二日目(1)/004

文字数 9,633文字

 ヘダテルイウ山脈には、人間味に溢れた女神様が棲んでいる。世界最大の火山島であるアムラバキにおいては唯一の神性であり、ウルメナオの建国神話では、ウルメナオの初代国王とその一族に絶対の王権を与えた善神として描かれる、要するに、とっても偉大な神様なのだけれど、そんな彼女と僕が出会ったのは、僕が六歳になった春――僕が〈韋駄天の神童〉などとけったいな異名で呼ばれ始めた頃のことだった。
 猪を追いかけていた。
 畑を荒らす憎き害獣を魔王に見立て、木の枝の形をした聖剣を手にした勇者の僕は、だから、彼の魔王を懲らしめるため、単身、母さんに握って貰ったおにぎりと竹製の水筒一杯の水を鞄に容れ、今は亡き父方の祖母に編んでもらった赤いマフラーを靡かせて、緑に混じって桃色が垣間見える森の中に這入ったのである。当時の僕は、度々、幼さゆえの万能感にどうしようもなく突き動かされ、向こう見ずな行動を取る傾向にあり、その日の僕の原動力もまた、正にそれだった。加えて、当時の僕は、周りの子と比べてやけに早熟で、特に運動能力は凄まじく、同年代の子供との五十メートル徒競走では負けなし――どころか、平均的な大人よりも速く走れた僕は、その脚力が辺境伯様の目に留まったことで、彼の息子であり幼馴染のヒイロを先置いて剣術の指南を受けていた(カルキン家では、通常、八歳から剣術を始める)。それだもの、運動神経に秀でただけのガキンチョだった僕は、分かりやすく調子に乗っていたから、ちょっと頑丈な木の枝で、猪を退治できると、理由(わけ)も無く確信していたのだった。
 当然ながら、猪退治は失敗に終わる。そして僕は、猪を追いかけている最中に軽く舗装された砂利道を外れ、道らしからぬ獣道に迷い込み――典型的な遭難者の図が、そこにはあった。速いだけで、お菓子の家の魔女を退治した勇敢な兄妹のように賢くはなかった僕は、勿論、道中に目印のようなモノは残していない。猪を追いかけて猪突猛進。木乃伊取りが木乃伊になるが如く、僕は馬鹿正直に猪を追いかけて迷子。幼稚な限りである……、とは云え、僕と云う阿保は、ただ幼稚なだけで終わらないから始末が悪い――猪を見失ってなお、帰り道を顧みず、森の探索を続けた。冷静に思い返してみれば、全くどうして馬鹿馬鹿しい選択だけれど、その当時の僕にとってはそれが最良の選択であり、何より、わくわくしていたのだ。
 結果として僕は、森の中を二日ほど彷徨い、気絶した。
 小さい体で、足りない頭で、満たない心で――勇気だけを頼りに、森の中を彷徨った僕は、遭難二日目にして、とうとう意識を失ったのである。原因は、毒キノコ。空腹のあまりに僕は、何となく美味しそうに見えた赤い茸(今の僕なら、一目で毒と分かるそれだったけれど、当時の僕は、赤とは正義の色だと思い込んでいたから、赤いモノなら身体に入れても平気なはずだと思ったのだろう)を無防備に食し、壮絶な中毒反応に苛まれた挙句、意識を手放したのだった。しかし、不思議とこの時の僕は、死を覚悟していなかった。無論、幼いがゆえに「死」というモノがいったいどのようなモノで、大人たちがこぞってそれを恐れ、あるいは誉れと宣うのか、まるで判然としていなかったから、と云うのもあるだろう。とは云え、それでも普通は生物である限り、嘔吐や脱水、幻覚に麻痺、高熱と激痛に襲われれば、漠然と死と云うモノについて想起するものだと思う。少なくとも、今の僕なら、それだけの中毒症状に襲われたなら、間違いなく死を妄想し、勝手に脳内で誰にともなく遺書をしたためるはずだ。が、当時の僕はそうでは無く、沈みゆく意識の中で、頬を包み込む温かい感触に夢中だったのだ。
 花が香っていた。
 体内に有ったありとあらゆる全てを吐き出し、精も根も尽き果てて、死の淵に立っておきながらも、鼻腔をくすぐる花の香りを覚えているのは、果たして、記憶に最も強く作用するのが嗅覚であるからなのか、それとも、単に僕の危機感が馬鹿になっていたからなのかは、分からないけれど、意識が途絶える間際まで僕の心が花やいでいたのは確かだ。
