一、兄と部活

文字数 16,783文字

 夏ヶ瀬駅のロータリーを少し歩くと、スクランブル交差点の真ん中に大きな桜の木がある。あまりにも大木なので、「交通の邪魔になるから」と伐採を訴える者もいるが、四月の上旬、この大きな桜が満開になる時期だけは、誰もがその美しさに見とれた。
 満開の桜の下を市立夏ヶ瀬高校に入学する新しい生徒達が歩く。松本千(まつもと・せん)もその一人だった。黒いチノパンにジャケットを着た、女の子にしては高い身長の彼女は、入学式に行く新入生
というよりも道案内をする在校生のように見えてしまうのではないかと少し不安を持っていた。
「あー、千! おはよう!」
 制服がないことは楽だが、下手をしたら学生だとわからないかもしれない。そう考えると、面倒くさい。ショートカットの黒い髪を困ったようにかいていると、後ろから聞きなれた声がした。振り向くと、自分より二十センチほど小さい、くせっ毛の少女が笑顔で立っていた。
「小麦、おはよう。また同じ学校だね」
 自分で「同じ学校」というワードを口にした癖に、それが少し嫌だった。彼女、桐生小麦(きりゅう・こむぎ)とは小学校からずっと同じで、自分も親友だと思っている。一緒の学校なのは素直に嬉しい。だがそれ故に、また彼女を自分の抱えているいざこざに巻き込んでしまうのではないかと不安だった。
小麦にはずっと仲良くしてもらっている。そんな優しい彼女に、中学の時みたいな嫌な思いをさせたくない。
―高校こそは、変わってやる。もう弱い自分じゃない。
 千が心の中で何度も呟いていると、小麦が不思議そうな顔で見上げた。
「千、どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
「……深見(ふかみ)さんのこと?」
 『深見』という名前に、過剰反応して転びそうになったのを小麦に支えてもらった。
「あの疫病神のことは言わないでくれる?」
 冷や汗をかきながら遠い目をする。大きなサイレンの音が辺りにこだました。救急車が千たちの歩く通りの病院に入ってきたのだ。それと同じく、千の頭の中でもサイレンが鳴り響いた。名前を聞くだけでも恐ろしい。そんな存在なのだ。
「そんな事言っても、また一年間同じ学校だよ? そんなに嫌ならなんで他の高校受けなかったの?」
「小麦……いじわる言わないでよ」
「あはっ、バレた?」
 千は大きく溜息をついて、頭を抱えた。もちろん他の高校も受験した。第一希望は女子高で
ある春ヶ瀬女子高校。県内偏差値上位の難関校である。残念ながら受験に失敗したが、それで
もわりと偏差値は高い夏ヶ瀬高校に入学することができた。普通ならそれで十分喜ぶところな
のだが、千の場合そうはいかなかった。この高校には『あいつ』がいる。一緒に暮らしている
叔母と叔父は当然のように夏ヶ瀬高校へ行くことを勧めた。本音は一年留年してでも他校に行
きたいぐらいだったが、世話になっている叔母、叔父の手前、そんな勝手は言い出せなかった。
「あいつと同じ高校は心底嫌だけどさ……、こんな頭のいい学校に入れたのはりゅー兄のおかげだね」
 気を取り直すように笑顔を作ってみせるが、今度は小麦が複雑な表情を見せた。
「ああ、そういえばうちのお兄ちゃんも同じ学校なんだよね……。しかも確実に三年間一緒だよ……」
 雰囲気がだんだんと暗くなっていく小麦に、千は焦った。
「いや! りゅー兄は大丈夫だよ! 基本いい人じゃん!」
 フォローし始める千をしばらく見つめて、くすっと小悪魔のような微笑を浮かべた。
「嘘だよ! お兄ちゃんが一緒なのは結構嬉しかったりするし。ちょっと千を困らせたかっただけー」
「こ、小麦のバカ!」
「いつものことじゃん!」
 二人はふざけながら学校までの坂を上った。坂の頂上に夏ヶ瀬高校は建てられている。校門
の横には「入学式」の看板。校舎までの道は、桜の木のアーチができていた。


 クラス分けの結果、千は一組、小麦は二組と離れてしまったので、入学式とオリエンテーシ
ョンが終わったら校舎入り口で落ち合うことになった。
 少しだけ二組より早めに終わって、千は靴を履きかえて入り口に立っていた。クラスには同
じ中学だった子もいたが、全く話はしなかった。向こうはこちらを見て何かこそこそと言って
いたようだが、それを見るのが嫌で早めに教室を出てきたというのもある。気分が悪かった。
 校舎を出てすぐのコンコースでは、在校生が早速新入生のクラブ勧誘を行なっていた。何人
かの生徒がチラシを配りに近づいてきたが、どういうわけか千の顔を見ると引き返してしまっ
た。胸騒ぎがした。すでにあいつの魔の手がしのびよっているのではないだろうか。
 脇に咲いている桜を見た。いや、まだ入学したばかりじゃないか。被害妄想も甚だしい。花
を見て気分を落ち着かせると、ちょうど小麦が到着した。
「お待たせー」
 満面の笑みの小麦を見ると、先ほど自分がクラスであった少し嫌なことを思い出した。小麦も同じ出身中学の子から何か言われていないだろうか。だが、そんなことは杞憂だった。
「クラスに同中の男子いたんだけどさぁ、何かこそこそ言ってたからムカついてケツ蹴ってきたー」
