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文字数 4,578文字
ファンタジー研究会2,015年度会合成果作品番号第1号「サン・ミシェルに反論する」
それは突然あらわれた。気づけば部屋の窓枠に乗っかっていた天使は、みずからをサン・ミシェル(聖なるミカエル)と名乗った。小柄な少女で、ミカエルと聞いてイメージしていたのとは違うが、天使のイメージには寸分と違わない、金髪碧眼白皙の聖像 。その少女は、自分は他の人間の目には見えず、選ばれた物の前だけに姿を現すといった。触れることさえためらわれるような、均衡を感じさせるプロポーションとエーテルのオーラとに圧倒されて、高校の指定バッグを方から降ろすことも忘れて、しばらくその場で口を噤んで立っていた。
「信じられない…まさか」
やっと口をついて出た言葉はそれだった。
「信じられない? だったら、いまあなたの眼の前に居るのは何なの?」
彼女はからかうように言う。僕が呆然とするように放った言葉が、彼女の反論を招いた。
「幻覚を見てるのかな」
思わずそういったのだ。
「なに? 幻覚。ちょっと、わたしの姿がこんなにも近くにあるのに、幻と区別もつかないの?」
「ある種の精神疾患がもたらす幻覚の中には、実在と区別の付かない物があるんだ。有名なのは薬物中毒による幻覚、重度のアルコール依存症によってももたらされることもある。統合失調症をはじめとする精神的障害の多くには、罹患者に病識がない症例が見受けられ、患者は病院に行かないまま症状を重度化させてしまうケースもある。異変に気づかない内に精神がやられていることだってあるんだよ。まさか僕がそうだったなんて、とても信じられない」
そう言うと、彼女は怒ったように口をとがらせた。
「なによ! もう、ひとがせっかく臨在 れてあげたっていうのに、幻覚扱い!?」
「臨在 れた? そのように仮現 えるだけだろう?」
「ああもう。ほんとは十字架に架刑 てあげたいところだけれど、ほら」
天使は僕の頬をつねった。
「いてっ。やめてくれ」
「ほらちゃんと痛いでしょう。わたしがこれで幻覚じゃないってことはちゃんと分かったわね」
「違う、そんなことじゃほんとかどうかわからない、だからやめてくれ。痛いだけだ」
「はあ? これでもまだ、私が天使じゃないっていうの?」
「第一に疑ってみるべきは、統合失調症の陽性症状だ。幻覚が痛みを、つまり幻痛覚を誘発させても何らおかしなところはない」
僕は説明した。これからどうしようかと思いながら……世界がおかしくなってしまったのかもしれないと不安に押しつぶされそうだった。
「私は幻覚じゃないったら!」
彼女はむきになって言う。
「でも、他人からは見えないんだろ。こんなに窓から顔を出してるって言うのに、通行人のひとりだって集まってないじゃないか。僕にしかみえないってそりゃ僕の見てる幻と同じだよ。そうでないなら、他に見える人を連れて来てくれ」
と提案した。
「あいにく、そんな人は居ません。あなたにしか見えないの。他の天使を連れて来いって言うならできないこともないけれど」
「まさか、幻覚が増えるのかよ!」
「ああもう! 幻覚じゃないったら。じゃあ幻覚だって言うんなら、天使100人だって連れて来てあげるわよ、幻覚なら100人も作り出せないわ、脳の処理能力が限界のはずでしょう?」
「脳のハードウェアとしての能力にはほとんど制限がない、潜在的な能力を加味すれば、現代のコンピュータがなし得ることよりも遥かに高度なことが可能なはずだ。いまどきプレステだって100人の描画も余裕だ」
況や脳においておや。そうしたら彼女は苛立ったのように僕の頬をもう一度つねりながら、あたりを見渡し、部屋の隅に転がっていたゴミ箱の中から空き缶を取り出してそれを上下させてみせた。
「ほら、空き缶が持てるわよ! 物理的作用よ! 実体よ! 幻覚にこんなこと出来る?」
