第1話(1話で完結です)
文字数 1,913文字
ナポレオンの息子フランソワは、父が没落すると、母の実家であるウィーン宮廷に引き取られた。公爵の身分を授けられた彼は、ドイツ風にフランツと呼ばれ、父に関するあらゆる情報から遮断されて育った。
◇
「将来お前は何になりたいのか? 特に希望がないのなら、僧侶になればよいと考えるのだが」
皇帝が尋ねると、幼いフランツは慌てて答えた。
「お祖父さま。僕は父上と同じ軍人になりたいです」
彼は、難しい立場の子どもだった。オーストリア皇帝の孫であると同時に、宿敵ナポレオンの息子でもあるからだ。
けれど皇帝は孫の意を汲み、8歳から軍事教育を受けさせた。
家庭教師たちによると、フランツは強情な怠け者だということだった。ところが、15歳の終わりの試験で彼は突然、優秀な成績を収めた。試験官は絶賛し、16歳になった今、家庭教師は、教え子が勉強し過ぎるとこぼしている。
◇
薄暗い宮殿の図書館で、フランツは一冊の本を手にした。アントマルキの回想録だ。
アントマルキは、セント・ヘレナ島でかつてのフランス皇帝を看取った医師である。コルシカ出身の彼は、故郷から輩出された皇帝に深い尊敬の念を抱き、自ら進んで侍医となった。
アントマルキの本には、開き癖がついていた。フランツが何度も見返したからだ。侍医の残した回想録には、皇帝の遺書が収録されていた。フランツは、父が自分に遺書を遺したことをこの本で知った。彼は、父親からの遺書を活字で読んだ。
「すべてをフランス国民のために」
父は息子に命じ、管財人に遺品を託した。
「……これらのささやかな遺品が息子にとってなつかしいものであってほしい。世界が彼に語るであろう父を彼に偲ばせてくれるものとして。……息子が16歳になったら、彼に渡すように」
嗅ぎタバコ入れやシャツやメダルなど、遺書に記された遺品は、ごく身近で罪のないものばかりだ。だが、残された息子には大きな意味がある。彼はシャツで父の大きさを知り、嗅ぎ煙草入れの吸い口を嗅いで父の匂いを知るだろう。今まで隠されてきた、あるいは、陰で悪鬼と罵られてきた父に触れることができる。
フランツは、父の遺品の到着を心待ちにした。
けれど、今まで通りだった。宮廷では誰もナポレオンの名を口にしない。父の遺品が彼の元へ届けられることはなかった。
◇
16歳も残り少ないある晩、フランツは祖父の皇帝に尋ねた。
「いつになったら僕は、軍を率いることを許されるのですか?」
ハプスブルク家の王子は、概ね16歳になるとプラハの駐屯地へ赴き軍を率いる。
肉を切り分けていた皇帝は、目を眇めた。
「儂がよいと判断したらだ」
軍の最高司令官は皇帝だ。彼はフランツを他の王子たちのように昇進させずに、ずっと軍曹(将校の最下位)の身分に留めてきた。
「なあ、フランツ。もしフランスと戦うことになったら、お前はどうするね?」
口を噤んでしまった孫に、意地悪い質問だと思いつつ、皇帝は尋ねた。けれど、確かめずにおくことはできない。
「僕は、父の治めた国に剣を向けることはしません」
即答だった。
「ですが、白い 軍服は、長い間、僕の憧れでした」
皇帝はため息をついた。
「ブルボン家は盤石ではない。とはいえ、王位を得る為に血を流すことはあってはいけない」
青い目を瞬かせ、フランツは首を傾げた。
「戦わずして領土を広げるのだ。それが、ハプスブルク家のやり方だ」
「婚姻による領土獲得ですね?」
どこか冷たい声だった。
「ナポレオンの遺書には、息子はロシア皇女かボナパルト家の女と婚姻すべしと書かれていたな」
言い置いて皇帝は反応を窺った。孫は無表情だった。
「だがこの場合は、婚姻すら必要ではない。なにしろお前は、
フランツは大きく目を見開いた。青く熱い光を避けるようにして皇帝は続けた。
「時の流れと必然が、いつかお前をしかるべき地位に就けるであろう。その地位にふさわしい人間であるよう、今は精進を重ねる時だ」
少し前からフランツは、しつこい空咳に悩まされていた。侍医は結核と診断し、無理を禁じた。
皇帝が、孫が軍務に就くことを認めなかったのは、体調を心配した面もあったのだ。
しかしフランツ自身は、侍医の命じる安静に頑として従わなかった。
なお一層の努力を重ねた。
父の名に恥じぬように。そして、オーストリアの誇り高き貴公子として。
勉学の傍ら、疲れた体を引きずるようにして軍事訓練に励んだ。それが自らの命を縮めているのだとも知らずに。否、知っていたとしても、彼はこのまま邁進しただろう。