 そして、目覚めた次の瞬間には、女神様の顔を逆様に見上げていたのである。
 閑話休題。
「――ようこそ、我が家へ」
 世界を埋め尽くす白がゆっくりと溶けたらば、そこは、既に女神様の根城だった。壁も床も天井も、椅子やテーブルなどの調度品に至るまで、何もかもがウッドテイストの、温かみに満ちた彼女の居城は、ヘダテルイウ山脈の山頂付近に在るのだけれども、ヘダテルイウ山脈とそれを囲う森林地帯に限り、何処でも好きな場所を自由に瞬間移動できる彼女の家屋には、だから、出入のための勝手口が存在しなかった。
 ところで、初めての瞬間移動を経たセレナは無事だろうか。
 そう思って彼女を見やれば、案の定、酔ってしまったようだ――右手で額をきつく抑えながら俯いていた。可哀そうに。とは云え僕も、初めて瞬間移動を経験した時には、立っていられないくらい酔い潰れ、終いには吐いてしまったくらいだけれど、その点でセレナは、頭痛に留まっているようなので、中々に逞しいと云える。
 さてと。
 女神様の手が離れる。
 同時に、腰に差していた得物が消え、暖炉横の大きなショーケース内に飾られる――完全な女神様の領域内である此処では、来客は勿論、此処の主である女神様までもが一切の武装を禁じられるので、此処に踏み入った瞬間、神器だろうが暗器だろうが、凶器の類は問答無用であのショーケースに閉じ込められるのだ。とは云え、それを知らないセレナは困惑した様子。「あれ、剣が無い!」
「あー、剣は危ないから預かっておくよ」
「剣は騎士の誇りですよ⁉ 勝手なことしないでください!」
「そうは言われても、此処はあたしの家だ。外ではどうだか知らないけど、此処ではあたしがルールなの。誇りだろうが何だろうが、剣はダメ」
 そう言った女神様は泥の付いたレザージャケットを脱ぎ、手近にあった、木製のポールハンガーにそれを掛けた。
「んじゃ、シャワーを浴びてくるから、二人はそこのソファーにでも掛けて待っていると良い――いや、良くないな。君もあたしと一緒にお風呂に入ろうか。そう泥だらけのまま、家内をうろうろされたら堪ったもんじゃないからね」
 言うやいなや、女神様は、セレナの腕を引っ張った。引っ張られたセレナは「ちょっと待ってください!」と抵抗を試みるが、女神様の膂力の前では赤子の如き有様で、それこそ赤子の手をひねるかのように、バスルームの併設された洗面所へ連行されてしまった。
 かくして置き去り。
 しかし僕もまた、二人と同様に返り血や泥などでそこそこに汚れていた。とてもじゃないけれど、ソファに掛けて待っているなんて出来そうにない。僕はどうしたらよいのだろうか――洗面所の扉が開かれ、女神様がひょっこりと顔だけを覗かせる。
「ノートちゃんは後で、特別にあたしが洗ってあげるからね!」
「いや、洗われるのは勘弁してほしいんだけど」
「何でさ、良いじゃない! 小さい頃はよく一緒にお風呂に浸かってたんだから」
「もう随分と前の話だろ!」
 未だに女神様の中の僕は、あの日、迷子になって毒キノコを食べた、幼い少年のままなのだ。ほんの少し悔しい気持ちに駆られてしまうが、まあ、女神様の永遠とも思える生に比べれば、十七歳の僕も、六歳の僕も、大差は無いのだろうから、致し方ないところだ。一度は、彼女に恋焦がれた身としては、痛し痒しだ。
「もう、ノートちゃんったら恥ずかしがり屋さんなんだから……まあ、良いわ、ちょっとだけ待っててね」
 女神様はあざといウインクを置き去りにして洗面所の扉を閉めた。
 参ったな、手持ち無沙汰だ。
