第8話

文字数 10,347文字

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 僕は、風子の妊娠を機に、風子を籍に入れたいと思ったし、そうしようかと、風子に言いました。
 予想通り、風子は、断ってきました。
 理由は言いません。ただ、
「風子には、姓はいらないから」
 と、それだけです。僕も無理強いする気はありませんでした。無理強いは、風子が一番嫌うことでしたから。
 ただ、病院に通うときは、小林風子、という名に便宜上なりました。
 小さな産婦人科医でしたが、何をどう言いくるめたんだか、風子は、その素性を問われることもなく、また、保険証を見せることもなく、母子手帳のようなものまでせしめていました。
 そういう部分、風子は、本当に天才的だったと思います。
 そして僕は、風子の中に宿った命を前に、改めて自分を縛ってきたことについて考えざるをえなくなった。
 働くことです。
 盗人にはなりたくない。毟り取るのも嫌だし、毟り取られるのも嫌だ。
 しかしそれは、自分ひとりで暮らしている間だけの我侭でしかない。たとえば、生まれてくる息子だか娘だかを守るためであれば、自分は、やはり毟り取らねばならないのだ、盗人にでも何にでもならなくてはならないのだ。
 父が毟り取られた分、取り返してやればいいではないか。
 でもそれまでずっと、僕は、毟り取られるのが怖かった。
 父から受け継いでいる、大事な資産。
 大事な――。
 僕は、産婦人科に支払う金を下ろし終えた通帳をみて、そして愕然としたのです。
 残高は、ついに百万を割り込んでいました。二百億と言われていた小林家の資産は、今やその二万分の一にすら満たないのです。
 毟り取られて困るものなど、もうなかったのだ、と僕は思いました。呪縛は、――自分への言い訳でもありました。
 わかっていました。
 僕は、きちんと働くのが嫌だったのです。毎朝決まった時刻に起き、電車に揺られ、会社につけば上司にゴマをすって、先輩に気を使い、顧客にも気を使い、神経をすり減らして。時には、高水さんがやっていたような不正を見てみぬふりしなければならない。そういう労苦の全てが嫌だった。
 要するに僕は、怠け者なのです。
 生まれてからずっと、努力などしてこなかった。好きなことだけ、気が向いたことだけ、やってきた。そしてその結果、僕は、父と母の破滅を自らの殻にして、ずるずると自らが退廃していくのを眺めていた。
 その僕に、子供が生まれる。
「風子」
 と、僕は彼女に言いました。
「俺、働こうと思う」
 風子は、いつもと同じように、あはあはと、笑ってから言いました。
「赤ん坊をおんぶして、発掘行こうか」
「仕事が来たらな」
 僕は、それで久しぶりに、就職雑誌を買いました。
 僕は、盗人の中に入っていく決意をしました。ただそれでも、僕自身が盗人になるつもりはなかった。自らが、盗人と化すことだけはないようにと思った。
 日本経済は、不況の真っ只中へと向かいつつありました。それに伴い、就職状況も急速に悪化していました。それでも、まだなんとか二十代であるという若さと、望む給与水準の低さから、僕は携帯電話販売会社に雇ってもらうことができたのです。