 小麦は小柄だけど強い。悪口にも屈しない精神を持っている。だから中学時代もずっと、自
分の友達でいてくれたんだ―千は無意識に小麦の頭を撫でていた。
「ちょっと千、何?」
「なんだか小麦はすごいなって思って。私も小麦みたいになりたいよ」
 不器用に笑うと、小麦も気持ちを察したのか一生懸命に手を伸ばして千の頭を撫でた。
「千だってイイトコいっぱいあるんだよぉ。高校ではそれを生かせていければいいよ。ね?」
 優しい言葉に強く頷いた。
「それより、りゅー兄に挨拶しなくてもいいの?」
「ああ、新任だからあれでも色々忙しいのさ。私は家でも会えるし、いつでもいいんじゃない? 千だって、これから学校で嫌でも会えるよぉ?」
 ぐふふ、と悪い笑い声を上げた。
 小麦の兄は、今年度からこの夏ヶ瀬高校の国語教師として勤めることになっているのだ。
 それならば今日はもう帰ろう、と校門の方へ向おうとしたとき、大きな人だかりが道をふさ
いでいた。中心には暗い雰囲気をまといながらも不思議な魅力があるつり目の男と、新入生と
思しき少女が立っていた。
「好きみたいなタイプは、絶対君みたい人じゃない」
「はぁ? 言われたとおりに質問しただけじゃん!」
「少なくても、初対面でそういうこと言うと、軽いと思われる」
「バーカ! うるせぇよ! こんな部、死んでも入らねぇ!」
 少女の甲高い声が響く。何事かと、どんどん野次馬が寄っていく。
「千、どう? 見えた?」
 小麦は身長が低いので見えないが、千は自分の見ている光景を疑った。
新歓用の机二つの前に、二人の男と一人の女、それに罵声を浴びせ、逃げるようにその場を
去る新入生の少女。問題はその少女ではない。その場にいたもう一人の女の方だ。肩くらいの髪を後ろで束ねて両サイドはヘアピンで留め、赤いチェックのスカートにブラウス、黒いネクタイと、パンクファッションでキメている彼女だ。
「あ、あ、あ……」
「どうしたの?」
 小麦がいぶかしんで千を見た。千は真っ青な顔で一言だけ小麦に告げた。
「兄貴だ……」
「深見さん?」
 小麦の大声で、中心にいた三人が振り向いた。千は咄嗟に身を隠そうとしたが、時すでに遅し。赤チェックのスカートを履いた兄・深見に捕まり、円の中心地へと連行された。暴れてその場にとどまってもよかったのだが、それではかえって目立ってしまう。小麦はそんな千がじたばたとしている様子を、笑いを堪えて見つめるだけだ。「このドS!」と叫んでやりたい気分だった。
「千ー! 会いたかったぞー! 同じ学校に通えるなんて、お兄ちゃん、幸せすぎだ!」
「く、く、来るな! 疫病神!」
 兄・深見。彼は千にとって一種のトラウマであった。同じ高校に進学したとしても、絶対かかわりたくない相手だった。今では住居だって別にしているくらいなのだ。それなのに、入学式早々、こんな目にあうなんて。深見の腕を解こうとしても、彼の手はきつく千の腕を掴んでいる。
「やめろ、キモい、触るな!」
 冷たい口調で兄を引き剥がそうとするが、女装していても男の力。しかし、見た目は千の方が身長も高く男前で、それにいちゃいちゃと可愛い女の子が絡みついているようにしかみえなかった。群集からは「あんな可愛い女の子に、『キモい』ってひどくないか?」という声まで聞こえ、千は泣きたい気分だった。
「深見、この男は誰?」
 二人いた男のうちの、茶髪でタレ目の方が訊ねた。ちょっと軽薄そうには見えるが、なかなかのイケメンだ。彼の質問に、回答ではなく蹴りがかえる。
「アホか! うちの可愛い妹を野郎呼ばわりするとはふてぇ男だな! コウ、お前、土下座して謝りやがれ!」
「妹なんだ……」
 さっきの黒髪でつり目の男が呟いた。千を無言でまじまじと見つめる。ミステリアスな感じ
がする二枚目ではあるが、名前も知らない相手から舐めるように見られるのは気持ちが悪い。
千はいたたまれなくなり、小麦のいるところへ戻ろうと向きを変えた。深見がついたままで
も、この際しょうがない。ともかく帰りたい。引きずって群衆の方へ行こうとすると、深見が叫んだ。
「千! せっかく同じ高校に入ったんだ! 離れて暮らしてるんだし、学校にいるときくらい一緒にいようぜ!」
「嫌だ。死んでも嫌だ」
 オブラートに包まずに本音を叩きつけるが、それでも深見は引かない。
「俺たちと一緒に部活やんねえ? 『言闘部』っつーんだけどさ!」
「『言闘部』……?」
 聞きなれない言葉に、一瞬足を止める。その隙をついて、釣り目とタレ目が千の前に立ちふ
さがる。新入生を逃がさないようにするための、トライアングル・フォーメーションだ。
「妹だろうがなんだろうが、うちの部は廃部寸前なんでね。悪いけど入部してもらうよ!」
 タレ目が叫ぶと、つり目の方もか細い声ながら脅しに入る。
「……入ってくれないと、呪うよ?」
 ぞくっ、と背筋が凍った。二人はじりじりと千の逃げ場を無くしていく。何だか異様な気迫
に圧倒されつつも、千は一刻も早く、衆人環視の中から立ち去りたくてしょうがなかった。
 高校がいくら同じでも、兄とは関わらずに生活する。中学時代のような嫌な思いはしたくな
