第1話
文字数 35,095文字
一、
かんかん照りという言葉は、今日のために作られたのではないかと本気で思ってしまうような、そんな忌々しい天気だった。
「もうたくさんだ。そう思うよな、なぁ、思うだろ」
三十八円と書いてあるシールが貼りついたおにぎりを貪っていた諏訪が、ボソボソと低く抑揚の無い声で言った。米粒の中に押し込まれていた梅干がべしゃりと地面に落下し、赤茶けた髪で目を隠した彼の黒光りしている靴が、赤くて柔らかいそれを踏み潰した。
気分が悪くなって同時に腹が鳴った青木は、渇いてひりついた喉から声を絞り出す。
「どうしてこんな所で待ってたんだ、早く部屋に入ろう。こんな暑いところにいたら変になるよ、塩分が足りなくなるんだって。あぁでも、摂りすぎたら摂りすぎたで病気になるらしいよ、おかしくない?」
返事はない。
アパートの二階へ通じる、鉄製の錆びた階段。諏訪はその三段目に融合でもしたかのように違和感なく座っていたが、ふと足を上げて靴の裏側を青木に見せる。薄汚れた靴底の中でひしゃげた果肉だけが鮮やかに存在を主張しており、酸っぱい匂いが鼻を通って胃に到達した気がした。
青木は梅干が嫌いだった。
親指と人差し指で諏訪の眉間をトンと押すと、意思のない人形みたいにぐらりと揺れて倒れ、五段目の段差に後頭部をぶつけた。ごぉんと低い音が、寺の鐘の音のように重たく響く。
「痛い、てめぇ」
唸る諏訪の手から溢れた米粒が散乱し、三十八分の三十ぐらいが無駄になった。白い粒が、しおれた海苔の内側から逃げ出して、からからに乾いた砂をまぶしている。青木の額からどわっと汗が噴き出した。
「ほら、早く」
僅かに振動する階段を登り、見慣れた部屋へと向かう。手すりが日の光を吸収して熱を孕んでいた。青木は、学校から担いで来た重たいギターケースをさっさと下ろして冷たい麦茶で渇いた胃を洗いたいと思っていた。しかし、
「待って」
まだ五段目に頭をくっつけている諏訪が制止をかけ、続けて平坦な声で「鍵を無くしたんだ」とぽつりと言った。
青木はそれを聞いて、なるほどと納得がいく。だからこんなに蒸し暑い中、地蔵のようにぼけっと座り込んでいたのか。近所の喫茶店にでも入っていればいいのにという思いは、散らばった米粒に紛れるようにして地面に落下した。
「どうして、どこで」
「わからない、彼女に捨てられたのかもしれない」
「だから嫌だったんだ、僕の部屋の鍵を渡すのは」
「でもお前のうちの鍵が無かったら、俺はどこに帰ればいい」
「彼女の家にでも行けばいいだろ」
ぶっきらぼうに言ってからポケットに手を突っ込み、自分の汗で湿った鍵を取り出す。鈍く光るそれを鍵穴に差し込めば、ガチャという安っぽい音がした。木目の粗い戸を引くと、いつの間にか階段を登ってきていた諏訪が堂々と敷居を跨ぎ、梅干しがへばり付いた革靴を玄関に放り捨てた。
「持ってたんだね、喪服」
転がった革靴をつま先で整えながら、扇風機の前に鎮座する諏訪に声をかける。青木は諏訪と出会ってから一年も経っているのに、彼がネクタイを締めているところをこの日初めて目にした。普段はTシャツにジーパンというスタイルを好んでいる諏訪が正装している様は、どうしてか普段よりも馬鹿に見える。金貸しの下っ端とか、ヤクザ映画の序盤で上の人間に上手いこと言いくるめられて特攻して死ぬ奴とか、法外な値段を請求してくるクラブの用心棒とか、そんな感じだ。
「借り物だよこれは。彼女の元彼の忘れ物らしいんだが、サイズがピッタリで助かった」
青木の抱く感想なんてつゆ知らず得意げに腕を伸ばしてみせる彼は、しかし袖の裾が少し短いように見える。青木は気づかぬふりをしてギターケースを壁に立てかけて「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「お前は、持ってるのか?」
「僕は高校の制服で行くよ」
青木は自分が着ているワイシャツをつまんで見せる。
「そうか、お前まだ学生だったな」
首を縦に振ってから冷蔵庫を開けて、今朝作っておいた麦茶を取り出す。まるでサウナのように蒸している木造の部屋に冷気が流れ込んで、一瞬だけ心地よくなり目を閉じた。一口の簡易コンロと流し台しかないキッチンにちょこんと置かれている透明なグラスの群れから、少し悩んだ後に一つだけ手に取り、茶色く透き通った液体を注ぐ。
「青木ってさ、金持ちなんだよな」
扇風機の風を受けて、傷んだ髪をなびかせている諏訪が口を開いた。畳のほつれを日に焼けた指先で弄りながら、小さな机と薄っぺらい布団ぐらいしか物が置かれていない青木の部屋をぐるりと見渡している。
「親がね」
「なんか、偉いセンセエなんだろ?」
「学者。物理学とかやってる」
青木は、この話題に興味がないのを隠しもせずに答える。
「その息子様が何でこんなに汚いアパートに住んでるんだよ、もっといい所だっていくらでも借りられるだろ」
「好きなんだよ、こういうのが」
「お前、マゾヒストか」
送風を独り占めしている諏訪が、不可思議なものを見るような視線を台所に突っ立っている青木に向けた。そんなに暑いのならジャケットを脱げばいいんじゃないかと心の中で指摘しながら、グラスを傾けて麦茶を飲み込んだ。蝉のやかましい鳴き声が締め切った窓越しに絶え間なく聞こえてきて、一匹残らず焼き払ってやりたくなった。そもそも、蝉は何故よりにもよって、ただでさえ暑くて苛立たしい夏に鳴くのだろう、しんみりと心寂しい冬ならまだここまで苛立つこともないかもしれないのに。
空になったグラスにもう一度麦茶を注いで諏訪に渡すと、礼もなしに受け取って喉を鳴らして飲みきり「なにも、こんな暑い時に死ぬことねえよな」と湿った唇を動かした。
「夏が好きって言ってたのにね」
「好きだからこそかもしれないが」
のんびりとした調子でそう言って、諏訪は真っ黒なズボンのポケットからマルボロと汚れたライターを引っ張り出す。人の家だぞと今更言っても仕方がないことはわかりきっているため、火をつける様子を黙って眺めていると、扇風機がメンソールの香りをしけた部屋中に振り撒いた。こもった熱気と煙を吸い込んだ青木は悪心が喉元をせり上がってくるのを感じて払拭するために二度頭を振ったが、振動により余計に気分が悪くなった。
「なぁ、葬式って花とかいるんだっけ」
悪心の原因である煙を悠然と吐き出しながら諏訪が言う。
「いらないよ、必要なのは金だけじゃないかな」
「祝儀か、いくらぐらいが相場なんだ?」
「馬鹿、祝ってどうするんだよ、香典だろ」
差し出された諏訪のくたくたな長財布から三千円を抜き取り、帰り道に文具屋で買った香典袋に包んだ。この三枚は一体諏訪の何時間分の給料なのだろうかと、薄っぺらい札が入った白い包みを人差し指と親指で挟んでみる。ずいぶん軽いな、と思った。
宗派は分からなかったため、無難に『御霊前』と筆ペンで書いたが、字がよれていて不恰好だった。字を書く時、青木は小学生の頃の書き初めの宿題を思い出して嫌な気持ちになる。一生懸命書いても、その出来に納得いかないらしい両親から何度もやり直しを要求され、その度に手ひどく叩かれたものだ。半紙にぼろぼろと涙を落としながら、この行為に一体何の意味があるのだろうと真剣に考えたが、無垢な小学生がその答えに辿り着くことはなかった。今ならば、何の意味もないとすぐにわかるものだが。
まぁ、でも。諏訪の三歳児の落書きのような字よりはまだ読めるだろうし、そもそも諏訪が御霊前という漢字を知っているとは思えなかったため、これで良いのだと自分に言い聞かせる。
「それを吸い終わったら出よう」
筆ペンを机の上に転がしつつそう声をかければ、短くなった煙草を小皿に押し付けて火を消し「あぁ」とだるそうに立ち上がった。扇風機を切って、グラスを流し台に置いて連れ立って部屋を出る。陽炎が立つアスファルトを踏ん付けて、ブレザーを羽織り、酷く遠くに感じる駅までの道のりを歩いた。
「長島、電車に飛び込んだんだってな。ぴょんって、縄跳びでもするみたいにジャンプしてさ、ぎゃりぎゃりーって電車のブレーキ音が鳴ってさ、辺りは血まみれ。肉なんかもそこら中に飛び散って、ホームにいた客は吐いたり倒れたりしたって。売店のババアなんかは、気違いみたいに泣き喚いてたって話だよ」
両の黒目が違う方向を向いている金髪の男がにやにやしながら、青木に耳打ちをした。長島の母親らしき女がすすり泣き、父親らしき男がその肩を抱いている姿を遠くに見ながら、「らしいね」と簡単に相槌を打つ。隣にいる諏訪には聞こえていないのか、男と青木には目もくれずに親族席の方向に目線をやっていた。
黒を纏った人間がひしめき合う会場では坊主の野太い歌声がやけに大きく響いていて、どこか現実味がない。
「お前らさ、長島が死ぬ前の日に会ってたんだってな。何してたんだよ」
どこで知ったのか、男がしゃがれた声を絞って言った。青木は坊主の眩しい禿頭と木魚の滑らかな曲線を見比べながら脳内を整理し、
「いつも集まってる飲み屋があるだろ、あそこで会って二、三時間話しただけだよ。いつもと変わらないように見えた、いや、むしろいつもより機嫌が良いようにすら見えたな」
と事情聴取をしに来た警察に言ったことと寸分違わぬ供述をした。
先日、綺麗とは言い難いが酒もつまみも安く贔屓にしている居酒屋の暖簾をくぐった青木と諏訪は、偶然にも友人の長島と顔を合わせた。彼が一人で飲んでいるなんて珍しいと思ったのだが、「誰かしらが来るだろうと思ってさ」と赤ら顔で笑っていたので、すぐに納得し同じ卓で酒を飲み、飯を食い、最近はライブをしても客が来ないだとか金が無いだとか、ありきたりな会話をして別れたのだ。
訃報を聞いてから何度も記憶を辿ったが、そこに死を匂わせるようなものは無かったように思えた。しかし、それこそが長島の覚悟の現れのようでもあり、青木は閉口した。
「本当か?最後にお前らに何か言い残したりしてないのか」
「特に、何も。いつもと同じようなくだらない話をして、『また』と言って別れたよ」
「へぇ、それで次の日飛び込みねぇ」
男がわざとらしく顎に手を添えて、考えるポーズをとった。喪服にそぐわない金髪が揺れる。葬式にその頭は無いんじゃないかと言いたかったが、辺りを見回せば似たような色の頭がそこら中にあったため、音楽をやっている連中なんてそんなもんかと思い直した。なんせ、黒髪の青木と長島が地味だとか珍しいだとか言われていたぐらいなのだ。
「なぁ、お前らが長島を自殺に追い込んだとか、そんな可能性はないか?」
男は尚もにやにやしながら言った。青木は男が最初からそれを聞きたがっているであろうことを察していたため、心を少しも動かすことなく「さぁな」と返すことができた。しかし、直後に諏訪の声が被さる。
「お前、早くどこかへ行け」
感情が抜け落ちたかのような調子に聞こえたが、僅かに怒気が含まれていることが青木にはわかった。やはり、全て聞こえていたのだろう。
周囲のカラフルな頭達がちらちらと三人の様子を伺っていて、人間は思いの外耳がいいのだと感心した。
「聞こえなかったか?」
「冗談の通じない奴め」
諏訪が再度促すと、男はにやけたまま捨て台詞を吐いて通路の方向へと歩いていった。ぼんやりとその背中を見送っていると、やがて黒い集団の中に溶け込んで見えなくなる。
諏訪が歯を噛み合わせたままぼそっと呟いた。
「誰だかわかりゃしねぇなぁ」
青木は一瞬何のことか理解できなかったが、すぐに諏訪の視線が長島の遺影に向けられていることに気がつく。黒い額に収まっている長島の顔は証明写真か何かなのか、つまらなそうに口を結んでいて、生前の陽気で人懐っこい面影はどこにも無い。
諏訪の瞳はどろりと濁っていた。青木も「うん」と同意した。
それから、葬儀は呆気なくもスムーズに進み、長島の身体は燃やされて、白くてかさかさした骨になった。棺桶が開くことは一度もなかったし、骨も全てが揃っている訳では無さそうだった。ついこの間まで言葉を交わしていた友人がただの肉となり、ついには骨だけになったことが、青木には異様な出来事のように思えて仕方がなかった。
式も終わりに近づき、会食所へは行かずに早々に切りあげようとしていると、二十歳前後に見える女に「青木さんと諏訪さんでしょうか?」と声をかけられた。女は先ほどまで泣いていたことがすぐにわかるほど目が充血し瞼も腫れぼったかったが、声や表情から芯の強さが見え隠れしていて、青木はたじろいだ。
「俺が諏訪で、これが青木です」
「長島から、よく伺っていました」
諏訪の言葉に女は安心したらしく、人の良さそうな笑顔を浮かべる。きっと彼女だな。青木が邪推するとほぼ同時に遠慮という言葉を知らない諏訪が「彼女さんですか?」とぬけぬけと聞いた。
「そうです。藤本と申します」
「藤本さん、俺らねぇ結構アイツと仲がよかったんですよ。青木の家で三人で夜通し喋ったり、ススキ公園の向かいに嫌な爺さんが住んでるでしょ?あそこに花火を打ち込んだこともあったな。ちょっと前なんか、一緒にライブもやったよ」
「私、それ見にいってたんですよ」
「え、そうなの?アイツ、彼女がいるなんて一言も言わないんだもんなぁ」
「隠してたみたいなんです、恥ずかしがって」
「確かにアイツはそういう所があったな。肝心なことは秘密にするんだ」
二人がまるで、まだ長島が存在しているかのように話すので、青木もそこに参加しようとした。しかし途中で、諏訪と藤本に好奇の目を向けている参列者たちと視線がぶつかった。白と黒で揃えられた式場と、色とりどりの花と頭のコントラストに吐き気を覚えた。
青木は一度えづいてから、藤本に向かって
「あの、すみませんでした。僕たち、前の日に彼に会っていたのに」
と軽く頭を下げた。周囲の黒が深くなった気がした。
しかし、藤本はそれを制し
「ううん、私もね、前日に電話したんだけど何にも気づかなかったから。遺書っていうか、殴り書きが残っていて『今までありがとう、じゃあまた』とか書いてあるわけ。死んじゃうっていうのに、またも何もないでしょ。最後まで、よくわからない奴だったのよ」
と慈しむように笑った。
「ああ、ごめんなさい引き止めて。もう帰られるの?」
「はい。ご家族にもよろしくお伝えください」
「ありがとう、お気をつけて」
お悔やみの言葉とやらを述べようかと思ったが、更に気分が悪くなりそうだったため会釈だけして歩き始める。諏訪に至っては呑気に手なんか振っている。
藤本の姿が見えなくなってから、諏訪が上機嫌な声で言った。
「いい女だったな」
「そうだね」
「長島は酷い男だよ、あんなイイ人を残して死ぬなんて」
自動ドアを抜けて外に出ると、むっとした熱気に襲われて目眩がする。ブレザーのボタンに手をかけている最中に、諏訪がジャケットを脱いで肩にかけてしまったため、青木はボタンを全て外したブレザーのポケットに手を入れてぶらぶらと動かした。
「ってことは、アイツは素人童貞じゃなかったってことか?AVと風俗で借金が膨らむ一方だとかいう話を俺たちは馬鹿正直に信じていたってのに、アイツはあんないい女とよろしくやってたのか」
不服そうな声音で諏訪がつらつらと文句を垂れた。
「長島は嘘をつくのが趣味だったのかもしれないな」
青木は、長島の無邪気なようでいて欺瞞的な笑顔を思い返して言う。
「わけがわからん」
「二十歳だというのも、ホテルの受付をやっているというのも、大槻ケンヂが好きというのも、全部嘘だったりして」
「人間不信になりそうだ」
「人間というのも嘘かもしれないよ」
「アイツは一体、なんだったんだ」
諏訪が数珠を掌で転がしながら笑い声をあげた。肌を焦がすように降り注ぐ夏の陽射しが、黒を纏った二人に突き刺さって、拭っても拭っても汗が滴ってキリがない。大きな雫が目に入って沁み、青木は瞼を痙攣させる。
「青木は、天国と地獄ってあると思うか?」
「無ければいいと思ってるけど、どうして?」
「いや、自殺するとどっちにも行けないって言うだろ。長島はどこに行くんだろうと思ってさ」
式場から離れて駅に近づいてくると、飲食店やコンビニがそこかしこに現れ人も増えてきた。有象無象をぼんやりと目で追いかけながら、死んだ後にまで個々の意識が続いていくなんて、どちらにしろ地獄じゃないかと嘆かわしい気持ちになる。諏訪は死んだ長島の身を案じているらしく、真面目くさった面で「自殺すると、魂がずっと彷徨い続けるって言うよな」などと唱えている。
「諏訪は、天国と地獄どっちに行きたいの?」
「そりゃあ、天国に決まってるだろ」
「そうか。じゃあ僕も天国がいいな」
「じゃあって何だよ」
青木はクスクスと喉の奥で笑って券売機で六駅先までの切符を買い、諏訪は「今日は彼女の所に行く、明日仕事だから」と、三駅先の切符を買った。諏訪に自宅というものが無いことや、彼女の家から職場までが近いことを知っていたため「うん」と返して、改札を通る。
諏訪は彼女の家で泣くのだろうかと考えながら、口を開けて待ち構えていた電車に乗れば、クーラーの恩恵を全身に浴びた諏訪が「あぁ、天国」と感嘆する。青木も「ここが天国か」と深く息を吸い込む。
二駅通過したところで諏訪が思い出したように「ちなみに、ヒトゴロシは地獄に落ちるらしい」と声を潜めたので、都市伝説を信仰する小学生を見守るような心境で、窓枠の中で次々と移り変わる風景をぼうっと眺めた。
アパートに帰ると、腰の曲がった大家がさらに腰を曲げて地面に水を撒いていた。ボタボタと重たい音がして、砂が水を吸ってまだら模様に色を濃くしている。頭のてっぺんで結われている髪を忙しなく揺らしていた大家は、やがて青木の存在に気がついて桶をその辺に置き、ゆっくりと近づいてくる。
「塩、かけてあげようかね」
「うん、お願いします」
葬儀場で貰った紙袋から小さなお清めの塩の袋を探し出して大家に手渡すと、それを乱暴に破って青木の背中に振りかけた。「はい、良いよ」と大家が中々に力強く背中を二度叩く。呼吸が一瞬止まったが、老人のこういった大雑把で豪快な振る舞いを気に入っていた青木は痛みを飲み込んだ。
大家は庭に置いている木製の椅子を二つ引っ張ってきて、「座んな」と言い、片方の椅子によたよたと腰を下ろした。青木がそれに倣らうと、大家はポシェットから青いステンレス製の水筒を抜き取って蓋の部分に中身を注ぎ「飲みな、冷えてるよ」とよこす。骨と血管が浮き出た皮の薄い手から、生白い手に青色のカップが渡る。
「ありがとう」
麦茶かと思って口に含むと、それは紅茶だった。よく冷えていて歯に沁みたが、美味い。「もう一杯ちょうだい」とねだると大家は満更でもないという顔で水筒を傾ける。
「お友達は?」
「諏訪はもう帰ったよ」
「そうなの。じゃあ寂しいねぇ」
今度は飲む前に香りを楽しむことにしたが、嗅いだところで特に何の感想も出てこなかった。らしくないことはやめようと思い、一気に飲み干して返却すると、大家もそのカップで紅茶をちまちまと飲み始める。
「二人は正反対のように見えるけど、仲がいいんだね」
「そう見える?」
「だっていつも一緒にいるじゃないの」
大家の言葉を受け、そうだろうかと思い返してみる。
諏訪は仕事終わりや休みの日にふらっと現れ、青木の部屋に何時間も居座ったり、そのまま布団で眠ったりもする。起きてから仕事に行ったり、休みだともう一泊していくことも多い。青木は学校に行く以外は基本家にいるが、諏訪が週に三度や四度は平気で訪れるため、自家の鍵を渡していた。何せ、お互いに電話機を持っていないから、いつ来るだとかいついないだとかの連絡が取れないし、家主が眠りこけている深夜であっても諏訪は遠慮なくドアを叩いて陽気に「早く開けろ」などとのたまうのだ。
そんな生活をもう一年も繰り返している。確かに、側から見たらいつも一緒にいると思われてもおかしくはない頻度だ、青木はむず痒くなった。
辺りは日が傾き始め、紅茶の香りに包まれる二人に影が落ちる。子供の騒ぐ声や蟬の鳴き声は息を潜め、スーパーの袋を提げた女やスーツ姿の男が歩いていくのが見える。ぐう、と腹から音がして、朝から何も食べていないことを思い出した。
「それに、彼が来るようになってから、青木くんは明るくなったように見えるよ」
大家がくぐもった声で、口をもごもごと動かす。耳の遠い老人に、腹の鳴き声は聞こえなかったらしい。
「それは、そうかな?そうかもしれない」
「ここに越してきたばかりの頃は、元気がなかったからね」
シワだらけの顔の中の黒く濡れた瞳が二つ、まっすぐに向けられる。落ち着かない気持ちになった青木は、その視線から逃れるように赤が滲み出した空を見上げて湿っぽい匂いを嗅ぎながら、去年の初夏の記憶を呼び起こす。
一年前、青木は痣と擦り傷と恥辱感を引きづりながらこの崩れかけのアパートに転がり込んだ。
