前日譚

文字数 18,690文字

書き下ろし

「四つ葉のクローバーを探さないか」
「……はぁ?」
 気味が悪いほど真っ青に晴れ渡る空を見上げていた青木は、不快感を隠そうともせずに長島の突飛かつくだらない提案に対して難色を示した。
「幸運を運んでくるなんていうだろ、四つ葉はさ。で、それを集められるだけ集めて、そこいらのガキや暇してるババアなんかに売りつけるんだよ。『これは幸せを運んでくる魔法のクローバーです。普通の四つ葉とはちょっと違って、特別なパワーが宿っているのです』なんつってさ」
 こいつは、こういう五体満足で生まれてきた事が無意味どころか勿体なくすら思えるような馬鹿げた思いつきを、人の良さそうな笑顔を浮かべながらクソ真面目に喋ったりする。
「まぁホントの四つ葉じゃなくったって、三つ葉に接着剤で一つ葉をくっ付けても良いかな。暇を持て余している婆さんなんか、話を聞いてやりさえすれば二、三本は買ってくれると思うのだけど」
 どうしてこんなにも愚かな妄想を恥ずかしげもなく、むしろ得意げに話し続けられるのか理解に苦しみ、助けを求めようと黙りこくっているように見えた諏訪の方を向けば、彼は彼で一人遠くを見つめながら何やらぶつぶつと低く小さい声で唱えていて、耳を澄ませると「シャケ」という単語が聞き取れた。
「しゃけ?」
 青木が聞き返すと、長島もそれに気づいたらしく「鮭?」と繰り返す。
「シャケをさ、飼うだろ。オスとメスを。それで繁殖させるだろ、そうすれば腹が減った時にいつでもシャケお握りを作ることができる」
 諏訪は作業的に動かしていた足を止めて、一息にそう言い切った。そよそよと吹く温度のない風が諏訪の派手な色の髪を靡かせている。
「諏訪、日本ではそれを養殖と言うんだよ」
 長島がまじめ腐ってそう言うと、諏訪は「永久機関の誕生だ」といかめしく呟いてから、何がキッカケなのかは青木には理解不能だがゲラゲラと笑い始めた。
「はははは、違いない」
 続いて、長島も感染したかのようにゲタゲタと笑い出した。
 何だ、こいつらは。気が違っているのか。
 二人の笑い声をBGMに、青木は周囲に目をやった。犬の散歩中の女とか、ランニング中の若い男とか、休日にも関わらず制服を着ている女学生らが、奇妙なものを見るような目で笑い続けている男二人に視線を注いでいる。いや、実際に奇妙なのだろう、この光景は。
 今朝方、仕事が休みで特にすることもないという二人が青木の家にふらっとやってきて、学校が休みで特にすることもなかった青木と共に、特にすることもないので近所をぶらついていたのだった。
 極度の暇は人を狂わせるのだろうか、と青木は先ほどの長島の発言を思い返しながら思案する。
 すれ違うこの街の住人達はまさか、二十歳前後の青年らがシャケの養殖を想像して気違いみたいに笑い転げているなんて夢にも思わないだろう。もっとも、青木にとってもそんな現実は悪夢でしかないのだが。
 悪い夢から目を背けて土手でキャッチボールをしている健康そうな少年たちをぼーっと眺めていると、腹がぐうと鳴って、鈍い痛みにも似た空腹感が湧き上がってきた。そういえば、もう昼飯時を過ぎているのではないか。三人とも時計を持ち歩く習慣が無いので正確にはわからないが、ぶらぶらと目的もなく歩き始めてから結構な時間が経ったように思える。
「飯でも食いに行こうか」
 青木が切り出すと、二人はぴたりと笑うのをやめた。
「金がない」
 これを言ったのは諏訪だ。
「僕はある」
「つまり?」
「…………少しやるよ」
 途端、諏訪はにこにこと小憎らしく破顔して、普段あまり行くことのない少々高めの定食屋に行きたいと提案し、二人の意思なんぞ端から興味はないというふうに早足というかほぼ小走りでさっさと足を進めていった。真に人を狂わせるのは、暇ではなく空腹かもしれない。青木と長島は、どんどん小さくなっていく諏訪を仕方なく追いかけた。
 定食屋は、午後二時を二十分ほど過ぎていたためかあまり混んではおらず、飯を食い終わって新聞を読んでいる者や、店に設置されているテレビの画面を熱心に見つめている者がぽつりぽつりといるくらいで、だらけた空気が蔓延していた。そのためか、注文して五分足らずで三人分の定食を店主の奥さんが運んできた。
 息を切らして入店した諏訪が……あるいは青木や長島も含めて相当飢えているように見えたのか、奥さんは「ご飯大盛りにしといたから」とふくよかな口元を綻ばせ、三人のお礼を広い背中に受けながら厨房へと引っ込んだ。
 木製のテーブルには生姜焼き定食が二つと牛ステーキ定食一つが並び、作り立てであることの証明とでも言いたげに白い湯気を立ち登らせている。香ばしい肉の香りに刺激されて勝手に唾液が分泌され、いただきますと言うが早いか各々夢中で食事を口の中に放り込んだ。青木は肉を食べること自体が久しぶりであったため、生姜焼きの旨みをありがたく堪能する。あまり食に興味の無い性分で平時は値引きされたおにぎりや菓子パンやインスタント麺しか口にしないが、たまに食べる肉の美味さには感動すら覚える。
 豚肉を数切れ食べて白米を飲み下したところで、はたと気づいた。
「僕は奢るとは言ってないんだけど」
 肉だか米だか、その両方だかを咀嚼している諏訪が犬食いの姿勢のまま青木を見上げ、ごくりと大袈裟に喉を鳴らして食事を飲み込む。
「そうだっけか」
「自分で払えよ」
「だから、金を持っていないんだよ」
 諏訪は悪びれる様子もなく、飄々と言ってのけた。この男がそう言う時は誇張でも嘘でもなく、本当に財布に数百円かそれ以下しか入っていないのだ。青木はため息をついた。給料日まであと数日あるはずだが、それまで一体どうするつもりなのだろう。
