頭狂ファナティックス

綴と恒明

エピソードの総文字数=5,959文字

 封鎖がいつ終わるのかもわからなかったが、紅月はそのあいだいつもと変わらない生活を続けるつもりであり、日課を遵守すること、生活を正確な時間によって区分すること、すなわち生活を形式化することを精神の安定には最良の方法だと考えており、この形式への信望は非常事態においてますます強固になっていた。集会の翌日、紅月は五時に起きて日課のジョギングのためにジャージに着替えて、形式による精神的安定の恩恵を銀太にも与えてやろうと思い、隣室を訪ねたが、想像することもできなかった事態に身体よりも心が疲れていると言われ、仕方なく一人でまだ真っ暗な寒空の下に出ていった。
 紅月がジョギングから帰ってきて風呂で汗を流したときには七時を過ぎており、銀太は起きていたが綴がまだベッドに潜り込んでいて、朝食の準備をするために起こそうとして毛布を剥いだがまだ眠り足りない綴は渋がり、二人は毛布の取り合いになった。ようやく綴は布団から抜け出したが、紅月の形式的な日常はさっそく崩されることになり、というのも秋姫がいつまでも自室から出て来ず、朝食を待たなければならなかったからだ。綴が言うには、秋姫は自分以上の寝坊助で授業に遅刻してくることも日常茶飯事とのことだった。
 紅月は秋姫の部屋の前まで行き、声をかけたが澄んだ湖に浮かぶ気泡のような寝ぼけた声が返ってくるだけで、本人はいつまでも部屋から出てくる気配はなかった。紅月は『緑の家』で鍵を開けさせようとも考えたが、銀太に昨日の今日で疲れているだろうから寝かせてあげてほしいと頼まれたので、秋姫が自発的に起きてくるまで待たされる羽目になり、そのあいだは空腹も相まって苛立っていた。結局、秋姫が紅月の部屋に上ってきて遅い朝食をとったのは十時を過ぎてからだった。