い。その信念が、彼女に強い力を与えた。火事場のバカ力とでも言うのが妥当だろうか。千は
思い切り深見が掴んでいた腕を振り、彼のあごに一撃食らわせ、目の前に立ちはばかる二人の
男の間をすばやくすり抜けた。
「ともかく! 兄貴の部活なんか、入る気ないから! あと、学校では近寄らないでよね!」
 そう言い捨てると、いつの間にか最前列で様子を覗っていた小麦を引っ張って校門まで走っ
た。
「俺、絶対お前を部に入れるからな! あきらめないからな!」
 桜の花弁と一緒に、チェックのスカートが揺れた。すでに見えなくなった妹に大声で訴えか
ける深見の姿を、鋭い目つきの男が見つめていた。


「くっそー! 千もだけど、今日は一人も入部希望者いなかったな」
 新入生はほとんど下校し、深見とつり目とタレ目の男二人は部室として間借りしている留学
生が普段使う小さめな教室で反省会を行なっていた。
「……人は結構集まってきてたんだけどね」
 つり目が思い返して呟くと、深見はつかさず冷たく言い放った。
「バン、あいつらはお前らのミテクレで集まった、ただのミーハー女子だろ? 『どんな部活なんですかぁ?』って聞いてきたから実際に体験させてみたら、罵倒が返ってきたじゃねーか」
「でもさぁ、深見目当てで来てた野郎もいたぜ? あいつらもちょぉっとデモンストレーションしてやったら、半泣きで帰っていったじゃないか」
 タレ目の方がニヤニヤしながら深見を見やると、不機嫌だった彼に自信の表情が浮かんだ。
「コウ、そりゃあ当たり前の話だろ。俺は、女装すればそこいらの女よりよっぽど美人だからな! そんな俺にボロクソに言われたら、どんな男だってヘコむわ!」
 ガハハ、と大きく口を開けて笑っていると、教室のドアをノックする音が聞こえた。
「ほーい、開いてるぞー」
 返事をしてドアの方へ振り向くと、先ほど深見を見つめていた目つきの鋭い男が立っていた。
身長も高く一八〇センチ近くはあるのではないだろうか。顔立ちもシュッと整っていて、黒
く整えられた髪や立ち姿から、思わず『武士』を連想するような男だった。
「で? 何の用だ?」
 一見厳しそうな顔つきの男にも、フランクに話しかける深見。その様子を、『バン』、『コウ』と呼ばれている二人は黙って見ていた。
 目つきの鋭い男は、ドアに立ったまま教室に入ろうとしない。深見はしびれを切らし、室内に入るよう促すと、男は無言でそれに従った。
「何? 黙ってても困るんだけど」
 腕を組み、あからさまにイライラし始める深見。バンとコウは何故深見がいらついているのかすぐに気がついた。一六〇センチ少し越えたくらいの身長である深見が話すには、背の高い男をどうしても見上げる形になってしまう。普段は身長の低さすら自分のステイタスだと豪語する彼も、さすがに自尊心を傷つけられたのだろう。妹である千も彼より身長は高いが、彼女と深見が一緒にいると、それはそれで男女逆転カップルに見えるため、深見自身は気にするどころか喜ばしいことだった。しかし、見知らぬ男となれば話は別だ。
 男は視線を落とし、そわそわと何か言いたそうな仕草をしたが、なかなか話し始めない。仕方なく、コウが会話を進める潤滑油の役目を担うことにした。
「君、もしかしてうちの部活に何か用? それとも個人的に俺らに用なのかな?」
 笑顔を作りながら近寄ると、男は決心がついたように、顔を上げた。
「……あの、俺、入部したくて!」
「入部? うちに? ってことは新入生?」
 驚いて男を見ると、彼は黙ってこくこくと頷いた。
「……深見は男だよ?」
 バンは未だに女装のままの深見を見て、男に言った。深見目当てできたのなら、引き返すのは今のうちだ。バンなりの助け舟だったが、それは不要だった。
「知ってます。俺、最初からあの場所にいたんです。さっきの妹……さん? とのやりとりを見ていたので」
 千のことを『妹』と断言するのに、少し不安があったらしく言い淀んだ。一瞬の隙を深見は見逃さなかった。
「お前もうちの可愛い千を男扱いするってか?」
 外見とはうってかわって、ドスの効いた声で男を脅す深見。待ったをかけたのはコウだった。
「怒るなって、深見。ともかく入部希望者なんだしさ! 手続きしてもらおうよ!」
 その場を和ませようと、わざとらしいくらいの明るい声で入部届とペンを出すコウ。深見は男を一瞥すると、ニヤリと笑った。
「うちの部に入りたい……ね。そんなら入部テスト、受けてもらおうか」
「え?」
 男とコウの声が重なった。
「ちょっと待てよ、深見!」
 コウは小声で深見に抗議する。さっき千を見つけるまでやっていたデモンストレーション。女子生徒には罵られ、男子生徒には泣かれたアレだ。入部テストということは、アレ以上のことをやるということだ。ただでさえ『言闘部』なんてよく分からない部活の入部希望者はいないというのに、折角現れた新入部員の気を殺ぐようなことをするのは、部の存続のためにもよくない。
「だけど、それなりの覚悟があって来てるんだろ? 幽霊部員なんて、部長の俺が許さない」
 女顔でも真剣な表情をすると、やはり『男』である。入部希望の男は深見に気迫に少し圧倒されながらも、強く頷いた。