「ゴチソウニナリマース」
 千切りキャベツをもぐもぐと頬張りながら憎たらしい笑みを浮かべた諏訪が言った。僕のことをいい金づるだとでも思っているんじゃ無いだろうか、と青木は思う。まぁ、別にいいが。というか、食べながら喋るな。
「なりまーす」
 不意に、それまで我関せずというふうに黙っていた長島が口を開いた。意識の間をするりと通り抜けていきそうなほどさり気ない口調だったが、青木の耳はしっかりとその発言を捉えた。
「は?」
「いや、悪いね青木、俺まで」
「長島に奢るとは本当に言ってない」
 長島が頼んだのは牛ステーキ定食だ。一番値段が張るメニューである。
「あ、ずるいなぁそうやって諏訪にばっかり甘くして」
 唇を尖らせてわざとらしく拗ねたような声音を出す。うるさい、可愛く無い。気色が悪い。青木は長島の茶化しの中にタチの悪い含みが混ざっていることを感知し、箸を持つ手を止めて長島を睨み付けたが、彼はニヤニヤと厭らしく笑って続けた。
「俺も金がないんだよ」
「四つ葉のクローバーでも売って稼いでこいよ」
 一瞬きょとんとして、長島はすぐに笑い出した。諏訪はそんな彼を一瞥して黙々と箸を進め、キャベツの山を着実に減らしている。山が半分以下になるとさすがに味に飽きてきたのか、ポケットからマルボロとライターを取り出し、青木の側に置いてあったガラス製の灰皿を引き寄せて煙草に火をつけた。
 対面の席に座っている青木は、諏訪の吐き出す煙を浴びながら言った。
「学生にたかることを恥ずかしいとは思わないの、二人は」
 四つの目が青木を見る。諏訪の細長い指が、灰皿のふちで煙草をトントンと叩き灰を落としている。
「仮にも社会人なワケだろう。高校生に奢ってもらうなんて、プライドはないわけ」
「ないね」
 長島が即答した。曇りのない目をしていた。
「プライドで飯は食えないからな」
 諏訪も、副流煙を青木に遠慮なく浴びせながらにこやかに言う。
「その通りだ」
 次いで、長島がマイルドセブンを吸い始めた。
 青木はもう何も言う気がなくなってしまったため、山盛りの白米を胃に詰め込む作業に没頭した。目の前で呑気に煙草をふかす二人を見つめながら、そんなに金がないのなら煙草をやめればいいんじゃないかと思ったが、言ったところで無意味なのは明白だ。こいつらは飯か煙草どちらかをとれと言われたら、確実に煙草を選択するニコチン中毒者だからだ。
 呆れと、それから不思議な居心地の良さが混在していた。馬鹿がつくほど正直で、自分を必要以上に高く見せようという意思を持ち合わせていない人間と時間を共有するのは十数年生きてきて初めての経験であり、青木にとっては息のしやすい環境だった。
「あ、飴をもらっていこうぜ」
 諏訪が、テーブルの端に置かれていた小さなプラスチックの入れ物から飴を掴み上げる。丸っこい字で「ご自由にお取りください」と書かれた紙が貼ってあって、中には色々な種類の飴玉が詰め込まれている。
「俺は二個もらう」
「じゃあ俺は三つ」
 長島と諏訪は、透明な袋に包まれたカラフルな飴をいくつか手に取り流れるようにポケットにしまう。そのやり取りを見ていたのだろう、カウンター席に座っている女性客が厨房で皿を洗っている奥さんと目配せをしてクスクス笑った。その笑い方はまるで幼児が騒いでいるのを面白がって観賞している保母のようで、青木はいたたまれなくなってきて尻ポケットからぺたんこな財布を取り出し、中身を確認してそそくさとレジへ向かった。
 自分と諏訪の分だけ支払って店を出ると、長島も奥さんに何やら軽口を叩いてから会計を済ませ、さっそく封を切って飴玉を口に含む。
 金が無いんじゃなかったのか、等と言ってやりたくなったが、意味のない嘘をつかれたことは一度や二度では無かったため、脛を軽く蹴るだけにとどまった。
 

 家に着く頃にはすっかり日が暮れていた。
 意味もなく近所をうろつき、夕方頃に銭湯へ行って(もちろん諏訪の分は青木が払った)夕飯でも食いにいくかという話になったが、諏訪が「彼女が準備をしてくれているかもしれない」と言うので、それは彼女に悪いとその場で解散となった。
 帰り道にスーパーで買ったインスタント麺を適当に茹でて、朝作っておいた麦茶をお供に食し、何の物音もしない閑散とした部屋を見渡す。ハンガーにかかった制服が目に入って、明日の授業の準備をしなければいけないことを思い出した。思い出したが、行動にうつる気にはこれっぽっちもなれずに、蛍光灯の光を受け、スープが残っている器をぼんやりと見つめてただ座っている。
 青木にとっての学校生活は、ただうっすらとした苦痛の海に浸かっているようなものであった。大勢の人間がそれぞれ異なる意思を持って存在しているくせに、それらの大多数が青木のことを嫌悪しているような嘲っているような、そんな視線や態度をぶつけてくるため、精神の消耗は激しい。
 しかし、物心つく頃から人とコミュニケーションを取る能力が劣っていることには気付いていたし、自分の性格や容姿が人から好まれないものである自覚もあったため学校生活に多少の苦痛を要するのは仕方のないことだと自信に言い聞かせていた。居心地が悪いだけでなく、生徒の中で比較的地位の高い者に殴る蹴るなどの危害を加えられても漠然と自分に何か欠陥があるのだろうと納得していたし、今もほぼ確信的にそう思っている。
 何よりも、本当の苦痛を感じる地獄のような環境はもっと身近な青木の家庭自体にあったため、学校なんていうのは家に比べれば全く生ぬるい空間でしかなかったのだ。火のついた煙草を押し付けられて声を漏らすと叩かれたり指の骨を折られたりだとか、真冬に裸同然の格好で庭の物置に閉じ込められたりだとか、両親の性行為を見学させられたりその後は父親の気の済むまであらゆる方法で使われたりだとか、そんな気の狂った宴が休むことなく開かれている我が家よりも、学校の方がいくらかマシというものだった。だから、ただ機械的に登下校を繰り返していたのだ。