 風子は、いつものタフさが嘘のように、きつい悪阻を訴えました。蒼い顔をしてアパートで寝ていることもありましたが、僕は彼女を残して、勤め始めたばかりの販売店へ出勤しなくてはなりませんでした。
 勿論、気懸かりでした。仕事というもののなんと理不尽なことか、とも思いました。でも、気分の悪そうな風子の顔と、少しずつ膨らんでいく風子のお腹を見るたび、僕は、変わらなければならないと思うのです。
 幸い、風子はアパートでは人気者でしたし、風子の妊娠はアパート中の大ニュースになっていましたから、アパートに住む女たちが代わりばんこで風子の様子をみてくれたり、風子に食事を作ってもってきてくれたりしていました。僕がここで一人で暮らしていたときは、糖尿の具合が悪くてどんなにぐったりしていても、声をかけてもらったことすらなかった。
 風子には、そういう不思議な力があった。
 あるいは、今、僕と風子が作ろうとしている「家族」というものにも、そんな力があるのかもしれない。それは、僕には未知の力でした。
 僕が、まともに社会と関わりをもっていたのは、三年以上前のことです。その頃から比べると、携帯電話は冗談みたいに小さく、高性能で、そして安くなっていました。そして、戦後最悪の不況だと騒がれているわりには、たいして収入のあるはずもない高校生や大学生が、携帯電話を気軽に買っていきます。いくら安くなったといっても、毎月の通話料などを考えれば、僕の収入では購入をためらうレベルのものです。それを、あんな子供たちが――。
 ほんの十年と少し前までは、僕の方がそう思われていたのだろうと思うと、おかしくなりました。ただ、父が破滅する前、僕は特別な存在だったはずです。少なくとも、父は長者番付の常連だった。この、携帯電話を買っていく子供たちみんなが、特別な訳がない。何かが大きく変わり、そしておそらく狂いつつあるような気が、僕はしました。
 アパートに帰れば、相変わらずの前世紀的生活です。
 僕の部屋にある文明の光は、粗大ゴミ置き場から拾ってきた古いテレビくらいで、勿論、パソコンなどありません。アパート中捜したって、そんなもの出てきやしない。携帯だってない。
 そして、風子がいる。
 幸い、しばらくするとひどかった悪阻が嘘のように治ってしまいました。
 風子は、心配する僕を笑い飛ばして、酒屋の仕事に戻りました。
 妊娠中、風子の様子は本当に変わらなかったんです。確かに悪阻の時は、辛そうにはしていましたが、それは体調が悪いからだけであって、それ以上のものはなかったし、悪阻が去ってからは、妊娠前の風子に戻りました。
 僕はだから、平穏な生活を予想していましたよ。風子を入籍できないにしても、生まれてくる子供の出生届けは出さざるをえないでしょう。その時には、風子の戸籍も必要になる。でも、それはほんの手続き上のことであって、それ以上のものではない。風子も、それを拒絶することはないだろう。
 僕自身、今までのように社会を拒絶して生きていくことは、考えなくなっていました。このまま完全歩合給のこの会社でずっと働いていく気はなかった。それに、ずっとこのアパートで暮らす気もなかった。これからのこともいろいろ考えなけりゃいけない、そう思っていました。
 ただ風子は、そういう根を張ったような生活のことを話すのを嫌がりました。それは、「フーテンの風子」である以上あたりまえのことで、出産後も風子が、それこそ寅さんのように、ある程度放浪しても仕方がないかもしれないとすら思っていました。寅さんにとっての「とらや」、つまり戻るべき家が僕であり、僕と風子の子供であれば、それでいい。そこまで、僕は思っていたんです。