「最初からあの場所にいたってことは、俺たちの部が何をするかってのも、ちゃんと分かってるよな?」
「はい。『口ゲンカで勝てば一本』の『言葉で闘う』部活。『言闘部』です」
 『言葉で闘う』って言っても、デモンストレーションでは罵りあいしかしてなかったけれど。コウとバンは心の中で思いながらも口に出すことはしなかった。
 同じ言葉で闘うものとして『討論』などがあるが、それとは全く違うルールで行なわれるもの―それが『言闘』である。だからといって、完全にフリーダム、好き勝手言い放題というわけでもない。
 言闘のルールは少々ややこしい。『特技は何か?』と先攻が訊ね、後攻が『書道』と答えた場合、先攻が「特技に書道ってあるけど、『永字八法』も当然説明できるよね?」と突っ込む。相手が五秒以上反応できなかった時、先攻の勝ちとなる。それに対し、答えを示すことができれば、今度は後攻のターンとなる。要するに、相手のあげ足を取って、言い負かせば勝ちなのだ。
ただし、もちろん反則となるものもある。相手の身体的特徴を挙げたり、差別的発言をした場合は即アウト。他にも泣いたり、逆ギレしたり、他人の話題を出すことも禁止されている。オウム返しや質問で返すことも試合継続不可能と見なされ、反則。暴力・恐喝はアウトどころか犯罪である。例外的に『聞こえないフリ』が三回まで認められているのは、試合をするときの野次がひどかったから、という統計からである。
初心者ルールでは、まず紙に質問を十問書き、それを相手が読んで回答する。それに基づいて言闘は行なわれる。
 コウが説明すると、男はメモを取りながら熱心に聞いていた。
「なぁ、深見。これだけ一生懸命ならいいんじゃないか? テストしなくても」
「いや、する! 途中で辞められても困るしな」
 一歩も譲ろうとしない深見の様子にコウは溜息をつきながら、二人の前に紙とペンを置いた。
「じゃあ、初心者ルールで十問、まず質問シートを書いて。それで質疑応答するから」
 合図と共に、二人はペンを手にした。男の方は、たまに深見をじっと見つつ、ペンを走らせる。深見の方は何の躊躇いもなく、すばやく十問を書き上げた。それから数分後、男の方も書き終え、今度は質問シートを交換して回答の記入開始だ。
 男は深見から渡された質問シートを見て、唖然とした。
『Q1.何故この部活に入部したいと思ったのですか』
『Q2.何故剣道部に入部しないのですか?』
『Q3.中学の剣道部をやめた理由を教えてください』
 上から三問目を通しただけで、背筋が凍るような思いをした。男は、質問シートを机にたたきつけると、深見に掴みかかった。
「あんた! 何でこんなこと知ってるんだ!」
「はい、キレたー。さっき説明したよね? 逆ギレは反則だって。『梅田(うめだ)緑(みどり)』クン」
 不意に名前を呼ばれ手を離すと、深見は笑顔で緑に詰め寄った。
「俺たちの部活はね、ただ口ゲンカで勝てばいいってもんじゃねぇの。勝つためには、どんなに追いつめられても平静を装えるだけの精神力っつーのも必要な訳。お前にそれ、ある?」
 緑は言葉をなくし、うつむいた。精神をコテンパンにやられた気がした。出会ったばかりの、
ほとんど素性も知らない相手に、自分の心の中を暴かれた―ショックだった。
「深見、ずるいんじゃない?」
 緑の代わりに意見したのは、バンだった。
「何でだよ。俺のどこがずるい?」
「どんな生徒が来てもいいように、新入生のデータ、丸暗記してた。しかも、データ手に入れるために、剛田先生の弱み握ってた」
 うっ、と小さなうめき声が聞こえた。だが、すぐ反論が返ってくる。
「うるせぇ! これは事前調査だ! 剛田の弱みだって、偶然見つけただけだし!」
 バンの冷ややかな視線と深見の騒がしい声をバックに、コウは緑にささやいた。
「簡単に言えば、この部活は努力と根性次第で何とかなるってことだよ。現に深見はデータ丸暗記っていうアホみたいなことまでやらかして、君に勝ったんだしね」
 こそこそと話をしている二人を尻目に、深見は緑から受取り、机に置いていた質問シートに
目を通した。
「……ふーん、そう来たか」
「どうしたの?」
 手元のタロットカードをいじりながら、バンは深見が手にしていた質問シートに目をやった。
「普通すぎる」
 冷たく言い放つバン。緑の書いた質問は、たわいもない世間話程度のものばかりだった。
「ただし、この質問きてたら、俺、五秒カウントとられてたかもな」
 深見の指差した最後の十問目には、『何故、妹さんを同じ部活に入れさせたいのですか?』と
達筆で書かれていた。


 入学式から数日が過ぎた。授業も始まり、本格的に高校生活はスタートしたが、千はすでに
クラスで浮いた存在になってしまっていた。原因はいくつかある。ひとつは入学式の深見の部
活勧誘。勧誘にかかった女子と男子から、冷たい視線を毎日送られているし、その周り人間か
らも白い目で見られている。それに、すれ違う二年生、三年生からもたまに悪口を言われてい
た。これは、深見の昔からの悪癖が原因していると千はすぐに理解することができた。
 窓際でこれらの嫌なことに大きな溜息をついていると、廊下近くにいた女子が千を呼んだ。