「それでも、これが僕の見ている幻覚だという確信は揺らぐことがない。天使だけが幻覚ではなくて、空き缶を含めたこの部屋全体のディティールが、認識的に歪められている可能性もあるからだ」
サン・ミシェルはげんなりとした顔をした。空き缶を窓の外へ投げ捨てる。閑静な住宅街に突如としてブレーキと衝突音が響く。
「そしたら、じゃあ、私がトランプなんか取り出しても、幻覚に違いないみたいに言うわけね?」
「信頼できる証人がいなければ、そうなる。もっとも、こうなった以上、誰が眼の前にいても簡単には信じられないが……」
「何でそんなに疑うの? 人間が疑おうと思えば、いまの自分が蝶の見てる夢なのか、それともそうでないのかだって疑えるはずだわ。でも、それって日常生活を送れないじゃない」
まるで荘子の「胡蝶の夢」のエピソードだ。
「たしかに、そういった合理的でない疑いを抱いていては日常生活を満足に送れない。ただし、今の状況は目の前に天使が現れたというもので、これを幻覚と疑うのは何ら不合理的な態度ではない。さあ次の反論を待つよ」
「ああもう、うっとおしいわね。わたしは私なのよ、ここにいるじゃないの、だから私はわたし! 幻覚なんかじゃないわ!」
妖精帝國の『Alte Burg』の歌詞の一節を髣髴とさせるような調子で、地団駄を踏んで彼女は言う。『此処に私が存在している それだけで私は私なの』(前述、http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:CaaNH0gXT5IJ:www.kasi-time.com/item-39782.html+&cd=7&hl=ja&ct=clnk&gl=jp)(この記述は公正な慣行に合致するものであり、引用である。)
「私は私って、そういうのは他人にはわかってもらえないぞ。自分の見ているものや感じてる感覚っていうのは固有のものなんだから、他人のを解れって言っても……」
お互いに疲れてしまった。しばらく無言のまま、時おり深くため息など付いたりしていたミシェルだったが、やがて
「じゃあ、こうしましょう? 私は幻覚ではないのだから、あなたと一緒に過ごしている内に、あなたのその「統合失調症」仮説は不整合をきたしてくるはずよ。だって根拠の無い妄想なんだから。そうなるときまで、あなたが私のことを幻覚だなんていう考えを捨てざるを得なくなるまで、私と一緒に居ましょう。この物語は、あなたが「統合失調症」仮説を棄却するまでの長い道のりを綴った感動の物語なのよ」
感動かどうかは知らないが、そんなに長い間幻覚と付き添って剰え会話などしていてたら、症状が悪化してしまう。そんなのを待っていられない。こっちとしてはいますぐこの天使が実在が幻覚かを調べたいのだ。待てよ、僕は考えた。自分が統合失調症じゃないことを証明するためには、医者に行けばいいのではないか。薬物をやってないから、自分が薬物中毒でないことは信じてもいいが、そういうことも含めて、病院にいけばすべて調べてもらえるのだ。僕が幻覚を見るような物理的状態ではないことは、病院に行けばはっきりするだろう。よしんば病気だったとしても、薬で直してもらえばいい。
僕は急いで大学病院の精神科へ駆け込んだ。
「残念ですけど、統合失調症かどうかを判別する生物学的指標はまだ発見されていないんですよ」
駆け込んだ先の医者にそう言われて、僕は愕然とした。
「え、統合失調症かどうかを確実に調べることって、まだできないんですか?」
「確実な診断結果はお届けできません。ですが、話を聞くことだったらできますよ。さて、何があったのでしょうか? お聞かせ願いますか?」
医者が眼鏡の縁を上げてそう言う。冗談じゃない、天使が現れたなんて、そんな話を聞かせたら精神病扱いされるに決まってる! 体を調べてくれ! 脳の中を開いてみてくれ! そしたら完全に正常だってことが分かるかもしれないじゃないか、話しを聞くだけなんてあんまりだ、それは僕の望んでいることじゃない!