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 そして十ヶ月が過ぎ、風子は無事女の子を産みました。僕は、出産にも立会いました。生まれてくる赤ん坊なんて見るの、初めてですよ、勿論。ホントに赤いんですよね、赤ん坊って。それは母親の血がついているからではなく、産湯につかった後でも赤い。だから、赤ん坊っていうんだなって、妙に納得したものです。そりゃ、感動ですよ、感動です。そういう感動の中でもね、そんな「赤ん坊」という言葉の由来のことなんかを考えている。人間ってのは、おかしなものですよね。
 風子も、嬉しそうでした。
 出産して間もなくでしたけどね、赤ん坊を抱いてね、
「私の赤ちゃんだね、小林くんと私の赤ちゃんだね」
と、確かめるように、何度も呟いていました。赤ん坊に頬を寄せてね。
 幸せでした。
 入籍はしていないけれど、僕には、妻がいて、そして娘ができた。
 一度は、完全に捨て去られていた僕の人生でした。それが今、帰ってこようとしているのです。
 出産の後、風子は元気だったのですが、念のため赤ん坊と一緒に病院に泊まりました。だからその夜、僕は一人だった。僕は、一人、アパートに戻ってね、どうしたと思いますか?
 泣いたんです。
 娘をね、僕の父と母に見せてやりたかったと、思ったんです。
 お話ししてきた通り疎遠な親子関係でしたから、二人の死後も父や母のことを思い出す機会はあまりなかったんです。それが、風子と風子の隣の娘の顔を見て、それでアパートに戻ってきたら、父や母のことがやたらと思い出されてね。
 彼らは不器用だったんだと、気づいたんです。彼らはね、それこそ祖父母と孫ほどに年も離れていたし、彼ら自身、一般的とは言いがたいような人生や親子関係を歩んできた人たちだった。だから、どうしたらいいのかわからなかったのかもしれない。そして彼らは、僕という不肖の息子ではカバーしきれない絶望の中で、自ら死を選んでいったのです。あるいは僕は、彼らを、死なせずにすんだのかもしれない。そういう人間に僕をしてしまったのもまた彼らですから、僕は、一概に自分を責める必要はないのでしょう。でもそれは理屈であって、感情ではない。
 そして、僕の娘です。
 生まれたばかりで猿みたいな顔してる、ほんの三キロくらいの赤ん坊だ。それなのにね、その赤ん坊の、見る人に何と大きなエネルギーを与えてくれることか。この力があれば、父も母も死ななかったんではないかと僕は思ったのです。
 父は一生を賭けた事業を失った。母は人生のよすがだった金を失った。そんなもの、たいしたもんじゃないよ、と僕は言えなかった。でも、もし僕が、この赤ん坊を抱いていたら、そしてそれを彼らに見せることができたなら、僕は自信をもって、そんなもの、たいしたことじゃないよ、と言えたような気がしたのです。
 勿論、そんな「たら」「れば」は、無意味です。
 そして僕は涙を流したことで、また一つ、意を強くしました。
 僕は、この娘のためになら何でもやろう、ということです。
 盗人の中にたとえ裸で放り込まれようとも、もう僕は何も怖れない。僕は、風子とともに僕の家庭を守っていくのだ、そう思ったのです。


 翌日、風子が戻ってきて、僕はちょっとしたご馳走を作り、新たなる出発を祝いました。確か、牛肉のステーキと赤ワインだったと思います。
 赤ん坊が泣くと、風子が乳を含ませる。
 風子は、授乳によくないからと、ワインは舐めただけでした。
 僕たちは、精一杯の晩餐をすませると、部屋で川の字になって横になりました。
 おやすみと言って明かりを消し、しばらくしても風子が起きているのが気配でわかりました。
「ねえ、小林くん」
 風子は、静かな声で言いました。
「神様って、信じてる?」
「なんだよ、それ」
 思わぬ質問に、僕は茶化したわけではないのですが、苦笑してしまいました。
「別にクリスチャンってわけでもないんだけどさ。――よく絵本とかさ、飾り物みたいなのとかでさ、見るじゃない。イエスが生まれてさ、マリア様と、その旦那さんがいてさ、厩だっけ? 貧乏なんだけどさ、それに、これからイエスはいろいろ受難に遭うわけでしょ。でもさ、なんか、幸せに満ちてた、そんなような印象があってさ。今って、あんな感じだよね」
「受難なんて、ねえよ」
「生きてることが受難だ、みたいに感じたこともあったけどね。何があるかわからないけど、――受難なんて恐れてもしょうがないし。でもさ、小林くん。私、やっぱり、今晩みたいな時、神様を信じてもいいのかなって思うよ」
 僕と風子は、その晩、傍らに娘を寝かせて、しっかりと抱きあって眠りました。


 それから三日の後、僕が会社から戻ると、風子はアパートからいなくなっていました。
 卓袱台の上には置手紙があり、赤ん坊は風子がお産した産婦人科医院に預けてあることが記されていました。
「小林くん、一年半、ありがとう。さようなら」
 手紙を重しするように、僕名義の僕の知らない預金通帳が置かれていました。そこには、百万円の残高がありました。口座開設は、風子が僕のアパートに転がりこんできてすぐです。最初の残高は千円。それから、何千円かのお金が少しずつ積み重ねられ、そして百万と少しにまでなっていました。
 その入金の軌跡は、風子の昨日今日ではない決意を物語っていました。