 今は、その頃とは状況が大きく異なっている。
 尊厳を踏みにじって青木を支配しおもちゃにする肉親は身近にはおらず、身を案じてくれる大人や、気を許して対等に言葉を交わし行動を共にする友人もできた。期限付きではあるが、この環境は青木にとっては恐ろしいくらいに贅沢で苦しい程に幸福だ。今までは極力息をしていることに気づかれないよう、自分の存在を隠すように薄く薄く呼吸をしていたのに、突然肺いっぱいに澄んだ空気を吸い込んでしまったのだ。一度楽な呼吸法を知ってしまったからには、もうあんな薄い空気では満足に呼吸ができなくなってしまった。
 青木は、自分が段々と機械的ではなくなってきていることを自覚している。きっと今の自分は、父と母にとって不都合な存在であろうことも。アイスピックから右手に伝わってきたぶよぶよとした肉の感触と醜悪な呻き声を思い出して、胸が悪くなり仰向けに倒れ込んだ。
「ああ、学校に行きたくないな」
 口から零れた言葉はあまりにも幼稚で平凡でありふれていて、青木は鼻で笑った。それから暫くの間、窓の外から微かに聞こえる虫の鳴き声を聞きながら、風に煽られてゆらゆらと揺れ動く電気のスイッチ紐の先端を見上げていた。


 木曜日の夕方、家で数学の課題を片付けているとアパートの階段を上がってくる音が聞こえて、この足を引きずるかったるそうな歩き方は聞き覚えがあるなあと思っていると、案の定青木の家のドアがドンドンとやや強めにノックされた。特に相手の確認もせずに開錠してノブを捻ると、やはりそこに立っていたのは諏訪だった。あまりにも家に来る頻度が高いため合鍵を渡してはあるが、諏訪は家主である青木が家にいるかどうかを毎回律儀に確認するのだ。
 シャツにジーパンというラフな格好をしている諏訪は、両手に提げているビニール袋を持ち上げて「泊めてくれ」と断られるとは微塵も思っていないというふうに言う。
「いいけど」
 汚れたスニーカーを脱ぎ散らかして部屋に上がる男を目で追い、何だか珍しいなと思いながら鍵を閉めた。最近はまた新しい彼女が出来たんだそうで、泊まりに来ることなんて滅多に無かったのに。喧嘩でもしたのかと邪推する。前の彼女の時も、言い合いになったとかで青木の家に転がり込んできたかと思えばすぐに和解して帰っていくという定期行事が多々開催されていたのだ。それは、青木が知らないだけで恋人間の喧嘩というものは愛を育むための定例イベントなのかと思わせるほどの頻度だった。今回の彼女とはあまり衝突していなかったようだが、何かあったのかもしれない。
「うわあ、お前何か難しそうなことしているな」
 そう言う諏訪の視線は、先ほどまで青木が対峙していた数学の問題集に向けられていた。
「ああ、課題なんだ。難しいことはないけど」
「大事なやつか?」
 持ち手が伸びてしまっているビニール袋を畳の上に置いた諏訪が青木の様子を伺うように言う。
「いいや、まったく」
 明日の朝一で提出しなければならず、まだ十問程度残っていたが、力一杯勢いよく閉じてカバンの中に投げ込んだ。優先順位なんて考えるまでもなく明らかだった。
「お前は本当に偉いよな、俺はそんな数字の羅列十秒も見ていられねえよ」
 苦々しい顔で、チューハイや発泡酒の缶をゴトゴトと音を立てながらテーブルに並べていく。
「こんなの、やろうと思えば誰だってできるよ」
 勉強なんてのは結局、やる環境が整っているだとかやらなければいけない家系に生まれただとかで、そうせざるを得ない状況に追い込まれれば誰だってできると青木は思っていた。親の言いつけを従順に聞き無気力で勉強だけをしてきた自分より、自らの意思で仕事をし金を稼いでいる諏訪の方がよっぽど偉いのではないか。まぁ、もう少し金の使い方を工夫した方がいいとは思うが。
「そんなわけあるかよ」
 諏訪は青木の言葉を自嘲気味に笑い飛ばして、弁当二つと惣菜をいくつか、それからツマミやスナック菓子などを次々と袋から出していく。
「こんなに買ってきてくれたの」
「お前は一人だとろくなものを食わないだろうからな」
 図星を突かれたので青木は黙った。今も青木の家にはインスタントラーメンがいくつかと、大家にもらったりんごが二つと、米がいくらかとお茶漬けのもとが少しあるくらいだ。青木が食に対して無欲で無頓着だということを諏訪もよく理解しているらしい。
「でも、給料日はまだだろ。金はどうしたの」
「それが、臨時収入があったんだよ」
 諏訪は得意気に目を細めて口角を上げ、手で拳大の物を掴むジェスチャーをしてその手を時計回りに半回転させた。なるほどパチンコか、と青木は合点がいった。そもそもそのパチンコの軍資金はどこから出たんだという言葉は飲み込んでおく。聞くまでもなく彼女だろうからだ。
「この前、飯奢って貰っただろ。風呂も。そのお返しってんじゃあないが」
 諏訪が割り箸を一膳差し出して来るので、受け取って腰をおろす。いつのことだと記憶を辿って、長島と三人で定食屋へ行った日のことを思い出した。
「覚えてたんだ」
「そりゃあな。俺が借りを返さなかったことがあるかよ」
 いや、数え切れないほどあるのだが。青木は即座にそう思ったが、まぁそのうちの四割くらいはこうして時々返してくれたり、風呂代を出してくれたり、よくわからない下世話な雑誌をくれたり(これは多分諏訪が読み終わっていらなくなった物だろうが)しているので良しとしている。そもそもが、見返りを求めて金を出している訳でもないのだから。言ってしまえば、一緒に過ごせる時間への対価のようなものだ。
