日後、妻は土蔵の中で首を吊った。
奇跡的に息を吹き返したが、昏睡から目覚めることはなかった。
重い年貢に苦しむ百姓たちが、強訴に及んだのはそんな時だ。それまで私と対立してきた政敵は一気に巻き返しを図り、私は主君の前で、私腹を肥やし藩政をほしいままにした不届き者と糾弾された。
家は改易となり、一族は離散。私は配流と決まった。
名家の誇り高い私の親族は、この決定に不服だった。汚名を
私自身は罪を自覚し、深く反省もしていた。その意味で、切腹もやむなしと思った。
だがふと脳裏をよぎったのは、意識のないまま生家に戻された妻のことだ。
こんな状況に至って初めて、私はやり直したいと願った。せめて残りの人生は、全力で妻を看病することに当てようと。そのためには恥を忍んで生き延びようと思った。
だが今日ここに書状が届いた。妻がついに息を引き取ったそうだ。
しからば、もうこの世に未練はない。家のため、名誉のため、潔く切腹を受け入れようと思う。
そなたに頼みたいのは、どうか私の死を縁者に伝え、遺髪を菩提寺に届けて欲しいと……
「駄目! 死なないで!」
話を途中で遮って、私は叫んだ。
抑えていた涙が怒涛のようにあふれ出す。
あなたが優しい人だって、私は知ってる。この半年、真面目なあなたを見つめてきたの。あなたの必死さを知ってるの。
確信してる。過去に誰かを傷つけたとしても、あなたは誰かを救ってもきたはずよ。
奥様のお墓参りに行きましょう。迷惑をかけた人に謝りに行きましょう。
あなたのこれからを信じたいの。自然の猛威に苦しむこの国で、あなたにはやるべきことがあるでしょう?
ほら、外の風雨が止んでるわ。
行きましょう、お奉行様。涼を運ぶ、夏の月が見えるかもしれない。