「問診はいいですから、僕がいま幻覚を見ていないということをCTスキャンで証明してください」
「脳外科へどうぞ」
僕はそっちの外来へ行った。
「現在の脳科学ではとても、できないですね」
また先生にいわれて、僕は再び呆然としていた。どうするか、いまから科学の進歩をのんびり悠長に待つわけにもいかない。
「だから、あきらめて私と一緒にいなさいよ」
耳元でミシェルがそう囁いた。
「いや、残念ながら君を実在のものと信じるための方法はなくなった。だから君は幻覚にすぎない」
横にいる医者が不思議がったが、もう構わない。その場からすぐに立ち去った。
「ちょっと待ってよ!」
ミシェルはすぐについてくる。
「ついてくるな、まだ君がその場に居たほうが幻覚ではないって確信が深まる。幻覚は持ち主の意識とともに移動する!」
「あなたがどう考えてるのか知らないけど、私はちゃんといるのよ! 本当に!!」
しかし、もしこれが幻覚なら残念ながら会話するだけで病状が悪化する可能性がある。なるべく無視をするように心がけないといけない。明日もう一度精神科に行かなければならないだろうか。でも、幻覚がこんなに重度に見えるというのだから、最悪の場合入院させられるかもしれない。措置入院というやつだ。それは流石に辛い。僕はまだ高校だってあるし、遊びたい年頃だ。さしあたり誰にも迷惑をかけていないはずだから、入院するよりはむしろこの幻覚を無視し続けて普通の生活を送り続けるほうがマシだ。そういう方針を決めて、部屋に戻った僕は鍵をかけた。しかし、窓も閉めたのに、ミシェルはドアをすり抜けてはいってきた。
「私は霊体よ、こんなことしても無駄。あなたが思ってるようなものじゃないんだから」
「違う。それはまだ説得的ではない」
「ほら此処にトランプがあるでしょう、めくってみて、スペードの3よ」
「トランプなど無いかもしれない」
「ああもう、ああ言えばこう言うわね。あなたは、ファンタジーを信じられないの?」
「それに関しては、僕はごく普通の現代人と同じ立場だ、そうするに足る充分な証拠があれば信じるよ」
「ああもうだから、あなたに証拠を提示するというそのことが、とてつもなく難しいんじゃないの!」
「立証責任は第一義的に君の側にあって、こちらに転換することはできない」
「だから一般人の合理的な判断では――」
「ダメだ。刑事裁判で求められるような高度の蓋然性が必要だ」
「なんでこんな子供みたいな見た目のわたしにそこまでを要求するのよ! じゃ、これでどう!」
天使は隠し持っていたナイフで素早く主人公の喉を掻き切った。論ずる間もなく青年は息絶え、魂は消滅する。生命の途絶えた沈黙だけが辺りを支配した。
「ほら、私は幻覚じゃなかったわよ。もし幻覚だったなら、あなたが死んだと同時に私も消えているはずだわ。ほら……これで信じたわね、わたしは幻覚なんかじゃないのよ。あなたが死んでどうなったって、ちゃんとここに居るんだもの。あなたの妄想は間違ってたじゃないの、ほら、はやく起きなさいよ、証明してあげたわよ、これ以上ないエレガントな方法でね…何で何も答えないのよ……ねえ……ちょっと……そうね、私が殺したんだったわ」
そして部屋の中にはいつまでも沈黙と血の匂いが流れ続けたのだった。 -fin-
それは突然あらわれた。気づけば部屋の窓枠に乗っかっていた天使は、みずからをサン・ミシェル(聖なるミカエル)と名乗った。小柄な少女で、ミカエルと聞いてイメージしていたのとは違うが、天使のイメージには寸分と違わない、金髪碧眼白皙の
「信じられない…まさか」
やっと口をついて出た言葉はそれだった。
「信じられない? だったら、いまあなたの眼の前に居るのは何なの?」
彼女はからかうように言う。僕が呆然とするように放った言葉が、彼女の反論を招いた。
「幻覚を見てるのかな」
思わずそういったのだ。
「なに? 幻覚。ちょっと、わたしの姿がこんなにも近くにあるのに、幻と区別もつかないの?」
「ある種の精神疾患がもたらす幻覚の中には、実在と区別の付かない物があるんだ。有名なのは薬物中毒による幻覚、重度のアルコール依存症によってももたらされることもある。統合失調症をはじめとする精神的障害の多くには、罹患者に病識がない症例が見受けられ、患者は病院に行かないまま症状を重度化させてしまうケースもある。異変に気づかない内に精神がやられていることだってあるんだよ。まさか僕がそうだったなんて、とても信じられない」
そう言うと、彼女は怒ったように口をとがらせた。
「なによ! もう、ひとがせっかく
「
「ああもう。ほんとは十字架に
天使は僕の頬をつねった。
「いてっ。やめてくれ」
「ほらちゃんと痛いでしょう。わたしがこれで幻覚じゃないってことはちゃんと分かったわね」
「違う、そんなことじゃほんとかどうかわからない、だからやめてくれ。痛いだけだ」
「はあ? これでもまだ、私が天使じゃないっていうの?」
「第一に疑ってみるべきは、統合失調症の陽性症状だ。幻覚が痛みを、つまり幻痛覚を誘発させても何らおかしなところはない」
僕は説明した。これからどうしようかと思いながら……世界がおかしくなってしまったのかもしれないと不安に押しつぶされそうだった。
「私は幻覚じゃないったら!」