 血と泥に塗れている手前、下手に動き回るようなことは出来ないけれど、ここでじっと女子二人の入浴音(揉めているのだろうか? やけに賑やかだ)を聞いているのは、どうにも後ろめたい。仕方が無いので、すぐ近くの窓から白む外界を眺めることにした。外は猛吹雪――ヘダテルイウ山脈の頂上付近の気温は、その標高のために季節を問わず常に氷点下を維持している。ので、女神様の棲み処から眺望する外界は、いつだって銀世界を呈す。とは云え、内と外とでは、女神様の神通力によって完全に空間が隔てられているため、窓際に立っていても、ちっとも寒さは伝わってこない。暑くも無く寒くも無く、室内は常時、快適な温度に保たれているのだ。
 暫く、ぼんやりと外を眺めていれば、湯けむりを従え、肌を上気させた二人が洗面所から出て来た。
「いやん、ノートちゃんのエッチ」
「エッチも何も、何やってるんですか、貴女は! ノートが目のやり場に困るでしょ!」
 綺麗さっぱり、すっかり汚れを落とし終えた二人だけれど、二人は、裸体にバスタオルを巻いただけの状態だった。女神様の所持するバスタオルは、その体躯に合わせたビッグサイズなので、僕よりも少しだけ背の低いセレナなんかは白いタイトなドレスを身に着けている風であり、まだ見れないことも無いけれど、女神様に関しては、それでもまだバスタオルの方が小さく、もう、色々と溢れている。何がとは言わないし、とても言えないけれど、兎に角、僕は素早く外界に視線を戻した。
 あーあ、良い天気だなあ。
「さあ、ノートちゃんもシャワーを浴びてらっしゃい」
「……うん」
 なるべく女神様を直視しないように、そっぽを向きながら洗面所に這入った僕だけれど、そこには脱ぎ散らかされたままの二人の衣服があり、僕は、それを見ずには居られなかった。たかが布、されど布。純情な僕には、どっちにしたって毒である。
「ああ、ノートちゃん、君のもまとめてそれ全部、そっちの籠に入れておいておくれ」と、急に後ろから声を掛けられた僕は、疚しいことなど何も無かったはずなのに、心臓がドキンと跳ねた。ばっと勢いよく声の方を振り返れば、扉の隙間から女神様がこっちを覗いている。そして目が合った瞬間、彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
 にたにたと、僕の思いを分かった風だ。
「なーに? さてはノートちゃん、女の子の下着に興奮しちゃったのかな? ヤラシー」
「してないから! 見てないから! ちゃんと入れておくから! つうか、早く着替えてきなよ。風邪ひいちゃうぜ?」
「心配には及ばんよ。それより君の方が心配だ。服脱ぐの、手伝ってあげよっか?」
「いらない!」
 僕は無理矢理に洗面所の扉を閉め、二人の残骸と一緒に、僕の衣服を洗濯籠に入れてそそくさと湿気に満ちたバスルームに入室。とっとと汚れを落とし、退出すれば、既に着替えた(今度は朱い、ゆったりとしたワンピースだった)女神様が立っていた。
 慌ててバスルームに逃げ込む。
「何でいるのさ!」
「洗濯をしようと思ってね」
 見られた。明らかに見られてしまった。
「しっかし、ノートちゃんは相も変わらず良い身体をしているぜ。垂涎物の身体だよ。危うく、本当に涎が垂れるところだった。じゅるり」
「危うくねえじゃん! 垂れてるじゃん!」
「タオルと着替え、此処に置いておくからね」と、洗面所の扉が閉まる音がしたので、バスルームの扉をそっと開ければ、女神様はまだそこに居た。
「いや、出てけよ」
「えー、良いじゃん! あたしとノートちゃんの仲なんだから。別に減るもんでもないんだし、生着替えを拝ませておくれよ! 髪、乾かしてあげるからさ」
 それは交換条件として絶対に妥当ではない。とは云え、女神様は頑としてそこを動く気が無いようで、じっと睨み合っていれば、洗面所の扉が開いた。白のブラウスと黒いデニムパンツに着替えた、Yラインシルエットのセレナである。
「ちょっと、何やってるんですか、変態女神」
「なんだよ、あたしとノートちゃんのイチャイチャタイムを邪魔しに来たのかい、セレナちゃん。ほらほら、小娘はお呼びでないから、黙って床掃除を続けといてくれよ」