加虐的な父親の仕打ちと、何も知らないように振る舞う母親の白けた態度に耐えかねて、父親の醜く肥え太った腹の肉にアイスピックを突き刺し逃亡したのだ。ぶよぶよした分厚い肉からは、きっとドロッとした脂が噴水みたいに噴き出すんだろうと予想していたが、実際に出たのはほんの少しの血だった。
父親と母親は、十数年もの間されるがままになっていた内気な息子の突然の反撃に驚いたらしく、呆然としていた。どうして加害者達は、無抵抗の被害者が腹の底で報復の機会を伺っているということを想像できないのだろう。
父親への攻撃に成功した青木は息が弾んで手が震えた。全身が心臓になってしまったかのようにうるさかった。札束と着替えだけを詰めた通学カバンを引ったくり、力の入らない足をがむしゃらに動かして家から飛び出して夜の道を駆けた。人生で初めて気分が良くなった喜びから、歌を歌った。道中のゴミ捨て場でむき出しのアコースティックギターがじっと佇んでいて、左頬を赤く腫らした青木は『傘がない』を口ずさみながらにこりと微笑み、つるりとしたネックをしっかりと掴んだ。
雨が降っていたのかどうかはもう覚えていないが、体がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪かった。
諏訪と出会ったのは、その少し後だった。
その日、放課後に楽器屋へ寄った帰り道、運悪く同級生数人に遭遇してしまいしつこく金をせびられていた。校内ではリスクを恐れてか絡んで来ないクセに、監視の目が届かない所で張り切りだすのが気に食わないと思い、青木は「金は無い」と言い張った。実際に家を出てから節約に節約を重ねていたため嘘ではないのだが、家柄を知っている同級生は納得いかぬようで拳を振り上げた。殴られるのだろうと面倒くさい気持ちで目を閉じたが、しかしその数分後、彼らは惨めにも地面に転がっていて、手の甲の皮をズル剥けにした茶髪の男が彼らを見下していたのだ。
これが諏訪だった。
「どうして助けてくれたの」
のした男たちを放置して田んぼ道をのろのろと歩きながら尋ねると、諏訪は「イライラしてたから、誰でもいいから殴りたかった」と手を握ったり開いたりしながら殺人犯の犯行動機のような台詞を吐いた。伸びきった稲の大群が気持ちよさそうに揺れるのを横目に見つつ、じりじりと太陽に焼かれる。二つの足音が大げさに響く。自宅まで一生かかってもつかないのでは無いかと錯覚するほどに居心地が悪いのは、不自然な沈黙のせいだと気づいていた。
「それ、弦?」
諏訪は、青木が手に持っている楽器屋のビニール袋の中身に興味を示した。
「うん、アコギの弦」
「お前、ギターが弾けるのか?」
「少しだけ」
どういうわけか、咄嗟に嘘をついた。数日前にギターを拾ったものの、弾き方なんて全く分からずに置物と化していたのに。しかし、諏訪がこの時初めて笑顔を見せて「見かけによらず、かっこいいな」と言うので、訂正する機会を失ってしまった。仏頂面で目つきの悪い男のことを怖いとすら感じていたが、笑った顔は意外にも幼い。
「君、いくつ?」
「十七。お前は」
「僕は十六、高一」
「その制服は二岡高校だろ、頭のいい坊ちゃんなんだな」
「そんなことない、親に言われたから通ってるだけだよ。君はどこの高校?」
「俺は高校にゃ行ってないんだ。駅前の冨山製鉄所ってところであくせく働いてるよ」
諏訪が所々黒く汚れた作業着に入っている「冨山製鉄所」という刺繍を指差す。その五文字を目で辿ると、青木は自分が身にまとっている汚れひとつ無い薄っぺらい制服を無性に恥ずかしいと思った。
「なぁ坊ちゃん、今度聞きに行っていいか」
「何を」
「ギターに決まってるだろ」
「別にいいけど」
アパートの名前と最寄駅と簡単な経路を教えてやると、諏訪は手の甲に油性ペンを走らせた。細かい汗でてらてらと光っている小麦色の肌に、ミミズのような黒い字の羅列が這う。
もちろん冗談だろうと思った。別れ際になんとなく思いつきで言ってみただけだろうと。仕事に戻ると言っていたから、どうせインクも落ちてしまうし、そうしたら男は今日のことなんてすっかり忘れてしまうはずだ。第一、お互いの名前すら知らないのだから、と。
来るわけがないと繰り返し唱えながらも、家に帰ると買ってきた弦を張り、「アコースティックギター入門書」というタイトルの教本を開いた。
「来るわけないだろ、絶対に来ない」
独り言ちて、ペグを回して弦を引っ張る。
「でも、万が一来てしまって嘘がバレるのは困る」
誰に向けたのかわからないその言い訳は、部屋に立ち込める不快な熱に溶けて消えた。畳がズボンから滲み出た汗を吸う。青木は食事を摂るのも忘れ、ただ黙々と弦を抑えてコードを暗記し続けた。歴史の年号や英単語を覚えるよりもずっと簡単で、一つ一つの音をしっかりと噛みしめながらあらゆるコードを鳴らしていった。
翌々日、青木の期待通りに諏訪はアパートにやって来た。しかし、「ギター少年はどこだ」と大声を出しながら各部屋を回るという暴挙に出た諏訪に部屋番号を教えておかなかったことを後悔した。
「一度、小さいハコで一緒に出演したこともあるんだ。僕がギターを弾いて、諏訪が歌って」
青木は大家に、諏訪との出会いを簡単に話して聞かせた。もちろん、越してきた理由は伏せてだが。人からどう見られるかなんて滅多に気にしないタチだが、どうしてか、大家には両親のことを知られたく無かったのだ。背景を知った大家に哀れみの目を向けられたり、避けられたりすることを想像すると、小さな針で胸をつつかれているような心地になって落ち着かなくなる。
「すごいじゃないのさ、二人とも音楽が好きなんだねぇ」
大家が嬉しそうに言うが、青木は答えない。代わりに、長島の顔をぼんやりと思い浮かべた。
「死んだ奴とも、そのハコで出会ったんだ」
「事故?」
「ううん、自殺」
「そうかい、それは悲しいねぇ」
大家が本当に悲しそうな声でそう言って俯いたので、心底驚いた。見ず知らずの人間の死に心を痛めるだなんて、優しい人間もいるものだ。
「じゃあ、そのお友達の分まで、青木くんが生きてやんないとね」
今度も答えずに、曖昧に口角を上げて目を細める。
大家を部屋まで送り、階段を登っている途中で鍵を作り直すべきかと考えた。諏訪がなくした鍵が誰かの手に渡り、物取りでもされたらと想像したところで、こんな見るからに金がなさそうな家に強盗をしに来る奴なんていないだろうと結論付けた。
ローファーを脱ぎ紙袋を放り投げてネクタイに手をかけたところで、微かに煙草の香りが残っていることに気づき、電気も付けず肺が苦しくなるほどに空気を吸う。そうして余計に虚しくなって、壁にもたれて黙っているギターケースに目をやった。
「本当は、音楽なんて別に好きじゃないんだ。でもそう言っていた方が都合がいいから、そういう事にしてるだけなんだよ」
ネクタイとブレザーが畳の上に落ちる。その亡骸に見向きもせずに、冷蔵庫を開けて麦茶が半分ほどに減ったポッドを取り出して、中身を流し台にぶちまける。置きっ放しにしていたグラスに飛沫がひっかかった。キャビネットの中からティーパックを探してポッドに入れ、水道水を注ぐ。暗闇の中で、透明な水が茶色く染まっていく。
「長島の分も生きるなんてのは、無理だと思うな」
青木は、母親がこの家を訪ねてきた時のことを思い返していた。父親は、「息子に刺された」なんて素直に言えば社会的地位を脅かすと思ったらしく、自分の不注意で怪我をしたと医者に説明したという。外面だけはいいコイツららしいな、と青子は小さく笑った。母親は、今回の件は絶対に口外しないようにと釘を刺して、代わりに高校を卒業するまでは一人暮らしを認めることとそのための金銭的な援助をすることを約束した。そして「あなたが行く大学は私達が決めるから、それに従ってちょうだいね。高校を卒業したらまた家に戻ってくるのよ、ねぇ、次に勝手なことをしたら、お父さんは何をするかわからないんだから。あなたは、私達の可愛い子供なんだからね」と朗らかに死刑宣告をして、鈍い音を立てて扉を閉めたのだ。
「戻ったらまた、好き勝手に身体を弄くり回されるんだ。今度はもう逃げられないだろうから、それが僕の寿命だろうな」
誰にも拾われない言葉が次々と死んでいった。
ポッドから水が溢れ出したため蛇口を閉めると、途端に瞼が重くなってその場にうずくまる。今日は、よく喋ったから疲れた。空っぽになった腹が悲鳴を上げていたが気にしてやる余裕もなく、畳に敷いてある布団まで這っていく気力もなく、諦めてコトンと眠りに落ちた。
二、
ぬるまっこい風が吹いて、夏の終わりを予感させる九月。学校から帰った青木は、アパートの階段によく知っている人物が座り込んでいるのを見つけて、「あ、デジャヴ」と呟く。
その人物、諏訪は空のペットボトルを手に項垂れていて、眠っているかのように見えたが青木の声を聞くと億劫そうにのそっと顔を上げた。
「なぁ、全てを失ったことがあるか?今まで大切に育ててきた全てを。何もなくなった、捨てられた人間は、その後どうやって生きていけばいいんだと思う」
「何言ってるの。っていうか何でいるの、仕事は?」
「彼女にフラれた」
青木の問いかけを宙に浮かせたまま、笑えるほど憔悴しきった面で言った。ペットボトルが諏訪の手を離れて地面で数回跳ね、足元に転がってくる。赤茶色の髪の毛は、いつのまにか輪郭を覆うくらいに長くなっていて、根本から黒い地毛が覗いていた。そろそろ切ってやらなければと思いながら、ペットボトルを拾い上げる。
「彼女だけが諏訪の全てじゃないだろ。だからここに来たんじゃないの」
自己暗示のような自分の言葉にわずかに悲しくなった。手を差し出すと諏訪が力なく握り返してきたため、力任せに引っ張って立ち上がらせる。
手を離せば諏訪が鼻をすすり始めたため、身体の芯から凍りついたような心地になった。
「めそめそするのは部屋に入ってからにしてくれ」
焦りを悟られないようにうんざりした声で言って自宅のドアを開け、ふらふらとおぼつかない足取りの諏訪を部屋に押し込んで鍵を閉める。気を抜けば膝から崩れ落ちそうなところをなんとか堪え、麦茶を注いだグラスを小さな机に二つ並べた。
諏訪はそのどちらにも手をつけずに「好きだったんだよ、本当に」と聞いてもいないのに鼻声で話し出した。
「絶対に結婚するって決めてたんだ、俺は」
「この間まで、仲が良さそうだったじゃない」
青木は、泣きじゃくる幼稚園児をなだめるような優しい声で言った。
「俺もそう思ってたよ、何も問題なんてないってな。だがそう思っていたのは俺だけで、彼女はずっと不満だったらしい。昨日急に『金もない男にこれ以上付き合っていられない』なんて言い出したんだ」
「分かりきったことを」
その女も大概馬鹿だな、と思う。生きる上で金が重要なのは最もだし、男に金銭的な安定を求める女が悪いとは思わないが、だったら最初からこの男に近づかなければいい。勝手に期待して、期待通りにならないから離れるなんて酷だ。
「そんな女、早く忘れればいい話じゃないか」
「うるさいな、わかってる。でも何を言われてもまだ全然好きなんだよ。気が変になりそうだ。俺、おかしくなってんのかな」
「なってると思うって言ったら、怒るんでしょう」
「怒るに決まってるだろ」
笑いながら煙草に火をつけて、二、三度煙を吐き出してからまたしくしくと泣き始める。煙草を吸いながら泣いている人間を初めて見た。阿呆らしいと呆れる反面、誰かを恋しいと言って諏訪が流す涙がこれ以上ないくらい綺麗に見えて、自分の手でそれを掬ってついでに抱きしめでもしてやりたかった。しかし、そんなことをしたらきっと本当に怒るだろうから、ただ膝を抱えて霧みたいに消えていく煙を見つめる。
「一曲弾いてくれ」
涙をぼたぼたと畳に落としている諏訪が言う。青木は部屋を見渡した後、トイレからトイレットペーパーを一つ持ってきて渡してやった。
「今?」
「楽しくなれるような曲を弾いてくれよ、青木。今すぐ窓から飛び降りたい気分なんだ」
「ここは二階だし下は土だから、飛び降りても死ぬことはないよ」
玄関の脇に立てかけてあるギターケースからアコースティックギターを取り出して、諏訪の正面に腰を下ろす。ペグを回して弦を一本ずつ弾き音を合わせて行きながら、脳みその中から楽しくなれる曲を探していくが『サライ』ぐらいしか見つからずに途方に暮れる。『サライ』を聴いて元気になる人間などいるのだろうか、少なくとも青木はならないし、なんなら腹が立ってくるぐらいだ。
考えるのも面倒くさくなって、ついこの前練習した『ぼくと観光バスに乗ってみませんか』を弾き始めると、諏訪はマルボロを口に咥えたまま畳に横たわり、死体のように動かなくなる。
「悪い夢のようだ」
「それは、違う曲だよ」
ゆったりと時間が流れる。いつもよりも上手く弾けた気がした。
日が暮れてきて、青木は夕食の買い出しをするために諏訪を引きずって近所のスーパーに出向いた。と言っても、二人とも料理は全くできないので、惣菜をいくつかとカップ麺とチューハイを数本買い物カゴに投げ込むだけだが。
レジへと歩いているとサンマが安く売っていて、二匹掴んでこれもカゴに入れる。前回は諏訪が全額払ってくれたから、今回は青木が会計を済ませた。
「サンマなんて買ってどうするんだ」
食材と酒が入った買い物袋を一つずつ持ちながら、葉を茶色く染めた木々が立ち並ぶ道を歩く。普通に考えて焼くだろ、と平凡な返事をしようとしたが、諏訪は青木がわざわざ魚焼きグリルを使ってサンマを焼くという労働をするわけが無いと思い込んでいるようだったし、その通りだったので素直に「大家さんにあげるんだ、いつも何かと世話になってるから」と返した。
「へぇ、青木はあの婆ちゃんのことが好きなのか」
「馬鹿言うな」
擦りすぎて目を充血させている諏訪がケラケラと笑う。酒が入っている方の袋を振り回すものだから、きっと缶を開けた時に中身が噴き出すだろう。自分が酒が入っている方の袋を持つべきだったと反省する。
「お前は彼女を作らないのか?顔は綺麗で家も金持ち。頭もいいときてるんだから、モテないことはないだろ。まぁ、もう少し愛想を良くする必要はあるかもしれないが」
「嫌だ、面倒くさい。それに女って苦手なんだ、いや女だけじゃなくて男もだけど」
「人間が嫌いなんじゃねぇか」
諏訪は呆れたように言う。
「俺も結構皆嫌いだけどな、でも、優美……彼女は違ったんだよ。優しくて可愛くて、気が強いように見えて本当は繊細な奴なんだ。ずっと一緒にいたいと思ってたし、いるつもりだった。俺が幸せにしてやりたかったんだ」
この男の思考は、すぐに元彼女の回路へと繋がってしまうらしい。また泣き出すんじゃないかと横顔を見れば、渇いた目でアスファルトに伸びる影をじっと凝視していた。そして「家族になりたかった」と聞こえるか聞こえないかの声量で言って、それは確かに青木の耳に届いた。
諏訪は自分の家族の話を不自然なほどにした事がなかったが、代わりに「家族が欲しい」とよく口にしていた。
「一人の家に帰るのはもう嫌なんだ。寂しいし、何の音も匂いもしない空間でむっつりと黙ってると、おかしくなるんじゃないかって思う」
以前、並べた布団の端っこで諏訪はそう言った。確か前の彼女と別れた後だったと思う。
「誰にも干渉されない空間っていうものは、いいものじゃないか」
青木がそう返すと、彼はゆるく首を振って「そうじゃない」と枕に向かって喋った。布に吸収された諏訪の声はくぐもっている。青木が首を傾げていると、流水音が響いてトイレから長島が出てきた。
「諏訪は、愛に飢えてるわけだね」
眠たそうな声で目を擦って、長島は二人の間に滑り込んで毛布を引き寄せる。諏訪は嫌そうな目つきで隣に寝そべる男をじとっと睨んだ。
「何だよ、悪いか」
「いや、普通じゃないかな。人間誰しも愛されたいと思ってるはずだよ、多分」
「てきとうだなぁ、お前は」
「昔、愛されたければ自分から愛すべきだってうちの母が言ってたなぁ」
「愛してたけどふられた場合はどうする」
「重すぎたんじゃないの」
諏訪が嘆いて、長島が笑った。夜が老けていく中で、青木は二人の軽快なやりとりを聞きながら十数年かけて刺々しく硬化した心がほぐれていくのを感じていた。そうして、自分の両親を思い出して、どうしてこんなものを欲しがるんだろうと疑問を抱いていたのだ。
しかし最近になって、きっとお互いの思い描く「家族」の形に齟齬があるのだろうと、やっと気づいた。
もしかすると、諏訪は無条件に愛されたいだけのではないかと青木は考える。何の理由もなく一緒にいて、お互いを愛し合える関係を望んでいて、それに相応しい形を探してみたら「家族」という名前を見つけたのではないか。
そうだとしたら、
「僕がずっと一緒にいるのじゃ、ダメなの」
思わず言葉が口からこぼれ出していて青木は驚いたが、一度外に出たものは取り消すことができなかった。
戸籍上家族にはなれなくとも、それ以外の条件を青木は満たしている。愛し“合える”かは別として、無償の愛を捧げることなんていとも容易いことのように思えたし、今後諏訪がどうなろうとも諏訪の元を離れないと言い切れる確固たる自信があった。
足を止めて反応を伺っていると、諏訪も立ち止まる。片手で器用にマルボロのパッケージから煙草を一本取り、かさかさと皮が剥けている唇で咥え、火をつけた。
「それこそ、馬鹿言うなよ。何でお前が俺のために人生棒にふるんだよ」
眉を八の字にして、困ったようにぎこちなく笑う。まるで、青木の人生に価値があると信じて疑わないとでもいうような口ぶりだった。何か言葉を返そうとしたが、脳の言語中枢は何を言っても意味がないことを理解して押し黙ってしまっていた。
「吸うか?」
無駄な肉が付いていない無骨な人差し指と中指で挟まれた吸いさしの煙草は、吸い口が変色し始めている。丸っこい諏訪の爪の形を目だけでなぞって、唾液で湿っている先端に唇で触れる。諏訪が帰った後青木の部屋に漂っている香りが、すぐそこにあった。骨張った手に細くて青白い手が重なり、接触部から熱がじんわりと伝わって、血中で混ざり合った気がした。
「ボクちゃん、思いっきり吸うなよ、むせるから。ゆっくりな」
からかうような言い方にムッとしたが、言われた通りにそおっと吸い込むと、重たくて苦い煙が肺に侵入する。咳き込みたかったがそんな事をすると格好がつかないと思って、何とでもないフリをして息を吐く。白いモヤがゆらゆらと目の前でくゆってすぐに消える。もう一度吸おうとすると、諏訪はさっさと手を引っ込めて自分の口元に持っていってしまったため、抗議する。
「ねぇ、まだ吸いたいんだけど」
「俺といると、お前はどんどん汚れていく気がするよ」
「そんなの、今更だろ。肺なんて副流煙でとっくに真っ黒になってるさ」
「だろうな」
紫煙を立ち上らせて、諏訪は歩き出す。青木もそれに続く。口内から中々消えてくれない苦味を少しずつ飲み込んでいく。そこら中に散らばっている落ち葉は、二人に踏み潰されてペシャンコになって地面に張り付いている。
三、
大粒の雨がばたばたと音を立ててビニール傘の表面に激突しては滑り落ちて、地面に貼った水たまりの中に吸い込まれていく。ワイシャツの裾や通学カバンがいつの間にか湿っていて、青木は傘を投げ捨てて足蹴にし叩き折ってやりたくなったが、アパートがもうすぐそこに見えていたので衝動を殺してのろのろと歩いた。
灰色の空の下で大雨に打たれている二階建てのボロアパートは、人が住んでいるとは思えないほど禍々しく、廃墟と言われれば疑う間も無く納得できそうな出で立ちだ。階段に目を向けて、誰も座り込んでいないことを確認する。安堵と残念の狭間をぐらぐらと行き来する気持ちを抱えて十三段目を登りきった所で、部屋の戸の前に立っている見知らぬ女と目が合った。ピンク色のヒラヒラした生地の傘を腕にかけていて、もう季節は秋に移り変わっているというのに服の面積は少なく、肌色が強い。
「何か用ですか」
「あ、あんたが青木?うそ、本当に男の子だったんだ!あたし、木崎優美。ハジメマシテ」
甲高くて甘ったるい声でそう言った女は、両の手のひらをこちらに向けて小さく振った。傘と一緒に腕にかかっている赤いバッグに付いたストラップがジャラジャラと揺れる。
どこが、優しくて可愛くて繊細な女なんだ?図々しくて能天気でしたたかな女の間違いじゃないだろうか。青木の抱く偏見は、たいていの場合当たる。
「女かと思って鍵パクっちゃってさ、そのまんまじゃ悪いなぁと思って。ここの場所、前に聞いたことがあったから返しに来たの。でも、本当に男の子に合鍵もらってるとは思わなかったぁ」
木崎優美は愉快そうに笑って、バッグから諏訪の鍵をつまみ出し青木の手のひらに置いた。強い香水の匂いが鼻腔をつき、頭が痛くなる。
「すみません、諏訪は多分今仕事に行っていて」
「ああ、いいのいいの。もう会うつもりもないし、そういう時間を狙ってきたんだし」