「それで、俺は明日仕事が休みだし、お礼ついでに泊まらせてもらおうと思って来た訳だ」
 弁当のプラスチックの蓋を開けて控えめに手を合わせた諏訪が、青木の家を訪れるに至った理由を語った。青木は発泡酒に伸ばしていた手を止め、「彼女と喧嘩したんじゃないの」と聞くつもりのなかった言葉が口をついて出てしまった。
「喧嘩? してないぜ、そんなもの」
 もぐもぐと肉を咀嚼し、チューハイのプルタブを引きながら不思議そうに諏訪が答えた。
「明日は雨が降るな」
「はぁ?」
 馬鹿にされていると感じたらしい諏訪が眉を寄せて非難するような視線を向けてきたため、「いや、何でもないよ」と弁解になっていない弁解をして、汗をかいている缶に再び手を伸ばし一気に呷った。ごくごくと音を喉元から全身に響かせて苦味と酸味とを流し込むと腹にひんやりとした液体が落ちたのを感じ、アルコールが混じった熱い息を吐き出す。
 窓から見える外界はもううっすらと夜をまとっており、かすかに日の匂いを含んだぬるい風が網戸の目から侵入してカーテンを膨らませた。目の前では、諏訪が美味そうに米と野菜炒めを交互に口に運んでいる。しばらく切っていない髪が邪魔なのか片方を耳にかけていて、血色の良い耳輪と薄っぺらい耳たぶ、骨っぽい首筋や襟足の生え際が露わとなっていた。普段あまり見ることのないそれらに見入っていると、視線に気づいた諏訪が食材から青木へと目線を移す。
「何だよ、食わないのか」
 青木は答えずに発泡酒を一口飲み込んで
「学校行きたくない」
 と言った。その口調はあまりにも幼稚で、紛れもなく駄々をこねる子供のそれであったため青木自身も驚いたが、撤回する気は全く起こらなかった。
「お前、ガキみたいなことを言うなよ」
 諏訪は呆れた風を装っていたが、愉快に思っているのを隠し切れていなかった。青木は拗ねた小児のように口をへの字にして「だって、行きたくないんだもの」ともう一度言いながら、割り箸を力任せに割った。パキッと軽い音を立てて二つに分かれた箸は割れ目を逸れて割れてしまったため、片方の持ち手は鋭利に、もう片方は分厚く不格好な状態となっている。それを見た諏訪は飲んでいたチューハイが変なところに入ったのか一度咽せてから、狂ったようにげらげらと笑い出した。喘ぐような掠れた声を傾聴し弁当をつつきながら、青木は明日は休もうという意志を確固たるものとしていた。


 目覚ましをかけずに寝て、自然に目を開けた時にはもう既に一限が始まっている時間だった。
 重たいまぶたを持ち上げて目をこすり、乾いた眼球で窓を見上げれば、ぼんやりとした光が降り注いでいて余計にまぶたが重くなる。ふと隣に敷いてある布団を見ると空っぽで、しかしシーツに触れるとぬくもりが残っており台所からは換気扇の回る音が聞こえてきている。青木はタオルケットと布団の間から這い出し、膝立ちのまま両腕をうんと伸ばして深呼吸し、のろのろと立ち上がって換気扇の下で煙を燻らせている客人に「おはよう」と声をかけた。
「はよう」
「早いね」
「いや、ついさっき起きた」
 やっとのことで目を開けているといった感じの諏訪が、風にでも吹かれたみたいにあちこちに広がっている髪を乱暴に掻きまぜながら言った。
 蛇口を捻ってぬるい水道水で顔を洗い、シンク下収納の扉の取手にかけてあったタオルを取って顔をうずめ水分を拭った。少し嫌な匂いがしたので、夜に洗濯しようと思った。シンクの真上に設置されている小さな窓のむこうには今日も水色の空が広がっていて、諏訪もそれを見ていたのか、はたまた何も見ておらずただ眠気に耐えていただけなのかはわからないが、二人は並んでしばらくぼうっと突っ立っていた。
「のどかだなあ」
 すっかり諏訪用の簡易灰皿となった小皿に短くなった煙草を落とすジュっという鎮火音と、のんびりとした口調が沈黙を破った。
「そうだね」
「もう一眠りできそうな感じだな」
「二度寝は身体に悪いらしいよ」
 二度寝をすると頭が重くなるとか身体がだるくなるとか、そんなようなことを何かの番組で聞いたことがある気がする。それに、二度寝をして昼過ぎに起きた時の、時間を無駄に消費した感覚が青木はあまり好きではなかった。普段なら、自分の持て余している時間など睡眠に費やしたって構わないが、今日は勝手が違うのだ。
 諏訪は青木の顔とテーブルの上に散らかっている空き缶だとか食いかけのツマミだとかを見比べて、「今更それを言うか?」と言った。
「あれを片付けたら外に行こう」
 冷蔵庫から麦茶の入ったポッドを出して、二つのグラスに注ぐ。その片方を手にとって一気に飲み下した諏訪が「弾き語りでもして、小金を稼ぐか」と提案し、湿った唇を舌で舐めた。
「稼げた試しがあったか?」
「チャンスは突然やってくるのだよ、青木くん」
 ようやく頭が働き始めたのか、上機嫌に言うと財布と煙草とライターをポケットに突っ込んで、卓上の夕飯の残骸をゴミ袋に詰め込み始めた。青木はちまちまと麦茶を飲み、グラス二つをシンクに並べて冷蔵庫の上に置いてあった財布をポケットに入れ、壁に寄りかかっていたギターケースを持ち上げた。ずっしりときて足がよろけたが踏ん張って靴を履き、そのまま青木が貸した部屋着を身に纏った諏訪と共に家を出る。
 嫌に足音を反響させる階段を降りて日の下に晒されると、春が終わりに近づいているのを感じた。あたたかな日差しが剥き出しの腕や首筋に落ち、むっとした気温に包まれてじわりと汗が滲む。地面には諏訪と青木の影が長く伸びていた。
「暑いな、しかし」