「言われなくても床掃除はもう終わりましたので、ほら、向こう行きますよ」
「ちょ――痛たたた!」
 顰め面のセレナは、おざなりに女神様の左耳を引っ張った。二人でシャワーを浴びている最中に随分と打ち解けたようである。仲良きことは美しきかな。
「ごめんね、ノート」
「ううん、ありがとうだよ、セレナ」
 無事に洗面所から女神様が退去したのを確認した僕は、用意してもらったバスタオルで体の雫をしっかりと拭い去り、これまた用意して頂いた黒いタンクトップとインディゴブルーのサルエルパンツを装着して洗面所を後にした。
 扉を開けるなり、セレナの後姿。
 まだ若干湿り気の残るうなじはとても綺麗だった。
 じゅるり。
 ……どうやら彼女は、洗面所の扉の前に立っていたようだ。少し離れたソファに座る女神様を見るに、セレナが女神様のセクハラから、僕を守ってくれていたらしい。女神様の恨みがましい視線が、不躾にも、セレナに注がれている。
「扉の前に立って……まるで忠犬だな」
「貴女がノートにちょっかいを掛けるからでしょ」と、不服そうにそう言ったセレナは、するりと僕の右手に絡まってきた。乾ききっていない茶髪の房が、肩に触れてくすぐったい。
「安心して。あの変態女神には指一本触れさせないから」
「ふん! 小娘の分際で私のノートちゃんにべたべたしやがって……はあ、睨み合っていても埒が明かないし、取り敢えずこっちへいらっしゃい」
 僕はセレナとくっ付いたまま、女神様の言に従い、彼女が腰掛けるソファとは対面にあたるソファにセレナと並んで掛けた。座ってもなお、セレナは僕を開放する気が無いようで、むしろ、一層ときつく手を握られる。まあ、結局のところ雄でしかない僕からすれば、セレナのような美人さんに手を握られると云うのは喜びこそすれ、嫌がるようなことでは無いので、こうして手を繋ぐのは大いに結構だけれども、しかし、その一方で何をそんなにきつく手を握り合う必要があるのだろうかと、冷静に疑問を抱く自分もいた。
 さっきのことがあるからだろうか?
 だとすれば、やっぱりセレナは善い奴だなあ、とは思うけれど、同時に、女神様も女神様でどうしてさっきのようにセクハラをしてこないのだろうか、とも思ってしまう。無理矢理にキスしようとしてみたり、着替えを覗こうとしてみたり、一歩間違えれば痴女と呼ばれてもおかしくないことをしていたのに……やっぱり、女神様はそこまで僕に対して本気ではないと云うことなのだろうか。彼女ならば、僕からセレナを引っぺがすくらい訳ないだろうに、それをしてまで僕を求めないということは、きっとそう云うことなのだろう。
 またもや僕は、女神様に遊ばれたのだ。
 と。
 ちょっぴりブルーになっている僕に、セレナが耳打ちする。
「私がこうしてくっ付いている間、女神様は迂闊にセクハラできないから、安心してね」
 何を以てしてそんな事を言うのか、その理屈を理解しかねて首をかしげていると、今度は足を汲んだ女神様が仰け反りながら忌々しそうに言った。
「あのクソ魔法使い、要らんことを吹き込みやがって」
 またしても置いてけぼりだ。
 僕だけが、彼女らの言葉の意味と理屈を理解できないでいる。
 ねえ、と僕はセレナに耳打ちし返す。
「二人は何の話をしているの?」
「ルールの話だよ」と、しかし答えたのはセレナでは無く、女神様だった。「あたしは古い約束の所為で、ウルメナオ人に危害を加えることが出来ないんだ。だから、その娘が害だと判断する全ての行為を制限されてしまうのさ。まったく、忌々しい限りだよ」
「そうなの?」
 それは知らなかった――しかし、そうなると女神様は、僕が害だと判断する全ての行為をもまた制限されてしまうのではなかろうか。であれば、僕の生着替えを覗くことは愚か、先刻のように、無理矢理キスを迫ることも不可能なのでは? さっきの僕は、確かに本気で抵抗していたし、不死身になるという呪いを、慥かに害だと認識していたはずだ。けれども女神様は、僕にキスを迫り、ミナーヴァが助けてくれなかったら、僕は不死身になっていたかもしれない。永劫を誓わされていたかもしれない。