そうか、じゃあ帰ってくれ。と胸の中で言ったが、木崎優美は動かなかった。興味深げに青木の頭のてっぺんからつま先までを見渡して「ねぇ、こんな犬小屋に男二人で住んでるの?あんた、高校生でしょ?」と投げかけてくる。犬小屋という単語は聞かなかったことにした。
「住んでるというか、諏訪は夜に寝に帰ってくるだけですよ。帰ってこない日もあるし」
「なんか聞いたなぁ、最近熱入れてる女がいるとか。別れて一ヶ月も経ってないのに、早くない?」
頬を膨らませて首を傾げる仕草が様になっていて、思わず感服した。
「でも、多分まだあなたの事が好きなんだと思います」
青木はできるだけ冷たく聞こえるように言った。お世辞でも何でもなく、ここ十数日間で嫌という程感じていたことだった。諏訪は未だ木崎優美に恋い焦がれていて、その隙間を埋めるために何人かの女に手を出してはいるが、それによって更に心を痛めているようだった。家族になれれば誰でもいいというわけでもなく、木崎優美と家族になることに意味があったのだろう。どうしようもない馬鹿だと笑ってやりたかったが、自傷にも似た行為を繰り返す諏訪が痛々しくて上手く笑えなかった。青木にはどうすることもできないと思い知らされたが、ただその様子を見ているだけというのはもどかしかった。
女は、青木の言葉を聞いても顔色一つ変えない。
「あたしも、本当に好きだったよ。でも分かるでしょう、愛だけじゃご飯食べられないし、生きていけないわけ」
「だったら、最初から諏訪なんか相手にしなきゃ良かったじゃないか」
思わず語気が強まった。
「あたしはあいつの人格に惚れたの。それで蓋を開けてみたら、びっくりしちゃった。家もないし、仕事も全然続かないんだもん。それでもいいやって思えてたのは何ヶ月かだけでさ、結局あたしが逃げちゃった。これでも気ぃ使ったんだよ、未来もないのに愛情だけでずるずる続けてちゃダメだなぁって。お互いのためにもさ」
木崎優美は相変わらず舌ったらずな喋り方でつらつらと語る。その顔には、諦めの色が滲んでいるように見えた。
「あたしはアイツのために生きるの無理だなって思っちゃったんだよね」
ざぁざぁとうるさい雨の音に溶けてしまいそうな声量だった。青木は何も言えなくなって受け取った鍵を握る。木崎優美は顔をほころばせて「じゃあ」と青木の肩を優しく叩き、ヒールをカツカツと鳴らして歩き出した。そして、階段に差し掛かったところで足を止める。
「青木くん、君、いいように使われる前に切っちゃった方がいいよ。アイツは君を大切にしてくれないよ」
肝が冷えて、全身の毛が逆立った気がした。振り向くともうそこに木崎優美の姿はなく、ヒールが鉄制の階段を踏みしめる音が響いているだけだった。
敗戦したような気持ちで鍵を回してから、紛れもなく惨敗だと確信する。
ノブに引っ掛けたビニール傘は、薄汚れたコンクリートに水たまりを作る。諏訪が置いているラバー素材のサンダルが濡れないように、しゃがんで端に寄せた際、ドアポストに一通の葉書を見つける。あの女が諏訪に別れの言葉でも書いて入れたのかと、留め具を外して手に取れば、葉書には母の名前が綴られていて思考が停止した。反対の面を見れば、「進路面談が年末にあるから、必ず来るように。成績も落とさないように頑張ってください。それと、ちゃんとご飯を食べていますか?お父さんも心配しています」と丸っこい字で書かれていて、青木は頬を引き攣らせた。
「ひとり立ちした息子を心配する心優しい両親ってところか、上手じゃないか」
演技というのは、第三者に見られている場合にするものだろうに、一体誰に披露しているつもりなのか。もしや、演じてるうちに役に飲まれて、本当に息子を心配する母親になったつもりでいるのかもしれない。
ハハハと笑い声が漏れた。香水のキツい香りと肌色が鮮明に蘇り、胃がひくつく。すぐに酸っぱい匂いがせり上がってきて、口元を抑えて足をもつれさせながらトイレまで駆け込む。便器に内容物を吐き出すも、大した物を食べていない青木の口からは少量の胃液が垂れるだけだ。肩で息をしながら便器に顔を突っ込んで嘔気が過ぎ去るのを待つ。金槌で殴られ続けているみたいな頭痛が起こった。玄関では、葉書が傘から滴り落ちる雫を受け止め、インクを滲ませている。
空がオレンジ色に焼けて青木がトイレから這い出しても、日が沈み布団の中に潜り込んでも、時計の短針が十二を過ぎても、諏訪は帰ってこなかった。
沈黙する扉を見つめるのにも飽きて、のそりと起き上がって冷蔵庫を開けようとすると、その上に小さな刃物を発見して手に取る。
何の躊躇いもなく瘡蓋だらけの腕に押し当ててスッと花柄のカミソリを引くと、ぶちぶちと皮膚が刃に引っかかって破ける音がして、ぷつぷつと血の玉が赤い線の間に浮かび上がってくる。握り締めていた掌の力を緩めると大量の汗が光っており、足の裏もじっとりとしていて不快な気持ちになった。
そうして青白い腕を伝ってボトリと血が垂れるのを見届けたら、全身はすっかり幼稚な高揚感に浮かされていて、何本も線を引いていった。
黙っていた痛みがちりちりと現れてくると、途端に滑稽に思えてきて肉片がこびりついたそれをぽいと放り投げる。かしゃんとチープな音が部屋の闇に溶けた。
青木は、どうしたらこの惨めで情けない気持ち大人しくしてやれるかを考えた。考えて、また絶望的な焦燥感に襲われて、副作用も知らずに集めた錠剤が突っ込んである紙袋の中から適当に薬を掴んで口に放り込み、ボリボリ音を立てて噛み砕いて嚥下した。布団に埋まると頭が混濁とし、シーツにじわじわと赤が広がっていく。
「諏訪」
自分のものじゃないような声でそれは確かに自分の口から出て行った。ぼうぼうと不愉快な耳鳴りでよく聞こえないが、かさついたみすぼらしい声音に聞こえる。苛立って腕を振り上げようとして、ドアノブにぶら下がっているであろう傘を思い出し、少し可笑しくなって息を吐いた。身体が地面に沈み込んでいくのが、重くて気持ちがいい。喉がからからと渇き、鼻の奥もつんと渇いている。
「諏訪は、どうなりたいの。ねぇ、諏訪の思い描く先に、僕はいる?」
青木は言って、おこがましいなとまた笑った。早く会わなきゃいけない気がして布団の上を泳いで、それは自分の思い過ごしかもしれないと気づいた。しかし、諏訪が寂しがっているかもしれないという心配がまた浮かび上がる。
「大丈夫、諏訪、大丈夫だから。長島はいなくなったけど、僕はまだここにいるから」
頭の中にまで、やかましい煙突の煙みたいな音が蔓延する。しだいに、さっきまでこもっていた耳がノイズを拾い始めた。降り続く雨の音、タイヤが水たまりを踏み潰す音、猫の鳴き声、自転車のベル。再び、胃がひっくり返るような嫌悪感が襲い掛かるが、青木は指先の一つ動かせないでいる。
僅かな尿意を感じ目を剥くと、心音で揺れる天井に星がきらきらと光っていた。瞼が降りる前に、青木は自分の笑い声を聞いた。
「お前、これ、どうしたんだよ」
我が物顔で青木の家の玄関をくぐった諏訪は、隣人が寝ているであろう時間帯だというのに大きな声で大袈裟に驚いてみせた。これというのは、布団に赤黒く広がった染みのことだ。昼に起きた青木は、後で新しいシーツを買いに行こうと思っていたのだが、すっかりこの時間まで寝入ってしまっていたのだ。
「来る時間考えてよ、眠いよ」
ドアを閉めて鍵をかけながらぼやく。
「いや、これ何だって、血か?大出血じゃねぇか」
「トマトケチャップを間違えてかけちゃったんだよ」
脳の回転が鈍く、また寝起きの頭で諏訪の相手をするのが面倒で、あまりにもひどい嘘を吐いた。酒でも飲んできたのか機嫌のいい諏訪は、にやにやした面で青木と布団を交互に見る。
「布団にケチャップをかける人間の心理ってやつは、恐ろしいと思わないか?俺は思う。絶対に病気だね、大病だ。医者に診てもらった方がいいぞ」
「うるさいなぁ、早く寝てくれ」
「俺はトマトに抱かれる夢なんか、見たくはないな」
「だったら畳で寝ればいいよ、台所の床もトイレの床も空いてる」
諏訪はまだにやにやしている。
電気の紐を三回引いて灯を消し、倒れるように布団に身を投げた。昨晩、ワタに血を吸わせたせいか、全身がだるくて立っているのも苦痛に感じるほどだった。
すぐに諏訪が隣に寝そべった。畳がみしりと音を立てる。知らないシャンプーの香りが鼻をくすぐる。わずかに触れている背中がぬくい。
一式の布団に男二人が収まるはずもなく、お互いがちょっとずつ畳にはみ出すが、文句は言わない。以前はもう一式あったのだが、酔い潰れた長島が盛大に嘔吐したためおじゃんになったのだ。二つの布団を敷いて三人で寝転がった頃を想起するが、何を話したのかは全く思い出せなかった。
「あ、もしかしてお前、ついに初潮を迎えたのか?」
「面白いことを言うね、諏訪。外で寝たってまだ死なない季節で良かったな」
もぞもぞと起き上がって玄関を親指で指すと、諏訪は笑いを噛み殺した声で「風邪をひくから、嫌だ」と言った。しばらく一人で笑っていたと思えば、ぐぅぐぅと憎たらしいいびきをかきはじめた。
青木は大きくため息をついて、諏訪を起こさないように身を寄せ、まぶたを下ろす。頭に血が集まっていくのがわかり、眼球の奥がじくじくと痛んだ。痛みに意識を集中させていると、次第にとろけはじめてゆるゆると底に落ちていく。
いつの間にか、青木はあたたかい光に包まれて立っていた。あたり一面、大きな葉っぱをつけた稲がそびえ立っていてぎょっとする。風が吹くたびに黄緑色の細い紐の束がそよぎ、木崎優美の金色の長い髪を彷彿とさせる。無数の稲は、全てトウモロコシを実らせているらしかった。
「ほら、食えよ」
それが当たり前であるかのように青木と肩を並べていた諏訪が、ぎっしりと実が詰まったトウモロコシを差し出してくる。規則正しく並ぶ四角くて黄色い粒を見て嫌な気持ちになった。
「いらない、嫌いなんだ」
「どうして」
「ぷちゅっと潰れて甘い汁が飛び出るところが気持ち悪い。実がぐにゅぐにゅしてるのも嫌だ」
「農家の人に謝れ!!」
素直に答えたのに、ものすごい力で後頭部を鷲掴みにされて、トウモロコシのヒゲが付いていない方を口に押し込まれる。声は怒っているが、諏訪はにこにこと楽しそうに笑っている。抵抗しようにも力が全く入らないため、恐る恐る齧り付くとグミのような人工的な甘さが舌に伝わった。こんな味だったか?なんだ、意外と悪くないじゃないかと思い直していると、トウモロコシは緑色の芋虫に変わっていた。噛み潰せば噛み潰すほど甘い液体が溢れ出し、ぐねぐねと動き回るので、青木は笑った。諏訪はもうずっと笑っている。
トウモロコシ畑だと思っていたそこは、ごみ処分場になっていた。扉が外れかかっている冷蔵庫や電子レンジ、水浸しの洗濯機や錆だらけの自転車などが所狭しと積み重なっている。青木は飛び上がるほど嬉しくなって「ここで暮らすのはどうだろう」と言う。
「ここになら何でもあるよ、酷いことを言う人もいない。仕事も勉強もしなくていいんだ。ねぇ諏訪、どうかな」
「名案じゃないか、やっぱりお前は頭がいいなぁ」
諏訪に褒められた青木はその場でくるくると回った。ごみの山のあちこちに丸っこい電飾が散りばめられていて、それがついたり消えたりする。幼い頃に一度だけ乗ったメリーゴーランドから見た景色が脳裏に蘇る。色とりどりの風船が空高くへ向かって飛んでいき、薔薇にガーベラ、パンジー、チューリップなどの小ぶりな花が宙を舞う。
これはハッピーエンドだ、完璧な幸せだ。ああ、なんて素晴らしい世界なんだ!青木が歓喜に震えていると、パァンと軽い音が響いた。祝福のクラッカーかと思い音のした方を見れば、諏訪が銃口を向けて、煙を立ち上らせている。腹があたたくなり、足が萎える。撃たれたのだと理解した時には、ガラクタだらけの地面に頭をつけていた。
「いつの間にそんなものを」
「運よくトウモロコシ畑になっていたから収穫したんだよ」
そうだったのかと青木は納得する。諏訪が無邪気な子供のような笑顔を浮かべて慣れた動作で銃のスライドを引く。
「青木、お前は必要ないんだよ」
トリガーに人差し指をかけるのが見えて、これ以上ないくらい幸せな気分で目を閉じた。
瞬間、ビクンと身体が大きく揺れて暗闇の中に放り出される。殺風景な部屋の中で、布団からほとんど全身をはみ出した状態の青木は汗にまみれていた。自分と、寝床を占領しているもう一人の息遣いだけが聞こえ、どこからが夢だったのかと混乱する。そして、腹にずっしりと乗っかっている諏訪の足を見て、どこからも何も全て夢であったとわかった。
指先だけが極端に冷たい足を掴んでどけようとした時、酸っぱい匂いがふわふわと鼻をくすぐった。潰れた梅干しが脳内に映し出されたが、すぐにそれではないとわかった。畳の上に、注射器が転がっていたからだ。
慌てて起き上がって、手探りで紐を探して引っ張る。ぐわんぐわんと目が回り、蛍光灯が何度か点滅して部屋が明るくなった。
大の字になった諏訪が眩しそうに腕で顔を覆う。その肘付近からは赤い線が流れていて、耳かきやスプーン、ライターといった道具が乱雑に置かれている。そして、灰色の粉がアルミ箔の上で散乱していた。
「えぇ、ちょっと待て、嘘。嘘だろ」
青木は一旦、明かりを落としてみた。何も見なかったことにしたいと思ったからだ。これも夢の続きであってくれと願ったが、足元に転がる針が赤く濡れた注射器は紛れもなく現実の一部だった。
足と腕を投げ出し、だらしなく開けた口からよだれを垂らしている諏訪は、僅かに胸を上下させ、月の明かりを受けて深い闇の中で生を主張していた。
重力が倍にでもなったみたいな身体を操縦しアルミ箔を掬い上げて、まるで害のないようなフリをして乗っかっているヘロインの粉を流しに捨て、蛇口を捻る。シンクに水がドボドボとぶつかり、粉と溶けて排水溝へ流れてゆく。やけに大きな音に感じて耳を塞ぎたくなった。
「馬鹿だろ。いや、わかっていたけれど、ここまでの馬鹿だったなんて。よりにもよって、タチの悪い女に捕まりやがって」
逆流したのであろう血がゆらゆらと泳ぐ注射器を踏みつけて、萎びた諏訪の元へ向かう。机の上で倒れているグラスからは透明な液体が吐き出され、その中で一匹の羽虫が死んでいた。
「聞いてる、聞いてるぞ、違う。あの女のことを悪く言うなよ、青木。柔らかくて締まりが良い綺麗な女なんだ。俺を救ってくれると言った、証拠に俺は今すごく気持ちがいいんだ。優美のことなんかもうすっかり忘れちまったんだ、本当だ、本当なんだよ。あの女とヤるとな、頭が吹っ飛びそうなくらい気持ちがいいんだ」
眠ったと思っていた諏訪が突然、破裂したように喋り出す。呂律が回っておらず聞き取りにくい長台詞が耳に届き、それが段々と冷え切った心の奥底を火照らせる。衝動的に諏訪の肩を右足の指で蹴り上げるように押すと、ごろりと半回転。燦燦とした瞳で青木を見上げているのが、まっ暗闇の中で明確に映し出されている。
「悪かった、怒るなよ、本当はこの家でする気は無かったんだ。でも我慢ができなかった、女は悪くないんだよ。お前も会ったら気にいると思うね、賢いやつなんだ。あぁでもお前にこんなことを教えられたら困るから、やめておいた方がいいな。女は、俺と家族になりたいと言ったんだ。今度こそ俺は幸せになれるんだよ、青木」
諏訪が歌うように言葉を紡ぐ。開けっ放しの口からは絶え間なく笑い声が漏れている。青木はたまらなくなって、諏訪の電源を落としてしまいたくなった。昔よく遊んでいたひとりでに喋り続ける人形は、背中のスイッチを切れば大人しくなった。でも諏訪の背中にスイッチがない事は知っているし、そう考えてる間も諏訪は壊れたままだ。
「あんまり喋るなよ、舌を噛むよ」
「何も心配することはないぜ、青木。こんなに気分が良いのは生まれた時以来だ、俺にはわかる、ハッピーエンドがすぐそこに見えているからな」
青木は、トウモロコシ畑の夢を思い出した。
「諏訪にとっての幸せって、どういうものなの。どうなれば、諏訪は幸せになれるの」
「決まってるだろ、好きな女と結婚して、子供を産むんだ。俺のことを愛する家族と暮らすんだよ。そのために、沢山金を稼がなきゃなぁ。大きい家を建てるんだ。俺は家族っていうものがずっといなかったから、欲しくて欲しくてたまらないんだよ。最初から持っているお前には、きっとわからないだろうが」
柔らかい声を聞いて、冷水を浴びせられたような心地になって立ち尽くす。独りよがりな感情が次から次へと湧いてくるので、それらをひとつずつ確実に潰していった。夢の続きの二発目を青木はしっかりと受け取って、ささくれ立っていた心が穏やかなものになる。
「そうか、うん、上手くいくと良いね」
「俺は大丈夫だよ、今度こそな。それよりも、お前はどうなんだ。俺はお前が心配だよ、お前はどういう風に生きていきたいんだ?良い大学に行って、大企業にでも入るのかな。ギターは続ける?」
「僕はいいんだ、今だけでいい。もう少しだけ今が続いてくれれば、それでもういい」
「お前、変わってるよな」
そう言う諏訪の声はすっかりいつもの調子に戻っていて、不自然な笑い声もやんでいた。青木は喉に痛みを覚えるほど乾いていたことに気づき、相変わらず全身を伸ばしきって寝っ転がっている男を跨いで流しの前に立ち、グラスに水道水を溜めて喉を潤す。冷たい塊が身体の中心を通っていくのがわかる。
諏訪も飲むだろうと冷蔵庫を開けてポッドを掴んだ青木に「お前、何の夢を見てたんだ?」とのそっと半身を起こした諏訪が聞いま。
「ずっと笑ってたから気味が悪くてさ、蹴って起こしてやっただろ。どんな幸せな夢を見てたんだよ」
「トウモロコシが芋虫になって、僕がごみ処分場でメリーゴーランドになって、諏訪に撃ち殺される夢」
「はぁ?」
断片的に説明すると間抜けな声をあげて、次いでゲタゲタと笑い出す。
「お前、危ない薬でもやってるんじゃないのか?」
「本物のヤク中に言われたくないよ」
諏訪は小刻みに震える手でグラスを受け取り、苦しそうに笑い続ける。青木は全然笑えないなと思ったが、諏訪があまりにも楽しそうだから釣られて笑ってしまった。物憂げな夜の中に二人の歪な笑い声が沈殿していく。
朝になったら、諏訪がこの会話を全部忘れていればいいなと思った。
四、
空気がすっかりと冷え込んで、吐く息が白いもやとなって空中で離散する。
いつか吸ったマルボロの味を回顧しながら階段を下り、諏訪もその後に続いた。青木はこの頃、諏訪がいつ階段を踏み外すか気がかりでならなかった。しかしそんな心配もよそに、ジャージの上からジャンパーを羽織って着膨れしている男は大きなあくびをしつつ「部屋の中と外の温度がほとんど変わらんというのは、いかがなもんかね」とヘラヘラしている。青木は概ね同意しながらも、そんな文句を吐きつつ裸足にサンダルなのはどういう了見なんだと眉間を揉んだ。
戸を二回叩くと、「はいはい」とゆったりした声とのしのしと歩く音が聞こえてきて、程なくして大家がぬっと顔を出す。
「いらっしゃい。もう出来てるよ、入った入った」
「お邪魔します」
「おじゃましま〜す」
初めて足を踏み入れた大家の家は物で溢れかえっていて、青木と諏訪は物を踏まないようにそろそろと歩いた。台所には白い棚が設置されていて、ガラスの奥で無数の食器たちが積み重なっている。その下では、雑誌の束や巨大な犬の置物などが無秩序に並んでいる。和室に入るとド真ん中に正方形のコタツが設けられていて、その周りを箪笥やテレビ、立派な仏壇や本棚が取り囲んでいた。コタツのテーブルの上では、大ぶりな鍋がぐつぐつと中身を煮立たせている。
暖かい空気が流れる部屋をきょろきょろと見回して、本当に自分の部屋と同じ間取りなのかと唖然とした。
大家が薄い牡丹色の布を持ち上げてコタツの中に入り込んだので、青木はその右隣に、諏訪は大家の正面に座った。冷えた足の先が途端に温まる。
「ああ、あったけえや。ここは天国か」
諏訪はそう言ってテーブルの上に突っ伏した。少し前に青木が切ったために長さの揃っていない髪が散らばる。大家は諏訪の言動を面白がっているらしく、喉の奥をくつくつ鳴らしながら鍋の蓋を取った。もわっと蒸気が上がる。茹で上がった肉と春菊、白滝に白菜に豆腐といった具材が美味そうに揺れている。
「青木くんの部屋にはコタツがないらしいねぇ」
「そうなんだ、俺はこいつのことを修行僧か何かと思う時があるよ。毎晩毎晩寒くて仕方がない」
「毛布を沢山やってるだろ、湯たんぽだってある」
「もっと文明の利器を活用しようぜ、今何世紀だと思ってるんだ?」
青木と諏訪がやり合っていると、大家が小皿に具をよそってそれぞれの前に置いたので、停戦とした。三人は手を合わせて「いただきます」と声を揃える。
「遠慮しないで食べな。いつも青木くんが美味しいものをくれるから、そのお礼だよ」
「青木は婆ちゃんのことが好きなんだってよ」
