第1話 一話完結

文字数 2,000文字

 江戸の裏長屋に住むお仙は、左官職人の父と二人暮らしをしている。母は既に亡くなっていて、飯の仕度はお仙の役目になっていた。
 この日も、お仙は井戸端で晩飯の仕度をしていた。
「お仙ちゃん、嫁に行くんだって」
 お仙が振り向くと、長屋のおかみさんが笑顔で立っている。
「えー、そんな噂があるんですか? 嫁になんか行きませんよ」
「何だい、嘘かい。でも、嫁に行ってもいい年頃だよね」
「良い人がいたら、紹介してくださいよー」
 お仙はおどけたように言い、家へ戻った。
 実は、お仙には好いた男がいる。大店の次男の弥二郎だ。弥二郎はお仙を嫁にもらうつもりでいたが、弥二郎の親は貧乏職人の娘と一緒にさせられないと反対している。お仙は、弥二郎に駆け落ちを持ち掛けられたが、父を見捨てることはできないと断った。それ以来、弥二郎は会いに来なくなった。お仙に未練がない訳ではなかったが、諦めるしかないと思っていた。

 お仙が味噌汁を作っていると、父の源七が帰ってきた。いつもと様子が違う。源七は黙って座敷に上がると、母の位牌に手を合わせた。
「お仙、こっちに座れ」
 お仙は戸惑いながら、源七の前に座った。
「お前も十八になったんだ。もうそろそろ話しておかなきゃならねえ」
 深刻な話のようだ。お仙は身を固くした。
「実は……お前は貰い子なんだ」
 お仙には思ってもいない言葉だった。
「お前は、相馬屋の旦那の庄兵衛さんが妾に産ませた子だ。妾は産後間もなく死んじまった。旦那は引き取ろうとしたんだが、女房が反対してできなかった。旦那は入り婿だからよ、諦めるしかねえやな。それで、子のいねえ俺ら夫婦が引き取ったって訳だ」
「そ、そんな……」
「相馬屋の奥様は去年亡くなった。それで、旦那がお前を引き取りてえって言ってきた。相馬屋には子がいねえから、婿を取って跡を継がせてえそうだ。店の奥様になれるんだ。良い話じゃねえか」
「おとっつあんは、あたしがここを出て行ってもいいの?」
「相馬屋が百両出すって言ってるんだ。実の親の元へ帰ってくれねえか」
 源七は頭を下げた。
「おとっつあんは、百両であたしを売るつもりなのね!」
 源七は何も言わなかった。

 お仙は家を飛び出した。弥二郎の元へ行きたかったが、それはできる筈もない。行く当てもなく歩き回るうちに、金に目がくらんだ父に売られる我が身が、どんどん悲しくなってくる。
 むせび泣いていると、子供の頃の記憶が次々に浮かんできた。養父母に可愛がられた思い出ばかりだ。
「百両有れば、おとっつぁんは働けなくなっても暮らせていける」
 ふと、口から出た。
 実父の元へ帰るのも親孝行なのかもしれないと思い、お仙は決心した。

 お仙が相馬屋に入って間もなく、縁談が持ち込まれた。実父の庄兵衛は跡継ぎのためにお仙を引き取ったのだから、お仙は驚きもしなかった。しかし、相手の名を聞いてびっくりした。相手は弥二郎だったのだ。
 お仙は弥二郎との間にあったことを話した。既に反対されているのだから、何かの間違いだと思ったのだ。
 間違いではなかった。弥次郎の親は「相馬屋へ婿入りできるのなら、どんな嫁でも構わない」と言ってたそうだ。
 弥二郎と夫婦になれる。お仙は胸を弾ませた。

 婚礼の日の朝、白無垢を着たお仙は庄兵衛の前に座って三つ指をついた。
「こんな豪華な着物を用意していただき、申し訳ありません」
「私が用意したのではない。源七さんが持って来たのだ。渡した百両を全て使って買ったようだ」
「おとっつあんが!」
「この際だから話しておく。実は、お前を引き取る話は源七さんからお願いされたのだ。源七さんは弥二郎との破談を知り、当家の娘なら、先方は断らないだろうと思ったそうだ。」
「だったら、この縁談はおとっつあんが?」
「そうだ。源七さんに頼まれて、私が取り計らった」
 お仙は庄兵衛の許しを得て長屋へ向かった。

 白無垢の格好で家に入ってきたお仙に、源七は仰天したようだ。
「どうしたんでえ。今日は婚礼の日だろうよ」
 お仙は座敷に上がり、源七の前に座った。三つ指をついて深々と頭を下げる。
「相馬屋の父から全て聞きました。おとっつあん、あたしのために……ありがとう」
 お仙の涙が白無垢に落ちた。
「泣くんじゃねえ。折角の花嫁姿が台無しじゃねえか」
 お仙は頭を上げて源七を見つめた。
「おとっつあん、ここからお嫁に行かせてください」
「こんなボロ屋からか」
 源七が戸惑っていると、引き戸が勢いよく開いた。長屋の連中が立ち聞きしてたようだ。
「いいじゃねえか。お仙ちゃんはこの長屋の家族なんだからよ。皆で送り出してやろうぜ」
 長屋の住人達はお仙と源七を外へ連れ出した。祝いの言葉が飛び交う。こんなに愛されていたんだと、お仙は気付かされた。
「お世話になりました。幸せになります」
 源七や住人に別れの挨拶をしたお仙は、背中で祝福の声を聞きながら長屋の木戸をくぐった。


<終わり>
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