 それじゃあ話が違うじゃないか。
「うーん……君に限っては、どちらかと云うと別の話かな。だって、ノートちゃんは、本質的にはウルメナオ人じゃあ無いからねえ。君に、あたしと七天武騎が結んだ約束が適応されないのは、当然の話なんだよ」
「はい?」
 生まれも育ちもウルメナオな生粋のウルメナオ人である僕が、本質的にはウルメナオ人でないとは、いったいどういう了見だろうか。
「単純なことだよ――ノートちゃんには愛国心がこれっぽっちも無いから、本質的にウルメナオ人だと云う自覚が無いのさ。いや、全くウルメナオを愛していないという訳では無いのだろうけれどね。そうだな、より正確に云うのなら、君には帰属意識が無い」
「帰属、意識」
 反芻してみれば、慥かにその意識には見覚えが無い。少なくとも、僕の胸中にその意識と類似したものは見当たらなかった。けど、それがなんだと云うのだろうか?
「ノートちゃんはお父さんが嫌いよね」
「? ……嫌いではないよ」
「でも、理解できないわよね。つうか、理解しようとも思っていない」
「そりゃあ――」
 あんな男を理解しようと思う奴なんか、何処の世界にもいないだろう。
 妻を、お前は悪だと罵る男。
 息子に、女は毒だと説く男。
 娘に、お前は毒だと諭す男。
 信じることを忘れ、疑うことでしか平静を保てない彼を、どうして理解しなければならないのだろうか? どうして歩み寄ってやらなければならないのだろうか? 理解しようとして、歩み寄ろうとして、幾度となく裏切られた母さんの姿を目の当たりにした今の僕からして見れば、奴は、もう既に人ではない。それこそ、人の容をしただけの獣である。
「理解なんか必要ない」
「ははは」
 笑った女神様は、憐れむような目を僕に向けた。どうして?
「そう言うところだよ、ノートちゃんに帰属意識が無いって言うのは。君は昔から、良くも悪くも強すぎるからねえ、いや、正確には「(つよ)い」のか。まあ、いずれにしても、だから仕方ないと言えば仕方ないんだけど……とは言え、その強さは、君から人間性を奪っている」
「……どういう意味?」
「人間ってのは強くないんだ、根本的に、根源的に。どうしようもないくらいに弱くて、どうにもならないくらいに弱くて、そして致命的に弱いんだ。ゆえにこそ、人類は高度な文明を紡げたんだよ。弱者だからこその歴史なのさ。語り、語られる者があったから――言い換えれば、コミュニティがあったからこそ、人類史は存在し得ている。その上で帰属意識って言うのはね、だから、人類のアイデンティティみたいなものなんだ。人類が人類であるために、君が君であるために、人は、何かに属していなくちゃならない。他者があって、ようやく自分を自分だと認められるのさ。差別が自己を同定するための手段だとするのなら、認識とはかくも相対的なものである――ってね」
「何が云いたいの?」
「つまりね、強すぎる君は、本質的にコミュニティを必要としていないから、人間性を逸しているんだ。家族が無くとも、友達が無くとも、故郷が無くとも、君は、自分を自分だと認識してしまえる」
「……そんなことは無いよ。僕だって家族が無きゃ、友達が居なきゃ、生きて往かれない」
「そうだね。そうなんだけども、それはしかし、生物としての性だ。生物としては、生活の全てを一人で負担することはできないだろうから、そういう意味では、慥かに君は家族や友人を必要としているのだろうね。では、一個人――ノートとしての性はどうだろう。単純に心臓や脳が機能している状態を〈生きている〉と定義するのではなく、君が自分を自分と認識し得ている状態を〈生きている〉と定義するならば、どうなんだろうね?」