 風子が探されたくないことは、すぐにわかりました。でも僕は、探さざるをえなかった。
 僕一人で娘を育てることなどできないという、現実的な問題もありましたが、それ以上に、僕には風子という人間が必要になっていました。
 警察に捜索願を出しに行くにあたり、僕は、彼女の素性を何一つ知らないことを、改めて思い知らされました。そして風子が自らについてを秘すその完璧さは、僕に、ある一つの予感を与えようとしていました。でも、それでも構わないと僕は決めました。
 僕はカメラを持っていませんが、インスタントカメラで風子の写真は何枚か撮ってきていました。それを警察に持っていこうと思い、僕は、押入れの中を探しました。
 しかし、ないのです。
 撮ったはずの風子が、風子との思い出、風子との一年半の歳月が無くなっている。押入れや物入れの中を、それでも三十分も探していたでしょうか。捨てるはずがない。どこかへ行きようもない。
 わかっていました。
 風子が、持って出たのです。
 風子には、写真を残しておくわけにはいかない、理由があるのです。
 そして僕は、そうした風子の理由にさえ、それがどんなものであるのか分からないにもかかわらず、立ち向かっていく心の準備が、既に出来上がっていました。
 警察に行けば、彼女が今、どこにいるかはわからなくても、彼女が誰なのかを知ることはできるだろうと思いました。それには、写真が必要でした。
 僕は、風子の写真を持っている人を、思い出すことができました。同じアパートに住む四十過ぎのホステスに中学生の娘がいました。その娘が僕の赤ん坊を見にきたとき、確かに彼女は、写真を撮ったのです。僕と、風子と、そして赤ん坊の。
 僕は、ためらわずにホステスの部屋に走りました。
 出てきたのは、中学生のその娘でした。
「写真」
 僕は、言いました。
「風子の写真」
「え?」
 彼女は、一人で夕食をとっていたようで、唇にはケチャップが付いていました。不思議です、そんな細かいことを僕はいまだに覚えている。
「写真、きみ、持ってたよね」
「――風子さんの写真。――風子さんが、どうかしたんですか?」
「写真が欲しいんだ」
「私、午後に、風子さん見たんです」
 娘は、僕を招じ入れながら言いました。
「この窓から、通りが見えるでしょう? そこから、風子さんが見えたんです。大きなナップザック背負って、それで、何度も何度もこっちを振り返って見ているんです。あれえ、どうしたのかな、と思って。私、それで、風子さんに手を振ったんです」
 彼女は、僕に話しながらも、部屋の隅の古ぼけた子供用勉強机の引出しを、一段まるまる引っ張り出しました。
「風子さんに見えているはずなのに、でも風子さん、見ていない。私のことに、気づかないんです。それで風子さん、向き直って、歩いて行ってしまうんです。どんどん離れていってしまって、もしかして風子さん、このまま行ってしまうんじゃないかって。それって、まるで悪い夢のようなんです、夢ってわかっていて覚めない夢のようで。でも、あれは夢じゃなくて本当のことで、それなのにまるで夢のようで」
 彼女は聡明な娘です。何が起きたか、察知しているのです。そうです、フーテンの風子は、そこにいても、でもいつでも、どこかへ行ってしまいそうな予感を回りの人間に与えていたのかもしれない。
 僕は、彼女がくれた写真を見ました。
 やっぱり、僕の思ったとおりです。そこには、僕と風子、そして、まだ名もつけていない赤ん坊が、それぞれに笑って写っているのです。
 僕は、それで腰が抜けてしまって、その場に座りこんでしまいました。
 傍らで、中学生の娘が、嗚咽しはじめました。


 警察に捜索願を出してから一週間もしないうちに、風子の本当の名前がわかりました。佐藤陽子。年齢は二十六歳。彼女が二十歳の時に、彼女は、義父を殺害して、それから逃亡を続けていました。義父の母への虐待に耐えかねての犯行でした。
 僕は、娘の出生届を出しました。
 娘の名は、春風、としました。
 母親である風子から「風」の一字を貰い、春としたのは、春風の生まれた季節ということと、そして春風が、僕の、風子の、冬を断ち切ってくれる、そういう存在であってほしいとの願いをかけました。