 忌々しそうに呟く諏訪は、青木が貸した長ジャージを履いている。身長に差があるため丈がいくらか足りなくて不格好だが、気にも留めていない。
「そうだね」
 ギターケースを背負って歩くのには慣れたと言えば慣れたが、だからと言って重さを感じない訳ではない。手ぶらでスタスタと歩いて行く諏訪に恨めし気な視線を送っていると、それに気付いたというのに平然と煙草を吸い始めた。向かい風がマルボロの香りを運んでくる。
「重いんだけど」
「だろうな」
 少し先を歩く諏訪がにやけた面で青木を振り返る。明るい髪と突き刺すような日差しが調和していて、軽い目眩を覚えた。
「言い出しっぺは誰だっけ」
「外に行こうと言ったのはお前だろ。これを吸い終わったら交代してやる」
 言ってから、諏訪はいつもの倍かそれ以上の時間をかけてゆっくりゆっくりと煙草を吸った。交代する頃にはもう駅がすぐそこに見えていた。
 急行の電車に乗ってしばらくして目的の北千住に着いたため下車すると、平日の午前だというのにまばらに人がいて皆忙しそうに足早に改札をくぐって行く。青木と渋々ギターを持たされている諏訪も人混みに混ざって改札を抜け、駅前を歩く。宗教勧誘の冊子やコンタクトレンズ店の広告が挟まれているポケットティッシュ、居酒屋の割引券などを次々に差し出されて、青木は全てを断ったが諏訪は反対に全て受け取って行く。
「何で貰うんだよ」
「役に立つかもしれないだろう」
「宗教団体のチラシが?」
「俺も何かにすがりたくなる日が来るかもしれないからな」
「バカ言え」
 軽口を叩き日陰から日陰へと渡りながら、どんどんと駅から離れていく。馴染みの居酒屋や溜まり場にしている喫茶店などを通り過ぎて、やがて閑散としている商店街に出た。
「この辺でいいだろう」
「うん」
 人を追い返すようにシャッターが閉じられている雑貨屋の前にべったりと座り込み、ギターケースから拾い物のアコースティックギターを取り出して抱える。諏訪はケースを広げて二人の前に置き、小遣い稼ぎの準備を整えた。駅前の方が人は集まるが無許可のためすぐに通報されて警察が来るし、冷やかしも来るし、何よりも同級生に見られでもしたら青木は羞恥心に飲まれて死んでしまうのでもう二度とやらないと諏訪にきつく言ってあった。この商店街は人こそ少ないが、たまに、本当に稀に昼間から飲み歩いている音楽好きの中年がいくらかくれたりするのだ。
 ギターケースに諏訪が自分の札や小銭をバラバラと入れた。下手な小細工だなあと思いながら、なんとなくで弦のチューニングを済ませる。別に耳が肥えている客や偉ぶりたい対バン相手に聴かせる訳でもないから、少しくらい音がズレていたって構いやしない。
 腕を組んで歩く暇そうな男女や、目的もなくぶらついているのであろう青少年達からの好奇や蔑視その他もろもろの視線を受けながら、諏訪の注文で谷村新司とか松山千春なんかを弾かされる。青木はどうせなら水谷孝とか浅川マキとかをやりたいのだが、諏訪の好みではないらしく一度も弾き語ったことはない。
 適当にコードを鳴らしてはいるが、諏訪は歌ったり歌わなかったりとまったく自由だ。意外と正統派な歌手が好きだと言うこの男は、別段歌が上手いだとか音域が広いだとか人を惹きつける歌声を持っているだとかそういうことは一切ないのだが、掠れた声で原曲の持つ雰囲気を破壊するが如く乱暴に好き勝手に歌うところを青木は気に入っていた。繊細だったり感傷的だったりする曲調をまったく感じさせないくらい、とにかく奔放なのだ。原曲のファンが聞いたら怒るに違いないが、メロディや歌詞に含まれた影を破棄した諏訪の歌い方は非常に気持ちが良く、青木の複雑に入り組んでいて陰惨に拗れた思考回路を一時的に赫灼たるものへと変える力を持っている。
 とは言え、端から見ればただの酒やけ声ととりあえずコードを無難に弾いているだけの面白みのないギターの組み合わせでしかないため、今回の収穫はスーツを着たくたびれた顔の男が百円玉を投げ入れてきただけで終わった。
「だから言ったろ、ろくな稼ぎにならないって」
 再びギターケースを担いで、川が見える土手をふらふらと歩く。今朝よりも日差しが強くなってきていて、背中にじっとりと汗をかいている。一時間近く弾いてみたが、どこからともなく集まってきた浮浪者が金をせびり出したため、気が短い諏訪が笑顔のうちにと慌てて退散した。それから、帰るにはまだ早すぎる時間のため、各駅停車で何個か戻ったところの全く知らない駅で降りてぶらぶらしているわけだ。こういうことをするのは相当時間を持て余している人間だけなんだろうな、と他人事のように思った。
「まぁまぁ、世の中金が全てなわけじゃないぜ、青木くん」
 相変わらず機嫌が良い諏訪が、宗教団体に貰った冊子を団扇代わりにして自身を扇ぎながら青木をなだめる。何故か余裕があり気な態度に腹が立ったが、川べりでキャーキャーと大声をあげている子供達を見るなり態度を一変させて、
「はしゃぎやがって。ガキ共が」
 と舌打ちをした。
「おい、さっきまでの余裕はどこに行ったんだ」
「俺はな、躾のなっていないガキとブランド品をひけらかすババアが世界一嫌いなんだよ」
 自分よりひと回りほども歳の離れている子供に敵意を剥き出しにしているお前の方が躾のなっていないガキなんじゃないか、という文句は押し込んで、川辺で水をかけあったり片足を水に浸してはしゃいでいる子供達を見下ろす。動き回るその数を数えると五人。彼らが立てるしぶきが太陽の光をキラキラと反射させていて、眩しくて目を細めた。
「諏訪は子供が欲しいって前に言っていなかったっけ」
「ああ、言った。そりゃ欲しいさ」
「でも子供が嫌いなんだろ?」
「自分の子供はまた違うだろ」