「どうもこうも無いよ。それでもやっぱり僕は。一人では生きていない」
「いやいや、だからね、ノートちゃん。違うんだよ、君は。君だけは、強すぎる君は、君を生かすのに他者を必要としていない――一人では生きていけないと理解しているけれど、自分の生に他者の存在を必要とはしてないんだ」
 僕には、女神様の言っている意味が分からなかった。一人では生きていないのに、その生に他者を必要としていないだなんて――破綻だ。
 全くどうして破綻じゃないか。
「だから、そう言っているんだよ。ノートちゃんには、誰より高潔な人間味が備わっている。父親のことを認められないのは、正にそう言うところさ。潔癖だから、汚濁を許せないんだ。でもね、同時に君は致命的に人間性を欠いている。だから、父親を理解しようとはしない。弱い父親を、理解する必要のない者として、易々と切り捨ててしまえる――転じて、帰属意識が無いんだ。君にとっての家族とは、コミュニティでは無く、何らかの要因で結ばれた縁でしかなくて、君にとっての国もまた、だから縁でしかない。個々の繋がりこそが、集団を形成していると、君は勘違いしている」
 クソ親父と僕の関係性については、女神様の言う通りなのかも知れない。けれど、でも、集団とはそういうモノなんじゃ無いのか? 個人が無ければ集団なんて、有り得ないのだから。個々の結びつきこそ、集団を形成しているはずだ。
「残念ながら、そうじゃない。人は普通、コミュニティを縁には喩えない――ここでは砂に喩えようか。砂とは、微細な小石の集合だ。けれど通常、砂を認識する時に、それを微細な小石の集合だとは誰も思わない。砂は砂でしか無いんだ。して、このことを踏まえて社会を見てみるとどうだろう。ウルメナオには複数の市町村があるけれど、他国の人間からすれば、どの市町村に住む人間も、ウルメナオの領土内にある限り、ウルメナオ人でしかないんじゃないかい?」
「そんなことは無いでしょ」
「いいや、あるよ。じゃあお嬢ちゃんに聞いてみようぜ」と、女神様はずっと黙っていたセレナに匙を向けた。「なあ、君は、このアムラバキで、いったいどれだけの民族が生活していると思う?」
「……二十くらいです、慥か」
「ノートちゃんはどう思う?」
 同じ質問が今度は僕に寄越されるけれど、教養の無い僕には、答えの知る由もない問だ。がしかし、ただ一つだけ確かなのは、セレナの回答が間違えていると云うことである。僕の知る限り、ウルメナオ国内だけでも十前後の民族が暮らしていて、ヘダテルイウ山脈にはさらに十数の民族があり、更にヘダテルイウ山脈を挟んでアムラバキの西側には、複数の国と地域があるけれど、其処でもまた複数の民族が暮らしているのであれば、どんなに低く見積もっても、二十では収まらないはずだ。もっとも、基を糺せば一つの民族だったモノあるいは出典の異なる複数の民族が、信仰や教義によって細分化されたり、統合されたりと云うこともあるので、一概に、それぞれのライフスタイルに民族の定義を当てはめるのは困難を極めるから、結局のところ、多種多様な人格を、系統別グループにカテゴライズし、ノーマライズするのは無理難題であり、元も子もないことを云ってしまえば、そもそも女神様の問自体が無理問答だった。だから僕は、みんなアムラバキの子供だ、とそう言ってやった。
「ほらね? 君は集団の何たるかをまるで分かっちゃいない」
「…………」
「まーあ、別にそれでも構わないんだけどね、ノートちゃんは。つうか、君が集団を理解する必要は無いんだよ。君はそのままで良いんだ。そのままが好いんだ」
 そう言って微笑んだ女神様は、僕が何も言い返せずにいるのを見かねたのか「そろそろ話を戻そうか」と前置きし、僕とセレナが此処を訪ねた理由を質した。
 即ち、行方不明になっている士官学生六名の足取りについて、である。
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