第2話

文字数 2,496文字

「マリちゃん、見て見て。これ、買ってきたの」
 ホステスはお客さんよりひとまわり小さいグラスを使うものだとマリから聞いたママが、小ぶりなグラスを新調した。
 灰皿も、重厚なブランド品より、軽くて小さいほうがいい。灰皿はよく洗うから傷つけやすいし、割ったりしやすいので安物のほうがいい、とマリがいうと、ママは早速ダイソーで小さな灰皿を買ってきた。
 ママは、マリのいう事をほいほいと聞いて、スナックのノウハウを学んでいるみたいだった。
 ブルガリの灰皿は、カウンターのすみで埃をかぶった。
 マリは私と同い年、二十七歳だった。九州の東シナ海に近いT島で生まれ育ち、大阪には八年前に出て来たという。十七歳の時に高校を辞めてスナックで働き、十八歳の時に二つ年上の男と結婚、T島を出て大阪で新婚生活をはじめた。翌年子どもを授かり、その子が三歳になった時に離婚した。
 別れた夫に親権を渡して一人になると、東通りの居酒屋や天満のスナックを転々とする。この頃、昼夜問わずシラフでいるほうが少なかった、と、マリはいった。
 自棄やったな、と、乾いた声でケラケラ笑うマリを見て、私はドラマみたいな話だと思った。こんないい方もおかしいけれど、ドラマチックな人生のマリと比べて、ひどく平凡な自分の生活が恥ずかしくなった。マリは結婚も出産も離婚も経験済みで、私は結婚も出産もまだした事がない。同い年なのに自分はまだ何もしていないみたいで、人として未熟な感じもする。
 もっと賑やかなところに行こうとミナミの宗右衛門町のラウンジに勤めた時にマリは店の黒服の男と付き合った。同棲すると男の妬きもちから夜の仕事を辞めてラーメン屋に勤める。だが一年少しで別れて、二人の遊興で作った借金だけが残った。
「だから水商売は一年以上ブランクがあるねん」
 といったマリは、子どもと別れた過去や借金を背負った現在を悲観する様子はなく、自分のコンディションを不安視する職人みたいだった。
「スナック亜夜」の数少ない常連客はすぐにマリを気に入った。
 月に一度しかこなかった人が毎週くるようになったり、誰かをマリに会わせたい、と、客が客を連れてきたりする。みんなマリがいるとおもしろい事があると思ってしまうようで、私もマリに会えるのが楽しみになり、金曜日が待ち遠しくなった。
「鍵、預かりましょうか」
 と、マリは常連客の美山さんにいった。
「大事なベンツや」
 と、美山さんは小さな鈴をチリチリ鳴らしてマリに自転車の鍵を渡した。
 美山さんは、お店の近所に事務所を構える建築士だ。年季の入った海老茶色のジャケットを着たごましお頭の老紳士で、店にはいつも自転車に乗ってやって来る。
「先生、それ、チャリでしょ」
 カウンターでロックグラスを手にした松尾さんがいった。スキンヘッドの頭をピカピカさせた松尾さんは、ラコステのポロシャツを着た恰幅のいいおじさんだ。眉毛がなくて斜視で、見た目が怖そうだけど、喋りはじめるとほたほたとよく笑う。
「ベンツという名前のチャリや」
 と、美山さんが返し、
「そら、失礼しました」
 と、松尾さんは笑った。
 私はマリに、南堀江のこんなスナックより、ミナミか北新地のキャバクラやガールズバーのほうが手っ取り早く稼げるのではないかといった事がある。マリほどのキャリアがあるならこんな店ではもったいないし、借金の返済もあるならちゃんとした店で働くほうがいいと思ったのだ。
「ユリこそキャバが向いてそうやん」
 と、マリがいたずらっぽくいった。
 マリは、前に北新地のキャバクラに勤めた事があって、時間制でせわしなくて、来る客もおもしろくないから三日で辞めたという。
「若い子が若いってだけで稼げるようにシステム化してあるからね。普通の女の子が手っ取り早く稼ぐには便利でいいと思うけど、きゅうくつでさ、やりにくいねん。キャストにもゲストにも損得勘定が先にある。仕事の延長みたいやから遊びになりきらへんわ」
 デフレといわれて久しい頃で、街中ではファストファッションや百円均一などの低価格を売りにする店が定着した。
 夜の遊びもお手軽感が求められ、料金と敷居の高いイメージのあるラウンジやクラブは倦厭されがちになり、手頃な値段で遊べるキャバクラやガールズバーが流行った。
 さすがにマリは夜の街の事には明るかった。
 それにマリがいう通り、私はキャバクラ向きだと思った。
 ホステスごっこなら、時給も貰えてお稽古事やコンパをするよりお得、という私の考えも損得勘定からくるものだ。
 何をしても遊びになりきらなくて、道理で私は何をしてもおもしろくないわけだった。
 趣味と実益を兼ねたアルバイトなどという考えもこずるくて、私は自分が情けなくなった。
 キャバクラだと勤務先の男性に出会う危険があるから、という意味の事を私はマリにいった。会社にバレないように、キタやミナミではなく、南堀江のこの店を選んだのも嘘ではないけれど、職業意識を持つマリの前で、ホステスごっこをするだけだから「スナック亜夜」みたいな半端な店がちょうどいい、などとはとてもいえなかった。
「ま、この頃はスナックが流行っても知れてるからな。今はもうスナック自体、時代遅れの感じや」
 時代遅れなら時代遅れでいい、それが売りになる、と、マリはいい、私はよくわからないまま「うん」と頷いた。
 マリは、繁華街から外れた場所にあっても「スナック亜夜」は人がおもしろいから大丈夫や、ともいった。
 お店がほめられると私は自分も認められた感じがした。
 週に一度のアルバイトのくせに帰属意識を持つのも妙な話だが、マリがいった「人がおもしろい」の中に自分も入っているみたいで、私は自信が持てそうに思ったのである。
 会社の仕事を終えてデパートのパウダールームで着替えて、私が「スナック亜夜」に入るのはだいたい七時半頃だった。
 以前なら、店に入るとママがボックス席でメイク道具を広げたが、マリが入ってからは早い時間でもお客さんがいる事も珍しくなくなった。
                                      (つづく)
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