 そうだろうか。ざくざくと乾いた土を踏みしめながら両親の顔を思い浮かべると、気分が悪くなってくる。まぁ自分の家庭は一般的な家族の形からは大きく外れているし、青木自身も誰かと繋がりたいとか結ばれたいとか自分の生きた証を残したいだとか、ましてや子孫繁栄に貢献したいだとかは一ミリも思ったことがないので理解できないのは当然だが。
「だって、自分の好きな相手との愛の結晶だぞ、子供ってのは」
「ぶはっ」
 突然諏訪が発した驚くほど阿呆らしいおめでたい単語に不意を突かれて、青木は吹き出した。鼻の奥がじんじんした。この男は、見た目に反して純愛物語などを好み現実世界にもそれが存在すると信じるロマンチストだったりする。
「何がおかしいんだ」
 夢想家は、笑い続ける青木をむすくれた顔で睨む。
「その顔で愛とか言わないでくれよ」
「どういうことだよ」
「似合わないよ」
 諏訪は風を起こしていた手を止めて、丸めた冊子で青木の側頭部を叩いた。直後、ぎゃあっと甲高い声が沸き起こったため、じりじりと痛む頭を庇いながら音の元を辿れば、例の子供達がこちらを見て笑っていた。
「笑われてるよ」
「クソガキが、見せもんじゃねえんだよ」
 昼にやっている人間関係がどろどろしているドラマの登場人物や、少女漫画に出てくる主人公に嫌がらせをする奴とかが言いそうなセリフだなと思って笑いを噛み殺していると、前方からなんだか見覚えのあるシルエットが近づいてきた。あちら側も青木らに気づいたようで、ひょいとひょろ長い右腕を上げる。
「あれ、何やってんのこんな所で」
 半袖の白いワイシャツに黒いスラックスという珍しい格好をしていたため一瞬人違いかとも思ったが、その男は紛れもなく長島だった。
「こっちのセリフだよ、何だその妙な格好は」
 諏訪も青木と同じような感想を抱いたらしく、質問に質問で返して見せた。
「俺は夜勤と朝番を終えたところだよ」
 眩しそうに目を細めてひとつ欠伸をする長島は、いつになく顔に疲れを滲ませている。どうやら二人が降りた駅は長島の職場の最寄りだったようだ。正装をしている謎が解けたため、青木はここに至るまでの流れを簡単に説明した。
「ふうん、しかし君達はいつも一緒にいるねえ」
「そうか?」
 黙っていると、長島は青木を見て薄く笑った。特にからかっている訳でもなく、本心から出た言葉のように思えた。と、また爆発したかのようなキンキンと耳に刺さる笑い声が川辺からこちらまで飛んでくる。
「何だあ?」
 長島が目を丸くして土手の下に目をやる。
「うるさいガキ共がそこの下のところで遊んでいるんだよ」
 もちろん、これを言ったのは諏訪だ。
「ふうん、綺麗なお洋服を着せられて昼間から川遊びとは、良い御身分じゃないか」
 これを言ったのは、何と長島だった。まさか諏訪に同調するとは思ってもいなかったため些か驚いた。
「第一、水が流れてるってだけで何がそんなに面白いんだよ」
「全くだね。あんな迷惑なガキは川に飲まれて溺死でもすりゃあいいんだ」
「何言ってるんだ」
 長島の口から飛び出した物騒な言葉に、青木は突っ込まずにはいられなかった。諏訪が暴言を吐くのはまぁ、言ってしまえばいつも通りだが、長島までもが寝不足で鬱憤が溜まっているようだ。二人が理不尽すぎる文句を垂れていても青木には何の不都合もないが、子供達の親や知り合いが近くにいたら面倒なことになりかねないので、この場をさっさと離れてしまおうと考えた。
「長島、この先って何があるの」
「この先?ラブホテルがみっしりと建っているけど、行くかい?」
「男三人で一部屋貸してくれなんて言ったら店員はどんな顔するんだろうな」
 長島の冗談に、諏訪が興味あり気な生き生きとした口調で乗っかる。
「断られるだろうね。ゲイの使った部屋ってのは、まぁ、大抵かなり汚いってんで有名なんだよ。だから男同士の入店自体お断りっていう所が多いんだ。俺は偏見だと思ってるけど」
「へぇ、さすが。よく知ってるね」
「知りたくなかった情報だけどね」
 青木が素直に感心していると、長島はうんざりした調子で言って嘲笑を浮かべた。四つ葉を老人や子供に売りつけようとするような奴だが、仕事は案外真面目にやっているのかもしれない。
「じゃあ、駅の方に戻るか」
 諏訪が踵を返したので、青木も長島もそれに続いて歩き出した。ラブホテル街に興味はないし、あまり駅から離れ過ぎてしまっても帰ってくるのが面倒になる。今日はエリアマネージャーとかいう偉い人が来ていて賄いをくすねられなかったと悔しそうに話してる長島の声を、例の子供達の騒ぎ声がかき消した。子供は些細なことでも面白くて仕方がないんだなと大した興味もなく考えて、自分の幼少期はどうだっただろうと回顧しようとしたところで、少し変だなと思い直した。
 先ほどまでと同じような金切り声だが、今回は笑い声というより悲鳴に近い。慌てているような、助けを求めているような、そんな調子に聞こえた。嫌な予感を覚えて川辺へと視線を落とすと、四人の子供がおろおろしたりでたらめに走り回ったりしながら全員がとにかく川の方を見ていて、注目を集めている水面では何かが浮いたり沈んだりを繰り返しておりその動作によって水の表面が泡立っている。その浮き沈みする何かは、よく見てみると人間の手やら顔やらであった。子供の内の一人が水の中で必死にもがいているのだ。
「ありゃあ、流されたみたいだな」
 青木の隣に立っている諏訪が呑気に言った。
「ここら辺は昼でも流れが早いからなあ」
