第1話  就職浪人一択

文字数 5,115文字

人生において、自分とはまるで生き方の違う者から受ける刺激的な行動と思考は、時として今後の人生を大きく左右することがある。
特にそれは若ければ若いほど刺激を受けやすいものだ。
それによって人生が良くなれば幸いだが、悪くなることの方が圧倒的に多いのが特徴的でもあるため、常に冷静に自分を分析する必要があると思われる。

「……か。なるほど……。」

日本が誇る国立大学を今年卒業する竜雅(りゅうが)は、同じ大学の友人がまとめた卒業論文を読み終えると少しため息をついた。
と思うや否や、部屋の片隅に置かれているベッドに大の字になって横たわり爛々と輝くその両目で空を睨み始めている。

( 悪くなるかどうかはやってみなければ分からない。この腐りきっている国を救う手立てがあるとしたならそいつを探さなくては……。 あとは、俺自身の問題だろうな。 )

幼い頃から詰め込み教育を受けて育ってきた竜雅は、大学卒業間際になって生まれて初めて自分の意志で動き出そうとしていた。

これまでは母親のいいなりになって勉学に励んできた竜雅であったが、2日前に街で出会った少女が竜雅に大きなインパクトをあたえたことがきっかけとなり、彼の中でくすぶっていた何かが弾けようとしているのかもしれない。



……2日前……

国家公務員の試験に合格していた竜雅は、友人と初めて新宿という繁華街に足を踏み入れて昼食をとろうとしていた。

竜雅は同じ都内に住んでいながらも新宿という街は敬遠すべき場所として指定していたため、この繁華街にはおおきな偏見があった。 何故なら、幼い頃から危険な街だと親から知識として植え付けられていたからに他ならないからだ。
同時に、危険と分かっているにもかかわらずそこに赴くというのは愚者のすることであり、賢者がすることではないと散々親から言われてきていたし、竜雅自身もその考え方に同意していたので偏見が知らぬ間に正しい知識へと竜雅の脳内で変換されていたことが新宿を避けてきた大きな理由になっていた。

しかし、その凝り固まった偏見に一石を投じたのが大学の同級生であり先ほど竜雅が読んでいた卒論の著者でもある植村 智也(うえむら ともや)という熱のある若者だ。

「ばかなっ! 繁華街に行かずして日本の何が分かると言うんだ! 竜雅、よく聞け。 俺も初めはお前と同じ考えだった。 そう、一年前まではな。」

「一年前までとはどういうことだ?」

「知ってしまったんだよ。この国が腐りかけているってことを。」

「バカをいえ! この日本が腐りかけているわけなどないだろう!」

「竜雅、お前は何も知らない。 この国の国民がすでに貧困化していることや帰る家さえない若者達が溢れかえっているってことを。」

「……一部の報道では……知ってはいる……」

「あれは全体の一部分にすぎない。 竜雅、俺たちは恵まれた環境というバリケードの中でしか生きてこなかった。 それだけに真実の社会というものとは縁が無い小さな世界に閉じ込められていたんだ。 そういえば……確かお前は将来閣僚を目指すと言っていたな。 だったら見ておけ。 あそこにある今の真の日本というものを。」

決して熱く語りかけてくる植村の言葉に感化を受けたわけではないのだが、
『見ておいても損はないだろう』という竜雅の微かな好奇心からきた判断により、
新宿という街の繁華街に脚を向けることとなった。


(ずいぶんと圧迫感のある街だな……)

竜雅が1番に感じた新宿という繁華街の第一印象は正しいのかもしれない。
広いようで狭く感じる独特の威圧感は、日本の中でもここだけと言えるくらいの不思議な空間を生み出しているのが特徴であるため、竜雅が圧迫感を感じたとしても不思議はないだろう。

それと同時にもう一つ竜雅が驚いたのが、平日の昼間だというのに異常なほどの若者の多さだった。 きらびやかというか派手というか、個性的といったほうが良いのかよくわからない服装をしている女性が多く、ときおり大きな荷物を抱えながら同じ所をウロウロしているかのような女性も見かけられた。