彼女はむきになって言う。
「でも、他人からは見えないんだろ。こんなに窓から顔を出してるって言うのに、通行人のひとりだって集まってないじゃないか。僕にしかみえないってそりゃ僕の見てる幻と同じだよ。そうでないなら、他に見える人を連れて来てくれ」
と提案した。
「あいにく、そんな人は居ません。あなたにしか見えないの。他の天使を連れて来いって言うならできないこともないけれど」
「まさか、幻覚が増えるのかよ!」
「ああもう! 幻覚じゃないったら。じゃあ幻覚だって言うんなら、天使100人だって連れて来てあげるわよ、幻覚なら100人も作り出せないわ、脳の処理能力が限界のはずでしょう?」
「脳のハードウェアとしての能力にはほとんど制限がない、潜在的な能力を加味すれば、現代のコンピュータがなし得ることよりも遥かに高度なことが可能なはずだ。いまどきプレステだって100人の描画も余裕だ」
況や脳においておや。そうしたら彼女は苛立ったのように僕の頬をもう一度つねりながら、あたりを見渡し、部屋の隅に転がっていたゴミ箱の中から空き缶を取り出してそれを上下させてみせた。
「ほら、空き缶が持てるわよ! 物理的作用よ! 実体よ! 幻覚にこんなこと出来る?」
「それでも、これが僕の見ている幻覚だという確信は揺らぐことがない。天使だけが幻覚ではなくて、空き缶を含めたこの部屋全体のディティールが、認識的に歪められている可能性もあるからだ」
サン・ミシェルはげんなりとした顔をした。空き缶を窓の外へ投げ捨てる。閑静な住宅街に突如としてブレーキと衝突音が響く。
「そしたら、じゃあ、私がトランプなんか取り出しても、幻覚に違いないみたいに言うわけね?」
「信頼できる証人がいなければ、そうなる。もっとも、こうなった以上、誰が眼の前にいても簡単には信じられないが……」
「何でそんなに疑うの? 人間が疑おうと思えば、いまの自分が蝶の見てる夢なのか、それともそうでないのかだって疑えるはずだわ。でも、それって日常生活を送れないじゃない」
まるで荘子の「胡蝶の夢」のエピソードだ。
「たしかに、そういった合理的でない疑いを抱いていては日常生活を満足に送れない。ただし、今の状況は目の前に天使が現れたというもので、これを幻覚と疑うのは何ら不合理的な態度ではない。さあ次の反論を待つよ」
「ああもう、うっとおしいわね。わたしは私なのよ、ここにいるじゃないの、だから私はわたし! 幻覚なんかじゃないわ!」
妖精帝國の『Alte Burg』の歌詞の一節を髣髴とさせるような調子で、地団駄を踏んで彼女は言う。『此処に私が存在している それだけで私は私なの』(前述、http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:CaaNH0gXT5IJ:www.kasi-time.com/item-39782.html+&cd=7&hl=ja&ct=clnk&gl=jp)(この記述は公正な慣行に合致するものであり、引用である。)
「私は私って、そういうのは他人にはわかってもらえないぞ。自分の見ているものや感じてる感覚っていうのは固有のものなんだから、他人のを解れって言っても……」
お互いに疲れてしまった。しばらく無言のまま、時おり深くため息など付いたりしていたミシェルだったが、やがて
「じゃあ、こうしましょう? 私は幻覚ではないのだから、あなたと一緒に過ごしている内に、あなたのその「統合失調症」仮説は不整合をきたしてくるはずよ。だって根拠の無い妄想なんだから。そうなるときまで、あなたが私のことを幻覚だなんていう考えを捨てざるを得なくなるまで、私と一緒に居ましょう。この物語は、あなたが「統合失調症」仮説を棄却するまでの長い道のりを綴った感動の物語なのよ」
感動かどうかは知らないが、そんなに長い間幻覚と付き添って剰え会話などしていてたら、症状が悪化してしまう。そんなのを待っていられない。こっちとしてはいますぐこの天使が実在が幻覚かを調べたいのだ。待てよ、僕は考えた。自分が統合失調症じゃないことを証明するためには、医者に行けばいいのではないか。薬物をやってないから、自分が薬物中毒でないことは信じてもいいが、そういうことも含めて、病院にいけばすべて調べてもらえるのだ。僕が幻覚を見るような物理的状態ではないことは、病院に行けばはっきりするだろう。よしんば病気だったとしても、薬で直してもらえばいい。
僕は急いで大学病院の精神科へ駆け込んだ。
「残念ですけど、統合失調症かどうかを判別する生物学的指標はまだ発見されていないんですよ」
駆け込んだ先の医者にそう言われて、僕は愕然とした。
「え、統合失調症かどうかを確実に調べることって、まだできないんですか?」
「確実な診断結果はお届けできません。ですが、話を聞くことだったらできますよ。さて、何があったのでしょうか? お聞かせ願いますか?」
医者が眼鏡の縁を上げてそう言う。冗談じゃない、天使が現れたなんて、そんな話を聞かせたら精神病扱いされるに決まってる! 体を調べてくれ! 脳の中を開いてみてくれ! そしたら完全に正常だってことが分かるかもしれないじゃないか、話しを聞くだけなんてあんまりだ、それは僕の望んでいることじゃない!