 背後にいる長島ものんびりと返事をする。子供の声はいよいよ切羽詰まってきた様子で、もはや悲鳴というよりも断末魔に近いものとなっており、青木の耳を通じて脳にまでガンガンと響いてきた。日差しは相変わらずに強く肌をじりじりと熱している。ギターが先よりも重くなったような気がした。熱気で頭がくらくらする。青木は、近くを散歩していた大人や通りかかった学生などが騒ぎを聞きつけて集まっているのを眺めながら、どうしたものかと立ち尽くした。
「これ、持ってろ」
 耳元で平坦な声がして、青木のポケットに無理やりに何かがねじ込まれた。それが何かを確認する暇もなく、諏訪が土手の急斜面を駆け下りていく。ぼろぼろなスニーカーが地面の土を削りながら滑っていく音が混沌とした世界に響いた。肩につきそうな長さの髪が諏訪の動きについて行くように揺れている。普段のかったるそうな歩き方とは裏腹に、意外に足が速いんだなと思った。
 青木が小さくなっていく諏訪を見送っていると、いつの間にか隣に並んでいた長島があはははと笑い声を上げた。驚いて長島に視線を移すと、彼はニヤニヤと心底嬉しそうな顔で騒動を見下ろしている。
「あいつ馬鹿だよね」
 全く同意だった。青木が何か言葉を発しようとしている間に、長島は返事を待たずに駅とは反対方向の川下の方へ走っていった。少し行った所に、こじんまりしたコンクリートの橋がかかっているのだ。
 青木は熱された地面にギターケースを下ろして、ポケットに手を突っ込んだ。先程押し込まれたそれは、諏訪の財布だった。
 どぶんと重々しい音がして大きな水しぶきが上がった。諏訪が水をかき分けて溺れている子供の元へ向かっているのが見える。野次馬は十数人に登っており、それぞれがめいいっぱい悲鳴や声援を飛ばしていたが、それらの無数の声は青木の耳を通り過ぎていった。
 青木はただじっと、赤茶色の髪を目で追いかけていた。


「少しは後先を考えて行動してほしい」
 青木の言葉に、諏訪は「結果良かったんだから、別にいいだろう」とヘラヘラして答えた。
 川へ飛び込んだ諏訪がパニックを起こして暴れている子供を捕まえようと四苦八苦しているところに、橋から飛び降りた長島が援護に入って、三人は大騒ぎしながら水面から顔を出したり引っ込んだりしつつなんとか陸まで上がってきたのだ。大勢の野次馬の中の誰かが救急車を呼んでいたそうで、恐怖の余韻と安堵で泣きじゃくるびしょ濡れの少年と、いつの間にか野次馬の中に混ざっていた半狂乱な少年の母親は仲良く病院まで搬送されていった。
 取り残されたずぶ濡れの二人は、野次馬達に数々の労いの言葉をかけられ、むせび泣く子供達に礼を言われ、近所の住民だというおばさん達にタオルでガシガシと雨の中拾われた野良犬みたいに拭かれたりと、されるがままとなっていた。
 そのうちに、子供達の親だという大人が何人か飛んできて、しゃくり上げる我が子を宥めすかし、諏訪と長島も病院に連れて行こうとか、行かないとしても風呂を貸すとか服を弁償するとか何だとか色々と申し出てきた。そして一悶着あった後、着替えを提供するという方向で落ち着いたのだ。諏訪も長島も、何でもいいから早く逃げたいという顔をしていたが、親達は感謝の意を示したいのか何らかの形で礼をすることにより今日の出来事を精算したいのか、結論が出るまで中々に時間がかかった。青木はことの顛末をギターケースに座りながらずうっと見ていた。
 やっとのことで親達や野次馬から解放された二人は、青木を呼び寄せて脱兎のごとく川上の方へ駆け出した。人気の少ない大きな橋の下までやってきてありがた迷惑な輩がほとんど見えなくなったことを確認してから、やっと一息ついて諏訪と長島は着替え始めた。逃げるように走ってきていきなり着替え始めたびしょ濡れの男たちを、時たま現れる通行人が訝し気な目で見ていた。事情を知らないのだから当たり前だが、少し離れた所に来ただけでまるで別世界に来たようだ。
 水浸しになった服は、着替えと一緒に貰っておいたビニール袋に入れた。水分を多く含んで重みを増した衣類の入ったビニール袋を邪魔そうに提げている二人は、少々サイズの大きい無地のTシャツと着古された短パンを履いて、乾ききっていない髪を時折絞りながら、とろとろと駅までの道を歩いている。
「もし足がつかないくらい深かったらどうするつもりだったんだよ」
 引き続き青木が詰問すると、諏訪は面倒臭そうに首をそらして「その時はその時だろ」とまともに会話する気はないような返事をして、しなびたマルボロの箱の中身の無事を確認するために二、三度振った。
「まぁまぁ」
 長島が自分は無関係みたいな顔で仲裁に入る。
「僕は長島にも言ってるんだけど」
「俺はこの川が浅いことを知ってたから飛び込んだんだよ」
 その弁解が嘘か本当かはわからなかったが、本当だとしても言いたいことはたくさんあった。どうしてこいつらは、こんなにも危機管理能力が欠落しているのだろうか。水深が浅くても流れの速さによっては足を取られることもあるし、溺れた子供や老人を助けようとして背丈も体力もある成人男性が溺死したニュースも最近聞いたばかりだ。パニックに陥っている子供に引き込まれて、二人一緒に溺れ死んでいた可能性だってなくは無い。そもそも、見ず知らずの子供を、自らの命を危険に晒してまで助けるメリットがどこにあるのか青木には微塵も理解できなかった。
 次の言葉を探すために自身の思考を整理している間にも、諏訪と長島はしけった煙草に火を着けられるかを真剣に試していて、青木は頭が痛くなってきた。ハイリスクかつノーリターンな行動をいとも容易く行ってしまう二人に恐ろしさすら感じた。
 もはや邪魔な荷物にしかならないギターを背に、地面に沈んでいきそうなほど異常な重さを感じる足を引きずって歩みを進めていると、ひょいとギターを奪われて身体が軽くなる。
「悪かったよ」
