第2話

文字数 1,908文字

 歩いているうちにだんだんと夜が明けてきました。水辺近くのえさ場に、茶色い固まりがあるのが見えました。
 年老いた母ザルは、その固まりに駆け寄りました。足がもつれます。もつれながら倒れながら、呼びかけます。
「どうした! 大丈夫かあ」
 わずかに固まりが動いて、うなずきました。それは最後に巣立った娘サルでした。
 年老いた母ザルは、思わず目をそむけました。
 立派に大きく育ったはずの娘サルが、ボロくずのように血と泥にまみれていました。
「山犬にやられたのか?」
 娘サルは、返事をする力も残っていないようでした。山犬におそわれて必死に逃げたのでしょう。
 年老いた母ザルは、娘サルを抱き起こしました。安全なところまで運ばなくてはなりません。娘サルは手足を縮めて、歯を食いしばっています。
 小さかった頃は、娘サルを背中に乗せて、木々の間を飛んで渡ったものでした。けれど今娘サルは、ずっしりと重く、手も動かせず、そして、年老いた母ザルは、手も足も弱く細く、頼りなくなってしまいました。
 ようやくなんとか引きずりながらも、ねぐら近くの安全なところに娘サルを運びました。娘サルはすぐに寝息を立て始めました。
 山犬に噛まれて、足の骨が折れたのか、それとも腰を痛めたか、腕もだらりと力が入らず、もう自分では歩けないでしょう。
 年老いた母ザルは、娘サルが眠ったのを見ると、ねぐらを出ました。
 食べさせなければなりません。怪我して動けない娘サルに。
 年老いた母ザルは1日歩き回って、木の実や小さな虫やら、取ってきました。
 ねぐらに戻ると、娘ザルはぱっちりと目を開けていました。
「さあ、腹が減ったろう。これをお食べ」
 年老いた母ザルが差し出した木の実を、娘サルは味わうようにしてゆっくりと食べました。足腰は動かないながらも、ゆっくり寝て大分楽になったようでした。
「もっとお食べ」
「ううん、もうお腹いっぱいなの」
 娘サルは小さな声で応えました。
「もっと食べて元気にならないと」
 そのまた次の日は、年老いた母ザルは、崖の上の大きなカキの木にのぼって、大きなカキの実を取ってきました。
 けれど娘は、その半分も食べられませんでした。
 次の日、年老いた母ザルは、もっと遠くまで食べ物を探しにでかけました。このところ何年も行っていなかった谷まで足を伸ばして、ヤマブドウを取ってきました。
「あんたの大好きなヤマブドウだよ」
 娘は弱々しくうなずきました。
 いく日かたつうちに、娘サルの山犬に噛まれた傷は治ってきていましたが、あの大きくて立派だった姿はみるかげもなく、痩せて小さく弱々しくなっていました。
 あのあかあかと燃えていた命の炎が、今は、ほんの小さくわずかになってしまっていました。
 その夜、食べ物をもって帰った母ザルに向かって、娘サルが口を開きました。
「母さん、わたしはもうおしまいよ」
「何を言ってるんだい」
「見れば分かるでしょう。もう自分で食べるものを取りに行けないのよ。あとは、命のつきる日を待つばかり。わたしの命の炎は、もう消えかけているのよ」
 年老いた母ザルは首を振りました。
「あんたが食べ物を取りにいけないなら、そのぶん、わしが取ってくるさ」
 母ザルは、背をのばし、手を大きく上に上げました。
「ほら、これを見てごらん。実はね、わしはこないだまで、腕が肩から上にあがらなかったのさ。年寄り肩っていうやつだよ。それがどうしたことか、今日は目一杯手をのばしてもちっとも痛くないのさ。高いところにあるクリをいっぱい取ってきたよ」
「どういうことなの?」
 母サルは、娘サルの腕を取り、やさしくさすりました。
「あんたの腕が細くなった分、わしの腕が太くなったよ。あんたの足が歩けない分、わしの足が歩けるようになったんだよ。あんたの命の炎が小さくなった分、わしの命の炎が大きく燃えているのが見えるかい」
「母さん」
「こないだまでのわしは、あとわずかで、自分の命の炎が消える日が来るもんだと思ってた。だがな、わしは死なない。死ねない。わしは、あんたから命の炎をもらったんだよ。カキでもヤマブドウでもいくらでも取ってきてやる。わしは、あんたが死ぬまで絶対に死なん。死ぬわけにはいかん」
 母ザルは……もう、年老いた母ザルではありませんでした。背筋はのびて、腕と足はふとくなり、しょぼついていた目はしっかりと強い光をはなっています。
 この先ずっと、若い娘サルの面倒をみるのです。
「なあ、娘や、わしはこれからさき、あんたの命の炎を生きるんだよ」
 そのとき、母ザルの瞳の中と、娘サルの瞳の中で、お互いの命の炎は、ちょうど同じ大きさに、同じようにゆらめいていたのです。
(おわり)
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