第1話

文字数 1,151文字

 彼女はいつも、雨の夜になると、僕の住処にやって来た。ずぶ濡れの姿で現れて、ご飯を炊いて、料理をする。
 何故ずぶ濡れなの、傘をささないの、と聞くと彼女は、意味がないもの、と答えた。
 夜の雨がいいの。水はつながりやすいから。

 彼女と話していると、ただいま、と男が入って来た。タオルで頭を拭きながら、食べ物の匂いに誘われるように、まっすぐ台所を覗く。湯気の立った鍋を見つけて首を傾けた。あれ、また母さんが来てたのかな、と。

 前に一度、彼が留守の間に母親がやってきて、食事を作って帰ったことがあった。置手紙だけ残して。だから、こうやって時々用意されている食事はいつも、母親だと思っているようだった。置手紙はないのに。電話するのサボってるから怒られるかな、おせっかいだよな、とつぶやきながら、こっちに歩いてきた。何を見てるんだ、と彼は僕の前に屈んだ。大きな手で僕の頭をなでて、いい子にしていたか、と笑う。さあ、おまえの分だ。彼は僕の皿に、僕のご飯を盛りつける。

 鬱陶しい雨だな。
 窓の外を見てつぶやいた。彼の視線の先には彼女が立っていて、その後ろに窓がある。外ではまだ雨が降っている。
 こんな雨の日は、あの女を思い出すな。
 彼は独り言のようにつぶやいている。覚えてるか、雨みたいに湿っぽい女だったよな。ちょっと遊んで捨てたら、勝手に悲劇ぶって海に飛び込んだ女だよ。

 覚えているよ、だって、そこにいるじゃない。ずぶ濡れの姿で。
 僕が応えても、彼は何も言わなかった。彼の目は外の雨を見ている。彼女を通り越して外を見ている。

 そして彼は、用意されていた食事を、何の疑問も抱かずに食べ始める。母親の味付けとは違うご飯を、おいしいと言いながら彼は食べている。それを一口食べるごとに、少しずつ彼の存在が薄くなっている気がする。そうやって雨のたびに少しずつ痩せて行く。
 彼女は窓の前に立ったまま、じっと彼を見ている。

 ねえ、雨のようだって。ぼくは彼女に言う。だから雨の日にばかり来るの、と尋ねると、そうね、と彼女は笑った。
 太陽は嫌いなの、昼は私の時間じゃないから。夜も、月が闇を許さないの。でも、雨の日は遠い雲の向こうだし、水は世界をつなぐから、雨の日はとても居心地がいい。そして私は、水と交わりやすいの。だって、水の中で死んだのだもの。

 でも、どうして、僕にはあなたが見えるの。彼には見えないようだったのに。
 さあ。わからないけど、あなたと彼は違うからかしら。彼女は青褪めた唇で微笑んだ。
 昔から、猫は霊を見るって言うじゃない。


終わり
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