第3話

文字数 8,637文字

 他人の良いところを探しましょう。
 秘密を無闇に暴いてはいけません。
 そういう子供の頃に大人から教わる常識的な振る舞いやマナーは、警察官になったと同時に捨てなければならなかった。
 人を見れば泥棒と思え。
 疑わしいと直感したら職務質問しろ。
 それが警察官たる者の在り方だと冬紀は叩き込まれた。人はやましい事を隠したがる。要は疑ってかかれということだ。そうすることで、大多数の善良な市民の生命と暮らしが守られる。雑巾を汚さずに美しいフローリングは保てないし、スポンジを汚さずに茶碗は洗えない。綺麗なものを守るためには、汚れるものが必要なのだ。泥に塗れて平穏を守る。警察官とはそういうものであり、冬紀にとってそれは誇りである。

 「……おい、今、俺ぁどれくらい落ちてた?」
 「………5分程です」
 「動き無しか」
 「はい」
 張り込みが始まって丸5日。冬紀と一課の後輩である河津は車に篭って、ずっとある男の動向を見張っていた。車から降りて身体を伸ばせるのはトイレに行く時のみ。他はずっと縮こまって、息を潜めている。刑事の仕事の中でも一、二を争うキツい仕事、張り込みである。
 一週間前、署の管轄内で強姦未遂事件が起きた。塾帰りの女子高生が暗がりに引き摺り込まれた。たまたま後ろを歩いていた同じく塾帰りの男子高校生が異変に気づき、声を掛けたことで犯人が逃走。男子高校生が恐怖で泣き震える女の子を抱えるように支えて近くの交番に連れて行き、交番の巡査と話をしてくれた。そのおかげで、捜査の初動はスムーズな方だった。こういう事件は、被害者の精神的・肉体的ショックが大き過ぎて話が出来なかったり、そもそも届出をされない場合も多く、事件化しにくい。また、警察サイドの被害者への配慮が欠ける発言・態度も別の問題として取り沙汰される。それ故に現場が混乱したり、慎重になり過ぎたりして初動にまごつくことすらある。今回は女子高生を連れてきた男子高生がかなりしっかりしており、被害者を気遣いつつも覚えている限りの情報を明確に伝えてくれたことが大きかった。
 彼が犯人の顔や背格好をぼんやりと覚えていたので、似顔絵を作成した。その人相が、最近出所した前科者に似ていることから、その男の再犯も視野に入れて捜査することになった。冬紀は再犯を裏付けるための張り込み班に回された。
 張り込み中は一切気が抜けない。ペアと交代で仮眠は取れるが、車の中ではろくに疲れなど取れないし、何より気が立って眠れない。冬紀はぼうぼうに伸びた髭と、いい加減臭くなってきた頭を掻きむしり、疲労と寝不足で落ち窪んだようになっている目を無理やりこじ開けた。隣で今度は河津が落ちている。彼も冬紀と同じ状態なので、少しだけでも休ませてやろうとそっとしておいた。犯行時刻は22時前後だった。現在21時だが、部屋から出てくる様子は全く無い。恐らく、今晩も動きはない。
 しばらくすると、冬紀たちの車の窓がコツコツと叩かれた。やっと、交代である。
 交代で来たのは蒔田と安藤という若いペアだ。蒔田と河津は同期で、安藤はその一年後輩にあたる。3人は仲が良く、よく飲みに行っているようで、交代もスムーズに進んだ。
 5日ぶりに張り込みから解放された冬紀と河津は、取り敢えず署の近くの銭湯で垢を落とし、伸び放題の髭を剃った。署のシャワールームを使っても良いが、今は広々とした風呂に入りたかった。
 さっぱりして署に戻り、報告書の作成に入ろうと席に着いたそのとき、冬紀の携帯が鳴った。今回、体力的に無理と言って張り込み班から外れ、新犯人の捜査班に入っているそもそもの冬紀のペア、浅野からの着信だ。
 「浅野さん、そっち、動きありました?」
 電話に出るなり冬紀から切り出した。こんな時間にかけてくるということは、何か重大な動きがあったのかも知れないと期待した。新たな犯人説が確実になったなら、張り込みから解放される。
 「お前、もしもしくらい言いなさいよ〜」
 浅野はいつもののらりくらりとした調子で答えた。どうやら期待は外れたようだ。
 「ちょっとさ、さっき署で生活安全課のお友達から聞いたんだけどさぁ」
 まさか今、世間話に付き合わされるのかと冬紀は身構えた。だとしたらもう電話を切りたい。
