第2.5話
文字数 3,217文字
「最近、機嫌が良さそうね」
冬紀の家の業務を終えて事務所に戻り、報告書の作成をしていると、立花菜月が話しかけてきた。彼女は春彦にとっては幼馴染、そして良き同僚だ。家事代行業の立ち上げメンバーでもある。
「そうか?別に、そんな風には思ってなかったけど」
手を止めて菜月の方を見ると、何か面白いものを見ているようにニヤニヤしている。表情から察するに、あらぬ誤解をしているらしい。
「お前が考えてるようなことは一切ないよ」
「あら、まだ何も言ってないけど?」
「顔見りゃわかる」
菜月はまだニヤついている。春彦はムッとした。
幼馴染の気安さで、事務所の立ち上げメンバーと話す時の春彦は、随分砕けた口調になる。全員の中で最年少であり、子供の頃は世話をしてくれたということもあり、どこか兄弟のような感覚がある。家族のように打ち解けているからこそ、春彦は菜月の下世話なニヤつきに反抗したくなり、その気持ちをありのまま表現できる。冬紀や他の客相手にはそうはいかない。もちろん、これから行くバーで引っ掛ける、今夜のお相手にもだ。
「吉野さんはその後どう?インフルエンザ、治ったんでしょ?体力はもう回復した?」
そう言われて、春彦は体調不良の電話を受けたのは菜月だったと思い出した。彼女なりに気にかけてはいるらしい。
「あぁ、もう全然。さすがにあれだけ丈夫そうな身体を持ってるだけあるな。みるみる回復して、むしろ休みが取れたおかげでインフルエンザ前より元気だ」
実際、冬紀の食事量が若干増えている。そして今日も一段と顔色が良かった。出会った頃は、身体こそ春彦のひと回り以上大きいが、肌が乾燥し、目の辺りが暗く、血色が悪いせいか唇の色も悪かった。恐らく慢性的な寝不足だったのだろう。
冬紀と初めて会った時のことを思い出す。菜月がいると思っていた部屋に春彦がいたから、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。慌てて表札を確認して、おずおずと部屋に戻ってきた時の表情なんて、拾われてきた犬みたいで爆笑ものだった。
思い出し笑いを噛み殺している春彦の顔を見て、菜月は安堵した。彼女は春彦の暗い思い出を知っている。春彦のことを弟のように心配していた。だが今の様子なら、また立ち直ることができるだろうと思った。
報告書を作り終わった春彦は事務所を出て、いつものバーに向かった。いつもの、とは言え常連と言えるほど通っている場所は3つある。今日はその中でも特に落ち着いたバーに行くことにした。しっとりとした雰囲気が気に入っているし、そこで釣れる男もなかなか良い。ゆったりとした夜を過ごしたい時にはここのバーが一番だと思う。
カウンターに座ると、顔馴染みではあるが程よく放っておいてくれるバーテンダーが注文を聞きながら灰皿を寄越した。モヒートを注文して、まずは一服とタバコに火をつける。ヤニの苦味が、1日の疲れをゆっくりと身体から剥がしてくれる。
モヒートをこちらに差し出しながら、バーテンダーが言った。
「あちらのお客様が、ご一緒にどうかとおっしゃってますが…」
グラスに口を付けつつ、さりげなく「あちらのお客様」を見ると、メガネをかけたインテリ風の男がこちらをチラチラと見ている。スラリとした印象で清潔感があり、顔も好みだ。しかしどういうわけか、春彦はそんな気分になれなかった。
春彦は基本的には来るものを拒まないし、その男はストライクと言わずとも遠くはない。いつもなら迷うことなく誘いに乗るが、今日は何となく気が乗らない。