「松本さーん、梅田くん来てるよー」
 またか。無視しようかとも思ったが、すでにクラスメイトの注目を浴びてしまっているので
それは不可能だ。代わりに思い切り不機嫌な顔で廊下に向う。教室を一歩出ると、わざとらし
いくらい大きな女子の話し声が風の如く耳に触れた。
「何、あれ。梅田くんと松本さんって、デキてるの?」
 後ろ手で教室のドアをぴしゃんと閉めると、待っていた緑に詰め寄った。
「えっと、梅田くん。兄貴の部活に入ったのは知ってるけどさ、何で毎日私を勧誘に来るのかな? 本気で迷惑なんだけど」
 トゲのある言い方だとは分かっていても、不愉快であることを隠せないほど、イライラは溜
まっていた。
「いや、深見先輩が、どうしても松本さんにも部活に入ってもらいたいって言うから……」
 機嫌の悪い千を前に、歯切れの悪い答えを返すと、更に文句が降り注いだ。
「だから、その理由がわからないって言うの。部員不足で廃部寸前らしいけど?」
「知ってたんだ」
 驚く緑に、当然、という表情を作る。
茉莉(まつり)ちゃ……姉さんに聞いたから」
「……あれ、松本さんって、今、親戚の家に住んでるんだよね? お姉さんとは同居で、深見先輩だけ一人暮らしなの?」
 余計なことを言った、と気がついた時にはすでに遅く、緑は千の話に食いついていた。仕方
なく、大まかな説明だけで理解してもらおうと口を開いた。
「兄貴と姉さんは一緒に暮らしてるの。私は叔母たちの家に住んでるけどね。姉さんとはたまにメールとか電話とかするんだ。ちなみに親は海外出張中」
「何か複雑だね……」
「まあね」
 ありがたいことに、緑は深く追求しようとはしなかった。短い沈黙の後、チャイムが響いた。
「じゃ、行くから」
 千は緑から逃げるように教室へ戻った。


 昼休みはチャイムが鳴ると同時に、校舎裏へ走った。まだ誰もいない。校舎裏は春の暖かい
日差しが届かず、少し肌寒い。五分くらい待つと、小麦が弁当箱を二つ持って現れた。
「お待たせぇ。ここ寒いなぁ」
「ごめん、人いないところって、この辺くらいしかなくって……」
 二人揃って階段に腰を下ろすと、小麦は弁当箱のひとつを千に渡した。
「いつもサンキュ。小麦のお弁当はおいしいからなぁ」
「とーうぜーん」
 小麦は昔から手先が器用で、料理も上手だった。一番驚いたのは、中学一年の頃。雑誌を読
んでいて何気なく千が「フランス料理食べてみたいな」と呟いた次の休日、「フレンチ、ご馳走
するよ?」と小麦が自宅に招いたことだった。彼女はものの見事に前菜からデザートのスイー
ツまで、すべて料理してフルコースを千に振舞ったのだ。材料こそはそんなに高くないものを
チョイスしていたようだが、味は格別だった。和食もうまいのだが、小麦自身はどちらかとい
うと洋食の方が得意なようだった。
 とは言え、毎日の弁当となるとさほど凝ったものを作る時間はないので、大体が夕飯の残り
物だったりするのだが、それでも十分過ぎるほど見た目も味も良かった。
 彼女は千に弁当を作って持ってくるのが日課だった。今日もわくわくしながら弁当の蓋を開
けると、ポテトサラダとから揚げ、タコさんウインナーにたけのこご飯と、千の好物が沢山詰
め込まれていた。「いただきます」と手を合わせ、箸を出すと、早速から揚げに食いついた。
 千の食欲を見て、微笑を浮かべながら、小麦も弁当を開ける。
「今日も緑くん、千のクラスまで行ってたねー」
 いきなり緑の話を振られ、口の中のから揚げを喉に詰まらせる。ペットボトルのお茶をゴク
リと飲むと、千は眉毛を八の字にして小麦に懇願した。
「小麦さぁ、梅田と同じクラスなんだし、どうにかこっちに来ないようにしてよぅ……」
 それに対して、のんきに弁当箱をつつきながら小麦は返事をした。
「んー、そりゃぁ無理だぁ」
「何で? そもそも梅田ってクラスで仲いい男子とかいないの? ちょっとおかしいよ!」
 千の問いには答えず、たけのこご飯をもぐもぐと食べながら小麦は空を見上げた。
 
 緑はかなり遠くの市から夏ヶ瀬高校に通っているらしく、同じ小学校、中学校の友人はいな
かった。しかし、それでも新入生。何かきっかけさえあれば友人が出来る可能性はあったはず
だ。だが、緑は入学式の日に言闘部に入部してから、全く友人を作ろうとはしなかった。同じ
く友人を作る気がなかった小麦は、何となく彼とクラスの環境を観察することにした。
休み時間になると、彼は千のクラスに行く。その後、携帯で深見に様子を逐一報告していた。
 小麦は内心緑が深見のパシリと化していると思った。実際、最初のうちは緑も携帯を切った後、小さく舌打ちをしていた。入学式から一週間ほど経つと、クラスメイトもグループとして固まり始めた。その様子を見ていた小麦は、色々な声を聞いた。女子のあるグループは、緑のことを身長が高くかっこいいと言っていた。他の女子は反対に、入学式の次の日から違うクラスの女子を追いかけるなんて最低なヤツだ、と彼を評価していた。目立つ男子は無口な緑を「陰キャラ」と決め、あまり関わりたくない様子だった。他の男子からは、少しとっつきにくい印象を持たれていたようで、緑に対して彼らは敬語を使っていた。
