文字数 4,532文字

「実は、最後の二人は死因が病死ではなかったのです。医者の見立てでは――ショック死とか」
「ショック死ぃ?」
「はい……この部屋の布団の上で、恐ろしい形相でお亡くなりに」

 あたしは目を瞬くと、スミエモン――マタエモンを見た。常にじわじわと輪郭が動く墨絵の猫。だけど、その目は、その動きは、間違いなくマタエモンだった。気のせいか、猫独特の匂いもしてくる気がする。
「それって――墨絵の人なり動物なりにショックを受けたってことか?」
 ブツゾウはゆるりと立ち上がると、腕を組み、ぐるりと部屋を見渡した。
「それは可能性が低いと思われます。入居の際の審査で、その人に憑いている壁に出そうな霊を、僕や他のプロのかた達が見極めるんです。アフターケアとして入居後にも何度か訪れて、何が壁に出たかを聞き取りしています」
「へ~……。あ、他の奴がふらふら迷い込んでくることは?」

 ブツゾウは腕を組んで部屋をうろうろし始めた。
「可能性はあるんです。ショック死した二人のうちの先のかたなんですが、僕はその人には会ってないんですが、もしかしたら――霊媒体質だった可能性がある」
「霊媒――だと、どうなんだ?」
 ブツゾウはしゃがむと、あたしに顔を近づける。
「例えば、怖い夢、酷い夢を見たとします。夢というのは本人が産み出すものです。その人の脳の中にあるイメージ、それが夢に出るわけですね。霊媒体質のかたは、そのイメージを無意識に壁に投射してしまうかもしれない。そこに外から何かが入り込む……かもしれない」
 マタエモンが壁の中で、ざっと音を出した。はっとして振り返ると、あたしの頭の後ろで毛を逆立てている。
 ブツゾウとあたしはマタエモンの視線を追った。
 丁度対角線上の部屋の隅、その壁と畳の境目から真っ黒い染みが浮かび始めた。

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

 染みはふらふらと揺れながら天井近くまで達すると、形を取りはじめる。マタエモンが威嚇の声を上げ、あたしの後ろで右に左にと跳ねまわる。

 細長くて真っ黒く、大きい人型。中華の大皿くらいある空洞の目。不揃いの歯を並べた笑顔。
 染みは、けしゃけしゃと擦れて引き攣ったような声を上げ、その異様に長い指を壁と天井に這わせた。マタエモンが更に威嚇の声を上げ、あたしの横の壁をさっと走り抜けた。
「マタ! だめっ!」
 あたしの叫びに、ブツゾウはポケットからさっと何かを取り出した。
 小さくて細長い、筒状の物。
 タバコ? いや、なんか形がいびつで――

 注意が一瞬逸れた瞬間、あたしは足を払われ畳に転がった。見れば足首に真っ黒い霧みたいな物が纏わりついている。
「こいつ、外に出れるぞ!」
 あたしの叫びに、ブツゾウはタバコらしき物にライターで火を点けると、それを口に咥え頬を膨らます。
「あぶねえ!」
 あたしはブツゾウの足を払う。
 染みの手が天井から黒い竜巻のように湧きだし、ブツゾウの頭があった辺りを薙ぎ払う。
 ブツゾウは畳に転がると、ぶはっと煙を吐き、ゴホゴホとむせた。竜巻のような手が、またもブツゾウに迫る。
 壁から矢のようにマタエモンが飛び出した。
 真っ黒い墨の矢のように染みの腕に体当たりをすると、畳に転がる。
「マタエモン!」
 あたしの叫びに、マタエモンは一声、みゃぁと鳴いた。
 竜巻のような手が、マタエモンを押し潰した。
 真っ黒な霧みたいな物が四方に飛び散り、ざささっと砂を撒く様な音がした。
 けしゃけしゃと染みの笑い声が部屋に響き渡った。