 しかし続く話に、冬紀は思わず椅子から勢いよく立ち上がり、報告書の作成を河津に丸投げして署を飛び出すことになった。
 「結城ちゃんがトラブったらしい」

 冬紀は署の前の通りで急ぎタクシーを拾い、近くの病院に向かった。
 浅野のお友達の話によると、女性宅で男同士の乱闘事件があった。男がもう一人の男を一方的に殴りつけ、酷い怪我を負わせたとのことで、痴情のもつれとして話を聞いてみたら、被害者の男が家事代行業者を自称。とどのつまり家政夫を間男と勘違いした男の傷害事件だったということだ。「男の家政夫って珍しいな」と浅野に世間話を振ってきたらしい。そこでピンときた浅野が春彦に電話をしたところ、病院で手当てを受けていることがわかった。
 いつ浅野が春彦の電話番号を知ったのかとか、その事件はどう処理されたのかとか、聞きたいことは山ほどあった。しかし冬紀は何故か頭の中がそれどころではなく、とにかく「酷い怪我」がどの程度のものなのか、春彦は大丈夫なのかということでいっぱいになり、その気持ちのまま飛び出した。
 張り込みの疲れなど、頭からも身体からもすっかり抜けていた。

 病院の急患受付で春彦の居場所を聞いた。恐らく通常はそう簡単には教えてもらえないだろうが、冬紀は警察手帳を持っていて良かったと心から思った。
 処置室の扉を開けると、ガーゼに覆われていても分かるくらい顔の左半分が腫れ上がり、右肩から肘にかけて包帯をぐるぐる巻きにし、右足もテーピングでガチガチに固められた春彦が座っていた。その痛々しい姿に、冬紀は胃の辺りから血が下がっていくような感覚を覚えた。
 「あ、冬紀さん…」
 春彦が冬紀の顔を見て驚いている。
 「本当に来られたんですね。浅野さんからさっき、冬紀さんがこっちに向かってるって電話があって」
 「何があった」
 浅野からの電話なんて冬紀にはどうでも良かった。それよりも早く、どうしてこんなことになったのかが知りたい。自然、口調がキツくなる。
 「いえ、大したことでは…」
 言いかけた春彦の前に、冬紀はグッと距離を詰めた。まるで熊に詰め寄られたような圧迫感がある。
 「こんな怪我だらけになって、大したことない訳ないだろう。いいから何があったか説明しろ」
 張り込みで体力が削られていたこともあり、冬紀は余裕が無かった。口調はほとんど取り調べである。春彦は戸惑いながら答えた。
 「あ……その………、今日はスポットの仕事が入ってて、夜のお仕事をされてる女性の部屋の片付けに行ったんです。で、21時頃、仕事を終えて部屋を出ようとしたのですが、ちょうどその女性の彼氏さんが部屋に入ってきまして……」
 「…浮気相手と勘違いされて、殴られたのか」
 春彦がヘラりと笑って、はい、と答える。冬紀は腑が沸騰しそうな感覚を覚えた。しかし怪我をしてなお、弱々しくも冬紀を安心させようと笑う春彦の痛々しさにグッと堪え、息を深く吐き出した。
 「抵抗、しなかったのか」
 力無く冬紀が尋ねる。
 「いえ、事情を説明すべく、名札を見せたりはしたんです。だから殴られたのも出会い頭の顔の一発で、あとは私が吹っ飛んだので、はずみで脚を捻挫して、割れた食器で肩を切っただけです」
 殴られたのは一発だけと春彦は強調したが、冬紀にとってそれはどうでも良いことだった。ただ、クライアントの希望通り仕事をしただけなのに、理不尽な暴力に晒されたことが許せない。なぜ殴る前に話を聞かないのか、加害者の短絡さに、どうしようもなく怒りが込み上げてくる。刑事として事件に向き合う度に思うことだ。なぜ、暴力という愚かな方法でしかコミュニケーションを取ろうとしない人間がこの世に居るのか。そんな連中のせいで、毎日のように多くの善良な、力の弱い者が痛い目を見ている。やるせない気持ちに、冬紀は頭を抱えた。一方で、刑事としての義憤以外の、もっと個人的な、正体不明の感情が爆発しそうなことにも気づいていた。が、とにかく、怪我は派手だが春彦は大丈夫そうだということが分かってひとまずホッとした。
 「取り調べは終わったのか?」
 「はい、事情も全部分かってもらえましたし、あとは会社とのやり取りにしていただきました」