「あらぁ、ババア冥利に尽きるね。あの世の旦那に嫉妬されちゃうよ」
白滝をすすりながら仏壇に目をやると、短髪に顎髭をたくわえた彫りの深い男がモノクロに笑っている。目尻にシワが寄っていて年の功を感じる笑顔だが、どこか幼くも見える。
「旦那さん、いつ死んじゃったの?」
青木がそう聞くと、コタツの中で諏訪が足を蹴った。青木は無視を決め込む。
「七年前とかだったかね」
「そうかぁ、じゃあ婆ちゃん、さみしいね」
蹴ったくせに、話に食いついたのは諏訪だった。テレビ画面には複数の男女が何やら楽しそうに談笑する様子が映し出されていて、青木はその音声を聞き流しつつ鍋の中で揺らめいている白滝を捕まえては小皿に移す。
「あははは、まぁ寂しくないと言ったら嘘になるね。反面で清々する気持ちがあったのも事実だけどね」
「え、どうして?もう好きじゃなかったとか?」
「四十年も一緒にいたからねぇ、好きとか嫌いじゃなくなってたんだよ。もう、生活の一部みたいになっちまってたんだねぇ」
大家は自分の箸で肉を取って青木の皿に次々と放り込み、「若者は肉を食べな」と諏訪の皿にも肉を盛る。
「ずっと好きでいるのって難しいと思う?」
肉を口に詰め込んでいる諏訪がもごもごと喋る。暑くなってきたのかジャンパーを脱いでジャージの袖をまくり始めたのを見て、腕の注射痕に大家が気づいてしまうのではないかと肝を冷やした。しかし大家は気にしたふうもなく、クタクタになった白菜を咀嚼している。
「好きっていうのは、恋愛感情ってことかい?」
「そうそう」
「燃え上がるのは一瞬で、いざくっついちまえばあとは延々と日常が続くだけだからね。愛情はあっても、いつしか恋ではなくなるのさ」
「へぇ、そういうもんかぁ。なんか悲しいな」
「そうでもないさ、むしろ恋じゃなくなってからが楽しいんだよ。恋ってのは一種の病気だからねぇ、正気に戻った男と女はそこで初めて本当の相手を知ることになる。そこからが本番さ」
大家が不敵に笑い、そおっと豆腐をすくう。青木は二本の棒の上で震えている豆腐を目で追って、「シラフで見た旦那さんは、どんな人だったの?」と聞いてみた。
「そりゃあいい男だったよ、私が選んだだけあってね。頑固で子供っぽいところが欠点ではあったけど、あの人との人生は素晴らしいものだった。もういつ死んだって悔いはないんだけど、なかなかお迎えが来てくれないのさ」
「さみしいこと言わないでよ」
咄嗟にそう口にすると、諏訪が目を丸くした。大家は恍惚とした表情で豆腐を頬張り、ふと思い出したかのように「ご飯いる?」と問う。青木が「いらない」と答えると諏訪も頷き、それから何を考えているのか天井を見上げ、箸を咥えたまま首を傾ける。
「でも、すごいよなぁ四十年って。五年後とか十年後ですら想像できないってのに」
「私からしたら、あんた達の歳なんてまだ生まれたばっかりみたいなもんだよ。物語でいうプロローグさ。これからどんどん面白くなっていくんだからね」
のっぺりした声からは励ましや同情などの含みは感じられず、大家は本心からそう思っているようだった。
しかし、と青木は思う。読み続けていっても一向に面白くならない本だってそこらじゅうにある。むしろ、あまりにもつまらなく退屈で、または辛気臭くて悲惨で、プロローグが一番マシだったなんてこともあるんじゃないだろうか。そこまで考えて、それらを自分の中だけにしまい込んだ。持論を口に出したところで共感されないことは、もうずっと昔から知っている。
青木と大家が鍋をつついていると、箸を手に持ったまま黙りこくっていた諏訪が言う。
「プロローグって、どういう意味?」
大家が盛大に笑った。
礼を言って大家の部屋を後にし、再び寒空の下に立つと、骨の奥から凍っていくような心地になった。午後の七時を過ぎたくらいなのに、空はすっかり暗くなっていて星さえ見えている。青木は大家の「また二人でおいで」という言葉を反芻しながらコートのポケットに手を突っ込んで寒さを紛らわせた。
「酒でも買いに行かないか」
顔を青くした諏訪が言う。
「もう帰った方がいいんじゃない」
「俺は酒が飲みたいんだ」
高らかに意思表明をしてさっさと歩いていってしまうので、肩にかけていた黒いマフラーをぐるぐると巻き直して後を追った。少し後ろを歩きながら諏訪の様子を伺うとガタガタとネジ巻きのオモチャみたいに肩を震わせていて、それが寒さからくるものなのか、はたまた別の理由なのかは判断がつかなかった。
諏訪は寒い寒いと呟きながらも額に汗をかいている。
「諏訪、大丈夫?」
「最近身体のあちこちが痛くて困る、今年の冬は妙に冷えるしな。青木、コタツを買おうぜ」
「この前布団を買ったばっかりじゃない。僕にそんな余裕はないから諏訪が金を出してくれるならいいよ」
「実はな、仕事を辞めたんだ。辞めたというか、クビになったというか」
道路の中央でゆらゆらと歩を進める諏訪が淡々と言った。車通りの少ない道とはいえ、自由が過ぎるのではないか。前を歩いている諏訪の表情は見えないが、きっと何の感情も浮かべていないのだろうと思った。
「そうか、まぁしょうがないよ。しばらくゆっくりしればいいさ」
青木は、諏訪が仕事をしていないことにとっくに気づいていたため、驚きもせずにそう声をかけた。というか、朝方に帰ってきて寝て、昼過ぎに起きて出かけていく男がまともに働いていると誰が思うのだろうか。おまけに腕には点々と穴が空いていて、人の家に酸っぱい匂いを持ち帰ってくるのだ。少しは取り繕う姿勢を見せたらどうだ、と呆れていたぐらいだ。
「悪いな」
弱々しく謝った諏訪は、次の瞬間には足をもつれさせて体勢を崩し、コンクリートに額を思い切り打ち付けていた。
青木は心臓がきゅっと縮み上がる思いで、うつ伏せで動かなくなった諏訪に駆け寄る。
「諏訪、諏訪!大丈夫?頭からいったろ、今」
肩を抱いて起こしてやると、眠たそうな目で見上げられた。ただでさえ薬に侵されている脳みそがさらにやられてしまったのではないかと心配になり、指を二本諏訪の目の前で立てて「これは?」と聞くと「指」と返ってきてますます不安になる。頭を打ったはずの諏訪は何故か鼻血を垂らしていて、のろのろと上半身を起こしその場に座り込んだ。
「俺はたまに、気が狂いそうになる時があるよ」
はっきりとした口調に安堵する。鼻血を流しっぱなしにしたまま、諏訪がマルボロを血に塗れた口に咥えて火をつけた。青木はその動作をぼんやりと見下ろしている。
「でも、いくら消費税が上がって給料が下がっても、上司に殴られても女にフラれても仕事がなくなっても、友達が死んでも、俺たちは簡単には狂わない」
唇をほとんど動かさずに、かったるそうに言う。唸るように低い声を一つも漏らさずに受け取ろうと、青木は耳をそばだてることに集中した。
「ギリギリのところで生かされてて、おかしくなんてなれないんだ。異常なぐらい正常であり続けるんだろうな、死ぬまで」
煙と一緒に、感情の欠落した言葉が吐き出された。サンダルを放り出した諏訪の素足は冷え切ってしまっているのか、赤くなっている。青木は首に巻いていたマフラーを外して痛々しい足元にかけてやった。剥き出しになった首からどんどんと体温を奪われていくのを感じつつ、概ね同意だなと思う。
「いっそ、狂人にでもなれた方が楽だろうね」
言って、並んで腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが布越しに伝わってきて悲鳴をあげそうになった。コタツの温もりが恋しい。
諏訪に煙草を一本よこすようにと手を差し出すと、「身体に悪い」と払いのけられた。お前がそれを言うのかと思うとなんだか馬鹿馬鹿しくなって、そのままごろりと道路に寝転ぶ。氷のようなコンクリートと接する部分から全身に冷ややかな温度が蔓延し、泣いてしまいそうだった。
あれは、何月ごろの話だっただろうか。生暖かい温度と草の匂いと、ぱらぱらと降る桜の花びらをよく覚えている。
ライブ本番が迫る中、出演するハコの近くの土手で、長島と共にアコースティックギターを抱えて練習と称しだらだらと駄弁っていた。男女二人を乗せた自転車が通り過ぎると、長島は唐突に「ねぇ、青木はそのケがあるの?」とゆったりした声で言った。ピンと来ない青木は「何が?」と質問で返す。
「女が嫌いなのかなって思って」
「そういうのはよくわからないんだ。でも多分、男も女も好きじゃない」
「もったいないなぁ、女を抱きたいとも思わないの?あんな気持ちいいものを知らないなんて、もったいないよ」
そう嘆きながら、ギターを原っぱに置く。いよいよ練習する気が無くなったなとおかしくなった。長島はしょっちゅう女の体の良さについて熱弁を振るっていて、周囲に「アイツは女が好きなんじゃなくて、女体が好きなだけなんだ」と笑われていたし、本人もそれを否定しなかった。細っこくて、欲を感じさせない清楚な顔立ちをしているため、そのギャップを周囲は面白がっていて、長島自身もそれを上手く利用して立ち回っているようだった。
その熱弁が青木個人に向けられたのはこの時が初めてだった。
「思うもんか。セックスなんて痛くて辛いだけだ」
口をついて出た言葉に、青木はすぐに後悔した。
「驚いた、経験があったんだ」
長島の言う経験とは程遠いであろう行為を思い起こして、心臓から嫌な音がし始めた。物心ついた頃から散々叩き込まれた肉と肉が触れ合う感じ、物のように扱われる感覚、野生動物みたいな下品な荒い息遣い、全てが昨日のことのように生々しく再生されて、身体に詰まっている全部を吐き出したくなり手で口元を覆った。
「ごめん、嫌なことを聞いたみたいだ。大丈夫?」
俯いていると長島が珍しく焦った様子で細長い指を伸ばしてきたため、それを「大丈夫」と牽制する。緩やかな風が薄ピンク色の花びらを運んできてはそこら中に散らしていて、行き場をなくした長島の手が一枚の花びらを捕まえた。
「本当に?」
「本当に」
納得していない顔だったが、それ以上追及してはいけないと判断したらしく、頷いてから続ける。
「まぁ、青木がソッチだとして、誰に言おうってわけじゃないから安心してよ。もちろん諏訪にもね」
「そうしてくれると助かる」
青木があっさりとそう返すと、一瞬間があってから、長島は嬉しそうに笑い出した。
「いやぁ、健気だねぇ」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、「君らがどうなっていくのか、楽しみだなぁ。ちゃんと結末を見届けたいんだから、青木が頑張ってよ」と楽観的に言ってのけた。
青木は「見世物じゃないんだけど」とふてくされながらも、悪い気はしなかった。この男ののんきな反応を見て、肩の荷が下りたような、許されたような気持ちになったのだ。
「あ、男も女も好きじゃないってことは、俺のことも好きじゃないの?」
真剣な顔で言う長島に「長島は嫌いじゃないよ」と返せば、ふくれっ面で中指を立てられたので、けらけらと笑ってやった。
見届けたいと長島は言った。黒く縁取られた無表情が、カラフルな花が、藤本の濡れた目元が蘇る。
もう少し待ってくれても良かったんじゃないかと、文句を言いたくなった。もし長島がまだ生きていたなら、何を話しただろう。話すことができたなら、何かが変わっていただろうか。そんな途方も無いことを、いつまでも考えていた。
五、
終わりは、ほどなくして訪れた。
進路面談の日程がクラスの人数分羅列している藁半紙を通学かばんに乱暴に突っ込み、先端が痛いくらいに冷えている足でもたもたと階段をのぼる。ひやっとする鍵を鍵穴に差し込んで右に回すが、あるはずの手応えを感じない。不審に思ってノブを捻ると戸が開いたので、昨日から姿を消していた諏訪が戻ってきているんだろうなと思い部屋に入った。
寒々しい光が窓から差し込む部屋に、確かにそれはいた。
トイレから這い出している途中だったようで、腕を面白い方向に折り曲げて床に伏している。その身体からは骨の存在を感じられず、タコを連想させた。焦げた匂いが充満し、針の錆びた注射器が流し台に乗っかっている。
「うちでやるなって言ってるだろ。あとちゃんと鍵をかけてよ」
内側から施錠して、マフラーを外しカバンと共に床に放る。
近頃、諏訪は言葉通りに立派な薬物中毒者になっていた。見たところ仕事もしておらず、探しているそぶりもない。入れ込んでいる女とやらのところに出かけて、ラリって帰ってくるだけだ。青木は何を言うでもなく、ただ諏訪の世話を焼いた。諏訪の行動を止める術を知らなかったし、止める資格が自分にあるとも思えなかったからだ。
コートを脱ごうとした青木は、そこでようやく異変に気がついた。諏訪が、まるで犬のように短く下手くそな呼吸を繰り返しているのだ。
「諏訪?」
呼びかけても返事はない。胸にざわざわと不安がこみ上げる。恐る恐る近づいて首筋に触れるとひどく冷たく、ぬるぬるとした汗を流して小さく痙攣し、薄眼を開けて「痛い」としきりに呟いている。
これは、まずいんじゃないか?
本能的に危険を察知し助けを呼ぼうとして踵を返すと、諏訪の手が青木のコートの端を握った。どこにそんな力が残っているんだと驚くほど引っ張られて、青木はその手を外そうと振り返る。淀んだ黒目と視線がぶつかった。拳をこじ開けようとするが汗で滑って苦戦する。青木も冷や汗をかいている。
「離せ、救急車を呼んでもらおう」
「いい」
掠れて消えそうな声が提案を拒否した。
「よくないだろ、死ぬぞ!」
「いい」
慣れない大声を出しても、諏訪はコートから手を離さなかった。次いで、「もう、たくさんだ」と諦観したように呟いた。どこかで聞いた言葉だと思ったけれど、どこで誰が言ったのかは思い出せない。
「ずっと、早く終わらせたいと思ってたんだ、本当は」
濡れた口元が僅かに口角を持ち上げる。その独白は、青木が奥底に隠していた気持ちの蓋を開けて、抗う術もなく完璧に共鳴してしまった。足の力が抜けてへたり込むと、諏訪の手もぼたっと重たい音を立てて床に落ちる。陽射しの中で、沢山の埃が舞っているのがよく見えた。
諏訪が小さく「愛されたかった」とこぼした。青木は口を開きかけたが、その言葉が諏訪にとって何の救いにもならないと気づき、無理やり押し込んだ。そうして、苦しそうに膨らんだ胸を見ていると、いつかの言葉が蘇る。
ー俺を救ってくれると言ったんだ
ー今度こそ俺は幸せになれるんだよ
「そうか、やっぱり駄目だったか、誰でも」
観念した青木はコートをゆっくりと脱いで、丁寧に畳む。畳み終えると諏訪のポケットに入っているマルボロの箱から一本だけ抜き取り、床に落ちていたライターのフリントを回した。火をつけるのは初めてだったためか手こずって思いっきり息を吸い込んでしまい、重たい煙が肺に押し寄せてむせ返った。
それからじっくりと時間をかけて一本の煙草を吸った。
冷蔵庫の電子音と巻紙が燃える音、それから諏訪の呼吸する音だけが聞こえていた。苦くて舌が痺れた。灰がぽとぽと床に落ちて短くなった煙草を諏訪の口元に運ぶ。短い煙が浮遊してから消えるのを見届けて、吸い殻をぎゅうっとすり潰した。
「さすがに怖いな」
諏訪がひび割れた声で、途切れ途切れに弱音を吐いた。
「大丈夫だよ諏訪。僕がやる」
安心させるように優しく言い聞かせてから、青木は諏訪に覆いかぶさって喉元に手を回した。指が柔らかい肉に埋まっていく。真ん中の硬さを持った塊が邪魔だった。
鈍い心音が指を食い破って血に混ざって流れてきて、心臓が痛いくらいに鼓動を早める。更に締め上げると、諏訪が死にかけの蝉みたいな声で鳴いて、青木の手首を強く握った。
「諏訪が望むところに行けるなら、僕は」
濁った白目の中で爛々と輝く黒がじっとりと青木を見上げていた。青木は、緩みそうになる両手に無理矢理力を入れた。時折視界がぼやけたが、夢中でやつれた首を絞め続けた。
脳内で、過去の記憶が上映される。
白いTシャツに穴が空いたジーパンを履いている諏訪が、棒アイスを食べながら駄菓子屋の前のガチャガチャを睨んでいて、青木はチューパットを吸いながらそれを見ている。出会って一ヶ月と経たない頃の記憶だ。
「ねぇ、気になってたんだけど」
そう切り出すと、諏訪は顔を上げた。青木は隣接しているペンキが剥げているベンチに腰を下ろして続ける。
「僕と一緒にいてもつまらないんじゃない」
「何でそう思う」
「皆がそう言うから」
「なんだそりゃ」
諏訪が笑う。溶けたアイスが棒を伝って地面にポタポタと落ちた。
「そういう評価って、大抵当たってることが多いでしょ。自分でもそうだろうなって思うし」
「ふーん、そういうもん?」
興味がなさそうにガチャガチャのつまみを捻り、カプセルを拾い上げて落胆する。それから中身ごとカプセルをゴミ箱に投げ捨てて、「俺は楽しいから、どうでもいいよそんなの」と言った。本当にどうでもよさげな声だった。
どうして今、そんなことを思い出すんだろう。
諏訪が動かなくなっても、青木はしばらくの間、首に回した手を離さなかった。温度を失っていく身体に跨ったまま、白くなった顔を見つめる。
諏訪の表情は、見惚れるほどに穏やかなものだった。久しぶりに見るその表情を確認してから、ようやくのろのろと手を離し、疲弊した声を吐き出す。
「僕は、地獄に落ちたって構わないよ」
静まりかえった部屋に、青木の声だけが響いた。手のひらが諏訪のものか自分のものかわからない汗でぬめっていて、気持ちが悪かった。
六、
「ギター、捨てちまうのかい」
大家が間延びした声でそう言うと、青木は一瞬肩を揺らしギターケースから手を引っ込めた。男子高校生にしては華奢な背中が、今日はより一層小さく見える。
アパートの住人専用ゴミ捨て場に棒立ちして振り向きもしない青木のすぐ後ろまでのそのそと近寄り、その視線の先へと目をやると、黒い合皮に黄色のステッチが入ったギターケースが異様な存在感を放って佇んでいた。
「うん、資源回収で持って行ってもらえるのかな」
あどけない顔が大家を見つめる。今までギターをゴミ捨て場に捨てた住人なんていなかったため、少し考えてから無理だろうと結論を出したが、それをそのまま伝えるのも悪いような気がして「どうだかねぇ」と曖昧に返事をした。
強い風が吹いて、羽織っていた毛皮のコートの前ボタンを留める。まだ日が出ているとはいえ、十二月の気温は老体を芯から冷やしていく。こすり合わせた両手に息を吐きかけながら、ワイシャツ一枚でも飄々としている青木の姿を見て若さは恐ろしいと思った。しかし、いくら十代だからといっても軽装すぎるのではないか。
無数のゴミ袋と段ボールの束に囲まれるギターケースを見ていると、数ヶ月前に聞いた話が頭をよぎる。青木とその友人が出会ったいきさつだ。あまり感情を表に出さない青木が、友人である諏訪の話をする時は年相応な顔をするので、その度に大家は子の成長を喜ぶ親のような気持ちになったのだ。確か、二人が仲良くなったきっかけもギターだったはずだ。一緒に演奏したこともある、と話す青木が薄い唇を嬉しそうに歪ませていたことを覚えている。
大家は時折、上の階から聞こえる六弦の音色に耳を傾けていた。しかし、ここ最近はそれが聞こえてこなくなり、少し残念に思っていたのだ。
「大切なものじゃあないの、これ」
「うん、そうだったんだけど、もう必要がなくなったから」
青木はキッパリと言う。
もう飽きてしまったのだろうか。そういえば、死んだ旦那もギターに手を出して、ろくに弾きもせずにやめてしまったことがあった。男は、一度はギターに惹き寄せられるものの、長くは続かない生き物なのだろうか。もったいないとも思ったが、来年は受験があると言っていたし、勉強に集中したいのかもしれない。そう考えて、しかし妙に腑に落ちないのは、青木の表情が奇妙なほどに柔らかかったからだ。
「諏訪くんも寂しがるんじゃないかい?青木くんのギターが好きだったようだし」
思わず諏訪の名前を出すと、青木は口を結んで押し黙り、手のひらを握ったり開いたりした。それから、「諏訪はもう来ないから」とポツリと呟いた。
大家は驚いて「喧嘩でもしたのかい?」と聞いたが、青木は静かに首を振る。
「別のところに行ったから、もう会えないんだ。僕は長島のところにも諏訪のところにも行けないだろうから」
なだらかな声だった。長島という名前に心当たりは無かったが、きっともう一人心を許している友人がいたのだろう。そして何らかの理由で彼らは別々の道を選んだ。若者の決別なんて、よくある話といえばそうだが、無邪気に笑い合っていた少年達がそんな寂しい決断を迫られた背景に思いを馳せ、胸が痛んだ。
「生きてさえいれば、いつでも会えるさ」
慰めにもならないとわかっていながらもそう声をかければ、青木は何も言わずに笑った。寒さからか鼻の頭が赤くなっていて、唇も血の気を感じさせない色をしている。剥き出しの手が可哀想で自分の手を重ねると、氷みたいに冷たくて度肝を抜かれた。青木も驚いたようで、その手をしばらく見つめてから、やがて、小さく鼻をすすった。