いつもならチラつくはずもない顔が、ふと脳裏に浮かんだ。同時に菜月の冷やかすような目も思い出す。春彦は頭の中で菜月に違う違うと言い訳しつつも、脳裏に浮かんだ男の顔が離れなかった。濡れたタオルで首筋に触れた時、恥ずかしそうに首をすくめたその男に抱いた感情の名前を、春彦は知っている。だが、それを認めてはならない。その男は春彦にとって、ただの家事代行のクライアントだ。そしてこれは通常、クライアントに持つ感情ではない。春彦は咄嗟に、自分の気持ちに蓋をした。気づかなければ、認めなければ、それは最初から無いものと同じだ。
しかし、否定した後訪れるある種の虚無感は誤魔化せない。クライアントのスウィートホームを守る、それが春彦の役割である。では春彦自身の安息の地はどこにあるのか。幾度となく自問してきたことが、また頭を掠める。
「俺の安息の地は、俺が決めれば良いことだ」
腹の中でそう自分に言い聞かせて、返事を待っているバーテンダーに目配せした。
その時ーーー
「悪いねぇ。その兄ちゃん、先約があるのよ」
背後から男が突然現れて、春彦の隣に座る。全く気配を感じなかった。
ふてぶてしい猫背、先日掛けてやった覚えのある草臥れたコート、そして人を食ったような喋り方。その男は、先ほどまで春彦の思考を奪った男の、上司。
ここで会いたくない、会ってはいけない男。
「あ、浅野…さん」
目を皿のようにして驚く春彦を横目に、浅野はスコッチを注文した。バーテンダーは突然横入りして来た男にどう対応すべきかを、ほんの一瞬考えた。しかし、春彦が男の名前を口走っていることから、男を客の知り合いと判断し、「かしこまりました」と酒の準備を始めた。
浅野は美味しそうにタバコを吸い、満足気に煙を吐き出した。
「やっぱ、喫煙室で吸うより、こういうとこでしっかり吸う方がタバコは美味いよねぇ」
何でもないように話しかけてくるが、春彦の頭は混乱するばかりだ。
「あんた…こっちの人間、だったのか?」
あまりの驚きに、頭に浮かんだ言葉がそのまま口に出てしまう。咄嗟にいつもの営業用の自分に取り繕えなかった。その様子に嬉しそうな浅野は、また煙を吐き出しながら言った。
「ふぅん。結城ちゃん、普段はそんなキャラなんだ」
春彦の背中に、冷たい汗が流れる。この男は、春彦の本質に気付いている。そう直感した。いつから、どうやって知ったのかはわからない。だが確実に、春彦の「クライアントに最も知られたくないこと」を知っている。細心の注意を払わねば、クライアントを一人失うことになる。
「浅野、さんは、その……どうして、ここに?」
慎重に尋ねた。
「ん〜?そりゃ結城ちゃんに会いにでしょ」
「つまり、”相手”を探しに来たのか?」
言葉を選ぶ。頭の中で行う作業だが、春彦は地雷原を歩いているような気分だった。
しかし、浅野はそんな春彦のことなど意に介さず、ヘラヘラ笑っている。
注文したスコッチが出された。目の端で、先ほどのインテリ風の男が悔しそうにこちらを見ているのが感じられる。
浅野がスコッチを舐めるように口にして、美味いなこりゃ、と呟いた。たっぷりと時間をかけて焦らされているような感覚に、春彦は段々と苛立ちが芽生えてきた。
「なんで俺がここにいることを知ってる?」
警戒心をむき出しにして春彦は質問を継いだ。こちらの緊張感そっちのけで、浅野は呑気に答えた。
「いやぁ、俺はこう見えて愛する妻子がいるのよ。結城ちゃんは、たまたま、ね。見かけちゃったから」
核心には触れてこない答えに、春彦の鼓動が早まる。このバーは、春彦と同じ種類の人間が、”相手”を探しにやって来る場所だ。その事を分かっているのか。
「だからさ、そう警戒しないでよ。ちょっくらおじさんとお話しして。出来れば、協力してくれれば良いからさ」
「協力」という言葉がいやに引っかかる。本能的にNOを突きつけこの場から逃げたくなったが、得体の知れない相手に足がすくんでいるのか、それとも知られた秘密の暴露が怖いのか、春彦の身体は硬直して動けない。
「場所、変えようか」
口元はニヤついているが、目の奥が笑っていない。そんな浅野の目に射竦められ、春彦の吐息が震えた。冬紀の家で感じた陽気さが、今の浅野からは全く感じられなかった。