 全部終わっているなら、春彦がそれで納得しているなら、もうそれで良いと冬紀は思った。本当は加害者側に自分も何か言ってやりたいが、所属が違う。あとは生活安全課の担当者に任せるしかない。
 「家まで送ってくよ」
 せめて春彦を安全な、安心できる場所まで送ってやろうと思った。しかし。
 「えっと…事務所に行くので…」
 そう遠慮がちに言われ、冬紀はおや、と思った。
 「なんだ、まだ何か、後始末でもあるのか。待っててやるよ、さっさと済ませて来い」
 歩き出しながら言う。
 「いえ、見送りは大丈夫です」
「はぁ?何でだよ。そもそも、こんな時間に事務所に何の用だ」
 段々と口調が荒くなってしまいそうなのをグッと堪えるが、どうしても普段のガサツさが出てしまう。そして、春彦の次の言葉に冬紀の感情は爆発した。
 「今日は、事務所に泊まるので」
 冬紀は信じられないと思った。こんな日に、何で事務所に泊まるのか。まさか、当直のような仕事でもあるのか。勘違いされて殴られ怪我をした日に、当直しなきゃならないような会社なのか、アットスウィートホームという会社は。
 波のように押し寄せる憤りを、冬紀は理性を防波堤にして辛うじて堰き止めている。その青くなったような赤くなったような、怒りだか何だかに震える冬紀を見て、春彦はもうこれ以上隠せないとばかりに観念して言った。
 「その、実は……私は普段、友人の家を転々として暮らしてまして……今日は友人が出張だの彼女が来るだのでどこもダメなので…事務所で寝ようかと」
 それを聞いて冬紀は遂に叫ぶようにして聞いた。
 「はぁ!?じゃ、何か、お前、じ、住所、不定ってことか!?」
今にも暴れ出しそうな冬紀を落ち着かせようと、春彦が咄嗟に立ち上がる。捻挫した足がズキズキと痛んだ。しかし、春彦が何か言う前に看護師がバタバタと部屋にやってきた。
 「病院ですよ!お静かに!」
 ピシャリと言われて、冬紀も押し黙る。しかし、身体はワナワナと震えている。
 春彦はおずおずと、冬紀に向き直った。
 「すみません。住所は、無いです。なので……もし、お嫌でしたら、冬紀さんのお部屋は、今後別の者が担当するように手配いたします」
 そう言われ、冬紀はなぜそんな話になるのかとか、そんなことより今晩はどうするんだとか、いろいろな事が頭を駆け巡ったが、ついに自分の思考力が限界に達したことを悟った。もう、喋る気力もない。
 春彦の腕をぐいと掴み、捻挫している足を庇うように支えて歩き出した。とにかく、もうこうする他ないと腹を決めて、春彦を病院から連れ出し、待たせていたタクシーに放り込んだ。

 困惑しながらも黙って連れてこられた春彦は、絶句して立ち尽くしている。
 冬紀の部屋で。正確には、寝室で。
 春彦にとっては職場でありよく知っている場所だが、困惑で身体が硬直している。
 「俺はもう限界だ。眠い。とにかく寝る。細かいことは明日だ。お前も今日は寝ろ。俺の着替え、何でも勝手に着て良いから」
 そう言って自分は乱暴にスーツを脱ぎ捨て、パンツ一丁で布団に入った。寝巻きに着替えることすら億劫らしい。
 冬紀のベッドは一人暮らしにしては大きい。身体が大きいからそうしたのだろうが、クイーンサイズである。決して広くない部屋なので、寝室として使っている部屋はそのベッドしか置けない。ベッドの奥の方を陣取って、冬紀は横になった。半分は、春彦のために空けている。体ごと壁側を向いて目を閉じた。
 しばらくして、春彦がおずおずと動き出したのがわかった。こんな時にまで家政夫が染み付いているのか、冬紀が脱ぎ捨てたスーツを丁寧にハンガーに掛けている気配がする。そしてタンスから服を取り出し、着替えた。怪我が痛むのか、一つ一つの動作はゆっくりだったが、冬紀はそれらの気配を最後まで背中で探った。春彦が今晩ここに泊まることに了承したことを悟ると、そのまま落ちるように眠った。

 冬紀は夜中に一度、目が覚めた。家に帰ってきてはいるが、事件はまだ片付いていない。こうしている間も、先日暗がりに引き摺り込まれた女子高生は恐怖で眠れない夜を過ごしているだろうし、まだ捕まっていない犯人は虎視眈々と次の犯行の計画を立てているかも知れない。そう思うと、眠りが浅くなる。