   14

 警察は、風子の義父殺害は、さまざまな状況を鑑みれば、情状酌量の余地が大きく、悪くしても十年も刑務所に入らずにすむだろうと言いました。自首すれば、もっと軽くなるよ、と。
 風子が日本中を逃げ回っているのは、でも、逮捕を恐れてだけではないような気が僕はしました。
 警察では、風子の母親のその後についても、手がかりを持っていませんでした。死んでいるのかどうかすら、わからないという話です。
 風子の事件そのものは、新聞の縮刷版を図書館で引っくり返して調べることができました。でも、風子が、義父を殺すに至るまでの経緯について、新聞の三面記事は何も触れていません。勿論風子が、義父を迎えるに至るまでの物語もです。
 僕は、世の中は、盗人たちで作られていると思っていました。その思いは、今でもやはり変わりません。そして、それと似た思いを風子もまた持っていたのではないか、と考えるようになりました。
 風子の場合は、世の中にはびこっているのは、盗人ではなかったかもしれない、それは、もっと酷い、暴力をふるう独裁者たちだったのかもしれない。風子が放浪を続け、社会から切り離された存在でい続けようとしているのは、そうした社会を怖れ、かつ、憎んでいるからかもしれない。そして、その思いの深さは、僕の比ではない。風子は人を殺したのです。泥酔して眠っている義父を、包丁でメッタ刺しにして、自らの両手を血で汚して。
 そして風子は、自分で産んだばかりの娘を置いて、去って行ったのです。僕は、娘の誕生で、過去の憎しみや誓いを捨ててもいいと思った。風子には、それができなかった。風子は、自分の正体が明らかになれば、それは即ち春風を、娘を、殺人者の娘にしてしまうことになる、そう考えたのかもしれません。
 春風には、重いハンデになるのかもしれない。でもそれは仕方がないことです。誰もが銀のスプーンだか、金のスプーンだかを咥えて生まれてくるわけではない。所詮、世の中、不公平なものなのです。そしてその不公平は、そのまま幸福の不公平になるかといえば、多分、そうじゃない。少なくとも僕は、風子が殺人者であろうとなかろうと、風子がいて春風がいれば、それで幸せだった。たとえ、どれほど貧しくてもです。
 僕は、風子をどうしたら探せるか、そればかりを考えるようになりました。
 考えたのは、マスコミを使うという方法です。
 恥も外聞もなくなっていました。
 G学園の頃のツテをたどって、放送局や出版社にも頼みにいきました。テレビはダメでしたが、雑誌は二誌ほど掲載してくれたところがありました。でも、風子からの連絡もなく、手がかりもない。
 それに、春風の面倒をみるのと携帯電話販売の仕事を両立させることも、相当に厳しくなっていました。風子の置き土産でアパートの人たちとの交流は続いていて、彼らは随分と無償で春風のことをみていてくれました。
 でもそれでも、やはり限界があります。
 夜中に春風が泣けば、僕はそのたびに起きてミルクを温めてやる。それを一晩に何度もやる。そして春風を、時にはアパートの隣人たちに、時には潜りの託児所に特別に金を積んで預け、仕事に出る。金もかかる。もう続けられないと思うようになるまで、何ヶ月もかかりませんでした。
 決定的になったのは、春風の病気です。
 風子は超人的にタフな女だし、僕だって糖尿になってしまったことを除けば体は丈夫な方でした。それなのに、春風は、しょっちゅう熱を出したり下痢をしたりを繰り返していて、そういう時には、託児所は勿論、アパートの人たちに任せておくことも気が引けたし、また心配にもなって、会社を休みました。理由はともあれ、そんなふうに欠勤が増えれば居辛くなるのは、日本の会社の常識です。それに、僕の勤めていた会社は、ほとんど完全歩合給でしたから、貰える給料も急降下しました。
 春風が真夜中に飲んだミルクを全部戻してしまい四十度の高熱を出した夜、僕は救急病院で夜明かしし、朝九時になるのを待って、病院の公衆電話から、退職する旨、上司に連絡しました。
 これでまたもとの、無職暮らしです。
 ただ、父になった責任感やら、三十間近になって社会常識が少しは身に付いたやらで、僕は、国からお金を貰う術を学んでいました。生活保護と失業保険です。これで僕と春風は、何とか水面上に顔を出すことができたのです。