冬紀の家の業務を終えて事務所に戻り、報告書の作成をしていると、立花菜月が話しかけてきた。彼女は春彦にとっては幼馴染、そして良き同僚だ。家事代行業の立ち上げメンバーでもある。
「そうか?別に、そんな風には思ってなかったけど」
手を止めて菜月の方を見ると、何か面白いものを見ているようにニヤニヤしている。表情から察するに、あらぬ誤解をしているらしい。
「お前が考えてるようなことは一切ないよ」
「あら、まだ何も言ってないけど?」
「顔見りゃわかる」
菜月はまだニヤついている。春彦はムッとした。
幼馴染の気安さで、事務所の立ち上げメンバーと話す時の春彦は、随分砕けた口調になる。全員の中で最年少であり、子供の頃は世話をしてくれたということもあり、どこか兄弟のような感覚がある。家族のように打ち解けているからこそ、春彦は菜月の下世話なニヤつきに反抗したくなり、その気持ちをありのまま表現できる。冬紀や他の客相手にはそうはいかない。もちろん、これから行くバーで引っ掛ける、今夜のお相手にもだ。
「吉野さんはその後どう?インフルエンザ、治ったんでしょ?体力はもう回復した?」
そう言われて、春彦は体調不良の電話を受けたのは菜月だったと思い出した。彼女なりに気にかけてはいるらしい。
「あぁ、もう全然。さすがにあれだけ丈夫そうな身体を持ってるだけあるな。みるみる回復して、むしろ休みが取れたおかげでインフルエンザ前より元気だ」
実際、冬紀の食事量が若干増えている。そして今日も一段と顔色が良かった。出会った頃は、身体こそ春彦のひと回り以上大きいが、肌が乾燥し、目の辺りが暗く、血色が悪いせいか唇の色も悪かった。恐らく慢性的な寝不足だったのだろう。
冬紀と初めて会った時のことを思い出す。菜月がいると思っていた部屋に春彦がいたから、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。慌てて表札を確認して、おずおずと部屋に戻ってきた時の表情なんて、拾われてきた犬みたいで爆笑ものだった。
思い出し笑いを噛み殺している春彦の顔を見て、菜月は安堵した。彼女は春彦の暗い思い出を知っている。春彦のことを弟のように心配していた。だが今の様子なら、また立ち直ることができるだろうと思った。
報告書を作り終わった春彦は事務所を出て、いつものバーに向かった。いつもの、とは言え常連と言えるほど通っている場所は3つある。今日はその中でも特に落ち着いたバーに行くことにした。しっとりとした雰囲気が気に入っているし、そこで釣れる男もなかなか良い。ゆったりとした夜を過ごしたい時にはここのバーが一番だと思う。
カウンターに座ると、顔馴染みではあるが程よく放っておいてくれるバーテンダーが注文を聞きながら灰皿を寄越した。モヒートを注文して、まずは一服とタバコに火をつける。ヤニの苦味が、1日の疲れをゆっくりと身体から剥がしてくれる。
モヒートをこちらに差し出しながら、バーテンダーが言った。
「あちらのお客様が、ご一緒にどうかとおっしゃってますが…」
グラスに口を付けつつ、さりげなく「あちらのお客様」を見ると、メガネをかけたインテリ風の男がこちらをチラチラと見ている。スラリとした印象で清潔感があり、顔も好みだ。しかしどういうわけか、春彦はそんな気分になれなかった。
春彦は基本的には来るものを拒まないし、その男はストライクと言わずとも遠くはない。いつもなら迷うことなく誘いに乗るが、今日は何となく気が乗らない。
いつもならチラつくはずもない顔が、ふと脳裏に浮かんだ。同時に菜月の冷やかすような目も思い出す。春彦は頭の中で菜月に違う違うと言い訳しつつも、脳裏に浮かんだ男の顔が離れなかった。濡れたタオルで首筋に触れた時、恥ずかしそうに首をすくめたその男に抱いた感情の名前を、春彦は知っている。だが、それを認めてはならない。その男は春彦にとって、ただの家事代行のクライアントだ。そしてこれは通常、クライアントに持つ感情ではない。春彦は咄嗟に、自分の気持ちに蓋をした。気づかなければ、認めなければ、それは最初から無いものと同じだ。