 寝返りを打つと、春彦の横顔が見えた。隣で寝てくれたことに安堵する。
 暴力事件の被害者は、体の傷もさることながら、心の傷を抱えてしまう。暗い場所を怖がったり、特定の色や物に拒絶反応を示したり、普通の生活ができなくなることさえある。もしかしたらそんな状態にあるかもしれない、しかも寝床がないなどと言う春彦を、たった一人で放り出すことなど冬紀にはできなかった。せめて手足を伸ばせる、暖かい場所で寝て欲しいと思い連れてきた。しかし、連れてきた時の凍りついた春彦の表情に、不安になった。よく考えたら、こんな歳の離れたおっさんと同じベッドで寝るなんて、嫌だったかもしれない。冬紀は仕事柄、男同士でぎゅうぎゅうに狭いところで寝たり、何日も窓も開けない車の中で過ごすことに慣れているため、春彦のような普通の男性からすると距離感がおかしいのかも知れないと思った。
 仰向けに眠る春彦の寝顔は、右半分しか見えない。ガーゼや包帯で手当てされている左半分が見えない分、冬紀には安らかな寝顔に見えた。幼ささえ感じるほど、傷ひとつない綺麗な横顔に、冬紀は胸の奥が疼いた。もし弟がいたら、こんな感じだろうかと思った。
 しかしその甘い疼きとは裏腹に、自分の中に燃え上がるような憤りがあることにも気づいた。
 いつも奪われ、危険に晒され、苦しみを強いられるのは弱者であり、被害者だ。加害行為をしたものは、社会背景や経済的な状況、育った環境、あらゆるものを用いて自己弁護できる。同情してもらえることさえある。被害者と加害者は、あまりにもアンフェアだ。
 被害者の女子高生も、犯人を捕まえなければ安心して眠れる夜は来ない。
 一日も早く、これまで通りの平和な眠りを彼女に取り戻させたい。
 一日も長く、春彦の、善良な市民の安らかな眠りを守りたい。
 冬紀は改めて、自らが警察官になった理由を思い出した。多くの市民の平穏な暮らしを守りたい。父がそうしているように、守る人になろうと、警察官になった日に心に決めた。その時の気持ちが今も刻み込まれていることを、改めて確認した。
 気がつくと、冬紀は春彦に手を伸ばしていた。理由が分からないが、その頬に触れたくなったのだ。理性が警鐘を鳴らしてくれたおかげで、触れる手前で踏み止まれた。いくら何でも、寝ている時におっさんに顔を触られて良いわけがない。冬紀は自分の中にある言葉にできない感情に困惑した。困惑しながらも、未練がましく春彦の白い頬を見つめている事に気づき、目を逸らした。布団からはみ出た肩が寒そうだと思った。そっと掛け布団を引き寄せ、春彦の体を包み込むように掛けてやる。
 春彦の胸が、呼吸に合わせて上下に揺れている。その柔らかいリズムに、冬紀は誘われるようにまた少し眠った。

 朝、目を覚ますと、隣に春彦の姿は無く、代わりにダイニングから朝食の匂いがした。味噌汁とご飯に焼き鮭と卵焼き、きゅうりが添えられている。
 準備をしている春彦の背中を、しばらく冬紀はぼーっと眺めた。
 やがて春彦が視線に気づいた。顔の左半分はガーゼで覆われているが、まだ腫れているのが分かる。それでも春彦は、右半分だけ微笑んでみせた。
 「おはようございます。昨日は、ありがとうございました。おかげさまで、ぐっすり眠れました」
 「……そうか」
 春彦とは対照的に、冬紀は夜中の奇行と怪我人に家事をさせていることへの罪悪感から、仏頂面でそう答えるのがやっとだった。
 「怪我、痛いだろ。朝飯なんて良かったのに」
 「冬紀さん、顔色があまり良くありません。最近帰って来られてなかったみたいですし、あまり寝ていないでしょ?せめてご飯をしっかり食べて下さい」
 箸と箸置きを並べる春彦の足取りはおぼつかない。テーピングで固めているとはいえ、捻挫した右足が痛むのだろう。歩くリズムが乱れているし、ヨロヨロしている。そして右肩を庇っているせいで、動きにくそうである。
 冬紀はせっかく用意してくれたのだからと久しぶりに食べる春彦の手料理にがっついた。睡眠もさることながら、やはり温かいご飯を食べることが何より回復につながる。春彦に一緒に食べないのかと言ったが、固辞されてしまった。冬紀はそれがたまらなく不満だったが、食欲が無いと言われれば何も言えなかった。