「……この野郎、あたしのマタになにしてくれてんだ……」

 あたしの中で、何かがぶちりと音を立てて切れた。

 足に纏わりつく黒い霧を掴む。
 掴める。
 なら――千切れる。

 あたしは黒い霧を思い切り引っ張り、両手を使い、全力で雑巾のように絞り上げた。霧はぶじゃぶじゃと柔らかい音を立て霧散した。
 あたしは染みの顔を見ながら立ち上がる。
 染みが、びくりと体を震わした。

 病気で余命幾ばくもない人をいたぶる。
 つまりは、その程度の力しかないのだ、こいつは。

 あたしは一切の躊躇なく、ずかずかと畳を横切ると、思い切り染みの胴体がある壁に蹴りを入れた。ばすんと壁を蹴る音が部屋に響く。
 染みは、ぽかんとした顔をした。
 あたしが蹴った壁の辺り――染みの胴体部分はぽっかりと黒いモヤモヤが無くなっていた。
 ああああっと情けない声が部屋に響き、染みは体をゆらゆらさせながら、壁に天井にと漂いながら逃げだし始めた。
「この野郎! 動くな! 狙えねえだろうが!」

 ふーっと、音がした。

 線香のような匂いが鼻をくすぐる。
 染みは、ひっと声を上げ、天井近くで動きを止めた。もやもやとした白い物が壁にまとわりつき、染みはその下で体を震わしながら、ああ、ああ、と情けない声を上げている。
 
「いくぞ、こらぁっ!!!」

 あたしは助走をつけ、畳を蹴ると、我ながらかなり鋭い上段蹴りを繰り出した。ブツゾウがそんなあたしにふーっと煙を吹きかける。
 煙が細い糸のように足に絡みつく。
 狙い違わず、あたしの蹴りは染みの顔のど真ん中に命中した。あたしは、そのまま足を畳に振り下ろした。
 染みは、ひいいいいっと情けない声をあげながら、あたしの蹴りに巻き込まれるように畳と壁の間に凄まじい速度で叩きつけられると、粉々に砕け散って消えていった。


          *********************


「で、あれは何だったんだよ?」
 ブツゾウは、そうですねえと首を捻った。
 あれから二日経った。
 ここは、あたしの家のあたしの部屋である。
「どういう奴だったか? というのは葛城さんがぶっ倒しちゃいましたから不明ですね。まあ、『壁亡者(かべもうじゃ)』とでも名前を付けときましょうか」
 へえ、とあたしはノートパソコンを叩く。

 ドアからカリカリと音がする。

「しかし、葛城さんがそういう趣味をお持ちとは意外でした」
 あたしは肩を竦めた。
「まあ、見た目髪染めてるし、空手部だしね。でも、実は小説を隠れて書いている文学少女なのだよ、ワタクシは。しかもホラー小説書きってね……」
「しかし、その趣味と僕の活動記録とが繋がらないのですが」
「いやあ、あれだけの体験、文字にしなきゃ嘘でしょ?」
「うーん……」
「あ、安心して。どこにも発表しないし、投稿もしないから。これは――あれだ、部活の活動記録みたいなもんだと思って」
 ブツゾウはくすりと笑った。
「部活――ですか」
「そうだよ。健全な高校生の部活、その活動記録だよコレは……まあ、後でホラー小説のネタ帳として機能するかもしれないけど」
「実名を控えていただければ結構ですよ」

 ドアのカリカリ音が増えていく。

「そういや、なんかタバコみたいな奴の煙であいつを縛ってたよな。しかも、あたしをパワーアップさせたよな」
 ブツゾウは頭を下げた。あたしは首を傾げる。
「なに?」
「いえ、あの時、煙を吐きかける前に、許可を得なかったな、と」
「……はいはい。で?」
「あれはうちの家に伝わる秘伝の物でして……まあ、お線香の親玉みたいなものです」
「匂いはそうだったな。あの煙が、あれなの? 霊力的な?」
「いやいや……煙は実体があるでしょ。だから見えない力を乗っける時便利なんですよ。水でもいいんですが、後始末や上に向ける時に難儀ですから」
「ふうん、判ったような判らんような……まあ、ともかくあたしの蹴りは霊力でブーストされてたわけか。いや、気持ち良い蹴りだったなあ!」
 ブツゾウは笑った。
「あれは――恐らくは殆ど葛城さんの力ですよ。葛城さんの純粋な怒り。他者が、マタエモンさんが傷つけられた事への怒り。それが部屋の力と共鳴して――」
 あたしは、もういいもういいと手を振った。