 クラスメイトから漏れ出す様々な声。あくまでも冷静な顔を保とうとしていたようだが、日が経つにつれ、緑の居場所はなくなっていくようだった。それから緑は、休み時間になると逃げるようにして千のクラスへ行くようになった。

「ありゃあ、不器用なタイプの男だよ」
 ご飯を飲み込んだ後、ふいに出た小麦の言葉はそれだった。千は意味が分からず、ただ彼女の顔をのぞきこむことしかできなかった。
「ま、仲良くしてあげなよ。部活に入る、入らないはともかくさ。梅田くん自身は嫌いじゃないんでしょ?」
「いや……迷惑だけど」
 困り顔でポテトサラダをつつく千に、小麦は笑って言った。
「考えようによっては、違うクラスのかっこいい男子が毎日休み時間、自分に会いにくる姫展開だよ?」
「そういう展開も望んでない!」
 千が突っ込むと、彼女の開いた口の中に小麦がプチトマトを放り込んだ。


 同じ時間、緑は留学生教室で弁当を食べていた。当然のように、深見、バン、コウも一緒だ。
深見は今日、ラグランにショート丈のデニムと、普通の男子の格好をしている。
「で、緑くん。今日で二十日経ちますが、うちの千は未だに入部しないんですか」
 深見の声に、箸が止まった。
「すいません……」
 空気が重かった。自分で入部しておきながら、『何でこんな部に入ってしまったのだろう』と
俯きながら後悔する。
「深見ぃ、そんなに緑をいじめるなよ」
 コウがジャムとマーガリンのコッペパンをほおばりながら、やんわりとフォローするが、深
見には全く効果がない。
「うちの高校は、五人以上部員がいないと廃部になっちまうんだよ。その期限だって、もう近いんだ。千を早く入部させないと!」
 言い切ると、カップ麺を大きな音を立ててすすった。
「……深見が千に直接言えばいいじゃない」
 バンが正論を突きつけると、深見は机をガタガタと揺らして暴れ始めた。
「だーかーらー! そもそも俺じゃ近づけないの! 教室行くとトイレに逃げるし、行きかえりを待ち伏せしても、途中で撒かれるし……。この間は叔父貴から『あんまり千ちゃんを刺激しないでやってくれ』って電話がかかってくるし! おっさんの番号知ってても、妹の携番知らないってどうよ!」
 カップ麺のスープが飛び跳ねた。いいたいことを全部吐き出して落ち着いたのか、静かにな
った深見に、コウが訊ねた。
「お前さ……千ちゃんに一体何したの? 携番知らないってのはともかく、別居までしてるってかなりの間柄じゃないか?」
「俺もそれ、聞きたい」
 バンもコウに同意する。緑は箸を置いて、深見をしっかり見据えた。
「深見先輩、部を存続させたいなら、別に松本さんじゃなくてもいいじゃないですか! 何でそこまで妹さんに固執するんですか? ちゃんと訳を話してください!」
 割り箸を握り締めたまま、深見は緑を睨んだ。緑は一瞬、その鋭い眼光に息を飲んだ。沈黙
が流れる。
「……いや、言いたくないのならいいんですが……」
 緑が耐え切れず、自分の意見を引こうとすると、深見自身がそれをさえぎった。
「いいよ。話してやる」


 きっかけはどこの家庭でも起こりえる事情だった。千が中学一年、深見が受験を控えた中学
三年の時、両親が離婚したのだ。深見の一つ上である姉の茉莉が言うには、すでに相当前から
両親の仲は冷え切っていたらしい。深見はそれに気づかずのんきに暮らしていたことを悔やん
だ。
 兄妹は協議の末、三人とも父に引き取られた。母は元から持病があり、育ち盛りの子供たち
を女手一つで育てることが難しく、母親っ子だった深見も仕方なく父の元で暮らすことにした。しかし、それから三ヶ月も経たないうちに、父親は子供たちを置いて、海外出張へ行ってし
まった。姉は年齢のわりにしっかりした類の人間だったので、あっさりとそれを認めたが、深
見はそんな父親を受け入れることができなかった。
 歪みは自然と出てきた。表面上は何事もないかのようにしていたが、自分でも気づかずに不
満を他人で発散しまっていたのだ。深見は身長こそは低いが、愛嬌のある整った顔で男女ともに好かれていた。告白で呼び出されたり、ラブレターも頻繁にもらっていたのだが、口に出すこともはばかられるほどえぐいやり方で相手を手ひどく振るようになった。深見のひどい振り方は噂になった。もちろん深見本人に文句を言ったり報復をする人間もいたが、彼はほとんど意に介しなかった。そのせいで、ターゲットは深見から千に移り、彼女はいじめにあった。終いには中学一年の三学期から卒業まで保健室登校を余儀なくされてしまったのである。


「中学のスクールカウンセラーが、その時別居を持ちかけたんだ。それで千は今、叔父貴の家に住んでる」
「百パーセント、先輩が悪いじゃないですか……」
 あまりにも自分勝手でひどい深見に、つい本心から言葉が漏れた。緑は続ける。
「いくら内心に不満を抱えてたって、それを他人で発散していい訳ないですよ。その上、妹さんまで傷つけて……」
 深見は緑を鼻で笑った。
「そんなこと言ってるけど、『お前自身』は俺に説教できる人間なのか?」
 緑は唇を噛んだ。確かに自分はまだ未熟な人間だ。だけど、客観的に見て、やっちゃいけな