しかし、否定した後訪れるある種の虚無感は誤魔化せない。クライアントのスウィートホームを守る、それが春彦の役割である。では春彦自身の安息の地はどこにあるのか。幾度となく自問してきたことが、また頭を掠める。
「俺の安息の地は、俺が決めれば良いことだ」
腹の中でそう自分に言い聞かせて、返事を待っているバーテンダーに目配せした。
その時ーーー
「悪いねぇ。その兄ちゃん、先約があるのよ」
背後から男が突然現れて、春彦の隣に座る。全く気配を感じなかった。
ふてぶてしい猫背、先日掛けてやった覚えのある草臥れたコート、そして人を食ったような喋り方。その男は、先ほどまで春彦の思考を奪った男の、上司。
ここで会いたくない、会ってはいけない男。
「あ、浅野…さん」
目を皿のようにして驚く春彦を横目に、浅野はスコッチを注文した。バーテンダーは突然横入りして来た男にどう対応すべきかを、ほんの一瞬考えた。しかし、春彦が男の名前を口走っていることから、男を客の知り合いと判断し、「かしこまりました」と酒の準備を始めた。
浅野は美味しそうにタバコを吸い、満足気に煙を吐き出した。
「やっぱ、喫煙室で吸うより、こういうとこでしっかり吸う方がタバコは美味いよねぇ」
何でもないように話しかけてくるが、春彦の頭は混乱するばかりだ。
「あんた…こっちの人間、だったのか?」
あまりの驚きに、頭に浮かんだ言葉がそのまま口に出てしまう。咄嗟にいつもの営業用の自分に取り繕えなかった。その様子に嬉しそうな浅野は、また煙を吐き出しながら言った。
「ふぅん。結城ちゃん、普段はそんなキャラなんだ」
春彦の背中に、冷たい汗が流れる。この男は、春彦の本質に気付いている。そう直感した。いつから、どうやって知ったのかはわからない。だが確実に、春彦の「クライアントに最も知られたくないこと」を知っている。細心の注意を払わねば、クライアントを一人失うことになる。
「浅野、さんは、その……どうして、ここに?」
慎重に尋ねた。
「ん〜?そりゃ結城ちゃんに会いにでしょ」
「つまり、”相手”を探しに来たのか?」
言葉を選ぶ。頭の中で行う作業だが、春彦は地雷原を歩いているような気分だった。
しかし、浅野はそんな春彦のことなど意に介さず、ヘラヘラ笑っている。
注文したスコッチが出された。目の端で、先ほどのインテリ風の男が悔しそうにこちらを見ているのが感じられる。
浅野がスコッチを舐めるように口にして、美味いなこりゃ、と呟いた。たっぷりと時間をかけて焦らされているような感覚に、春彦は段々と苛立ちが芽生えてきた。
「なんで俺がここにいることを知ってる?」
警戒心をむき出しにして春彦は質問を継いだ。こちらの緊張感そっちのけで、浅野は呑気に答えた。
「いやぁ、俺はこう見えて愛する妻子がいるのよ。結城ちゃんは、たまたま、ね。見かけちゃったから」
核心には触れてこない答えに、春彦の鼓動が早まる。このバーは、春彦と同じ種類の人間が、”相手”を探しにやって来る場所だ。その事を分かっているのか。
「だからさ、そう警戒しないでよ。ちょっくらおじさんとお話しして。出来れば、協力してくれれば良いからさ」
「協力」という言葉がいやに引っかかる。本能的にNOを突きつけこの場から逃げたくなったが、得体の知れない相手に足がすくんでいるのか、それとも知られた秘密の暴露が怖いのか、春彦の身体は硬直して動けない。
「場所、変えようか」
口元はニヤついているが、目の奥が笑っていない。そんな浅野の目に射竦められ、春彦の吐息が震えた。冬紀の家で感じた陽気さが、今の浅野からは全く感じられなかった。