第1話

文字数 1,909文字

 深い山の奥に、年老いた母サルがいました。
 年老いた母ザルは、熟れてやわらかくなったカキの実を食べていました。ひとりで、ゆっくりと、甘いカキを味わいます。
 子どもを育てていた頃は、ゆっくり食べることなどできませんでした。お腹を空かせた子ザルは、食べても食べてもまだ、いくらでも欲しがります。母ザルは木の実や小さな虫や、美味しいものはみんな子ザルにやり、自分は木の皮で飢えをしのぎました。
 そうして育てた子ザルたちはみな、すくすくと育ち、大人サルとなって巣立っていきました。息子サルも娘サルも今ではそれぞれ立派な親サルとなって、元気で暮しています。
 最後に巣立った娘サルは、近くの山にねぐらを移したあとも、ときどき年老いた母ザルを訪ねてきます。昔は身体も小さく細くたよりなかった娘サルは、会う度に、つやつやと毛並みもよく、身体も大きく立派になりました。自信にあふれて背筋をそらした娘サルを、母ザルはまぶしく、誇らしく思っていました。
 ふと、年老いた母サルは、腹のあたりがかゆくなり、手でかきました。
 ばりばりと毛が抜け飛んでいきます。腹の皮をひっぱってみました。たわんでゆるんだ皮が、だらりとたれさがっています。
「わしも、年を取るはずだ」
 思わず、つぶやきがこぼれます。
 子どもらがのびのびと大きくなったぶん、母ザルは背中がまがり、やせて小さくなりました。
 甘くてやわらかいカキを食べるようになったのも、年をとってからです。昔は固い、しゃりしゃりしたカキが好きだったのですが、歯が悪くなって、食べられなくなったのです。
「やわらかいカキもうまい」
 ヘタを残して、綺麗にたいらげました。
 もうひとつ取ろうと、手を伸ばした瞬間、年老いた母ザルは、「痛た……」としゃがみこんでしまいました。
 そっと手を動かしてみます。肩より上に上げると、ズキッと痛みます。
「こりゃあ、年寄り肩っていうやつだなあ」
 昔、母ザルのそのまた母ザルがそう言っていたのを思い出しました。年を取ると、みんな手が上がらなくなるのだそうです。
「しかたねえなあ」
 そういう年になったのです。
「そろそろねぐらに帰るか」
 母ザルは、あたりを見回して、目をしょぼしょぼさせました。もう、お日様が西に傾いています。このごろは、夕方暗くなると、目がよく見えなくなるのです。
「これも、年寄り目っていうやつだなあ」
 近くでえさを探していた他のサル達はほかのえさばに行ったのか、それとも先にねぐらに帰ってしまったのか、もうだれもいません。いつのまに、いなくなったのか気付きませんでした。若い頃は、みんなが話す声や、風の音、木の葉のそよぐ音もくっきりとよく聞こえたのですが。
「耳もよく聞こえなくなったなあ」
 これも、年寄り耳というやつなのでしょう。
 年老いた母ザルは、よっこらしょと勢いをつけて、歩き出しました。
 ゆっくりと、足をふみしめながら歩きます。もう若い頃のようには、速くは走れません。
 やせて小さくなり、歯が抜け、目が見えなくなり、耳も聞こえなくなり、腕も上がらなくなり、やがて動けなくなって、死ぬのでしょう。
 その日まで、ゆっくり、一歩ずつ歩きます。
 もう無理する必要もありません。
 お日様が西の山に沈んでいきます。
 年老いた母ザルがようやくねぐらにもどったころには、もうすっかり日が暮れていました。
 ねどこに体を横たえて、年老いた母ザルは思いました。日が沈むように、命の火も、ゆっくりと少しずつ小さくなっていくのでしょう。
 夜遅く、遠くから山犬の遠吠えが聞こえてきました。
 なぜかなかなか寝付けなくて、うとうとしているうちに昔の夢を見ました。子ザルがまだ小さかった頃のこと。その年は、長雨が続いて、寒い夏でした。秋になっても、ヤマブドウは青いまま、栗はイガだけで実がなく、カキの実もほとんどなりませんでした。母ザルは、必死に食べ物を集めました。足が棒になるほど歩いて探し、食べられる根を見つければ指から血が出るほど土を掘りました。
 必死でした。
 子ザルがいたからです。
 必死に育てた小ザルは大きくなり、今、命の火をあかあかと燃やしています。
 まだ夜明け前、年老いた母ザルは夢から覚めて、起き上がりました。妙な胸騒ぎがします。
 辺りを見回し、空気の匂いをかぎます。夜明け前の森は暗く、夜露の匂いがして、静まりかえっています。
 明るくなるまで待つほうがいい、と思いながらも、年老いた母ザルは、ねぐらを出て、そろそろと歩き出しました。
 暗い足元がよく見えずに、木の根につまづいて、よろけます。
 よろけながらも、何かに急かされるように、年老いた母ザルは、水辺へ向かいました。
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