「植村、ここにいる彼らは学生なのか?」

「も、いるだろうな。だが大半は家無き者だ。」

「それは少し大げさだろう。」

「そう思うか? よし! だったら確かめてみよう」

そう言うと植村は竜雅を連れて迷うことなくある少女に向かって歩き始めた。
その少女は先ほどからビルの隙間に隠れるようにしながら微動だにしておらず、まるで誰かと待ち合わせているかのようにしながら当たり前かのようにただただ立ちすくんでいる。

植村はすぐ側までくるとその少女に優しい口調で声をかけてみた。

「あの、すみません。少しだけお話をしてもらえませんか?」

声をかけられた少女の顔は表情を一切変えず、目だけがギョロリと植村のほうを向いてジッと見つめはじめた。まるで2人を査定でもしているかのようだ。

そこには妙な間というか、その澱んだような空気感からやや怖ささえ感じられた竜雅ではあるが、植村に続いて少女に問いかけてみた。

「少しだけでいいんです。お願いします。」

少女の目がまたもやギョロリと動いて、今度は竜雅を見つめている。

(……息がつまりそうだ。これがこれまでに無い経験ということか。 いや、こんな人種には出会ったことがない。 まるで異世界の住人に話しかけているみたいだ。)

竜雅がそんなことを頭の中で考えていると、少女はようやく重い口を開いた。

「2人だから2万でいいよ」

植村は即座に答えた。
「いや、僕らはそういうのじゃなくて君と話したいだけなんだ。」

竜雅には少女が提示した金額の意味が全く分からないため、要らぬ質問を彼女に投げかけてしまった。
「あの、お金を払えばお話してくれるってことですか?」

植村はすかさず竜雅を制止する。
「君は少し静かにしていてくれ。話しがややこしくなる。」

その言葉を聞いた途端に竜雅は少し憮然とした顔つきになったが、植村はそのことに対して気にする様子もなく少女に話しを続けた。

「僕たちはこれから昼ご飯を食べにいくんですけど、よかったら一緒にいきませんか? もちろん好きなものをご馳走させていただきますので。」

ジッと植村を見つめている少女の目は、明らかに目の前にいる若い2人の男達を査定していると竜雅は感じ取れた。 そこから生まれてくるのか、またもや得もいえぬ奇妙な空気間が3人の間に生じてきたが、少女は2人から何かを感じることができたのか、不意をうつようにして質問を投げかけてきた。

「……私に痛いことをしない?」

少女が放った言葉は植村の心を深くエグった。
彼女が投げかけたものは言葉としては短い。いや、短すぎるほどだ。
だが、ここまで魂の嘆きがこもったものを植村が見逃すことはなかった。

締め付けられているかのように胸が痛み始めた。 同時に、今にも嗚咽してしまいそうでもある。 だが、なんとか両瞼を右手で押さえて植村は声を振り絞った。

「安心して。僕たちがするわけがないじゃないか。」

その言葉を聞いた少女は安心したのか、顔の表情を変えないまま
「じゃ、お昼食べる」と一言だけ呟いた。

このとき、竜雅には植村と少女の間にあった心のコミュニケーションを読み取ることはできなかった。何故なら、真実の社会現象に対して圧倒的に無知だったからだ。

食事は少女の希望で回転寿司で行われた。

聞けば彼女の年齢は17歳で高校生だという。
だが、1年前から高校には行っておらず、中学生の弟と小学4年生の妹のために14歳の頃からこの新宿に来ているらしい。

父親はおらず、母親は男の家に入り浸りで子供達が待つ家に帰ってくることはないという。 たまに帰ってくるときは男に捨てられた時だけだとも。。。
そしてすぐにまた新しい男を見つけていなくなる。その繰り返しだそうだ。

もちろん母親が家に金を入れてくれることは無い。
そのため、彼女は新宿で客をとるようになった。
弟と妹を食わせるために。
そのきっかけは皮肉にもSNSだと言う。
『環境に恵まれない君を応援したい』という偽善ぶったオヤジになぶり者にされたあげく、帰り際に渡された3万円がその後の彼女の人生を変えてしまったらしい。