 僕は、子育て中心の生活に入りました。
 正直、苦労しました。気苦労です。春風の病弱さに。
 育児は楽しいです。春風と一緒にいられる時間がふんだんにあって、僕は、それだけで随分と満たされました。ただ、反面、常に春風の病気のことで心配しどおしで、気の休まる暇がなかった。
 春風の体格はいつも、標準からは随分下回った数字でした。
それに市の定期検診で、医師は、うーん、と唸った後、ちょっと、お腹に心配な兆候がありますね、と僕に言いました。
「大きい病院に一度、連れていった方がいいと思いますよ」
 かかりつけの小児科医からも、何度か言われてはいました。
 気になっていたのは、お金のことでした。
 春風につきっきりのままで出来る仕事など、手に何の職もない僕には、ほとんど皆無です。封筒の宛名書きとかね、そういうものまで調べました。安いんですよ、ものすごく。ふざけるなよ、と思うくらい。
 それでね、何度か、やったんです。かつて専業にしていた、雑誌拾い。駅でね。でも、春風を放っておくわけにもいかないから、だから、おんぶ紐で春風を背中におぶってね、それで、駅のゴミ箱だとか、電車の網棚を回って歩いたんです。
 そりゃ、注目を浴びましたよ。動きが鈍くなる分、そんなに集められませんでしたけど、それでも背に腹は代えられないですから。でもね、やってる途中で春風が泣き出したりするとね、中止です。みんな、周りの人たちは、春風のこと、覗き込んでくるしね。
 あのままもう少し続けていたら、それこそテレビにでも出られたかもしれない。そうすれば、風子がそれを見て、連絡をくれたかもしれない。後になって、そんなことも思いました。
 続けられなかったんです。
 春風の体調が、急変したためです。


 春風の様子は、それまでとは明らかに違っていたんです。糖尿で入院していた時、僕は、その時の春風の症状とよく似た患者を見たことがありました。その患者は、数ヶ月もしないうちに亡くなりました。
 もう、金のことなど、言ってはいられなくなりました。僕は、タクシーを飛ばして、春風を大学病院に連れて行ったのです。
 何時間にも及ぶ春風の検査。
 それは、僕が生涯何かを待つという経験をした中で、一番辛いものでした。
 検査の後、春風は疲れてベッドで眠ってしまいました。その寝顔を見ていて、僕は意味もなく涙ぐみそうになったりした。
 そしてついに僕は、医師の待つ部屋に呼ばれたのです。
 医師は、三十代半ばの痩せた優秀そうな男でした。
 ちょっとした前置きの後、
「お嬢さんには臓器移植が必要です」
 と、彼は単刀直入に言いました。
 ゾウキイショク。
 突然に言われても、すぐにはその言葉の意味が頭に染み込んできません。普段、日常のこととして聞く言葉ではないし、しかもそれが春風の身にふりかかるなど、思ってもみませんでしたから。
「臓器移植についてはね、日本だと、いろんな制約があるんです。特に、子供さんの場合は難しい」
 僕は、医師の話に何とかついていこうと、必死で耳を傾けていました。
「それで、国内ではなかなか実現しないのが実情です。残念なことですが。――ですから、これは私がお勧めできることではないんですが、この病気の場合は、アメリカへ行って移植するケースがほとんどです」
 アメリカ!
 アメリカまで春風を連れて行って、移植手術を受けさせるような金がどこにあるというのか!
 僕は、気が遠くなるような思いがしました。
「このままにしておいたら、まずいものなんでしょうか」
 僕は尋ねました。
「移植は早ければ早いほどいいことは確かですね。この病気は、――わからないんですけれど、もし急速に悪化すれば、一年もしないうちに、これが原因でお嬢さんは亡くなるかもしれない」
 もはや金の有無など関係ないのです。やるしかないのです。
「アメリカで臓器移植をお願いするとして、費用は、いくらくらい、かかるんでしょう」
 僕の祈るような思いの質問に対し、
「四千万から五千万はかかるようです」
 医師は、簡潔にそう告げました。
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