灰色だった空には日が昇り始め、うっすらとオレンジの光が混ざり出していた。
かんかん照りという言葉は、今日のために作られたのではないかと本気で思ってしまうような、そんな忌々しい天気だった。
「もうたくさんだ。そう思うよな、なぁ、思うだろ」
三十八円と書いてあるシールが貼りついたおにぎりを貪っていた諏訪が、ボソボソと低く抑揚の無い声で言った。米粒の中に押し込まれていた梅干がべしゃりと地面に落下し、赤茶けた髪で目を隠した彼の黒光りしている靴が、赤くて柔らかいそれを踏み潰した。
気分が悪くなって同時に腹が鳴った青木は、渇いてひりついた喉から声を絞り出す。
「どうしてこんな所で待ってたんだ、早く部屋に入ろう。こんな暑いところにいたら変になるよ、塩分が足りなくなるんだって。あぁでも、摂りすぎたら摂りすぎたで病気になるらしいよ、おかしくない?」
返事はない。
アパートの二階へ通じる、鉄製の錆びた階段。諏訪はその三段目に融合でもしたかのように違和感なく座っていたが、ふと足を上げて靴の裏側を青木に見せる。薄汚れた靴底の中でひしゃげた果肉だけが鮮やかに存在を主張しており、酸っぱい匂いが鼻を通って胃に到達した気がした。
青木は梅干が嫌いだった。
親指と人差し指で諏訪の眉間をトンと押すと、意思のない人形みたいにぐらりと揺れて倒れ、五段目の段差に後頭部をぶつけた。ごぉんと低い音が、寺の鐘の音のように重たく響く。
「痛い、てめぇ」
唸る諏訪の手から溢れた米粒が散乱し、三十八分の三十ぐらいが無駄になった。白い粒が、しおれた海苔の内側から逃げ出して、からからに乾いた砂をまぶしている。青木の額からどわっと汗が噴き出した。
「ほら、早く」
僅かに振動する階段を登り、見慣れた部屋へと向かう。手すりが日の光を吸収して熱を孕んでいた。青木は、学校から担いで来た重たいギターケースをさっさと下ろして冷たい麦茶で渇いた胃を洗いたいと思っていた。しかし、
「待って」
まだ五段目に頭をくっつけている諏訪が制止をかけ、続けて平坦な声で「鍵を無くしたんだ」とぽつりと言った。
青木はそれを聞いて、なるほどと納得がいく。だからこんなに蒸し暑い中、地蔵のようにぼけっと座り込んでいたのか。近所の喫茶店にでも入っていればいいのにという思いは、散らばった米粒に紛れるようにして地面に落下した。
「どうして、どこで」
「わからない、彼女に捨てられたのかもしれない」
「だから嫌だったんだ、僕の部屋の鍵を渡すのは」
「でもお前のうちの鍵が無かったら、俺はどこに帰ればいい」
「彼女の家にでも行けばいいだろ」
ぶっきらぼうに言ってからポケットに手を突っ込み、自分の汗で湿った鍵を取り出す。鈍く光るそれを鍵穴に差し込めば、ガチャという安っぽい音がした。木目の粗い戸を引くと、いつの間にか階段を登ってきていた諏訪が堂々と敷居を跨ぎ、梅干しがへばり付いた革靴を玄関に放り捨てた。
「持ってたんだね、喪服」
転がった革靴をつま先で整えながら、扇風機の前に鎮座する諏訪に声をかける。青木は諏訪と出会ってから一年も経っているのに、彼がネクタイを締めているところをこの日初めて目にした。普段はTシャツにジーパンというスタイルを好んでいる諏訪が正装している様は、どうしてか普段よりも馬鹿に見える。金貸しの下っ端とか、ヤクザ映画の序盤で上の人間に上手いこと言いくるめられて特攻して死ぬ奴とか、法外な値段を請求してくるクラブの用心棒とか、そんな感じだ。
「借り物だよこれは。彼女の元彼の忘れ物らしいんだが、サイズがピッタリで助かった」
青木の抱く感想なんてつゆ知らず得意げに腕を伸ばしてみせる彼は、しかし袖の裾が少し短いように見える。青木は気づかぬふりをしてギターケースを壁に立てかけて「ふぅん」と鼻を鳴らした。
「お前は、持ってるのか?」
「僕は高校の制服で行くよ」
青木は自分が着ているワイシャツをつまんで見せる。
「そうか、お前まだ学生だったな」
首を縦に振ってから冷蔵庫を開けて、今朝作っておいた麦茶を取り出す。まるでサウナのように蒸している木造の部屋に冷気が流れ込んで、一瞬だけ心地よくなり目を閉じた。一口の簡易コンロと流し台しかないキッチンにちょこんと置かれている透明なグラスの群れから、少し悩んだ後に一つだけ手に取り、茶色く透き通った液体を注ぐ。
「青木ってさ、金持ちなんだよな」
扇風機の風を受けて、傷んだ髪をなびかせている諏訪が口を開いた。畳のほつれを日に焼けた指先で弄りながら、小さな机と薄っぺらい布団ぐらいしか物が置かれていない青木の部屋をぐるりと見渡している。
「親がね」
「なんか、偉いセンセエなんだろ?」
「学者。物理学とかやってる」
青木は、この話題に興味がないのを隠しもせずに答える。
「その息子様が何でこんなに汚いアパートに住んでるんだよ、もっといい所だっていくらでも借りられるだろ」
「好きなんだよ、こういうのが」
「お前、マゾヒストか」
送風を独り占めしている諏訪が、不可思議なものを見るような視線を台所に突っ立っている青木に向けた。そんなに暑いのならジャケットを脱げばいいんじゃないかと心の中で指摘しながら、グラスを傾けて麦茶を飲み込んだ。蝉のやかましい鳴き声が締め切った窓越しに絶え間なく聞こえてきて、一匹残らず焼き払ってやりたくなった。そもそも、蝉は何故よりにもよって、ただでさえ暑くて苛立たしい夏に鳴くのだろう、しんみりと心寂しい冬ならまだここまで苛立つこともないかもしれないのに。
空になったグラスにもう一度麦茶を注いで諏訪に渡すと、礼もなしに受け取って喉を鳴らして飲みきり「なにも、こんな暑い時に死ぬことねえよな」と湿った唇を動かした。
「夏が好きって言ってたのにね」
「好きだからこそかもしれないが」
のんびりとした調子でそう言って、諏訪は真っ黒なズボンのポケットからマルボロと汚れたライターを引っ張り出す。人の家だぞと今更言っても仕方がないことはわかりきっているため、火をつける様子を黙って眺めていると、扇風機がメンソールの香りをしけた部屋中に振り撒いた。こもった熱気と煙を吸い込んだ青木は悪心が喉元をせり上がってくるのを感じて払拭するために二度頭を振ったが、振動により余計に気分が悪くなった。
「なぁ、葬式って花とかいるんだっけ」
悪心の原因である煙を悠然と吐き出しながら諏訪が言う。
「いらないよ、必要なのは金だけじゃないかな」
「祝儀か、いくらぐらいが相場なんだ?」
「馬鹿、祝ってどうするんだよ、香典だろ」
差し出された諏訪のくたくたな長財布から三千円を抜き取り、帰り道に文具屋で買った香典袋に包んだ。この三枚は一体諏訪の何時間分の給料なのだろうかと、薄っぺらい札が入った白い包みを人差し指と親指で挟んでみる。ずいぶん軽いな、と思った。
宗派は分からなかったため、無難に『御霊前』と筆ペンで書いたが、字がよれていて不恰好だった。字を書く時、青木は小学生の頃の書き初めの宿題を思い出して嫌な気持ちになる。一生懸命書いても、その出来に納得いかないらしい両親から何度もやり直しを要求され、その度に手ひどく叩かれたものだ。半紙にぼろぼろと涙を落としながら、この行為に一体何の意味があるのだろうと真剣に考えたが、無垢な小学生がその答えに辿り着くことはなかった。今ならば、何の意味もないとすぐにわかるものだが。
まぁ、でも。諏訪の三歳児の落書きのような字よりはまだ読めるだろうし、そもそも諏訪が御霊前という漢字を知っているとは思えなかったため、これで良いのだと自分に言い聞かせる。
「それを吸い終わったら出よう」
筆ペンを机の上に転がしつつそう声をかければ、短くなった煙草を小皿に押し付けて火を消し「あぁ」とだるそうに立ち上がった。扇風機を切って、グラスを流し台に置いて連れ立って部屋を出る。陽炎が立つアスファルトを踏ん付けて、ブレザーを羽織り、酷く遠くに感じる駅までの道のりを歩いた。
「長島、電車に飛び込んだんだってな。ぴょんって、縄跳びでもするみたいにジャンプしてさ、ぎゃりぎゃりーって電車のブレーキ音が鳴ってさ、辺りは血まみれ。肉なんかもそこら中に飛び散って、ホームにいた客は吐いたり倒れたりしたって。売店のババアなんかは、気違いみたいに泣き喚いてたって話だよ」
両の黒目が違う方向を向いている金髪の男がにやにやしながら、青木に耳打ちをした。長島の母親らしき女がすすり泣き、父親らしき男がその肩を抱いている姿を遠くに見ながら、「らしいね」と簡単に相槌を打つ。隣にいる諏訪には聞こえていないのか、男と青木には目もくれずに親族席の方向に目線をやっていた。
黒を纏った人間がひしめき合う会場では坊主の野太い歌声がやけに大きく響いていて、どこか現実味がない。
「お前らさ、長島が死ぬ前の日に会ってたんだってな。何してたんだよ」
どこで知ったのか、男がしゃがれた声を絞って言った。青木は坊主の眩しい禿頭と木魚の滑らかな曲線を見比べながら脳内を整理し、
「いつも集まってる飲み屋があるだろ、あそこで会って二、三時間話しただけだよ。いつもと変わらないように見えた、いや、むしろいつもより機嫌が良いようにすら見えたな」
と事情聴取をしに来た警察に言ったことと寸分違わぬ供述をした。
先日、綺麗とは言い難いが酒もつまみも安く贔屓にしている居酒屋の暖簾をくぐった青木と諏訪は、偶然にも友人の長島と顔を合わせた。彼が一人で飲んでいるなんて珍しいと思ったのだが、「誰かしらが来るだろうと思ってさ」と赤ら顔で笑っていたので、すぐに納得し同じ卓で酒を飲み、飯を食い、最近はライブをしても客が来ないだとか金が無いだとか、ありきたりな会話をして別れたのだ。
訃報を聞いてから何度も記憶を辿ったが、そこに死を匂わせるようなものは無かったように思えた。しかし、それこそが長島の覚悟の現れのようでもあり、青木は閉口した。
「本当か?最後にお前らに何か言い残したりしてないのか」
「特に、何も。いつもと同じようなくだらない話をして、『また』と言って別れたよ」
「へぇ、それで次の日飛び込みねぇ」
男がわざとらしく顎に手を添えて、考えるポーズをとった。喪服にそぐわない金髪が揺れる。葬式にその頭は無いんじゃないかと言いたかったが、辺りを見回せば似たような色の頭がそこら中にあったため、音楽をやっている連中なんてそんなもんかと思い直した。なんせ、黒髪の青木と長島が地味だとか珍しいだとか言われていたぐらいなのだ。
「なぁ、お前らが長島を自殺に追い込んだとか、そんな可能性はないか?」
男は尚もにやにやしながら言った。青木は男が最初からそれを聞きたがっているであろうことを察していたため、心を少しも動かすことなく「さぁな」と返すことができた。しかし、直後に諏訪の声が被さる。
「お前、早くどこかへ行け」
感情が抜け落ちたかのような調子に聞こえたが、僅かに怒気が含まれていることが青木にはわかった。やはり、全て聞こえていたのだろう。
周囲のカラフルな頭達がちらちらと三人の様子を伺っていて、人間は思いの外耳がいいのだと感心した。
「聞こえなかったか?」
「冗談の通じない奴め」
諏訪が再度促すと、男はにやけたまま捨て台詞を吐いて通路の方向へと歩いていった。ぼんやりとその背中を見送っていると、やがて黒い集団の中に溶け込んで見えなくなる。
諏訪が歯を噛み合わせたままぼそっと呟いた。
「誰だかわかりゃしねぇなぁ」
青木は一瞬何のことか理解できなかったが、すぐに諏訪の視線が長島の遺影に向けられていることに気がつく。黒い額に収まっている長島の顔は証明写真か何かなのか、つまらなそうに口を結んでいて、生前の陽気で人懐っこい面影はどこにも無い。
諏訪の瞳はどろりと濁っていた。青木も「うん」と同意した。
それから、葬儀は呆気なくもスムーズに進み、長島の身体は燃やされて、白くてかさかさした骨になった。棺桶が開くことは一度もなかったし、骨も全てが揃っている訳では無さそうだった。ついこの間まで言葉を交わしていた友人がただの肉となり、ついには骨だけになったことが、青木には異様な出来事のように思えて仕方がなかった。
式も終わりに近づき、会食所へは行かずに早々に切りあげようとしていると、二十歳前後に見える女に「青木さんと諏訪さんでしょうか?」と声をかけられた。女は先ほどまで泣いていたことがすぐにわかるほど目が充血し瞼も腫れぼったかったが、声や表情から芯の強さが見え隠れしていて、青木はたじろいだ。
「俺が諏訪で、これが青木です」
「長島から、よく伺っていました」
諏訪の言葉に女は安心したらしく、人の良さそうな笑顔を浮かべる。きっと彼女だな。青木が邪推するとほぼ同時に遠慮という言葉を知らない諏訪が「彼女さんですか?」とぬけぬけと聞いた。
「そうです。藤本と申します」
「藤本さん、俺らねぇ結構アイツと仲がよかったんですよ。青木の家で三人で夜通し喋ったり、ススキ公園の向かいに嫌な爺さんが住んでるでしょ?あそこに花火を打ち込んだこともあったな。ちょっと前なんか、一緒にライブもやったよ」
「私、それ見にいってたんですよ」
「え、そうなの?アイツ、彼女がいるなんて一言も言わないんだもんなぁ」
「隠してたみたいなんです、恥ずかしがって」
「確かにアイツはそういう所があったな。肝心なことは秘密にするんだ」
二人がまるで、まだ長島が存在しているかのように話すので、青木もそこに参加しようとした。しかし途中で、諏訪と藤本に好奇の目を向けている参列者たちと視線がぶつかった。白と黒で揃えられた式場と、色とりどりの花と頭のコントラストに吐き気を覚えた。
青木は一度えづいてから、藤本に向かって
「あの、すみませんでした。僕たち、前の日に彼に会っていたのに」
と軽く頭を下げた。周囲の黒が深くなった気がした。
しかし、藤本はそれを制し
「ううん、私もね、前日に電話したんだけど何にも気づかなかったから。遺書っていうか、殴り書きが残っていて『今までありがとう、じゃあまた』とか書いてあるわけ。死んじゃうっていうのに、またも何もないでしょ。最後まで、よくわからない奴だったのよ」
と慈しむように笑った。
「ああ、ごめんなさい引き止めて。もう帰られるの?」
「はい。ご家族にもよろしくお伝えください」
「ありがとう、お気をつけて」
お悔やみの言葉とやらを述べようかと思ったが、更に気分が悪くなりそうだったため会釈だけして歩き始める。諏訪に至っては呑気に手なんか振っている。
藤本の姿が見えなくなってから、諏訪が上機嫌な声で言った。
「いい女だったな」
「そうだね」
「長島は酷い男だよ、あんなイイ人を残して死ぬなんて」
自動ドアを抜けて外に出ると、むっとした熱気に襲われて目眩がする。ブレザーのボタンに手をかけている最中に、諏訪がジャケットを脱いで肩にかけてしまったため、青木はボタンを全て外したブレザーのポケットに手を入れてぶらぶらと動かした。
「ってことは、アイツは素人童貞じゃなかったってことか?AVと風俗で借金が膨らむ一方だとかいう話を俺たちは馬鹿正直に信じていたってのに、アイツはあんないい女とよろしくやってたのか」
不服そうな声音で諏訪がつらつらと文句を垂れた。
「長島は嘘をつくのが趣味だったのかもしれないな」
青木は、長島の無邪気なようでいて欺瞞的な笑顔を思い返して言う。
「わけがわからん」
「二十歳だというのも、ホテルの受付をやっているというのも、大槻ケンヂが好きというのも、全部嘘だったりして」
「人間不信になりそうだ」
「人間というのも嘘かもしれないよ」
「アイツは一体、なんだったんだ」
諏訪が数珠を掌で転がしながら笑い声をあげた。肌を焦がすように降り注ぐ夏の陽射しが、黒を纏った二人に突き刺さって、拭っても拭っても汗が滴ってキリがない。大きな雫が目に入って沁み、青木は瞼を痙攣させる。
「青木は、天国と地獄ってあると思うか?」
「無ければいいと思ってるけど、どうして?」
「いや、自殺するとどっちにも行けないって言うだろ。長島はどこに行くんだろうと思ってさ」
式場から離れて駅に近づいてくると、飲食店やコンビニがそこかしこに現れ人も増えてきた。有象無象をぼんやりと目で追いかけながら、死んだ後にまで個々の意識が続いていくなんて、どちらにしろ地獄じゃないかと嘆かわしい気持ちになる。諏訪は死んだ長島の身を案じているらしく、真面目くさった面で「自殺すると、魂がずっと彷徨い続けるって言うよな」などと唱えている。
「諏訪は、天国と地獄どっちに行きたいの?」
「そりゃあ、天国に決まってるだろ」
「そうか。じゃあ僕も天国がいいな」
「じゃあって何だよ」
青木はクスクスと喉の奥で笑って券売機で六駅先までの切符を買い、諏訪は「今日は彼女の所に行く、明日仕事だから」と、三駅先の切符を買った。諏訪に自宅というものが無いことや、彼女の家から職場までが近いことを知っていたため「うん」と返して、改札を通る。
諏訪は彼女の家で泣くのだろうかと考えながら、口を開けて待ち構えていた電車に乗れば、クーラーの恩恵を全身に浴びた諏訪が「あぁ、天国」と感嘆する。青木も「ここが天国か」と深く息を吸い込む。
二駅通過したところで諏訪が思い出したように「ちなみに、ヒトゴロシは地獄に落ちるらしい」と声を潜めたので、都市伝説を信仰する小学生を見守るような心境で、窓枠の中で次々と移り変わる風景をぼうっと眺めた。
アパートに帰ると、腰の曲がった大家がさらに腰を曲げて地面に水を撒いていた。ボタボタと重たい音がして、砂が水を吸ってまだら模様に色を濃くしている。頭のてっぺんで結われている髪を忙しなく揺らしていた大家は、やがて青木の存在に気がついて桶をその辺に置き、ゆっくりと近づいてくる。
「塩、かけてあげようかね」
「うん、お願いします」
葬儀場で貰った紙袋から小さなお清めの塩の袋を探し出して大家に手渡すと、それを乱暴に破って青木の背中に振りかけた。「はい、良いよ」と大家が中々に力強く背中を二度叩く。呼吸が一瞬止まったが、老人のこういった大雑把で豪快な振る舞いを気に入っていた青木は痛みを飲み込んだ。
大家は庭に置いている木製の椅子を二つ引っ張ってきて、「座んな」と言い、片方の椅子によたよたと腰を下ろした。青木がそれに倣らうと、大家はポシェットから青いステンレス製の水筒を抜き取って蓋の部分に中身を注ぎ「飲みな、冷えてるよ」とよこす。骨と血管が浮き出た皮の薄い手から、生白い手に青色のカップが渡る。
「ありがとう」
麦茶かと思って口に含むと、それは紅茶だった。よく冷えていて歯に沁みたが、美味い。「もう一杯ちょうだい」とねだると大家は満更でもないという顔で水筒を傾ける。
「お友達は?」
「諏訪はもう帰ったよ」
「そうなの。じゃあ寂しいねぇ」
今度は飲む前に香りを楽しむことにしたが、嗅いだところで特に何の感想も出てこなかった。らしくないことはやめようと思い、一気に飲み干して返却すると、大家もそのカップで紅茶をちまちまと飲み始める。
「二人は正反対のように見えるけど、仲がいいんだね」
「そう見える?」
「だっていつも一緒にいるじゃないの」
大家の言葉を受け、そうだろうかと思い返してみる。
諏訪は仕事終わりや休みの日にふらっと現れ、青木の部屋に何時間も居座ったり、そのまま布団で眠ったりもする。起きてから仕事に行ったり、休みだともう一泊していくことも多い。青木は学校に行く以外は基本家にいるが、諏訪が週に三度や四度は平気で訪れるため、自家の鍵を渡していた。何せ、お互いに電話機を持っていないから、いつ来るだとかいついないだとかの連絡が取れないし、家主が眠りこけている深夜であっても諏訪は遠慮なくドアを叩いて陽気に「早く開けろ」などとのたまうのだ。
そんな生活をもう一年も繰り返している。確かに、側から見たらいつも一緒にいると思われてもおかしくはない頻度だ、青木はむず痒くなった。
辺りは日が傾き始め、紅茶の香りに包まれる二人に影が落ちる。子供の騒ぐ声や蟬の鳴き声は息を潜め、スーパーの袋を提げた女やスーツ姿の男が歩いていくのが見える。ぐう、と腹から音がして、朝から何も食べていないことを思い出した。
「それに、彼が来るようになってから、青木くんは明るくなったように見えるよ」
大家がくぐもった声で、口をもごもごと動かす。耳の遠い老人に、腹の鳴き声は聞こえなかったらしい。
「それは、そうかな?そうかもしれない」
「ここに越してきたばかりの頃は、元気がなかったからね」
シワだらけの顔の中の黒く濡れた瞳が二つ、まっすぐに向けられる。落ち着かない気持ちになった青木は、その視線から逃れるように赤が滲み出した空を見上げて湿っぽい匂いを嗅ぎながら、去年の初夏の記憶を呼び起こす。
一年前、青木は痣と擦り傷と恥辱感を引きづりながらこの崩れかけのアパートに転がり込んだ。