 朝食をとっても秋姫はまだあくびをしていて二度寝をすると言って自室に戻った。銀太と綴は学園の様子を伺うため散歩に出ることを提案したが、紅月は日課の勉強をすると言って断り、さらに二人に邪魔されないように三時間は帰ってくるなと言った。
こんな状況なのに勉強するの?
 まったく腑に落ちないといった顔つきで綴が聞いた。
勉強っていうものはどんな状況下でもするべきで、それが裏目に出ることはねえ。運動や勉強、それに休息、生活の刺激になるものはこんなときだからこそきっちり行うんだ。それが閉鎖した空間でのストレスや抑鬱の解消になる。
 結局、散歩に出かけるのは大室姉弟だけになり、二人は着替えると寮を出た。綴は腰まで伸ばした長い髪を先端の方でシャコガイのような形をしたシュシュで留めていた。外套をきつく締め、高く立てた襟に顔をすっぽりと埋めていたが、シュシュで留めた髪の大きな房だけが湧き清水のように顎のあたりから零れていた。十二月に入り灰白色の雲に覆われて太陽の光も差さない湿った日が多かったが、今日は青く引き伸ばされた澄明な空が広がり、中空には砕氷が散ったような輝きがあった。空気は乾いていたが、その分寒さに鋭さが増し、風に打たれると痛みが混じっているのがわかった。
 大室姉弟は寒風を避けるように身体を揺らしながら並んで歩き、目的があったわけでもないがショッピングモールの方へと向かっていた。道中、生徒の姿を見ることはほとんどなく、たまに見かけたとしても、彼らは通行しているというよりは徘徊しているようであり、またどこかへ向かうのが目的ではなく、歩くことそのものが目的であるようであり、学園の光景は一つの巨大な危機が訪れたというよりも一つの巨大な危機が去ったかのように静かだった。
 ショッピングモールの駐車場は広大だったが、自動車は数えるほどしか留まっておらず、銀太と綴は駐車場の出入り口に立ち尽くして建物を眺めていると、そちらの方から人が来るのが見えた。空気は張り詰めて澄んでおり視界が開けていたために、すぐにその人物が誰だかわかった。守門恒明だった。恒明もこちらに気がつくと、足を速めた。
これはこれは! 綴さんと銀太くんではないですか。
 まるでこの偶然に喜びを抑えきれないといった具合に両手を軽く広げながら恒明は言った。そして速足のために着崩れたブレザーを丁寧に直した。この状況下で学生服を着ているのは生徒会長が生徒会メンバーにそうするように指示を出したからだった。
こんにちは。守門くんもお散歩かな? なんだか大変なことになっちゃったね。
 綴は立ち上げた襟を曲げて顔を出し、笑顔を浮かべて答えた。まるで恒明が生徒会の一人であることを忘れているような口ぶりだったが、皮肉を言っているのではなく、誰にでも悪意がない口の利き方をするのが綴の癖だった。銀太はいつもと変わらない調子の態度を取る綴にいささか気を悪くして挨拶もしなかった。
まったくそのとおりです。昨日の集会で顔をお見掛けしましたから、学園が置かれている状況は理解していると思います。ですからこのようにふらふらと外を歩いては危険ですよ。僕としても生徒たちを、ことに綴さんをこのような目に合わせるのは本意ではないのです。
そうは言いますけれど、守門先輩も理事会側についているのでしょう?
 銀太は一歩前に出て姉を守るようにして、敵愾心をむき出しにしながら相手を見上げた。綴も恒明が絡むと手に負えなくなる弟に困った顔つきを見せはしたが大人しく銀太の背後に回って、守られるがままになった。
それは確かです。しかし僕たちも苦しい立場にいるのですよ。生徒たちから恨みを買うことは覚悟しております。けれどもあなたたちにだけは僕たちの置かれた正確な立場を理解してもらうために、弁解することをお許しください。
生徒会も理事会からの命令によってやむを得ず、協力しているのです。封鎖期間において、生徒側と理事会側のあいだに立ち、互いの意思疎通と調停の役割を担う組織が必要であるとの意見によってね。その意見も理事会の独断で出したものではありません。さらにその上の機関、率直に言えば日本政府からの意見です。そのような雲の上にいる人たちからの指示となれば、おいそれと反抗もできません。下手をすれば反逆罪として監禁、最悪の場合、死刑です。
 許しを乞うように下手に出、甘い微笑を浮かべながら恒明は言った。
それでもあなた方が権力に屈したのは事実です。それに食料など生活必需品の確保は約束されているのでしょう? 加えて身の上の安全も。どのような言い訳を言おうとも、生徒会は保身に走ったんですよ。生徒側と理事会側の意思疎通を図るとも仰いましたが、僕たちの意見なんて聞く気もないはずだ。
いつにも増して手厳しいことを言いますね。しかし何を言われても忍ばなければならないのも心得ています。
銀太くんは少し言い過ぎだよ。守門くんも守門くんの立場があるんだから。
 不穏な空気が流れ始めた二人を窘めるように綴が気弱な声で言った。
お姉ちゃんはもっとしっかりしてよ。昨日の集会で生徒会はすでに二人殺している。もしかしたら、僕たちの知らないところでもっと殺しているかもしれない。僕たちと生徒会が敵対するのはどうしても避けられない。
実際に手を下したのは吾妻さんです。彼女は少々野蛮な性格をしていますからね。僕は殺人に手を染めた覚えはありません。けれどもそちら側から見れば、これは生徒会全体の罪なのでしょうね。いや、正確に言えば、僕たち五人の。瀧川さんと常盤先輩は僕たちに非協力的ですから。
紅月と、おそらく常盤先輩には話が伝わっていなかったようですね。紅月は学園封鎖の件を何も知りませんでした。
それを僕たちの責任であるかのように言うのは心外ですね。普段から教室にも顔を出さないのはあの二人の方ですよ。おそらく学園封鎖に関して、空白組の一員として協力しろと言っても二人は拒否するでしょう。だからと言って、話し合いもせずに仲間外れにするのも褒められたものではありません。生徒会の職務を遂行する義務は依然としてお二方にもありますからね。
僕はですね、ちょうど常盤先輩のところに吾妻さんを送り届けた帰りなのですよ。常盤先輩は学園が封鎖されたと知るや否や、ショッピングモールを占拠しました。と言っても、先輩の言い分では食料を独占しようというのではなく、そのような輩が現れる前に食料を確保して、状況に応じて生徒に分配するとのことです。吾妻さんは現在、常盤先輩へ生徒会に協力するよう交渉しています。しかし要求に応じないようでしたら、相応の処罰を受けてもらいます。瀧川さんの方にも交渉人が行っているはずです。三年生の清美先輩がその役目を引き受けました。