 ドアのカリカリ音は、今や凄い事になっていた。

 あたしは溜め息をつくと、ノーパソを閉じ、ドアまで歩く。
 あたしの気配を感じたか、ドアの外の騒ぎが大きくなる。
「お名前、つけたんですか?」
 ブツゾウの質問に、あたしは頷いた。
「流石のあたしも苦労したよ……。マタエモンジュニア、シビエモン、クロエモン、チャエモン、ヘビエモン、それとママエモン。どうよ?」
「……中々の御手前で」
 ドアを開くと、子猫五匹とすらっとした母猫が部屋に入ってきた。子猫はたちまち私の足に纏わりつくと、ズボンを伝ってえっさえっさと登り始める。母猫は何の迷いも無く机に飛び乗ると、ノーパソの上に寝転がった。
 ブツゾウが、おおと声を上げた。あたしは溜息をついた。
「なんか、そこ、暖かいし形がジャストらしくて」
「いや、こりゃまた何とも……」
「恨むぜ、ブツゾウ」
 ブツゾウは、ひえっとおどけてみせた。中々レアな表情だ。

 染みを蹴り倒した次の日、ブツゾウはあたしをある廃工場に案内した。
「昨日、マタエモンさんが夢に出まして」
 あたしは、マタエモンが消えてしまったと思っていたから驚いた。そして、また泣いてしまった。ブツゾウはティッシュをぬ~っと取り出すと、それでですね、と話を続ける。
「マタエモンさん、あの後成仏と言いますか、転生されることになったそうで――」
 何かが聞こえてきた。
 え? とあたし。
 ブツゾウは、すいません、と申し訳なさそうな顔をした。
「マタエモンさんから伝言です。『親子共々、世話をよろしく』、だそうで……」
 あたしは顔をしかめ、錆びついたボイラーの影を覗いた。
 親猫と五匹の子猫。
 か。
 可愛い。
 ああ、可愛いですとも。
 子猫の一匹、ちょっとふくよかな奴があたしに顔を見上げて、ビャウと鳴いた。

「まあ、親の説得が一瞬で終わったんで良かったけどさ……」
 あたしの親はあたし以上に猫好きで、マタエモンが亡くなってから、かなり凹んでいた。だから、あたしが猫一家を持って帰ると、言葉はいらぬとばかりに猫部屋を用意し始めたのだった。
 あたしはブツゾウと向かい合って腰を降ろした。
 子猫たちが肩の上で、ぶぎゅぶぎゅと変な声を出しながら、顔を擦りつけてくる。
「うわー、幸せだー」
「葛城さん、人に見せてはいけない表情をしていますよ」
 ブツゾウはそういうと、アルカイックなスマイルを浮かべた。
 あたしは、へへーと手を合わせて拝む。ブツゾウこと壺川は、手で印を作る。
 あたし達は笑った。

「しかし――活動記録となると、タイトルみたいなものはどうするんですか?」
「いやあ、何も考えてないな。ブツゾウファイル、とか?」
「ご勘弁を」
「ダメか。……ま、そのうち決めるよ。でも、今回の事件名は決めたんだぜ?」
「ほう……『壁亡者』とか?」
「それ、さっきお前から聞いたんじゃん。いや、記録中では使わせていただくと思いますけどね……というわけで、あたし一押し事件名発表です!」
「ほほう」
「題して――」

『多分、事故物件怪談』

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