加虐的な父親の仕打ちと、何も知らないように振る舞う母親の白けた態度に耐えかねて、父親の醜く肥え太った腹の肉にアイスピックを突き刺し逃亡したのだ。ぶよぶよした分厚い肉からは、きっとドロッとした脂が噴水みたいに噴き出すんだろうと予想していたが、実際に出たのはほんの少しの血だった。
父親と母親は、十数年もの間されるがままになっていた内気な息子の突然の反撃に驚いたらしく、呆然としていた。どうして加害者達は、無抵抗の被害者が腹の底で報復の機会を伺っているということを想像できないのだろう。
父親への攻撃に成功した青木は息が弾んで手が震えた。全身が心臓になってしまったかのようにうるさかった。札束と着替えだけを詰めた通学カバンを引ったくり、力の入らない足をがむしゃらに動かして家から飛び出して夜の道を駆けた。人生で初めて気分が良くなった喜びから、歌を歌った。道中のゴミ捨て場でむき出しのアコースティックギターがじっと佇んでいて、左頬を赤く腫らした青木は『傘がない』を口ずさみながらにこりと微笑み、つるりとしたネックをしっかりと掴んだ。
雨が降っていたのかどうかはもう覚えていないが、体がぐっしょりと濡れていて気持ちが悪かった。
諏訪と出会ったのは、その少し後だった。
その日、放課後に楽器屋へ寄った帰り道、運悪く同級生数人に遭遇してしまいしつこく金をせびられていた。校内ではリスクを恐れてか絡んで来ないクセに、監視の目が届かない所で張り切りだすのが気に食わないと思い、青木は「金は無い」と言い張った。実際に家を出てから節約に節約を重ねていたため嘘ではないのだが、家柄を知っている同級生は納得いかぬようで拳を振り上げた。殴られるのだろうと面倒くさい気持ちで目を閉じたが、しかしその数分後、彼らは惨めにも地面に転がっていて、手の甲の皮をズル剥けにした茶髪の男が彼らを見下していたのだ。
これが諏訪だった。
「どうして助けてくれたの」
のした男たちを放置して田んぼ道をのろのろと歩きながら尋ねると、諏訪は「イライラしてたから、誰でもいいから殴りたかった」と手を握ったり開いたりしながら殺人犯の犯行動機のような台詞を吐いた。伸びきった稲の大群が気持ちよさそうに揺れるのを横目に見つつ、じりじりと太陽に焼かれる。二つの足音が大げさに響く。自宅まで一生かかってもつかないのでは無いかと錯覚するほどに居心地が悪いのは、不自然な沈黙のせいだと気づいていた。
「それ、弦?」
諏訪は、青木が手に持っている楽器屋のビニール袋の中身に興味を示した。
「うん、アコギの弦」
「お前、ギターが弾けるのか?」
「少しだけ」
どういうわけか、咄嗟に嘘をついた。数日前にギターを拾ったものの、弾き方なんて全く分からずに置物と化していたのに。しかし、諏訪がこの時初めて笑顔を見せて「見かけによらず、かっこいいな」と言うので、訂正する機会を失ってしまった。仏頂面で目つきの悪い男のことを怖いとすら感じていたが、笑った顔は意外にも幼い。
「君、いくつ?」
「十七。お前は」
「僕は十六、高一」
「その制服は二岡高校だろ、頭のいい坊ちゃんなんだな」
「そんなことない、親に言われたから通ってるだけだよ。君はどこの高校?」
「俺は高校にゃ行ってないんだ。駅前の冨山製鉄所ってところであくせく働いてるよ」
諏訪が所々黒く汚れた作業着に入っている「冨山製鉄所」という刺繍を指差す。その五文字を目で辿ると、青木は自分が身にまとっている汚れひとつ無い薄っぺらい制服を無性に恥ずかしいと思った。
「なぁ坊ちゃん、今度聞きに行っていいか」
「何を」
「ギターに決まってるだろ」
「別にいいけど」
アパートの名前と最寄駅と簡単な経路を教えてやると、諏訪は手の甲に油性ペンを走らせた。細かい汗でてらてらと光っている小麦色の肌に、ミミズのような黒い字の羅列が這う。
もちろん冗談だろうと思った。別れ際になんとなく思いつきで言ってみただけだろうと。仕事に戻ると言っていたから、どうせインクも落ちてしまうし、そうしたら男は今日のことなんてすっかり忘れてしまうはずだ。第一、お互いの名前すら知らないのだから、と。
来るわけがないと繰り返し唱えながらも、家に帰ると買ってきた弦を張り、「アコースティックギター入門書」というタイトルの教本を開いた。
「来るわけないだろ、絶対に来ない」
独り言ちて、ペグを回して弦を引っ張る。
「でも、万が一来てしまって嘘がバレるのは困る」
誰に向けたのかわからないその言い訳は、部屋に立ち込める不快な熱に溶けて消えた。畳がズボンから滲み出た汗を吸う。青木は食事を摂るのも忘れ、ただ黙々と弦を抑えてコードを暗記し続けた。歴史の年号や英単語を覚えるよりもずっと簡単で、一つ一つの音をしっかりと噛みしめながらあらゆるコードを鳴らしていった。
翌々日、青木の期待通りに諏訪はアパートにやって来た。しかし、「ギター少年はどこだ」と大声を出しながら各部屋を回るという暴挙に出た諏訪に部屋番号を教えておかなかったことを後悔した。
「一度、小さいハコで一緒に出演したこともあるんだ。僕がギターを弾いて、諏訪が歌って」
青木は大家に、諏訪との出会いを簡単に話して聞かせた。もちろん、越してきた理由は伏せてだが。人からどう見られるかなんて滅多に気にしないタチだが、どうしてか、大家には両親のことを知られたく無かったのだ。背景を知った大家に哀れみの目を向けられたり、避けられたりすることを想像すると、小さな針で胸をつつかれているような心地になって落ち着かなくなる。
「すごいじゃないのさ、二人とも音楽が好きなんだねぇ」
大家が嬉しそうに言うが、青木は答えない。代わりに、長島の顔をぼんやりと思い浮かべた。
「死んだ奴とも、そのハコで出会ったんだ」
「事故?」
「ううん、自殺」
「そうかい、それは悲しいねぇ」
大家が本当に悲しそうな声でそう言って俯いたので、心底驚いた。見ず知らずの人間の死に心を痛めるだなんて、優しい人間もいるものだ。
「じゃあ、そのお友達の分まで、青木くんが生きてやんないとね」
今度も答えずに、曖昧に口角を上げて目を細める。
大家を部屋まで送り、階段を登っている途中で鍵を作り直すべきかと考えた。諏訪がなくした鍵が誰かの手に渡り、物取りでもされたらと想像したところで、こんな見るからに金がなさそうな家に強盗をしに来る奴なんていないだろうと結論付けた。
ローファーを脱ぎ紙袋を放り投げてネクタイに手をかけたところで、微かに煙草の香りが残っていることに気づき、電気も付けず肺が苦しくなるほどに空気を吸う。そうして余計に虚しくなって、壁にもたれて黙っているギターケースに目をやった。
「本当は、音楽なんて別に好きじゃないんだ。でもそう言っていた方が都合がいいから、そういう事にしてるだけなんだよ」
ネクタイとブレザーが畳の上に落ちる。その亡骸に見向きもせずに、冷蔵庫を開けて麦茶が半分ほどに減ったポッドを取り出して、中身を流し台にぶちまける。置きっ放しにしていたグラスに飛沫がひっかかった。キャビネットの中からティーパックを探してポッドに入れ、水道水を注ぐ。暗闇の中で、透明な水が茶色く染まっていく。
「長島の分も生きるなんてのは、無理だと思うな」
青木は、母親がこの家を訪ねてきた時のことを思い返していた。父親は、「息子に刺された」なんて素直に言えば社会的地位を脅かすと思ったらしく、自分の不注意で怪我をしたと医者に説明したという。外面だけはいいコイツららしいな、と青子は小さく笑った。母親は、今回の件は絶対に口外しないようにと釘を刺して、代わりに高校を卒業するまでは一人暮らしを認めることとそのための金銭的な援助をすることを約束した。そして「あなたが行く大学は私達が決めるから、それに従ってちょうだいね。高校を卒業したらまた家に戻ってくるのよ、ねぇ、次に勝手なことをしたら、お父さんは何をするかわからないんだから。あなたは、私達の可愛い子供なんだからね」と朗らかに死刑宣告をして、鈍い音を立てて扉を閉めたのだ。
「戻ったらまた、好き勝手に身体を弄くり回されるんだ。今度はもう逃げられないだろうから、それが僕の寿命だろうな」
誰にも拾われない言葉が次々と死んでいった。
ポッドから水が溢れ出したため蛇口を閉めると、途端に瞼が重くなってその場にうずくまる。今日は、よく喋ったから疲れた。空っぽになった腹が悲鳴を上げていたが気にしてやる余裕もなく、畳に敷いてある布団まで這っていく気力もなく、諦めてコトンと眠りに落ちた。
二、
ぬるまっこい風が吹いて、夏の終わりを予感させる九月。学校から帰った青木は、アパートの階段によく知っている人物が座り込んでいるのを見つけて、「あ、デジャヴ」と呟く。
その人物、諏訪は空のペットボトルを手に項垂れていて、眠っているかのように見えたが青木の声を聞くと億劫そうにのそっと顔を上げた。
「なぁ、全てを失ったことがあるか?今まで大切に育ててきた全てを。何もなくなった、捨てられた人間は、その後どうやって生きていけばいいんだと思う」
「何言ってるの。っていうか何でいるの、仕事は?」
「彼女にフラれた」
青木の問いかけを宙に浮かせたまま、笑えるほど憔悴しきった面で言った。ペットボトルが諏訪の手を離れて地面で数回跳ね、足元に転がってくる。赤茶色の髪の毛は、いつのまにか輪郭を覆うくらいに長くなっていて、根本から黒い地毛が覗いていた。そろそろ切ってやらなければと思いながら、ペットボトルを拾い上げる。
「彼女だけが諏訪の全てじゃないだろ。だからここに来たんじゃないの」
自己暗示のような自分の言葉にわずかに悲しくなった。手を差し出すと諏訪が力なく握り返してきたため、力任せに引っ張って立ち上がらせる。
手を離せば諏訪が鼻をすすり始めたため、身体の芯から凍りついたような心地になった。
「めそめそするのは部屋に入ってからにしてくれ」
焦りを悟られないようにうんざりした声で言って自宅のドアを開け、ふらふらとおぼつかない足取りの諏訪を部屋に押し込んで鍵を閉める。気を抜けば膝から崩れ落ちそうなところをなんとか堪え、麦茶を注いだグラスを小さな机に二つ並べた。
諏訪はそのどちらにも手をつけずに「好きだったんだよ、本当に」と聞いてもいないのに鼻声で話し出した。
「絶対に結婚するって決めてたんだ、俺は」
「この間まで、仲が良さそうだったじゃない」
青木は、泣きじゃくる幼稚園児をなだめるような優しい声で言った。
「俺もそう思ってたよ、何も問題なんてないってな。だがそう思っていたのは俺だけで、彼女はずっと不満だったらしい。昨日急に『金もない男にこれ以上付き合っていられない』なんて言い出したんだ」
「分かりきったことを」
その女も大概馬鹿だな、と思う。生きる上で金が重要なのは最もだし、男に金銭的な安定を求める女が悪いとは思わないが、だったら最初からこの男に近づかなければいい。勝手に期待して、期待通りにならないから離れるなんて酷だ。
「そんな女、早く忘れればいい話じゃないか」
「うるさいな、わかってる。でも何を言われてもまだ全然好きなんだよ。気が変になりそうだ。俺、おかしくなってんのかな」
「なってると思うって言ったら、怒るんでしょう」
「怒るに決まってるだろ」
笑いながら煙草に火をつけて、二、三度煙を吐き出してからまたしくしくと泣き始める。煙草を吸いながら泣いている人間を初めて見た。阿呆らしいと呆れる反面、誰かを恋しいと言って諏訪が流す涙がこれ以上ないくらい綺麗に見えて、自分の手でそれを掬ってついでに抱きしめでもしてやりたかった。しかし、そんなことをしたらきっと本当に怒るだろうから、ただ膝を抱えて霧みたいに消えていく煙を見つめる。
「一曲弾いてくれ」
涙をぼたぼたと畳に落としている諏訪が言う。青木は部屋を見渡した後、トイレからトイレットペーパーを一つ持ってきて渡してやった。
「今?」
「楽しくなれるような曲を弾いてくれよ、青木。今すぐ窓から飛び降りたい気分なんだ」
「ここは二階だし下は土だから、飛び降りても死ぬことはないよ」
玄関の脇に立てかけてあるギターケースからアコースティックギターを取り出して、諏訪の正面に腰を下ろす。ペグを回して弦を一本ずつ弾き音を合わせて行きながら、脳みその中から楽しくなれる曲を探していくが『サライ』ぐらいしか見つからずに途方に暮れる。『サライ』を聴いて元気になる人間などいるのだろうか、少なくとも青木はならないし、なんなら腹が立ってくるぐらいだ。
考えるのも面倒くさくなって、ついこの前練習した『ぼくと観光バスに乗ってみませんか』を弾き始めると、諏訪はマルボロを口に咥えたまま畳に横たわり、死体のように動かなくなる。
「悪い夢のようだ」
「それは、違う曲だよ」
ゆったりと時間が流れる。いつもよりも上手く弾けた気がした。
日が暮れてきて、青木は夕食の買い出しをするために諏訪を引きずって近所のスーパーに出向いた。と言っても、二人とも料理は全くできないので、惣菜をいくつかとカップ麺とチューハイを数本買い物カゴに投げ込むだけだが。
レジへと歩いているとサンマが安く売っていて、二匹掴んでこれもカゴに入れる。前回は諏訪が全額払ってくれたから、今回は青木が会計を済ませた。
「サンマなんて買ってどうするんだ」
食材と酒が入った買い物袋を一つずつ持ちながら、葉を茶色く染めた木々が立ち並ぶ道を歩く。普通に考えて焼くだろ、と平凡な返事をしようとしたが、諏訪は青木がわざわざ魚焼きグリルを使ってサンマを焼くという労働をするわけが無いと思い込んでいるようだったし、その通りだったので素直に「大家さんにあげるんだ、いつも何かと世話になってるから」と返した。
「へぇ、青木はあの婆ちゃんのことが好きなのか」
「馬鹿言うな」
擦りすぎて目を充血させている諏訪がケラケラと笑う。酒が入っている方の袋を振り回すものだから、きっと缶を開けた時に中身が噴き出すだろう。自分が酒が入っている方の袋を持つべきだったと反省する。
「お前は彼女を作らないのか?顔は綺麗で家も金持ち。頭もいいときてるんだから、モテないことはないだろ。まぁ、もう少し愛想を良くする必要はあるかもしれないが」
「嫌だ、面倒くさい。それに女って苦手なんだ、いや女だけじゃなくて男もだけど」
「人間が嫌いなんじゃねぇか」
諏訪は呆れたように言う。
「俺も結構皆嫌いだけどな、でも、優美……彼女は違ったんだよ。優しくて可愛くて、気が強いように見えて本当は繊細な奴なんだ。ずっと一緒にいたいと思ってたし、いるつもりだった。俺が幸せにしてやりたかったんだ」
この男の思考は、すぐに元彼女の回路へと繋がってしまうらしい。また泣き出すんじゃないかと横顔を見れば、渇いた目でアスファルトに伸びる影をじっと凝視していた。そして「家族になりたかった」と聞こえるか聞こえないかの声量で言って、それは確かに青木の耳に届いた。
諏訪は自分の家族の話を不自然なほどにした事がなかったが、代わりに「家族が欲しい」とよく口にしていた。
「一人の家に帰るのはもう嫌なんだ。寂しいし、何の音も匂いもしない空間でむっつりと黙ってると、おかしくなるんじゃないかって思う」
以前、並べた布団の端っこで諏訪はそう言った。確か前の彼女と別れた後だったと思う。
「誰にも干渉されない空間っていうものは、いいものじゃないか」
青木がそう返すと、彼はゆるく首を振って「そうじゃない」と枕に向かって喋った。布に吸収された諏訪の声はくぐもっている。青木が首を傾げていると、流水音が響いてトイレから長島が出てきた。
「諏訪は、愛に飢えてるわけだね」
眠たそうな声で目を擦って、長島は二人の間に滑り込んで毛布を引き寄せる。諏訪は嫌そうな目つきで隣に寝そべる男をじとっと睨んだ。
「何だよ、悪いか」
「いや、普通じゃないかな。人間誰しも愛されたいと思ってるはずだよ、多分」
「てきとうだなぁ、お前は」
「昔、愛されたければ自分から愛すべきだってうちの母が言ってたなぁ」
「愛してたけどふられた場合はどうする」
「重すぎたんじゃないの」
諏訪が嘆いて、長島が笑った。夜が老けていく中で、青木は二人の軽快なやりとりを聞きながら十数年かけて刺々しく硬化した心がほぐれていくのを感じていた。そうして、自分の両親を思い出して、どうしてこんなものを欲しがるんだろうと疑問を抱いていたのだ。
しかし最近になって、きっとお互いの思い描く「家族」の形に齟齬があるのだろうと、やっと気づいた。
もしかすると、諏訪は無条件に愛されたいだけのではないかと青木は考える。何の理由もなく一緒にいて、お互いを愛し合える関係を望んでいて、それに相応しい形を探してみたら「家族」という名前を見つけたのではないか。
そうだとしたら、
「僕がずっと一緒にいるのじゃ、ダメなの」
思わず言葉が口からこぼれ出していて青木は驚いたが、一度外に出たものは取り消すことができなかった。
戸籍上家族にはなれなくとも、それ以外の条件を青木は満たしている。愛し“合える”かは別として、無償の愛を捧げることなんていとも容易いことのように思えたし、今後諏訪がどうなろうとも諏訪の元を離れないと言い切れる確固たる自信があった。
足を止めて反応を伺っていると、諏訪も立ち止まる。片手で器用にマルボロのパッケージから煙草を一本取り、かさかさと皮が剥けている唇で咥え、火をつけた。
「それこそ、馬鹿言うなよ。何でお前が俺のために人生棒にふるんだよ」
眉を八の字にして、困ったようにぎこちなく笑う。まるで、青木の人生に価値があると信じて疑わないとでもいうような口ぶりだった。何か言葉を返そうとしたが、脳の言語中枢は何を言っても意味がないことを理解して押し黙ってしまっていた。
「吸うか?」
無駄な肉が付いていない無骨な人差し指と中指で挟まれた吸いさしの煙草は、吸い口が変色し始めている。丸っこい諏訪の爪の形を目だけでなぞって、唾液で湿っている先端に唇で触れる。諏訪が帰った後青木の部屋に漂っている香りが、すぐそこにあった。骨張った手に細くて青白い手が重なり、接触部から熱がじんわりと伝わって、血中で混ざり合った気がした。
「ボクちゃん、思いっきり吸うなよ、むせるから。ゆっくりな」
からかうような言い方にムッとしたが、言われた通りにそおっと吸い込むと、重たくて苦い煙が肺に侵入する。咳き込みたかったがそんな事をすると格好がつかないと思って、何とでもないフリをして息を吐く。白いモヤがゆらゆらと目の前でくゆってすぐに消える。もう一度吸おうとすると、諏訪はさっさと手を引っ込めて自分の口元に持っていってしまったため、抗議する。
「ねぇ、まだ吸いたいんだけど」
「俺といると、お前はどんどん汚れていく気がするよ」
「そんなの、今更だろ。肺なんて副流煙でとっくに真っ黒になってるさ」
「だろうな」
紫煙を立ち上らせて、諏訪は歩き出す。青木もそれに続く。口内から中々消えてくれない苦味を少しずつ飲み込んでいく。そこら中に散らばっている落ち葉は、二人に踏み潰されてペシャンコになって地面に張り付いている。
三、
大粒の雨がばたばたと音を立ててビニール傘の表面に激突しては滑り落ちて、地面に貼った水たまりの中に吸い込まれていく。ワイシャツの裾や通学カバンがいつの間にか湿っていて、青木は傘を投げ捨てて足蹴にし叩き折ってやりたくなったが、アパートがもうすぐそこに見えていたので衝動を殺してのろのろと歩いた。
灰色の空の下で大雨に打たれている二階建てのボロアパートは、人が住んでいるとは思えないほど禍々しく、廃墟と言われれば疑う間も無く納得できそうな出で立ちだ。階段に目を向けて、誰も座り込んでいないことを確認する。安堵と残念の狭間をぐらぐらと行き来する気持ちを抱えて十三段目を登りきった所で、部屋の戸の前に立っている見知らぬ女と目が合った。ピンク色のヒラヒラした生地の傘を腕にかけていて、もう季節は秋に移り変わっているというのに服の面積は少なく、肌色が強い。
「何か用ですか」
「あ、あんたが青木?うそ、本当に男の子だったんだ!あたし、木崎優美。ハジメマシテ」
甲高くて甘ったるい声でそう言った女は、両の手のひらをこちらに向けて小さく振った。傘と一緒に腕にかかっている赤いバッグに付いたストラップがジャラジャラと揺れる。
どこが、優しくて可愛くて繊細な女なんだ?図々しくて能天気でしたたかな女の間違いじゃないだろうか。青木の抱く偏見は、たいていの場合当たる。
「女かと思って鍵パクっちゃってさ、そのまんまじゃ悪いなぁと思って。ここの場所、前に聞いたことがあったから返しに来たの。でも、本当に男の子に合鍵もらってるとは思わなかったぁ」
木崎優美は愉快そうに笑って、バッグから諏訪の鍵をつまみ出し青木の手のひらに置いた。強い香水の匂いが鼻腔をつき、頭が痛くなる。
「すみません、諏訪は多分今仕事に行っていて」
「ああ、いいのいいの。もう会うつもりもないし、そういう時間を狙ってきたんだし」
