第1話

文字数 1,892文字


 今日も津卒の霍里子高は国境の河の警備に余念がない。このところ異民族の侵入もなく平穏である。だが油断は禁物だ‥。
 そんなことを思いながら彼は上流の方に目を向けると、髪を振り乱した男が河に向かって走って行くのが見えた。そして、その後を女が追いかけていた。
 嫌な予感がした子高は大急ぎで上流に向かった。
 男は白髪で手には酒瓶をぶら下げていた。
 子高が走っている間、男はどんどん河に近付き、やがて水の中に入り、遂にその姿は流れに消えてしまった。
「ああ、何と‥」
 子高は速度を上げて駆けた。
 その時、悲しげな声で詩を詠じているのが聞こえてきた。
  愛しき人よ、河を渡らないで、
  なのに河を渡ろうとする、
  ああ水に堕ちてしまった
  いったい、どうしたらいいのでしょう‥
 声の主は男を追って来た女だった。河辺で立ち止まり、呆然と男が沈むのを見た彼女の様相は結髪は解け、衣服は乱れていた。
 男の姿が見えなくなると女は河の中ほどに進んでいった。
「おい、やめろ」
 子高は叫んだが、彼女は既に男の沈んだ所まで行き、その姿は水の中に消えつつあった。
 子高が女がいた場所に着いた時には、河の中には人影はなく、水は何事もなかったように流れていた。
ーーあれは果たして現実だったのだろうか? 自分は夢でも見たのではないか‥。
 もと来た道を戻りながら子高は、このように思うのだった。
勤務を終えて自宅に戻った子高は、妻の麗玉に河での出来事を話した。
「哀しく心が痛む話ね‥」
 話を聞き終えた麗玉はこう応えると手元にあった箜篌を取り弦を爪弾きながら歌い始めた。
  公(きみ)よ、河を渡る無かれ
  公(きみ)は竟(つい)に河を渡る
  河に堕ちて死す
  将(まさ)に公を奈何(いかん)せん
 妻の歌声を聴きながら子高は、改めて白髪の男と彼を追った女のことを考えた。
 あの二人はおそらく夫婦であろう。仲良く穏やかに暮らしていたが、何かの弾みで夫は気が触れてしまい、あのような行動をとったのだろうか。だとしたら、その原因は何だろうか。子供や孫の早逝、妻の不貞の発覚‥。或いは何事かに抗議するために狂人のふりをして生命を絶ったのか、それとも世の中全てに絶望し入水したのか‥。
 子高が思いを巡らせていると、突然、
「麗玉、また新しい歌を作ったのね、教えてちょうだい」
と艶やかな声が耳に飛び込んで来た。隣に住む歌姫の麗容だった。
「いいけど、明日にね」
「あ、旦那さんが帰ったのね。分かった、出直すわ」
 歌姫が戻ると麗玉は箜篌を再び弾いた。今度は歌わなかったが、その哀調を帯びた旋律は入水した夫婦を悼んでいるように感じられた。
 翌日、麗玉は麗容に入水した夫婦の話と共に昨日の歌を教えた。
その後、麗容の歌声に乗せて、麗玉の歌は世間に広まっていったのだった。


 東漢・西河郡美稷県にある左賢王の屋敷の奥から琴の音に乗せて悲しげな女性の歌声が聞こえる。
  公無渡河,公竟渡河‥。
 声の主は、琴を爪弾きながら漢の地に暮らしていた少女時代を思い出していた。
 あれは確か春先のことだっただろうか、父・蔡琰のもとに友人が訪ねて来た。
「このところ見なかったが、どうしていたんだ?」
「実は朝鮮の方に出かけていたんだ」
 久しぶりに会った二人は話が弾み、時が経つのを忘れるほどだった。
 日が沈む頃、ようやく友人は帰って行った。
 父親は彼女に彼から聞いた話を教えてくれた。どの話も珍しく興味深いものだった。中でも特に惹きつけられたのは麗玉という女性が作った「箜篌引」という歌に関するものだった。
  公無渡河 公竟渡河 墮河而死 将奈公何
 父の友人が漢語訳した「箜篌引」の詩は素朴だが、そのもとになった白髪狂夫とその妻の物語は、いろいろ考えさせられた。その後、彼女へ暇さえあれば、琴を弾き哀調を帯びたこの歌を口ずさむようになった。
「昭姫どのは、やはり漢の地に帰りたいのだな」
 彼女の前に現れた人物が声を掛けた。
「左賢王さま」
 知らぬ間に部屋に来たこの邸の主人の姿を見た彼女はさっと琴を置き平伏そうとしたが、王はそれを止めた。そして
「今の歌はとても悲しげに聞こえるのだが望郷の歌か?」
と訊ねた。王は日常会話程度の漢語は分かるが歌はよく聞き取れなかった。
「いえ、昔の朝鮮の歌です」
と彼女は答え、詩の意味とこれにまつわる物語を教えた。
「実に意味深い話だな。もう一度最初から歌ってくれぬか」
「はい、仰せのままに」
 こう応えた彼女は傍に置いた琴を取ると爪弾き歌い始めた。
  公無渡河、 
  公竟渡河、
  墮河而死、
  将奈公何
 王は澄みきった彼女の声に聞き入るのだった。
 
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