第3話

文字数 1,269文字

 2000年9月1日、金曜日。 
「自分が良いと納得できる物を提供すれば良いのさ」
 この店のマスターは簡潔に答えた。
 近所のバーで働く若いバーテンダーは悩んでいた。
 何が正解なのか?何を信じればよいのか?

 この店のマスターは続けて語った。
「自分で飲んで旨いかどうかが一番だよ。ただし、色々な物を吸収して、発信する自己表現は必要だけど、バーマンはサービスマンであり、芸術家ではないから、常に3つのレシピを意識しなくてはならない。時代の変化も含めた基本の処方、自分の処方、御客様の処方」
 3つの処方のくだりは、昔から言われているバーテンダーの基本らしい。
 冒頭の『自分が良いと納得できる物を提供すれば良いのさ』このくだりは、この店のマスターが古くからの常連の御客さんに言われた台詞だ。
 その御客さんは、この店のマスターが、まだ20歳代の若い頃に働いていた店からの常連さんだった。
 マスターが独立して、この店を開店する際にフードメニューで悩んでいた時の事だ。
「自分が良いと納得できる物を提供すれば良いのさ」
 当たり前の事を簡潔に言われた。マスターは味、マリアージュ、値段などを考慮して、納得のいく物を探したそうだ。
 その御客さんは好きなウイスキーを飲む時には決まって、マスターが自信を持って選んだベルギー産のチョコをオーダーした。

『自分が本当に良いと納得できる事を実行する』
 単純な事だが、そんな生きたを人は日常に追われて忘れてしまう事がある。
 職人が魂をこめた仕事。そこに触れた者は感動を覚え魂が伝わる。
 普段の生き方も、そうありたい。

 奥の席では若いサラリーマン風の男性客が職人風の年配の客と話していた。
「何をやっていいのかぁ。目標がないんです」
 若い男性客は迷走していた。
「誰もが特別な目標を持たなくてはいけない事なんかない。今を一所懸命に生きれば、無駄な事なんて一つもないんだよ」
 職人風の客は酔って饒舌になったのか、まくしたてるようにしゃべり続けた。
「人生に予習、復習なんて必要ないだろう。理屈じゃないんだよ。人なんて感性で生きているんだから。難問なんて、いつまでも解けなくてイイじゃないか。悩んでいる姿が美しいじゃないか。疲れちまったら一杯、酒を飲めば良いだろう。深く考える事なんてない。人生なんて宝くじみたいなもんさ。たまたま大当たりする事も有るし、当たらなくったて、どうって事ない。ここで飲んでるのだって偶然なんだよ。自分で良い縁に気づくか、気づかないかだけなんだよ。人と比べて生きて、見栄に走って、お金が欲しくなり、魂を何処かに置き忘れてしまっていないかい。仕事を楽しんでいるのかい」
 年輪を重ねた男の言葉は若い男性の魂に響いただろうか。
 実際のところ人は、取るに足らない事で悩むものだ。
 一杯の酒は、それを教えてくれる。
 時には『まっ、いいか』と気を抜いてみるのもイイものだ。
 さぁ、今夜も、このBar.のカウンターで一杯、()って、ぐっすりと眠るとするか。
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