吾妻先輩と清美先輩は僕の記憶が確かならば、生徒会での役職は遊撃です。それはつまり、そもそも交渉をする気がなく、はなから二人を抹消するつもり、ということですよね。
隠しても仕方がないことですね。包み隠さず言いましょう。二人が素直に理事会の傘下に下る性格をしていないことは理解しております。だからと言って、易々と生徒会の義務を免除するわけにもいかないのですよ。これは手順です。交渉の場を設けて、その上で決裂したならば、処罰を受けてもらう。僕は交渉の場を設ける役割を仰せつかりました。常盤先輩は話し合いに入る前に、こちらの顔を見るや否や攻撃を仕掛けてくる可能性がありましたからね。
守門くん、それは本当なの? だったら紅月ちゃんは今頃、清美先輩ともめごと(ここで綴は殺し合いという言葉を避けた)になってるかもしれないの?
頼んでも無理だろうと思うけれど、今は紅月の心配をしている場合ではないよ。僕たちが助けに行ったところで、空白組同士の対決に入り込めるわけがない。そんなことをしたら返り討ちだよ。今はこいつからできるだけ情報を聞き出すんだ。
申し訳ありませんが、銀太くんが満足するほどのことを僕は教えられないと思いますよ。僕が情報を出し惜しむという意味ではありません。そもそも生徒会にも大したことを伝えられていないのですよ。上からは封鎖の目的をペストの隔離だと言われています。生徒会長は生徒たちにそのまま伝えました。しかし僕たちを含めて、それが事実だとは信じておりません。
けれどもですね、封鎖の本当の目的は何なのかという話になると、僕たちにもまったく答えられないんですよ。教えられていないんです。僕たちは上からの指示には従順にうんうんと頷くだけで、こちらから質問する権利は与えられていないんです。
それよりも綴さん、僕からお願いしたいことがあります。お手を出してください。
 恒明は銀太との話を勝手に切り上げると、銀太を回り込んで背後にいる綴の足元に屈みこんだ。恒明が右手を差し出すと、綴は困惑した表情を浮かべながらもその手の上に自分の手を乗せた。
僕とあなたは生徒側と理事会側という敵対する二つの立場に引き離されてしまいました。それでも僕はあなたをお守りするとここに誓います。僕の力では綴さんを生徒会に特例として引き入れるなんてことはできません。けれどもあなたが危機に陥ったとき、この身が火に焼かれていようと、身を引き裂かれる運命になるとわかっていても、必ずはせ参じます。誓いの証にこの御手に口づけをさせてください。
 しかし恒明が綴の手に口づけをする前に、銀太は姉の手を引き離した。そしてそのまま姉の手を掴んだまま踵を返した。平然として立ち上がり膝についた土埃を払っている背後の恒明に向かって、銀太は言った。
お姉ちゃんは守門先輩が守らなくとも、僕が守るから安心してください。
 姉弟は来た道をそのまま引き返して寮まで戻った。銀太は紅月と綴の部屋で戦闘になっている可能性も考え、しばらく遠巻きに眺めて寮が静かであることを確認してから中に入った。念のために秋姫の無事を確認するために、部屋を訪ねたが、いくらノックしても返事がなかった。しかし確かに部屋の中で何かが身じろぎする音が聞こえたので、銀太は『緑の家』を発動して、鋏でドアを刳り貫き、中の鍵を開けてから穴を塞いだ。秋姫は朝食に出てきたときには私服に着替えていたが、今は馴染んで萎れた桃色のパジャマに同じ色のナイトキャップを着直し、二度寝をしていた。部屋の中から聞こえた音は秋姫がベッドで寝返りを打つ音だった。姉弟がベッドの脇に立ち、幼気を残した寝顔を見つめていると、気配を察したのか秋姫は薄く目を開けたが、寝ぼけているのか驚いた様子はなかった。銀太は余計な不安を与えないために紅月の行方を尋ねることはせず、勝手に入ったことを詫びて、昼食の時間までには起きるようにつけ加えてから部屋を出た。
 勉強をしている紅月がいるはずの部屋には誰もいなかった。銀太は部屋にいても考えが堂々巡りをして焦燥の火に枯木をくべるだけだろうと思ったので、姉にもう少し散歩をしたいと提案した。綴はしばらく逡巡してたが、弟にほとんど引っ張られる形で部屋を出た。
紅月ちゃんを探さなくていいの? 生徒会の人と会っているんでしょう?
 寮を出て再び学園の敷地内を歩き回っていると、綴は何度も同じ質問を繰り返した。銀太は姉を安心させるためにずっと手を繋いでいた。不用意に紅月の助けに行くこともできない焦りから黙り込んでいたが、綴が何度も同じことを聞くため、いい加減に煩わしくなってきたせいで口を開いた。
紅月が生徒会から協力してくれって言われて、素直にうんと頷くやつだとは僕も思わない。例え、食料や安全を保障されるとしても。十中八九、どこかで清美先輩と戦っていると考えていい。けれどもさっきも言ったとおり、僕たちがその場に居合わせても返り討ちにされるだけだ。
それに紅月の能力はタイマンじゃないと真価を発揮できないからな。今はこちらから探しに行くより、無事危機を脱した紅月が僕たちを見つけてくれるのを待つべきだ。紅月が清美先輩をどうにか対処するのを祈ろう。
 綴は弟の言葉に何か言おうとしたが、反駁もできないことに思い至り、高く立てた襟の中に顔を隠してしまった。
この際だから言っておくけど、お姉ちゃんは誰にでもいい顔をし過ぎだ。いわゆる八方美人だな。これまであまり口出しはしなかったが、今は僕たちと守門先輩は敵同士なんだ。さっきみたいに安易に手を重ねる真似をしないでほしい。
 銀太は自分でもこの状況で恒明のことを引き合いに出すのは八つ当たりに他ならないとわかっていた。しかし幼馴染としての信頼があっても、まだまだ短い人生ながら長年付き添った相方の性格を十分に理解している自負があっても(あるいは紅月には気まぐれなところがあると熟知しているからこそ)、紅月がこちらを裏切って生徒会に協力するかもしれないという懸念を振り払うことがどうしてもできなかった。

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