いことくらいは理解できていると思う。なのに、言い返せない自分がもどかしい。
「説教するとかしないとか、どうでもいい。深見が嫌なヤツだったのもわかった。今も悪いヤツかもしれないけど、俺は興味ない。でも、千は部活に入れたほうがいい」
 意味の分からない主張をしたのはバンだった。『どうでもいい』という投げやりな言い方に、
緑はいらだちを隠せなかった。
「バン先輩、どうでもいいってことはないですよ! そのくせ、『部活に入れたほうがいい』って、俺には理解できません!」
 声を張り上げられても黙々と持参したコンビニのおにぎりを食べ続けるバンに、コウも賛同
した。
「バンちゃんの言うこと、ちょっと分かる気がする。俺も千ちゃんは部活に入れた方がいいと思うな」
「コウ先輩まで! 皆、何を考えてるんですか?」
 三人の先輩の考えに、納得がいかないという表情を露骨に出してみるが、反応は薄く、皆昼
食に戻り始めた。
 声に出来ない思いを拳に込め、机を殴る。教室に鈍い音が響いた。打ちつけた右手にジンジ
ンと痛みが伝わってくる。
 深見は大きく溜息をついて、緑の方を向いた。
「お前が考えてる通り、俺は悪いヤツだ。最初は自分でも自己嫌悪に陥ったよ。だけどな、更に最悪なことに、俺は開き直った。そしたらすっげぇ楽になっちまったんだよ。だから、俺はこの性格を直そうとはしない」
「……はぁっ?」
 思いもかけないひどい発言に素っ頓狂な声を上げる緑を見て、悪い笑みを浮かべながら深見
は更に続けた。
「俺自身、これから自分がどういう風に変わっていくかはわからない。要するに自然に任せることにしたんだ。無理にいい人になっても、自滅するだけなんでね」
 言い終えると、コウを横目で見た。彼も視線に気づいたらしいが、応じることはなかった。二人のやり取りには気づかなかった緑は、自分の考える『常識的な思考』からそれないよう
に、話を戻した。
「先輩がこれからも性格が悪いままでいることは分かりました。でも、松本さんを巻き込むのは、話が違います!」
「千は強くなった方がいいと思う」
 答えたのは深見ではなく、バンだった。おにぎりを食べ終えると、パックの牛乳に口をつけ
る。ストローから唇を離すと、緑に冷たい目を向けた。
「……千だけじゃない。緑も」
「俺も……?」
 脈絡のないバンの会話についていけず、コウに助け舟を求めると、困った顔をしつつも緑に
も分かるように話してくれた。
「うちの部は確かに『言葉で闘う部』なんだけど、『精神力も必要』って前にバカ深見が言ってたの、覚えてる?」
 記憶の糸を辿り、思い出す。ゆっくりと頷くと、コウはにっこりとした。
「相手を言い負かすってことは、逆を言うと、相手に弱みを見せないようにしなくちゃならない。だからこの部は、相手と闘う前に、自分を見つめなおす。そんな精神訓練所みたいな部分があったりするんだよね」
「自分を見つめなおす……精神訓練所……」
 無意識にコウの言葉を繰り返していた。入った時は、ただ単に口ゲンカに負けない、何を言
われても直ちに反論できるようになる『他人と争う』部だと思っていたのに、それが己との戦
い、修練の場だったとは。
 驚くと同時に、一つ疑問に思ったこともある。自己を磨く修練の場の部長が、何故こんなに
自己中心的な男なのか? 自然と緑の目が深見をとらえたのを見て、バンはボソッと呟いた。
「開き直りも取りようによっては強い力になる……」
「何か言ったか? バン」
 のびた麺をすすりながら横目で見るが、バンはそ知らぬ顔で牛乳のパックを折りたたんだ。
「ともかく!」
 スープを飲み干すと、深見は立ち上がった。
「緑! この際、キセイジジツを作って脅迫しても構わん! 俺が許す! 千を入部させろ! あいつが強くならねぇと、俺がもっと好き勝手できねえんだ!」
 深見の発言に半ば呆れつつ、溜息をついた。
「……先輩、歪んでますね」
「ばーか、歪んでねぇ人間なんて、いねぇんだよ」
 ニヤリとすると、コーラを一気飲みして大きなゲップをした。緑は深見の態度に不満を持つ
と同時に、彼がのびのびと生きているようにも見えて、心が変に揺らいだ。
精神を訓練するという部活は興味深いが、この個性が強い先輩たちに自分はついていけるの
か? 今一度、自分に問いかけてみる。
―答えは、ノーだ。


 授業が終わると千は校舎を出た。いつもなら小麦と一緒に駅まで帰るのだが、今日は兄であ
る教師、桐生理(り)宇治(うじ)に用があるらしく、仕方なく一人で帰路につくことにした。
 学校から駅までの長い道、小麦に緑への愚痴を吐くことが最近の日課だったため、何だか今
日はしゃべり足りない気分だった。
小麦以外にも友達ができるとよいのだが、なかなかうまく行かない。深見のことや緑のせい
もあるが、千は中学一年の時からずっと人間不信気味だった。学校では保健室登校。休日も知り合いに会うのが恐くて、自宅に引きこもるか小麦の家に遊びに行くかの二択しかなかった。
 それが今、高校に通うことができている。それだけでも自分の中では大きな進歩だった。けれど、やっぱり話し相手くらいは欲しい。そんなことを思いながら、花弁が散り終わった桜の木の下を見上げた時、誰かが肩を叩いた。