そうか、じゃあ帰ってくれ。と胸の中で言ったが、木崎優美は動かなかった。興味深げに青木の頭のてっぺんからつま先までを見渡して「ねぇ、こんな犬小屋に男二人で住んでるの?あんた、高校生でしょ?」と投げかけてくる。犬小屋という単語は聞かなかったことにした。
「住んでるというか、諏訪は夜に寝に帰ってくるだけですよ。帰ってこない日もあるし」
「なんか聞いたなぁ、最近熱入れてる女がいるとか。別れて一ヶ月も経ってないのに、早くない?」
頬を膨らませて首を傾げる仕草が様になっていて、思わず感服した。
「でも、多分まだあなたの事が好きなんだと思います」
青木はできるだけ冷たく聞こえるように言った。お世辞でも何でもなく、ここ十数日間で嫌という程感じていたことだった。諏訪は未だ木崎優美に恋い焦がれていて、その隙間を埋めるために何人かの女に手を出してはいるが、それによって更に心を痛めているようだった。家族になれれば誰でもいいというわけでもなく、木崎優美と家族になることに意味があったのだろう。どうしようもない馬鹿だと笑ってやりたかったが、自傷にも似た行為を繰り返す諏訪が痛々しくて上手く笑えなかった。青木にはどうすることもできないと思い知らされたが、ただその様子を見ているだけというのはもどかしかった。
女は、青木の言葉を聞いても顔色一つ変えない。
「あたしも、本当に好きだったよ。でも分かるでしょう、愛だけじゃご飯食べられないし、生きていけないわけ」
「だったら、最初から諏訪なんか相手にしなきゃ良かったじゃないか」
思わず語気が強まった。
「あたしはあいつの人格に惚れたの。それで蓋を開けてみたら、びっくりしちゃった。家もないし、仕事も全然続かないんだもん。それでもいいやって思えてたのは何ヶ月かだけでさ、結局あたしが逃げちゃった。これでも気ぃ使ったんだよ、未来もないのに愛情だけでずるずる続けてちゃダメだなぁって。お互いのためにもさ」
木崎優美は相変わらず舌ったらずな喋り方でつらつらと語る。その顔には、諦めの色が滲んでいるように見えた。
「あたしはアイツのために生きるの無理だなって思っちゃったんだよね」
ざぁざぁとうるさい雨の音に溶けてしまいそうな声量だった。青木は何も言えなくなって受け取った鍵を握る。木崎優美は顔をほころばせて「じゃあ」と青木の肩を優しく叩き、ヒールをカツカツと鳴らして歩き出した。そして、階段に差し掛かったところで足を止める。
「青木くん、君、いいように使われる前に切っちゃった方がいいよ。アイツは君を大切にしてくれないよ」
肝が冷えて、全身の毛が逆立った気がした。振り向くともうそこに木崎優美の姿はなく、ヒールが鉄制の階段を踏みしめる音が響いているだけだった。
敗戦したような気持ちで鍵を回してから、紛れもなく惨敗だと確信する。
ノブに引っ掛けたビニール傘は、薄汚れたコンクリートに水たまりを作る。諏訪が置いているラバー素材のサンダルが濡れないように、しゃがんで端に寄せた際、ドアポストに一通の葉書を見つける。あの女が諏訪に別れの言葉でも書いて入れたのかと、留め具を外して手に取れば、葉書には母の名前が綴られていて思考が停止した。反対の面を見れば、「進路面談が年末にあるから、必ず来るように。成績も落とさないように頑張ってください。それと、ちゃんとご飯を食べていますか?お父さんも心配しています」と丸っこい字で書かれていて、青木は頬を引き攣らせた。
「ひとり立ちした息子を心配する心優しい両親ってところか、上手じゃないか」
演技というのは、第三者に見られている場合にするものだろうに、一体誰に披露しているつもりなのか。もしや、演じてるうちに役に飲まれて、本当に息子を心配する母親になったつもりでいるのかもしれない。
ハハハと笑い声が漏れた。香水のキツい香りと肌色が鮮明に蘇り、胃がひくつく。すぐに酸っぱい匂いがせり上がってきて、口元を抑えて足をもつれさせながらトイレまで駆け込む。便器に内容物を吐き出すも、大した物を食べていない青木の口からは少量の胃液が垂れるだけだ。肩で息をしながら便器に顔を突っ込んで嘔気が過ぎ去るのを待つ。金槌で殴られ続けているみたいな頭痛が起こった。玄関では、葉書が傘から滴り落ちる雫を受け止め、インクを滲ませている。
空がオレンジ色に焼けて青木がトイレから這い出しても、日が沈み布団の中に潜り込んでも、時計の短針が十二を過ぎても、諏訪は帰ってこなかった。
沈黙する扉を見つめるのにも飽きて、のそりと起き上がって冷蔵庫を開けようとすると、その上に小さな刃物を発見して手に取る。
何の躊躇いもなく瘡蓋だらけの腕に押し当ててスッと花柄のカミソリを引くと、ぶちぶちと皮膚が刃に引っかかって破ける音がして、ぷつぷつと血の玉が赤い線の間に浮かび上がってくる。握り締めていた掌の力を緩めると大量の汗が光っており、足の裏もじっとりとしていて不快な気持ちになった。
そうして青白い腕を伝ってボトリと血が垂れるのを見届けたら、全身はすっかり幼稚な高揚感に浮かされていて、何本も線を引いていった。
黙っていた痛みがちりちりと現れてくると、途端に滑稽に思えてきて肉片がこびりついたそれをぽいと放り投げる。かしゃんとチープな音が部屋の闇に溶けた。
青木は、どうしたらこの惨めで情けない気持ち大人しくしてやれるかを考えた。考えて、また絶望的な焦燥感に襲われて、副作用も知らずに集めた錠剤が突っ込んである紙袋の中から適当に薬を掴んで口に放り込み、ボリボリ音を立てて噛み砕いて嚥下した。布団に埋まると頭が混濁とし、シーツにじわじわと赤が広がっていく。
「諏訪」
自分のものじゃないような声でそれは確かに自分の口から出て行った。ぼうぼうと不愉快な耳鳴りでよく聞こえないが、かさついたみすぼらしい声音に聞こえる。苛立って腕を振り上げようとして、ドアノブにぶら下がっているであろう傘を思い出し、少し可笑しくなって息を吐いた。身体が地面に沈み込んでいくのが、重くて気持ちがいい。喉がからからと渇き、鼻の奥もつんと渇いている。
「諏訪は、どうなりたいの。ねぇ、諏訪の思い描く先に、僕はいる?」
青木は言って、おこがましいなとまた笑った。早く会わなきゃいけない気がして布団の上を泳いで、それは自分の思い過ごしかもしれないと気づいた。しかし、諏訪が寂しがっているかもしれないという心配がまた浮かび上がる。
「大丈夫、諏訪、大丈夫だから。長島はいなくなったけど、僕はまだここにいるから」
頭の中にまで、やかましい煙突の煙みたいな音が蔓延する。しだいに、さっきまでこもっていた耳がノイズを拾い始めた。降り続く雨の音、タイヤが水たまりを踏み潰す音、猫の鳴き声、自転車のベル。再び、胃がひっくり返るような嫌悪感が襲い掛かるが、青木は指先の一つ動かせないでいる。
僅かな尿意を感じ目を剥くと、心音で揺れる天井に星がきらきらと光っていた。瞼が降りる前に、青木は自分の笑い声を聞いた。
「お前、これ、どうしたんだよ」
我が物顔で青木の家の玄関をくぐった諏訪は、隣人が寝ているであろう時間帯だというのに大きな声で大袈裟に驚いてみせた。これというのは、布団に赤黒く広がった染みのことだ。昼に起きた青木は、後で新しいシーツを買いに行こうと思っていたのだが、すっかりこの時間まで寝入ってしまっていたのだ。
「来る時間考えてよ、眠いよ」
ドアを閉めて鍵をかけながらぼやく。
「いや、これ何だって、血か?大出血じゃねぇか」
「トマトケチャップを間違えてかけちゃったんだよ」
脳の回転が鈍く、また寝起きの頭で諏訪の相手をするのが面倒で、あまりにもひどい嘘を吐いた。酒でも飲んできたのか機嫌のいい諏訪は、にやにやした面で青木と布団を交互に見る。
「布団にケチャップをかける人間の心理ってやつは、恐ろしいと思わないか?俺は思う。絶対に病気だね、大病だ。医者に診てもらった方がいいぞ」
「うるさいなぁ、早く寝てくれ」
「俺はトマトに抱かれる夢なんか、見たくはないな」
「だったら畳で寝ればいいよ、台所の床もトイレの床も空いてる」
諏訪はまだにやにやしている。
電気の紐を三回引いて灯を消し、倒れるように布団に身を投げた。昨晩、ワタに血を吸わせたせいか、全身がだるくて立っているのも苦痛に感じるほどだった。
すぐに諏訪が隣に寝そべった。畳がみしりと音を立てる。知らないシャンプーの香りが鼻をくすぐる。わずかに触れている背中がぬくい。
一式の布団に男二人が収まるはずもなく、お互いがちょっとずつ畳にはみ出すが、文句は言わない。以前はもう一式あったのだが、酔い潰れた長島が盛大に嘔吐したためおじゃんになったのだ。二つの布団を敷いて三人で寝転がった頃を想起するが、何を話したのかは全く思い出せなかった。
「あ、もしかしてお前、ついに初潮を迎えたのか?」
「面白いことを言うね、諏訪。外で寝たってまだ死なない季節で良かったな」
もぞもぞと起き上がって玄関を親指で指すと、諏訪は笑いを噛み殺した声で「風邪をひくから、嫌だ」と言った。しばらく一人で笑っていたと思えば、ぐぅぐぅと憎たらしいいびきをかきはじめた。
青木は大きくため息をついて、諏訪を起こさないように身を寄せ、まぶたを下ろす。頭に血が集まっていくのがわかり、眼球の奥がじくじくと痛んだ。痛みに意識を集中させていると、次第にとろけはじめてゆるゆると底に落ちていく。
いつの間にか、青木はあたたかい光に包まれて立っていた。あたり一面、大きな葉っぱをつけた稲がそびえ立っていてぎょっとする。風が吹くたびに黄緑色の細い紐の束がそよぎ、木崎優美の金色の長い髪を彷彿とさせる。無数の稲は、全てトウモロコシを実らせているらしかった。
「ほら、食えよ」
それが当たり前であるかのように青木と肩を並べていた諏訪が、ぎっしりと実が詰まったトウモロコシを差し出してくる。規則正しく並ぶ四角くて黄色い粒を見て嫌な気持ちになった。
「いらない、嫌いなんだ」
「どうして」
「ぷちゅっと潰れて甘い汁が飛び出るところが気持ち悪い。実がぐにゅぐにゅしてるのも嫌だ」
「農家の人に謝れ!!」
素直に答えたのに、ものすごい力で後頭部を鷲掴みにされて、トウモロコシのヒゲが付いていない方を口に押し込まれる。声は怒っているが、諏訪はにこにこと楽しそうに笑っている。抵抗しようにも力が全く入らないため、恐る恐る齧り付くとグミのような人工的な甘さが舌に伝わった。こんな味だったか?なんだ、意外と悪くないじゃないかと思い直していると、トウモロコシは緑色の芋虫に変わっていた。噛み潰せば噛み潰すほど甘い液体が溢れ出し、ぐねぐねと動き回るので、青木は笑った。諏訪はもうずっと笑っている。
トウモロコシ畑だと思っていたそこは、ごみ処分場になっていた。扉が外れかかっている冷蔵庫や電子レンジ、水浸しの洗濯機や錆だらけの自転車などが所狭しと積み重なっている。青木は飛び上がるほど嬉しくなって「ここで暮らすのはどうだろう」と言う。
「ここになら何でもあるよ、酷いことを言う人もいない。仕事も勉強もしなくていいんだ。ねぇ諏訪、どうかな」
「名案じゃないか、やっぱりお前は頭がいいなぁ」
諏訪に褒められた青木はその場でくるくると回った。ごみの山のあちこちに丸っこい電飾が散りばめられていて、それがついたり消えたりする。幼い頃に一度だけ乗ったメリーゴーランドから見た景色が脳裏に蘇る。色とりどりの風船が空高くへ向かって飛んでいき、薔薇にガーベラ、パンジー、チューリップなどの小ぶりな花が宙を舞う。
これはハッピーエンドだ、完璧な幸せだ。ああ、なんて素晴らしい世界なんだ!青木が歓喜に震えていると、パァンと軽い音が響いた。祝福のクラッカーかと思い音のした方を見れば、諏訪が銃口を向けて、煙を立ち上らせている。腹があたたくなり、足が萎える。撃たれたのだと理解した時には、ガラクタだらけの地面に頭をつけていた。
「いつの間にそんなものを」
「運よくトウモロコシ畑になっていたから収穫したんだよ」
そうだったのかと青木は納得する。諏訪が無邪気な子供のような笑顔を浮かべて慣れた動作で銃のスライドを引く。
「青木、お前は必要ないんだよ」
トリガーに人差し指をかけるのが見えて、これ以上ないくらい幸せな気分で目を閉じた。
瞬間、ビクンと身体が大きく揺れて暗闇の中に放り出される。殺風景な部屋の中で、布団からほとんど全身をはみ出した状態の青木は汗にまみれていた。自分と、寝床を占領しているもう一人の息遣いだけが聞こえ、どこからが夢だったのかと混乱する。そして、腹にずっしりと乗っかっている諏訪の足を見て、どこからも何も全て夢であったとわかった。
指先だけが極端に冷たい足を掴んでどけようとした時、酸っぱい匂いがふわふわと鼻をくすぐった。潰れた梅干しが脳内に映し出されたが、すぐにそれではないとわかった。畳の上に、注射器が転がっていたからだ。
慌てて起き上がって、手探りで紐を探して引っ張る。ぐわんぐわんと目が回り、蛍光灯が何度か点滅して部屋が明るくなった。
大の字になった諏訪が眩しそうに腕で顔を覆う。その肘付近からは赤い線が流れていて、耳かきやスプーン、ライターといった道具が乱雑に置かれている。そして、灰色の粉がアルミ箔の上で散乱していた。
「えぇ、ちょっと待て、嘘。嘘だろ」
青木は一旦、明かりを落としてみた。何も見なかったことにしたいと思ったからだ。これも夢の続きであってくれと願ったが、足元に転がる針が赤く濡れた注射器は紛れもなく現実の一部だった。
足と腕を投げ出し、だらしなく開けた口からよだれを垂らしている諏訪は、僅かに胸を上下させ、月の明かりを受けて深い闇の中で生を主張していた。
重力が倍にでもなったみたいな身体を操縦しアルミ箔を掬い上げて、まるで害のないようなフリをして乗っかっているヘロインの粉を流しに捨て、蛇口を捻る。シンクに水がドボドボとぶつかり、粉と溶けて排水溝へ流れてゆく。やけに大きな音に感じて耳を塞ぎたくなった。
「馬鹿だろ。いや、わかっていたけれど、ここまでの馬鹿だったなんて。よりにもよって、タチの悪い女に捕まりやがって」
逆流したのであろう血がゆらゆらと泳ぐ注射器を踏みつけて、萎びた諏訪の元へ向かう。机の上で倒れているグラスからは透明な液体が吐き出され、その中で一匹の羽虫が死んでいた。
「聞いてる、聞いてるぞ、違う。あの女のことを悪く言うなよ、青木。柔らかくて締まりが良い綺麗な女なんだ。俺を救ってくれると言った、証拠に俺は今すごく気持ちがいいんだ。優美のことなんかもうすっかり忘れちまったんだ、本当だ、本当なんだよ。あの女とヤるとな、頭が吹っ飛びそうなくらい気持ちがいいんだ」
眠ったと思っていた諏訪が突然、破裂したように喋り出す。呂律が回っておらず聞き取りにくい長台詞が耳に届き、それが段々と冷え切った心の奥底を火照らせる。衝動的に諏訪の肩を右足の指で蹴り上げるように押すと、ごろりと半回転。燦燦とした瞳で青木を見上げているのが、まっ暗闇の中で明確に映し出されている。
「悪かった、怒るなよ、本当はこの家でする気は無かったんだ。でも我慢ができなかった、女は悪くないんだよ。お前も会ったら気にいると思うね、賢いやつなんだ。あぁでもお前にこんなことを教えられたら困るから、やめておいた方がいいな。女は、俺と家族になりたいと言ったんだ。今度こそ俺は幸せになれるんだよ、青木」
諏訪が歌うように言葉を紡ぐ。開けっ放しの口からは絶え間なく笑い声が漏れている。青木はたまらなくなって、諏訪の電源を落としてしまいたくなった。昔よく遊んでいたひとりでに喋り続ける人形は、背中のスイッチを切れば大人しくなった。でも諏訪の背中にスイッチがない事は知っているし、そう考えてる間も諏訪は壊れたままだ。
「あんまり喋るなよ、舌を噛むよ」
「何も心配することはないぜ、青木。こんなに気分が良いのは生まれた時以来だ、俺にはわかる、ハッピーエンドがすぐそこに見えているからな」
青木は、トウモロコシ畑の夢を思い出した。
「諏訪にとっての幸せって、どういうものなの。どうなれば、諏訪は幸せになれるの」
「決まってるだろ、好きな女と結婚して、子供を産むんだ。俺のことを愛する家族と暮らすんだよ。そのために、沢山金を稼がなきゃなぁ。大きい家を建てるんだ。俺は家族っていうものがずっといなかったから、欲しくて欲しくてたまらないんだよ。最初から持っているお前には、きっとわからないだろうが」
柔らかい声を聞いて、冷水を浴びせられたような心地になって立ち尽くす。独りよがりな感情が次から次へと湧いてくるので、それらをひとつずつ確実に潰していった。夢の続きの二発目を青木はしっかりと受け取って、ささくれ立っていた心が穏やかなものになる。
「そうか、うん、上手くいくと良いね」
「俺は大丈夫だよ、今度こそな。それよりも、お前はどうなんだ。俺はお前が心配だよ、お前はどういう風に生きていきたいんだ?良い大学に行って、大企業にでも入るのかな。ギターは続ける?」
「僕はいいんだ、今だけでいい。もう少しだけ今が続いてくれれば、それでもういい」
「お前、変わってるよな」
そう言う諏訪の声はすっかりいつもの調子に戻っていて、不自然な笑い声もやんでいた。青木は喉に痛みを覚えるほど乾いていたことに気づき、相変わらず全身を伸ばしきって寝っ転がっている男を跨いで流しの前に立ち、グラスに水道水を溜めて喉を潤す。冷たい塊が身体の中心を通っていくのがわかる。
諏訪も飲むだろうと冷蔵庫を開けてポッドを掴んだ青木に「お前、何の夢を見てたんだ?」とのそっと半身を起こした諏訪が聞いま。
「ずっと笑ってたから気味が悪くてさ、蹴って起こしてやっただろ。どんな幸せな夢を見てたんだよ」
「トウモロコシが芋虫になって、僕がごみ処分場でメリーゴーランドになって、諏訪に撃ち殺される夢」
「はぁ?」
断片的に説明すると間抜けな声をあげて、次いでゲタゲタと笑い出す。
「お前、危ない薬でもやってるんじゃないのか?」
「本物のヤク中に言われたくないよ」
諏訪は小刻みに震える手でグラスを受け取り、苦しそうに笑い続ける。青木は全然笑えないなと思ったが、諏訪があまりにも楽しそうだから釣られて笑ってしまった。物憂げな夜の中に二人の歪な笑い声が沈殿していく。
朝になったら、諏訪がこの会話を全部忘れていればいいなと思った。
四、
空気がすっかりと冷え込んで、吐く息が白いもやとなって空中で離散する。
いつか吸ったマルボロの味を回顧しながら階段を下り、諏訪もその後に続いた。青木はこの頃、諏訪がいつ階段を踏み外すか気がかりでならなかった。しかしそんな心配もよそに、ジャージの上からジャンパーを羽織って着膨れしている男は大きなあくびをしつつ「部屋の中と外の温度がほとんど変わらんというのは、いかがなもんかね」とヘラヘラしている。青木は概ね同意しながらも、そんな文句を吐きつつ裸足にサンダルなのはどういう了見なんだと眉間を揉んだ。
戸を二回叩くと、「はいはい」とゆったりした声とのしのしと歩く音が聞こえてきて、程なくして大家がぬっと顔を出す。
「いらっしゃい。もう出来てるよ、入った入った」
「お邪魔します」
「おじゃましま〜す」
初めて足を踏み入れた大家の家は物で溢れかえっていて、青木と諏訪は物を踏まないようにそろそろと歩いた。台所には白い棚が設置されていて、ガラスの奥で無数の食器たちが積み重なっている。その下では、雑誌の束や巨大な犬の置物などが無秩序に並んでいる。和室に入るとド真ん中に正方形のコタツが設けられていて、その周りを箪笥やテレビ、立派な仏壇や本棚が取り囲んでいた。コタツのテーブルの上では、大ぶりな鍋がぐつぐつと中身を煮立たせている。
暖かい空気が流れる部屋をきょろきょろと見回して、本当に自分の部屋と同じ間取りなのかと唖然とした。
大家が薄い牡丹色の布を持ち上げてコタツの中に入り込んだので、青木はその右隣に、諏訪は大家の正面に座った。冷えた足の先が途端に温まる。
「ああ、あったけえや。ここは天国か」
諏訪はそう言ってテーブルの上に突っ伏した。少し前に青木が切ったために長さの揃っていない髪が散らばる。大家は諏訪の言動を面白がっているらしく、喉の奥をくつくつ鳴らしながら鍋の蓋を取った。もわっと蒸気が上がる。茹で上がった肉と春菊、白滝に白菜に豆腐といった具材が美味そうに揺れている。
「青木くんの部屋にはコタツがないらしいねぇ」
「そうなんだ、俺はこいつのことを修行僧か何かと思う時があるよ。毎晩毎晩寒くて仕方がない」
「毛布を沢山やってるだろ、湯たんぽだってある」
「もっと文明の利器を活用しようぜ、今何世紀だと思ってるんだ?」
青木と諏訪がやり合っていると、大家が小皿に具をよそってそれぞれの前に置いたので、停戦とした。三人は手を合わせて「いただきます」と声を揃える。
「遠慮しないで食べな。いつも青木くんが美味しいものをくれるから、そのお礼だよ」
「青木は婆ちゃんのことが好きなんだってよ」
「あらぁ、ババア冥利に尽きるね。あの世の旦那に嫉妬されちゃうよ」