「問診はいいですから、僕がいま幻覚を見ていないということをCTスキャンで証明してください」
「脳外科へどうぞ」
僕はそっちの外来へ行った。
「現在の脳科学ではとても、できないですね」
また先生にいわれて、僕は再び呆然としていた。どうするか、いまから科学の進歩をのんびり悠長に待つわけにもいかない。
「だから、あきらめて私と一緒にいなさいよ」
耳元でミシェルがそう囁いた。
「いや、残念ながら君を実在のものと信じるための方法はなくなった。だから君は幻覚にすぎない」
横にいる医者が不思議がったが、もう構わない。その場からすぐに立ち去った。
「ちょっと待ってよ!」
ミシェルはすぐについてくる。
「ついてくるな、まだ君がその場に居たほうが幻覚ではないって確信が深まる。幻覚は持ち主の意識とともに移動する!」
「あなたがどう考えてるのか知らないけど、私はちゃんといるのよ! 本当に!!」
しかし、もしこれが幻覚なら残念ながら会話するだけで病状が悪化する可能性がある。なるべく無視をするように心がけないといけない。明日もう一度精神科に行かなければならないだろうか。でも、幻覚がこんなに重度に見えるというのだから、最悪の場合入院させられるかもしれない。措置入院というやつだ。それは流石に辛い。僕はまだ高校だってあるし、遊びたい年頃だ。さしあたり誰にも迷惑をかけていないはずだから、入院するよりはむしろこの幻覚を無視し続けて普通の生活を送り続けるほうがマシだ。そういう方針を決めて、部屋に戻った僕は鍵をかけた。しかし、窓も閉めたのに、ミシェルはドアをすり抜けてはいってきた。
「私は霊体よ、こんなことしても無駄。あなたが思ってるようなものじゃないんだから」
「違う。それはまだ説得的ではない」
「ほら此処にトランプがあるでしょう、めくってみて、スペードの3よ」
「トランプなど無いかもしれない」
「ああもう、ああ言えばこう言うわね。あなたは、ファンタジーを信じられないの?」
「それに関しては、僕はごく普通の現代人と同じ立場だ、そうするに足る充分な証拠があれば信じるよ」
「ああもうだから、あなたに証拠を提示するというそのことが、とてつもなく難しいんじゃないの!」
「立証責任は第一義的に君の側にあって、こちらに転換することはできない」
「だから一般人の合理的な判断では――」
「ダメだ。刑事裁判で求められるような高度の蓋然性が必要だ」
「なんでこんな子供みたいな見た目のわたしにそこまでを要求するのよ! じゃ、これでどう!」
天使は隠し持っていたナイフで素早く主人公の喉を掻き切った。論ずる間もなく青年は息絶え、魂は消滅する。生命の途絶えた沈黙だけが辺りを支配した。
「ほら、私は幻覚じゃなかったわよ。もし幻覚だったなら、あなたが死んだと同時に私も消えているはずだわ。ほら……これで信じたわね、わたしは幻覚なんかじゃないのよ。あなたが死んでどうなったって、ちゃんとここに居るんだもの。あなたの妄想は間違ってたじゃないの、ほら、はやく起きなさいよ、証明してあげたわよ、これ以上ないエレガントな方法でね…何で何も答えないのよ……ねえ……ちょっと……そうね、私が殺したんだったわ」
そして部屋の中にはいつまでも沈黙と血の匂いが流れ続けたのだった。 -fin-