「松本さん」
 聞き慣れてしまった低い声に振り返ると、予想通り梅田緑がいた。反射的に周りを見渡し、クラスメイトがその場にいないことを確認して、脇の道へ緑を引っ張っていく。
「梅田くん! 何、また勧誘? 勘弁してよ。本当に迷惑なんだから!」
 思わず半泣きで訴える千に、緑はうろたえた。
「ご、ご、ごめん! あの、ちょっと話があるんだけど……時間ある?」
「部には入らないよ!」
「俺もさ……部活辞めようかと思ってるんだけど」
 緑の思いがけない一言に、千は拍子抜けした。


 二人は隣り駅まで歩きながら話すことにした。千の家は夏ヶ瀬駅の西口なので、わざわざ歩
く必要はなかったのだが、さっさと部活の話にケリをつけたかったので緑に付き合った。
 脇道から通りへ出ると車の往来が多くなる反面、人は少なくなった。だが、隣り駅が開発さ
れていくと共に道もきれいに整備され、散歩するには悪くなかった。
「駅の近くに、こんな道があったんだ」
 驚く緑を気にもせず、千はいつもの調子を取り戻して問い詰めた。
「それで? 部活辞めるってことは、もう勧誘しに来ないってとらえていいんだよね?」
 ジロリとにらまれ、唾を飲み込む。気を取り直して本題に入る。
「うん。正直、深見先輩の考え方が理解できなくて……」
「そりゃそうだよ。私だって分からないもん。分かりたくもないし。辞めるのは賢明な判断だと思うよ」
 深見との関係を知っていても、あまりにもばっさりと自分の兄を切り捨てる千に、緑は複雑
な感情を持った。
「……松本さんも、大変だよね」
 緑は思わず本音を口にした。所詮他人事だというような言葉だと感じた千はムッとした。
「そう思うなら、兄貴と今後一切関わらないことをオススメするよ。私にも話しかけないほうが身のためだよ」
 吐き捨てるように言い、身を翻して来た道を戻ろうとすると、緑はそれを引きとめた。
「いや! そうじゃなくて。普通に友達になってくれないかな。部活とか、深見先輩とか関係なく」
 掴まれた肩の上にある手を叩き落とし、千は怒声を上げた。
「今度は同情? 兄貴に何吹き込まれたのか知らないけど、そういうのすごいムカつく!」
「違うって! 勝手に誤解すんなよ!」
 千の態度にさすがに腹を立てた緑が叫ぶ。三車線の道の反対側を歩いていたサラリーマンが、
何事かとこちらを向いた。
 トラックが大きな音をさせて横を通り過ぎる。二人はしばらく無言でにらみあった。信号が
赤になり、車が止まると、緑は口を開いた。
「ちょっと被害妄想すぎじゃないか? 俺はただ……クラスで話す人がいないから友達になって欲しいと思っただけで」
「……いないの? 話す人」
 冷静に考えると、当然の結果だった。緑は休み時間になると、ほとんど千のクラスに来てい
た。小麦は何も話してくれなかったが、違うクラスの女子をストーカーのように追い回してい
る男子と、誰が友達になりたがるだろう。
「バカじゃないの? どうせ部活のせいで孤立しちゃったんでしょ? 兄貴の命令に従ってるからそうなったんだよ」
「だから、部活辞めるって言ってるじゃないか。俺だって、さすがに嫌になった。本気で深見先輩は訳が分からない。あと、他の二人も」
つっけんどんな口調の千に対し、緑も負けずに辛辣な言葉を返す。同レベルの会話に、二人
はつい笑ってしまった。
「梅田くんって悪いヤツではなさそうだね」
「深見先輩よりはマシだと思う」
 二人で再び笑いあう。千にとっては自分の兄だが、人の悪口ほど面白いものはない。また、共通の敵がいることで、二人に仲間意識が芽生えようとしていた。
「じゃ、学校で会ったら挨拶ぐらいするよ」
「うん、よろしく」
 何気なくお互いが手を差し出し、握手をした瞬間だった。携帯に付いているカメラのシャッター音が背後から聞こえた。
「いい絵、撮らせていただきました!」
 携帯片手にニヤニヤしながら登場したのは、深見とバン、コウの三人組だった。
「あ、兄貴!」
「あんたら、いつから背後に?」
 握手した手を振り解き、後ろに隠す。そんな二人の様子に、深見は鼻で笑った。
「お前がなかなか千を連れてこないから、こっそり後をつけてましたー。それより、誰が部活辞めてもいいって言ったかなぁ?」
 携帯の画面を見ながら、わざとらしく訊ねる。会話が筒抜けだったことに、緑と千は愕然と
した。
「千も冷たいよなぁ。お兄ちゃん悲しいから、この画像、どこかに間違って流しちゃうかもしれないぞぉ?」
 悲しい、と言っておきながら、悪い表情で携帯の画面を見せる。ただ握手しただけだったの
に、その画像は手を繋いで見つめあっているとも解釈できる。
「ふ、深見先輩、まさか……」
 携帯をパタンとたたむと、深見は楽しそうに言った。
「二人とも、今後、俺の言うことに絶対の忠誠を誓うように。とりあえず千は入部決定な」
「ふ、ふざけんな! このクソ兄貴!」
 道路に千の絶叫がこだました。コウは荒れ狂う彼女に苦笑し、バンはただ黙ってその様子を
見ていた。

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