『これでご飯が食べられる』……と。。。


「でも、なんで新宿なの?」
竜雅はまたもや的外れな質問を投げかけてしまった。
客がとれるからにほかならないからだというのに。



久しぶりの寿司なのか、少女は思いのほかよく食べていた。
相変わらず顔の表情は変わらないが、箸を持つ手がよく動いている。

その少女の手が口に近づく度に無数の切り傷が竜雅の目に入ってくるのだが、そこは問いかけてはいけないような気がして見て見ぬふりをしていた。
だが、心の中では『おそらく百カ所以上リストカットのあとがある。』と、推測しながら大きな疑問を課題にして自問自答を始めていた。

( この少女は本当に俺と同じ人間なのか? だとしたら、何故ここまで追い詰められた生き方をしなければならないんだ? 施設を選べばもっと人間らしい生き方ができるというのに弟妹と離れるのは嫌だという。 じゃあ、施設というのは必ずしも姉弟全員を引き取ってくれるわけではないということなのか?  いや、おかしい。 おかしすぎる! 彼女にも幸せになる権利があるし夢を持つことだってできるはずだ! それが……どうだ。。。 今の彼女は生きながらにして死人そのものじゃないか。。。 これが日本行政の真実だというのか? これが社会の現実だというのか? だとしたら、俺たちはいったい何者なんだ!? これから何をするためにこれまで違う世界で生きてきたんだ??? )


竜雅が脳内で1つの現実と向き合っている最中、ボソボソとした声で少女が2人に問いかけてきた。

「弟と妹の分を持って帰ってもいい?」

その言葉を聞いた竜雅は植村よりも先に
「もちろん、みんながお腹いっぱいになれるくらい持って帰って良いんだよ」
と、口走っていた。

その言葉を聞いてホッとしたのか、少女が初めて2人にあどけなさの残る笑顔を見せたのが竜雅の脳裏から離れない。

( 彼女のほうがよっぽど人間らしいじゃないか。 それに比べて俺はどうだ? 誰かのために生きてきたのか? 自分を犠牲にしてまでも何かを成し遂げようとしたことがあったか? クソッ!!! 今まで彼女のような人間を差別してきたけど、恥ずべき生き方をしてきたのは俺のほうじゃないか!!! 俺は……あまりにも現実社会を知らなすぎる! 無知すぎるっ!!! )


少女の話によると、この繁華街には千人を超える家無き若者が集まってくるという。

その誰もが顔は分かるが本名を知らないという間柄らしい。
昨日見た顔が今日見えなければ「死んじゃったのかな?」と思うだけで、特に恐怖や可哀想だという感情はわかないという。

「だって、生きるためにここに来ているから」


竜雅は初めて知った。
無力な若者達がここに集まってくるのは大人達が作り上げた【建前だけの社会】のせいなのだと。

そして、その社会が当たり前だと思っていた自分達のような若者が人生の分別化をしていたのかもしれないとも。

持ち帰り用の大きな寿司を抱えて去って行く少女に目をやりながら、竜雅は植村に話しかけた。

「植村、お前が俺に言いたいことが分かったよ。ここは、礼を言っておく。」

「そうか。これから国家官僚となるお前が現実と向き合ってくれたのは嬉しい限りだ。その先、お前が政治家になったときには変えてくれ、この歪んだ世界を。」

「官僚は止めだ。そんなに時間をかけていたらあの少女のような若者で溢れかえってしまう。権利を取得できる3年後、俺は直接衆議院選挙に立候補する。」

「ばかなっ!おまえ、本気で言っているのか? 自分の人生を棒に振るのかもしれないんだぞ?」

「思いつきや感傷的になって決めたことではないから安心してくれ。俺はこれからの3年間で社会の現実と向き合って生きていくことに決めた。そうでなければ何をどうすれば良いのか政事の基本となるものがつかめないからな。」

「竜雅……後悔だけはするなよ。」

「フフフ……日本一の大学を出たあと金にならないボランティア団体を立ち上げようとしているお前に言われてもなぁ。。。」

「俺はボランティアを食いものにしている団体を淘汰して本物の団体を作り上げていく。そうすることで彼女のような若者を救えると信じているからな。竜雅、お前……絶対に政治家になってくれよ!」

「ああ、なるさ。そして変えてやろうぜ! この国を!」

奇しくも、竜雅があれほど忌み嫌っていた新宿の繁華街という場所が、この日2人の約束の地へとなっていた。


そして……現在……

「さてと、そろそろ就職浪人の報告を母さんに伝えておかないとな。」
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