偉大な父が、死んでからもなお息子を支配する父が、墓の中から長い腕を伸ばしている……。
◇
「将来お前は何になりたいのか? 特に希望がないのなら、僧侶になればよいと考えるのだが」
皇帝が尋ねると、幼いフランツは慌てて答えた。
「お祖父さま。僕は父上と同じ軍人になりたいです」
彼は、難しい立場の子どもだった。オーストリア皇帝の孫であると同時に、宿敵ナポレオンの息子でもあるからだ。
けれど皇帝は孫の意を汲み、8歳から軍事教育を受けさせた。
家庭教師たちによると、フランツは強情な怠け者だということだった。ところが、15歳の終わりの試験で彼は突然、優秀な成績を収めた。試験官は絶賛し、16歳になった今、家庭教師は、教え子が勉強し過ぎるとこぼしている。
◇
薄暗い宮殿の図書館で、フランツは一冊の本を手にした。アントマルキの回想録だ。
アントマルキは、セント・ヘレナ島でかつてのフランス皇帝を看取った医師である。コルシカ出身の彼は、故郷から輩出された皇帝に深い尊敬の念を抱き、自ら進んで侍医となった。
アントマルキの本には、開き癖がついていた。フランツが何度も見返したからだ。侍医の残した回想録には、皇帝の遺書が収録されていた。フランツは、父が自分に遺書を遺したことをこの本で知った。彼は、父親からの遺書を活字で読んだ。
「すべてをフランス国民のために」
父は息子に命じ、管財人に遺品を託した。
「……これらのささやかな遺品が息子にとってなつかしいものであってほしい。世界が彼に語るであろう父を彼に偲ばせてくれるものとして。……息子が16歳になったら、彼に渡すように」
嗅ぎタバコ入れやシャツやメダルなど、遺書に記された遺品は、ごく身近で罪のないものばかりだ。だが、残された息子には大きな意味がある。彼はシャツで父の大きさを知り、嗅ぎ煙草入れの吸い口を嗅いで父の匂いを知るだろう。今まで隠されてきた、あるいは、陰で悪鬼と罵られてきた父に触れることができる。
フランツは、父の遺品の到着を心待ちにした。
けれど、今まで通りだった。宮廷では誰もナポレオンの名を口にしない。父の遺品が彼の元へ届けられることはなかった。
◇
16歳も残り少ないある晩、フランツは祖父の皇帝に尋ねた。
「いつになったら僕は、軍を率いることを許されるのですか?」
ハプスブルク家の王子は、概ね16歳になるとプラハの駐屯地へ赴き軍を率いる。
肉を切り分けていた皇帝は、目を眇めた。
「儂がよいと判断したらだ」
軍の最高司令官は皇帝だ。彼はフランツを他の王子たちのように昇進させずに、ずっと軍曹(将校の最下位)の身分に留めてきた。
「なあ、フランツ。もしフランスと戦うことになったら、お前はどうするね?」
口を噤んでしまった孫に、意地悪い質問だと思いつつ、皇帝は尋ねた。けれど、確かめずにおくことはできない。
「僕は、父の治めた国に剣を向けることはしません」
即答だった。
「ですが、
皇帝はため息をついた。
「ブルボン家は盤石ではない。とはいえ、王位を得る為に血を流すことはあってはいけない」
青い目を瞬かせ、フランツは首を傾げた。
「戦わずして領土を広げるのだ。それが、ハプスブルク家のやり方だ」
「婚姻による領土獲得ですね?」
どこか冷たい声だった。
「ナポレオンの遺書には、息子はロシア皇女かボナパルト家の女と婚姻すべしと書かれていたな」
言い置いて皇帝は反応を窺った。孫は無表情だった。
「だがこの場合は、婚姻すら必要ではない。なにしろお前は、
かつての皇帝の唯一の正当な息子
なのだから」フランツは大きく目を見開いた。青く熱い光を避けるようにして皇帝は続けた。
「時の流れと必然が、いつかお前をしかるべき地位に就けるであろう。その地位にふさわしい人間であるよう、今は精進を重ねる時だ」
少し前からフランツは、しつこい空咳に悩まされていた。侍医は結核と診断し、無理を禁じた。
皇帝が、孫が軍務に就くことを認めなかったのは、体調を心配した面もあったのだ。
しかしフランツ自身は、侍医の命じる安静に頑として従わなかった。
なお一層の努力を重ねた。
父の名に恥じぬように。そして、オーストリアの誇り高き貴公子として。
勉学の傍ら、疲れた体を引きずるようにして軍事訓練に励んだ。それが自らの命を縮めているのだとも知らずに。否、知っていたとしても、彼はこのまま邁進しただろう。
偉大な父が、死んでからもなお息子を支配する父が、墓の中から長い腕を伸ばしている……。