 朝食の後、春彦が準備を整えてくれたパリッとしたワイシャツとスーツに着替えた。
 「そうだ、春彦くん、俺はまたしばらく帰れないと思う。だから…」
 そこまで口にして、冬紀は言い淀んだ。言って良いものか逡巡した。春彦はキョトンとした顔で次の言葉を待っている。適当にぶら下げているネクタイを取り、丸めてポケットに入れる。
 「あー、なんだ。その、ここを好きに使って良いから」
 「え、それは、どういう…」
「だから……怪我もあるし、捻挫してんだ。移動すんのも大変だろ。だから…ここで休んでて良いって」
 そこまで聞いて、今度は春彦が慌てた。
 「そんなことは出来ません!ただでさえ、お客様の家に一泊しただけでも恐縮なのに」
 「いや、そんな深く考えないでくれ。ただ、俺が留守にするから、適当にここ使っていいってだけで」
 「それでも!お客様のお家を私が使うなんて…それでは、家政夫ではなくなってしまいます」
 こんな怪我をしている時でも家政夫であろうとする春彦の仕事へのプライドも、冬紀は理解できた。だが同時に、自分も警察官として、人として、怪我人を放り出すような真似は出来ない。そこで口をついて出てきたのが
 「じゃあ、今は俺の家政夫じゃないってことにしよう」
という答えだった。
 「怪我が治るまで、君は俺の担当から外れてもらう。他の人に来てもらうよう連絡するから、君はここでしばらく療養すること。いいな?」
 「冬紀さんの家政夫でなければ、ここにいる理由がありません」
「だから!ここに住んでる俺が、ここに居て良いって言ってんだからそれで良いだろ!お前は怪我人なんだぞ!」
 あまりにも頑なな春彦の態度に、つい冬紀は声を荒げてしまった。それでも食ってかかろうとする春彦に、冬紀は言葉を継いだ。
 「会社には俺から連絡を入れる。他の人に来てもらって、部屋のこともだが…春彦くんの様子も報告してもらうからな。飯を食え。しっかり休め。怪我が治るまで君がここから出ないよう、新しい担当者に言っておく」
 言ってそのまま逃げるように玄関に向かった。有無を言わせぬ勢いだった。春彦はついに言葉が出てこず、黙っていた。玄関で靴を履きながらチラリと春彦の顔を盗み見て、冬紀はふと思いついて言った。
 「押し入れの引き出し、二段目の奥に、俺が昔使ってた灰皿がある。吸うならあれ使え」
 「え、なんで吸うって…」
 弾かれたように顔を上げた春彦の表情からは、驚きと、なぜか恐怖のようなものを感じ取れたが、冬紀にはその意味が分からなかった。春彦と初めて会った時から、喫煙者であることは知っていた。
 「…俺も元喫煙者だ。匂いで分かる。部屋で吸っても構わないから、とにかく身体を休めてくれ」
 それだけ告げて、部屋を出た。押し切れたかどうか分からないが、これでしばらく春彦の居場所があることにほっとした。それが自分の部屋ということにも、謎の満足感があった。何に対してこんなに満ち足りた気持ちになっているのか、冬紀にははかりかねた。
 ともあれ、署に向かいながらアットスウィートホームに電話をする。電話に出た立花に春彦の状況を伝え、別のスタッフを部屋にまわしてもらうように言った。
 今日すぐに向かわせると言われ、安堵した。立花はスタッフを客の家に泊らせることに表向き恐縮していたが、春彦に家が無いことも承知しているのか、割とすぐに「よろしくお願いします」と言ってきた。彼の生き方暮らし方には、彼女も気を揉んでいたのかもしれない。幼馴染と言っていたし、春彦のことはよく知っているだろう。
 立花は冬紀の知らない春彦のことをたくさん知っている。そんな当然のことを思うと、先ほどまでの満足感が薄らいでいくような気分になった。焦りとも苛立ちとも違う、不穏な何かが腹に渦巻く。このモヤモヤした気持ちが何なのか。やはり冬紀には分からない。兎にも角にも、今は春彦が冬紀の部屋にいる。そして、春彦のような善良な人を守るために仕事に向かっている。その事実だけに集中し、一刻も早く今抱えている事件を終わらせたいと、冬紀は足を力強く踏み出した。
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