第1話 ありふれた日常の中で

文字数 803文字

「あいたっ!」
 ついうっかり額を棚にぶつけてしまった。
 それを見てクスクス笑う子供がいた。彼は四肢が動かない障がい児だ。だけど、人の言うことはしっかり解かるし、表情も豊かな少年だ。
「いやー、お兄ちゃんはうっかりだねえ。いやいや、もうおじさんなのかなあ?」
 こちらがそう言うとニコリと笑みを浮かべる。この子は素直なんだな、と思う。
 こちらが天然らしいのでうっかりボケ発言をすると笑ってくれるのだ。
 前に脱衣所に入る前に少年は淡をせき込んで口から出したことがある。
「よーし、良いね。出すことは悪いことじゃない。どんどん出して良いからね」
 こちらがそう言って口元を拭うと笑顔を見せてくれた。隣にいる職員も笑顔でその子に接してくれるから安心だ。
 コメディか。
 一般には芸人さんが一生懸命考えた漫才を繰り広げるのがコメディの主流だろうけど、自分の場合はちょっと違った。
 文学の世界ではダンテの「神曲」という作品が世界的にも有名だ。「神曲」と訳されているから分かりづらいけど、原語はLa Divina commedia。ラ・ディバーナ・コメディア。要するに「神の喜劇」だ。コメディは古い時代では救済や心の喜びを意味していた。
 少年のニコリとした笑顔を見て救われている自分がいる。これもコメディなのではなかろうか。
 もっと言うと日常に中にありふれた何気ない会話ややり取りがコメディそのものなのかも知れない。
 悪い意味じゃないよ? 世界があるということがどうしようもない奇跡で生きていることが喜びなら、人生はコメディだ。
 いつか、人生を振り返ってみると良いよ。あなたの中には大切な人が必ずいて笑いあえた時代があったのだから。
 ない人はこれから創ろう。
 人生は喜劇だ。悲劇も多いけど、喜劇でもある。
 自分は祈ろう。このささやかな日常が世にありふれていて続く様に。

                            -了-
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