白滝をすすりながら仏壇に目をやると、短髪に顎髭をたくわえた彫りの深い男がモノクロに笑っている。目尻にシワが寄っていて年の功を感じる笑顔だが、どこか幼くも見える。
「旦那さん、いつ死んじゃったの?」
青木がそう聞くと、コタツの中で諏訪が足を蹴った。青木は無視を決め込む。
「七年前とかだったかね」
「そうかぁ、じゃあ婆ちゃん、さみしいね」
蹴ったくせに、話に食いついたのは諏訪だった。テレビ画面には複数の男女が何やら楽しそうに談笑する様子が映し出されていて、青木はその音声を聞き流しつつ鍋の中で揺らめいている白滝を捕まえては小皿に移す。
「あははは、まぁ寂しくないと言ったら嘘になるね。反面で清々する気持ちがあったのも事実だけどね」
「え、どうして?もう好きじゃなかったとか?」
「四十年も一緒にいたからねぇ、好きとか嫌いじゃなくなってたんだよ。もう、生活の一部みたいになっちまってたんだねぇ」
大家は自分の箸で肉を取って青木の皿に次々と放り込み、「若者は肉を食べな」と諏訪の皿にも肉を盛る。
「ずっと好きでいるのって難しいと思う?」
肉を口に詰め込んでいる諏訪がもごもごと喋る。暑くなってきたのかジャンパーを脱いでジャージの袖をまくり始めたのを見て、腕の注射痕に大家が気づいてしまうのではないかと肝を冷やした。しかし大家は気にしたふうもなく、クタクタになった白菜を咀嚼している。
「好きっていうのは、恋愛感情ってことかい?」
「そうそう」
「燃え上がるのは一瞬で、いざくっついちまえばあとは延々と日常が続くだけだからね。愛情はあっても、いつしか恋ではなくなるのさ」
「へぇ、そういうもんかぁ。なんか悲しいな」
「そうでもないさ、むしろ恋じゃなくなってからが楽しいんだよ。恋ってのは一種の病気だからねぇ、正気に戻った男と女はそこで初めて本当の相手を知ることになる。そこからが本番さ」
大家が不敵に笑い、そおっと豆腐をすくう。青木は二本の棒の上で震えている豆腐を目で追って、「シラフで見た旦那さんは、どんな人だったの?」と聞いてみた。
「そりゃあいい男だったよ、私が選んだだけあってね。頑固で子供っぽいところが欠点ではあったけど、あの人との人生は素晴らしいものだった。もういつ死んだって悔いはないんだけど、なかなかお迎えが来てくれないのさ」
「さみしいこと言わないでよ」
咄嗟にそう口にすると、諏訪が目を丸くした。大家は恍惚とした表情で豆腐を頬張り、ふと思い出したかのように「ご飯いる?」と問う。青木が「いらない」と答えると諏訪も頷き、それから何を考えているのか天井を見上げ、箸を咥えたまま首を傾ける。
「でも、すごいよなぁ四十年って。五年後とか十年後ですら想像できないってのに」
「私からしたら、あんた達の歳なんてまだ生まれたばっかりみたいなもんだよ。物語でいうプロローグさ。これからどんどん面白くなっていくんだからね」
のっぺりした声からは励ましや同情などの含みは感じられず、大家は本心からそう思っているようだった。
しかし、と青木は思う。読み続けていっても一向に面白くならない本だってそこらじゅうにある。むしろ、あまりにもつまらなく退屈で、または辛気臭くて悲惨で、プロローグが一番マシだったなんてこともあるんじゃないだろうか。そこまで考えて、それらを自分の中だけにしまい込んだ。持論を口に出したところで共感されないことは、もうずっと昔から知っている。
青木と大家が鍋をつついていると、箸を手に持ったまま黙りこくっていた諏訪が言う。
「プロローグって、どういう意味?」
大家が盛大に笑った。
礼を言って大家の部屋を後にし、再び寒空の下に立つと、骨の奥から凍っていくような心地になった。午後の七時を過ぎたくらいなのに、空はすっかり暗くなっていて星さえ見えている。青木は大家の「また二人でおいで」という言葉を反芻しながらコートのポケットに手を突っ込んで寒さを紛らわせた。
「酒でも買いに行かないか」
顔を青くした諏訪が言う。
「もう帰った方がいいんじゃない」
「俺は酒が飲みたいんだ」
高らかに意思表明をしてさっさと歩いていってしまうので、肩にかけていた黒いマフラーをぐるぐると巻き直して後を追った。少し後ろを歩きながら諏訪の様子を伺うとガタガタとネジ巻きのオモチャみたいに肩を震わせていて、それが寒さからくるものなのか、はたまた別の理由なのかは判断がつかなかった。
諏訪は寒い寒いと呟きながらも額に汗をかいている。
「諏訪、大丈夫?」
「最近身体のあちこちが痛くて困る、今年の冬は妙に冷えるしな。青木、コタツを買おうぜ」
「この前布団を買ったばっかりじゃない。僕にそんな余裕はないから諏訪が金を出してくれるならいいよ」
「実はな、仕事を辞めたんだ。辞めたというか、クビになったというか」
道路の中央でゆらゆらと歩を進める諏訪が淡々と言った。車通りの少ない道とはいえ、自由が過ぎるのではないか。前を歩いている諏訪の表情は見えないが、きっと何の感情も浮かべていないのだろうと思った。
「そうか、まぁしょうがないよ。しばらくゆっくりしればいいさ」
青木は、諏訪が仕事をしていないことにとっくに気づいていたため、驚きもせずにそう声をかけた。というか、朝方に帰ってきて寝て、昼過ぎに起きて出かけていく男がまともに働いていると誰が思うのだろうか。おまけに腕には点々と穴が空いていて、人の家に酸っぱい匂いを持ち帰ってくるのだ。少しは取り繕う姿勢を見せたらどうだ、と呆れていたぐらいだ。
「悪いな」
弱々しく謝った諏訪は、次の瞬間には足をもつれさせて体勢を崩し、コンクリートに額を思い切り打ち付けていた。
青木は心臓がきゅっと縮み上がる思いで、うつ伏せで動かなくなった諏訪に駆け寄る。
「諏訪、諏訪!大丈夫?頭からいったろ、今」
肩を抱いて起こしてやると、眠たそうな目で見上げられた。ただでさえ薬に侵されている脳みそがさらにやられてしまったのではないかと心配になり、指を二本諏訪の目の前で立てて「これは?」と聞くと「指」と返ってきてますます不安になる。頭を打ったはずの諏訪は何故か鼻血を垂らしていて、のろのろと上半身を起こしその場に座り込んだ。
「俺はたまに、気が狂いそうになる時があるよ」
はっきりとした口調に安堵する。鼻血を流しっぱなしにしたまま、諏訪がマルボロを血に塗れた口に咥えて火をつけた。青木はその動作をぼんやりと見下ろしている。
「でも、いくら消費税が上がって給料が下がっても、上司に殴られても女にフラれても仕事がなくなっても、友達が死んでも、俺たちは簡単には狂わない」
唇をほとんど動かさずに、かったるそうに言う。唸るように低い声を一つも漏らさずに受け取ろうと、青木は耳をそばだてることに集中した。
「ギリギリのところで生かされてて、おかしくなんてなれないんだ。異常なぐらい正常であり続けるんだろうな、死ぬまで」
煙と一緒に、感情の欠落した言葉が吐き出された。サンダルを放り出した諏訪の素足は冷え切ってしまっているのか、赤くなっている。青木は首に巻いていたマフラーを外して痛々しい足元にかけてやった。剥き出しになった首からどんどんと体温を奪われていくのを感じつつ、概ね同意だなと思う。
「いっそ、狂人にでもなれた方が楽だろうね」
言って、並んで腰を下ろすと、コンクリートの冷たさが布越しに伝わってきて悲鳴をあげそうになった。コタツの温もりが恋しい。
諏訪に煙草を一本よこすようにと手を差し出すと、「身体に悪い」と払いのけられた。お前がそれを言うのかと思うとなんだか馬鹿馬鹿しくなって、そのままごろりと道路に寝転ぶ。氷のようなコンクリートと接する部分から全身に冷ややかな温度が蔓延し、泣いてしまいそうだった。
あれは、何月ごろの話だっただろうか。生暖かい温度と草の匂いと、ぱらぱらと降る桜の花びらをよく覚えている。
ライブ本番が迫る中、出演するハコの近くの土手で、長島と共にアコースティックギターを抱えて練習と称しだらだらと駄弁っていた。男女二人を乗せた自転車が通り過ぎると、長島は唐突に「ねぇ、青木はそのケがあるの?」とゆったりした声で言った。ピンと来ない青木は「何が?」と質問で返す。
「女が嫌いなのかなって思って」
「そういうのはよくわからないんだ。でも多分、男も女も好きじゃない」
「もったいないなぁ、女を抱きたいとも思わないの?あんな気持ちいいものを知らないなんて、もったいないよ」
そう嘆きながら、ギターを原っぱに置く。いよいよ練習する気が無くなったなとおかしくなった。長島はしょっちゅう女の体の良さについて熱弁を振るっていて、周囲に「アイツは女が好きなんじゃなくて、女体が好きなだけなんだ」と笑われていたし、本人もそれを否定しなかった。細っこくて、欲を感じさせない清楚な顔立ちをしているため、そのギャップを周囲は面白がっていて、長島自身もそれを上手く利用して立ち回っているようだった。
その熱弁が青木個人に向けられたのはこの時が初めてだった。
「思うもんか。セックスなんて痛くて辛いだけだ」
口をついて出た言葉に、青木はすぐに後悔した。
「驚いた、経験があったんだ」
長島の言う経験とは程遠いであろう行為を思い起こして、心臓から嫌な音がし始めた。物心ついた頃から散々叩き込まれた肉と肉が触れ合う感じ、物のように扱われる感覚、野生動物みたいな下品な荒い息遣い、全てが昨日のことのように生々しく再生されて、身体に詰まっている全部を吐き出したくなり手で口元を覆った。
「ごめん、嫌なことを聞いたみたいだ。大丈夫?」
俯いていると長島が珍しく焦った様子で細長い指を伸ばしてきたため、それを「大丈夫」と牽制する。緩やかな風が薄ピンク色の花びらを運んできてはそこら中に散らしていて、行き場をなくした長島の手が一枚の花びらを捕まえた。
「本当に?」
「本当に」
納得していない顔だったが、それ以上追及してはいけないと判断したらしく、頷いてから続ける。
「まぁ、青木がソッチだとして、誰に言おうってわけじゃないから安心してよ。もちろん諏訪にもね」
「そうしてくれると助かる」
青木があっさりとそう返すと、一瞬間があってから、長島は嬉しそうに笑い出した。
「いやぁ、健気だねぇ」
人の良さそうな笑顔を浮かべて、「君らがどうなっていくのか、楽しみだなぁ。ちゃんと結末を見届けたいんだから、青木が頑張ってよ」と楽観的に言ってのけた。
青木は「見世物じゃないんだけど」とふてくされながらも、悪い気はしなかった。この男ののんきな反応を見て、肩の荷が下りたような、許されたような気持ちになったのだ。
「あ、男も女も好きじゃないってことは、俺のことも好きじゃないの?」
真剣な顔で言う長島に「長島は嫌いじゃないよ」と返せば、ふくれっ面で中指を立てられたので、けらけらと笑ってやった。
見届けたいと長島は言った。黒く縁取られた無表情が、カラフルな花が、藤本の濡れた目元が蘇る。
もう少し待ってくれても良かったんじゃないかと、文句を言いたくなった。もし長島がまだ生きていたなら、何を話しただろう。話すことができたなら、何かが変わっていただろうか。そんな途方も無いことを、いつまでも考えていた。
五、
終わりは、ほどなくして訪れた。
進路面談の日程がクラスの人数分羅列している藁半紙を通学かばんに乱暴に突っ込み、先端が痛いくらいに冷えている足でもたもたと階段をのぼる。ひやっとする鍵を鍵穴に差し込んで右に回すが、あるはずの手応えを感じない。不審に思ってノブを捻ると戸が開いたので、昨日から姿を消していた諏訪が戻ってきているんだろうなと思い部屋に入った。
寒々しい光が窓から差し込む部屋に、確かにそれはいた。
トイレから這い出している途中だったようで、腕を面白い方向に折り曲げて床に伏している。その身体からは骨の存在を感じられず、タコを連想させた。焦げた匂いが充満し、針の錆びた注射器が流し台に乗っかっている。
「うちでやるなって言ってるだろ。あとちゃんと鍵をかけてよ」
内側から施錠して、マフラーを外しカバンと共に床に放る。
近頃、諏訪は言葉通りに立派な薬物中毒者になっていた。見たところ仕事もしておらず、探しているそぶりもない。入れ込んでいる女とやらのところに出かけて、ラリって帰ってくるだけだ。青木は何を言うでもなく、ただ諏訪の世話を焼いた。諏訪の行動を止める術を知らなかったし、止める資格が自分にあるとも思えなかったからだ。
コートを脱ごうとした青木は、そこでようやく異変に気がついた。諏訪が、まるで犬のように短く下手くそな呼吸を繰り返しているのだ。
「諏訪?」
呼びかけても返事はない。胸にざわざわと不安がこみ上げる。恐る恐る近づいて首筋に触れるとひどく冷たく、ぬるぬるとした汗を流して小さく痙攣し、薄眼を開けて「痛い」としきりに呟いている。
これは、まずいんじゃないか?
本能的に危険を察知し助けを呼ぼうとして踵を返すと、諏訪の手が青木のコートの端を握った。どこにそんな力が残っているんだと驚くほど引っ張られて、青木はその手を外そうと振り返る。淀んだ黒目と視線がぶつかった。拳をこじ開けようとするが汗で滑って苦戦する。青木も冷や汗をかいている。
「離せ、救急車を呼んでもらおう」
「いい」
掠れて消えそうな声が提案を拒否した。
「よくないだろ、死ぬぞ!」
「いい」
慣れない大声を出しても、諏訪はコートから手を離さなかった。次いで、「もう、たくさんだ」と諦観したように呟いた。どこかで聞いた言葉だと思ったけれど、どこで誰が言ったのかは思い出せない。
「ずっと、早く終わらせたいと思ってたんだ、本当は」
濡れた口元が僅かに口角を持ち上げる。その独白は、青木が奥底に隠していた気持ちの蓋を開けて、抗う術もなく完璧に共鳴してしまった。足の力が抜けてへたり込むと、諏訪の手もぼたっと重たい音を立てて床に落ちる。陽射しの中で、沢山の埃が舞っているのがよく見えた。
諏訪が小さく「愛されたかった」とこぼした。青木は口を開きかけたが、その言葉が諏訪にとって何の救いにもならないと気づき、無理やり押し込んだ。そうして、苦しそうに膨らんだ胸を見ていると、いつかの言葉が蘇る。
ー俺を救ってくれると言ったんだ
ー今度こそ俺は幸せになれるんだよ
「そうか、やっぱり駄目だったか、誰でも」
観念した青木はコートをゆっくりと脱いで、丁寧に畳む。畳み終えると諏訪のポケットに入っているマルボロの箱から一本だけ抜き取り、床に落ちていたライターのフリントを回した。火をつけるのは初めてだったためか手こずって思いっきり息を吸い込んでしまい、重たい煙が肺に押し寄せてむせ返った。
それからじっくりと時間をかけて一本の煙草を吸った。
冷蔵庫の電子音と巻紙が燃える音、それから諏訪の呼吸する音だけが聞こえていた。苦くて舌が痺れた。灰がぽとぽと床に落ちて短くなった煙草を諏訪の口元に運ぶ。短い煙が浮遊してから消えるのを見届けて、吸い殻をぎゅうっとすり潰した。
「さすがに怖いな」
諏訪がひび割れた声で、途切れ途切れに弱音を吐いた。
「大丈夫だよ諏訪。僕がやる」
安心させるように優しく言い聞かせてから、青木は諏訪に覆いかぶさって喉元に手を回した。指が柔らかい肉に埋まっていく。真ん中の硬さを持った塊が邪魔だった。
鈍い心音が指を食い破って血に混ざって流れてきて、心臓が痛いくらいに鼓動を早める。更に締め上げると、諏訪が死にかけの蝉みたいな声で鳴いて、青木の手首を強く握った。
「諏訪が望むところに行けるなら、僕は」
濁った白目の中で爛々と輝く黒がじっとりと青木を見上げていた。青木は、緩みそうになる両手に無理矢理力を入れた。時折視界がぼやけたが、夢中でやつれた首を絞め続けた。
脳内で、過去の記憶が上映される。
白いTシャツに穴が空いたジーパンを履いている諏訪が、棒アイスを食べながら駄菓子屋の前のガチャガチャを睨んでいて、青木はチューパットを吸いながらそれを見ている。出会って一ヶ月と経たない頃の記憶だ。
「ねぇ、気になってたんだけど」
そう切り出すと、諏訪は顔を上げた。青木は隣接しているペンキが剥げているベンチに腰を下ろして続ける。
「僕と一緒にいてもつまらないんじゃない」
「何でそう思う」
「皆がそう言うから」
「なんだそりゃ」
諏訪が笑う。溶けたアイスが棒を伝って地面にポタポタと落ちた。
「そういう評価って、大抵当たってることが多いでしょ。自分でもそうだろうなって思うし」
「ふーん、そういうもん?」
興味がなさそうにガチャガチャのつまみを捻り、カプセルを拾い上げて落胆する。それから中身ごとカプセルをゴミ箱に投げ捨てて、「俺は楽しいから、どうでもいいよそんなの」と言った。本当にどうでもよさげな声だった。
どうして今、そんなことを思い出すんだろう。
諏訪が動かなくなっても、青木はしばらくの間、首に回した手を離さなかった。温度を失っていく身体に跨ったまま、白くなった顔を見つめる。
諏訪の表情は、見惚れるほどに穏やかなものだった。久しぶりに見るその表情を確認してから、ようやくのろのろと手を離し、疲弊した声を吐き出す。
「僕は、地獄に落ちたって構わないよ」
静まりかえった部屋に、青木の声だけが響いた。手のひらが諏訪のものか自分のものかわからない汗でぬめっていて、気持ちが悪かった。
六、
「ギター、捨てちまうのかい」
大家が間延びした声でそう言うと、青木は一瞬肩を揺らしギターケースから手を引っ込めた。男子高校生にしては華奢な背中が、今日はより一層小さく見える。
アパートの住人専用ゴミ捨て場に棒立ちして振り向きもしない青木のすぐ後ろまでのそのそと近寄り、その視線の先へと目をやると、黒い合皮に黄色のステッチが入ったギターケースが異様な存在感を放って佇んでいた。
「うん、資源回収で持って行ってもらえるのかな」
あどけない顔が大家を見つめる。今までギターをゴミ捨て場に捨てた住人なんていなかったため、少し考えてから無理だろうと結論を出したが、それをそのまま伝えるのも悪いような気がして「どうだかねぇ」と曖昧に返事をした。
強い風が吹いて、羽織っていた毛皮のコートの前ボタンを留める。まだ日が出ているとはいえ、十二月の気温は老体を芯から冷やしていく。こすり合わせた両手に息を吐きかけながら、ワイシャツ一枚でも飄々としている青木の姿を見て若さは恐ろしいと思った。しかし、いくら十代だからといっても軽装すぎるのではないか。
無数のゴミ袋と段ボールの束に囲まれるギターケースを見ていると、数ヶ月前に聞いた話が頭をよぎる。青木とその友人が出会ったいきさつだ。あまり感情を表に出さない青木が、友人である諏訪の話をする時は年相応な顔をするので、その度に大家は子の成長を喜ぶ親のような気持ちになったのだ。確か、二人が仲良くなったきっかけもギターだったはずだ。一緒に演奏したこともある、と話す青木が薄い唇を嬉しそうに歪ませていたことを覚えている。
大家は時折、上の階から聞こえる六弦の音色に耳を傾けていた。しかし、ここ最近はそれが聞こえてこなくなり、少し残念に思っていたのだ。
「大切なものじゃあないの、これ」
「うん、そうだったんだけど、もう必要がなくなったから」
青木はキッパリと言う。
もう飽きてしまったのだろうか。そういえば、死んだ旦那もギターに手を出して、ろくに弾きもせずにやめてしまったことがあった。男は、一度はギターに惹き寄せられるものの、長くは続かない生き物なのだろうか。もったいないとも思ったが、来年は受験があると言っていたし、勉強に集中したいのかもしれない。そう考えて、しかし妙に腑に落ちないのは、青木の表情が奇妙なほどに柔らかかったからだ。
「諏訪くんも寂しがるんじゃないかい?青木くんのギターが好きだったようだし」
思わず諏訪の名前を出すと、青木は口を結んで押し黙り、手のひらを握ったり開いたりした。それから、「諏訪はもう来ないから」とポツリと呟いた。
大家は驚いて「喧嘩でもしたのかい?」と聞いたが、青木は静かに首を振る。
「別のところに行ったから、もう会えないんだ。僕は長島のところにも諏訪のところにも行けないだろうから」
なだらかな声だった。長島という名前に心当たりは無かったが、きっともう一人心を許している友人がいたのだろう。そして何らかの理由で彼らは別々の道を選んだ。若者の決別なんて、よくある話といえばそうだが、無邪気に笑い合っていた少年達がそんな寂しい決断を迫られた背景に思いを馳せ、胸が痛んだ。
「生きてさえいれば、いつでも会えるさ」
慰めにもならないとわかっていながらもそう声をかければ、青木は何も言わずに笑った。寒さからか鼻の頭が赤くなっていて、唇も血の気を感じさせない色をしている。剥き出しの手が可哀想で自分の手を重ねると、氷みたいに冷たくて度肝を抜かれた。青木も驚いたようで、その手をしばらく見つめてから、やがて、小さく鼻をすすった。
灰色だった空には日が昇り始め、うっすらとオレンジの光が混ざり出していた。