エントロピー増大則について

文字数 3,227文字

 いつの間にか砂川はいなくなっていた。まるで四月の幽霊のように。僕の知らないところで示し合わせてあったかのように、入れ替わりで朝永が屋上に来た。やはり僕の知らない合図があるかのように、朝永は砂川と同じく背後に立った。影の位置はさらに移動して、今では僕の右手に伸びている。
 朝永が一向に口を開こうとしないものだから、僕はこちらから話しかけることにした。
「朝永は世界の終わりを信じるか?」
「急に何の話だ? 「学園」がもうじきご破算になることについてか? それともその滑空機が壊れることについてか?」
「いや、本当に本当の世界の終わりだ。物理学の見地から言って、この宇宙が終わるということはあり得るのか?」
「はっきり言えば、あり得るな。そういう話が聞きたいのか? ならば今日はそのあたりの講義を開こう。エントロピーという概念は知っているか?」
「聞いたことぐらいは。詳しくはわからない」
「その認識で正しい。エントロピーという概念はあまりにも多義化したせいで、どの物理学者も正確に言い当てることができなくなっている。誰も彼もが自分の理論にエントロピーを利用しようとした結果だ」
「利便性のあるものは多義化する傾向がある。利便性のあるものは必然的に権力を持つようになり、人々はその恩恵に預かろうとするからだ。自分の理屈に権力を取り入れて、論理を強固にする。あらゆる人間がそのような行動をすれば、一人ひとり、その権力を持ったものの意味が食い違ってくる。そして結果的に多義化して、誰もその意味を正確に言い当てることができなくなる。具体例を挙げれば、宗教や法律だな。エントロピーもその一つなのだろう」
「私が言おうとしたことをぴったりと言い当ててくれる。それどころか、私の知識が及ばなかったところにまで言及してくれる。やはりきみは私の脳にとって、重要な外部デバイスだ。エントロピーはきみの言うところの利便性があったゆえに権力を持ち、多義化したものだ。だから、これから私の説明するエントロピーは言い当てていると同時に、正確ではない。鵜呑みにはしないで欲しい」
「わかった。僕としてはエントロピーの正確な定義を知りたいのではなくて、そこからどのように世界の終わりに繋がるかの論理が重要だからな」
「そもそもエントロピーの概念が最初に提唱されたのは熱力学の分野だ。熱力学第二法則は知っているか? エントロピーと表裏一体とも言える法則だ」
「永久機関の実現を否定した理論、程度しか理解していない」
「それで十分だ。補足をすると、熱力学第二法則が否定している永久機関は、第二種永久機関の方だ。熱力学第二法則について説明しよう。この法則について、何人もの物理学者が、あらゆる表現を使って定義しているが、その意味するところは同値だ。熱力学第二法則について言及した物理学者を挙げるならば、ルドルフ・クラウジウス、ウィリアム・トルソン、ヴィルヘルム・オストヴァルトあたりが有名か。この偉人たちの定義を元に、私なりの表現をするならば、熱力学第二法則は「高い熱源から低い熱源に正の熱源を移すとき、100%の効率で移動させることはできない」と言ったところだな。意味はわかるか? 必要ならば、噛み砕いて説明するが」
「大雑把にならばわかる。熱が移動するとき、少なからず別の仕事に変換される熱があるために、100%の効率は不可能だということだろ?」
「そこを理解しているならば十分だ。そしてこの法則は重要な意味を持つ。100%の効率が不可能ならば、一度移動した熱を改めて完全に戻すことはできない。移動の経緯で少なからず熱が別の仕事へと変換されるからな。すなわち、この法則は熱の移動の不可逆性を証明している。私たちはどのような努力をしても、この一方通行に抗うことはできない。エネルギーが移動するとき、必ず無駄が出る。このことを一般的にエントロピーの増大則と呼ぶ。それを端的に示したのが第二種永久機関の実現の否定だ」
「なるほど。僕の拙い物理学の知識から言えば、熱が移動するごとにそのエネルギーの一部は無用な方向に減じていく」
「きみは理解が早くて本当に助かる。熱力学におけるエントロピーはここまでにしよう。次は統計力学におけるエントロピーの説明をする。本来、熱力学の概念であったエントロピーを統計力学に適応したのはルートヴィッヒ・ボルツマンだ。簡単に言えば、また同時に正確性を欠く表現を使えば、統計力学におけるエントロピーは分子の乱雑さを量として示すものだ。マクロの視点を持ったとき、物体の運動、つまり圧力や体積は方程式として一元的に記述することができる。ところがボルツマンはその一元性の根源をミクロの視点に求めた。つまりすべてが分子の運動によって支配されていて、その運動は確率にのみ依存していると述べた。そして分子は人間には数えきれないほど存在して、試行回数が増えるほど、確率の最も蓋然性があるところに行きつくことを示した。つまりボルツマンの述べたことは、分子は確率的に乱雑になっていき、それゆえにこの世の物理現象は定量化することができる、ということだ。無論、この理論は当時の物理学者から徹底的な攻撃を受けた。物理学を必然性ではなく、蓋然性という不確定要素によって説明したのだからな。その結果、ボルツマンは論争の中で精神的に追い詰められて自殺した。真理を啓示する人間を迫害するのは人間の性だな。絹の信念に従えば、キリストもその一人だな。人間は真理を求めると同時に、真理を授ける人間を追放する。まったくの矛盾だ」
「熱力学から言えば、エネルギーの移動は不可逆である。統計力学から言えば、すべての分子は乱雑な方向へと進む。その点は理解した。そろそろ、この論理が宇宙の終わりに繋がる理由を教えてくれないか?」
「本当は情報理論におけるエントロピーも説明しなければいけないのだけれど、世界の終わりには関係がないから割愛する。きみは質問をしたが、本当はすでにその論理をわかっているのだろう? 熱だけに関わらず、エネルギーの移動には無為な仕事が必ず生まれる。またすべての分子は乱雑な方向に進む。このことを理解しているならば、結論は自分で出せるだろう? 延々とエネルギーの移動を続けるならば、この世のすべてのエネルギーは何の役にも立たない方向に消費され続ける。そしてすべてのエネルギーが人間にとって有益でなくなるときが来る。この終焉が訪れたとき、すべての運動は静止して、宇宙はエネルギー的な死を迎える。あらゆる地点において、エネルギーが均一になるんだ。一般的には熱的死と呼ばれるな。そのとき人間に抗う術はない。これが物理学的な世界の終わりだ」
「しかしそれは早急に訪れるものではないだろう? 少なからず、僕たちが生きているあいだには世界の終わりは訪れない」
「そのとおりだ。この物理学的な世界の終わりが訪れるのは数億年後の話だろう。また同時にこの宇宙が孤立系であることを前提としている。この宇宙が孤立系なのか、はたまた宇宙の外側から力を受け取っているのかは、現代物理学では判断できないことだ」
「現代物理学では、どれだけ先の話だろうと世界の終わりが予言されていることを知れば十分だ。ところで話はマクロな視点からミクロな視点へと唐突に変化するが、この「学園」は孤立系だろうか? エントロピー増大則とやらによって、「学園」は崩壊していくのだろうか?」
「それについて、私は何も言うことはない。なぜならば、マクロ的な力学とミクロ的な力学ではまったく異なる理論が成り立つことが証明されているからだ。すなわち、世界と「学園」のあいだには決定的な深淵があるのだよ。もしかしたら「学園」はエントロピー増大則によって崩壊するのかもしれないし、もしかしたら「町」の悪意という人間的な感情によって崩壊するのかもしれない」
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登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

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