 黒いギターケースを背負い込んだ諏訪が煮えきらない様子で言った。汗で湿ったシャツと背中は同化したようにぴったりとくっ付いていて、そこを風がなぞってひやりと冷気を感じた。別に謝らせたかったわけではなかったのだが、じゃあどうして欲しかったのかというとそれもわからず、黙って人差し指の爪で親指の腹を強く擦った。
 煙草の着火を諦めてマイセンをビニール袋の中に戻した長島が「なんだか、夏という感じだね」と言う。
「俺、夏が一番好きなんだよなあ」
「うげえ、正気か?夏なんて暑いし蝉はうるさいしで最悪じゃないか」
「それは諏訪に情緒がないからだよ。夏は空が真っ青で日も伸びるし、百日紅やブーゲンビリアやダリアなんかの綺麗な花も咲く」
「でも汗で身体がベタベタになる」
「嫌な奴だなあ」
 季節に対して好き嫌いの感情を持ったことのない青木は、突如始まった二人の争論を聞き流して天を仰いだ。青い絵の具を使った後の水入れの中の、あの青色が溶け出した淡い水をそのまんまぶち撒けたような空が視界を占拠する。まぁ確かに、抜けるような空の下を歩いたりしていると心地がいいが、こめかみから垂れてくる汗も全身がじっとりと湿っている感覚も気持ちが悪いしどことなく賑やかな雰囲気があって居心地が悪いので、諏訪寄りの意見だ。しかしわざわざ口を出す気にもならない。諏訪と長島の互いのどうでもいい主張を聞いていたら、何もかもが馬鹿馬鹿しくなってきた。長島はなおも続ける。
「だってさあ、解放的な気持ちになるじゃないか。子供の頃の夏休みを思い出すからかな、何だって出来るような何をしたって許されるような、熱気と一緒に高揚感まで湧いてくる感じがするだろ」
「それはお前が変な薬でキマっちゃっているからじゃないか」
「薬じゃないよ、咳止めシロップだっていつも言ってるだろ」
 話が不穏な方向に脱線し始めたため、青木は一度喉の奥で咳払いをしてから「ねえ、腹が減らない?」と新たな話題を提供した。実際に腹が減っていたのだが、この前定食屋に行った時も飯の話題を切り出したのは自分だったことを思い出して、すぐに腹が減る奴だと思われているかもしれないなと考えて変に恥ずかしくなった。
「ああ、確かに減ったな」
 諏訪は空腹感を自覚した代わりに、今までの出来事を全て忘れ去ったように見えた。
「駅前だったらいくつか店があるよ」
 職場の最寄りというだっけあって長島は駅前に詳しいようだった。空腹が満たせれば何でも良かったため長島に任せようとしていると、諏訪が何か思い出したようにビニール袋の中身をごそごそと漁って「ちょっと待て」と言った。
「どうかした?」
「北千住に戻るぞ」
「えぇ、何でまた」
 長島が不服そうな声を上げると、諏訪は濡れてふにゃふにゃにふやけてしまっている一枚の紙切れを手に持ち、自慢気に見せつけてくる。それは、数時間前に北千住の駅前で受け取った居酒屋の割引券だった。今から電車に乗って向かえば丁度開店する頃合いかつ、開店から二時間ほどは特定のメニューが半額になるという随分と太っ腹な内容が滲んでいる文字列から読み取ることができた。限定メニューの中には諏訪の好物である軟骨の唐揚げや馬刺しユッケ、海鮮チヂミ等も入っていて、酒の種類もそこそこに豊富だ。
「な、役に立つだろう」
 諏訪は、子供を助け出した時の何十倍も、いや、何百倍も得意気ににんまりと笑って見せた。


 長島が死んだのは、それからひと月ほど経った初夏を少し過ぎた頃だった。
 訃報を知った日の夕方ごろ、諏訪が青木のアパートへやって来た。青木も、アパートの階段にひっそりと座り込んで来訪を待っていた。
「おお」
「うん」
 諏訪は突っ立ったまま、青木は座ったまま、どちらも口を開こうとはしなかった。青木は、いまいちピンと来ていなかったのだ。死にましたと言われたって、長島とは昨日話したばかりだし、また近々青木の家の前にひょっこりと現れるんじゃないかという考えが捨てきれない。今もどこかでギターを弾いたり夕飯を食べていたりして、当たり前のように生きている気がしてならないのだ。
「お前、夕飯は?」
 乾いた低音が降ってきたため顔を上げると諏訪が真っ直ぐに青木を見下ろしていて、その顔がいつもより青白いような気がしたが、陽が落ちかけていたし伸びた髪が邪魔をしてはっきりとはわからなかった。
「まだ」
「何か買いに行くか」
 頷いて、酷く重たい腰を上げる。薄暗い道路と陽が暮れても高いままの気温、蒸し暑くてもったりとした空気は景色をフィルム越しに見ているかのようでリアリティがない。静かに少し先を歩いていた諏訪がふと足を止めた。彼の視線の先は、雑草が生え放題の荒れた空き地で、かすかな笑みを浮かべながら薄い唇を開いた。
「四つ葉でも探すか」
 青木も声を出さずに笑う。
「こんなに暗くちゃ、探せないよ」
「そうだな」
 同意した諏訪は、しかし、すぐにその場にしゃがみ込んでしまった。
 季節はいよいよ夏が濃くなっていて、夕飯時になってもまだわずかな明るさが残っている。だが、もう数十分もすればその薄明も消え失せて、真っ暗になるだろう。名前の知らない草花が青々と生い茂る中にぽつんと、細かい花弁を無数に広げている赤い花が咲いていた。周囲には蕾もちらほら見えるので、いずれ沢山の赤が雑草に紛れて咲き誇るのだろう。
「すっかり夏だね」
 青木の発した特別な意味合いを持たないその言葉は、誰にすくわれることもなく、蝉の泣き声だけが蔓延する空き地の中に溶けていった。そうして、辺りが黒に染まって鮮やかな赤色が闇に沈んでいくまで、動かなくなった諏訪の背中を見つめ続けていた。
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