第3話

文字数 1,181文字

 母はときどき、私の部屋に入ってきた。それは、高校三年の女と大学生の男が同じ部屋にいることを心配してなのか、それとも単に私の勉強の進み具合を監視したいからなのか、よく分からなかった。
「先生、ひと休みしてくださいね」
 そう言いながら、紅茶とお菓子を運んでくる。自慢のイギリス製のティーセットは、どこかの有名なブランドのアンティークで、大切なお客さんが来たときにだけ使用するものだった。
 母はゆったりとした動作で、お茶会をするような仰々しいポットとカップを、私の勉強机に並べた。
「お紅茶、好きかしら」
 母が問うと、Tは「はい、好きです」と言ったが、毎回ほとんど飲んでいないのを私は知っている。
「数学ね。この子は、国語は小さな頃から得意なんだけど、数字に関することは、本当に苦手なんですよね」
 私とTが黙ってカップに口をつけている後で、母はしゃべり始めた。
「こんな大切な時期、大学受験前だというのにね、私たち両親が離婚したから」
 なんておしゃべりな人なんだろうと私は思う。
「この子の勉強にも影響がでるんじゃないかと心配してたんですよ。先生が来てくれて本当に良かったわ」
 確かに、両親がつくる光や影は、目を閉じていても瞼の裏でちらちらちかちかとする。でも、私は、それに影響されるほど脆くはない、と思う。
「先生みたいな息子さんがいたら、ご両親も安心ですよね。頭も良くて、それに」
 私は、しゃべり続けようとする母の口をふさぎたいと思った。
「お母さん、勉強、すぐに再開したいから」
 私の口から出た声は、いつも通りのとても優等生な落ち着いた声で、優しすぎて、自分でも気持ち悪かった。
「あら、ごめんなさいね、勉強の邪魔しちゃったわね」
 母は慌てたように言って、部屋を出ていこうとした。
「お母さんも、バレエをやっていたのですか?」
 Tが、ドアに向かう母に言った。母は驚いた顔で振り向いた。私もびっくりしてTの顔を見た。
「あ、いや、姿勢や歩き方が娘さんと同じで」
 Tが照れたような困ったような顔で告げると、母の顔に笑みが広がった。目を見開いて笑うその顔は、久しぶりに見る華やかな笑顔だった。
「昔ね、私も踊ってたの。この子より、上手だったのよ」
 母は左手を壁に添えたかと思うと、5番ポジションをとり、右足を真横に大きく蹴り上げるグランバッドマンという動きをした。ロングスカートの裾が一瞬跳ね上がり、母の太ももがあらわになった。
「お母さん!」
 私が声を張り上げると、母は肩をすくめた。そしてTに笑いかけ、部屋を出ていった。
 ゆっくりと階段を降りていく母の足音が聞こえる。私の部屋には、アールグレイとクッキーの匂いが漂っている。
「うっとうしい」
 私は、ペンを机に放り投げて言った。
 Tが私の顔を見ているのを感じる。その視線を受けとめて、
「先生も、うっとうしい」
 私は吐き捨てるように言った。
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