眠れないひと

文字数 3,963文字

 元々おかしかった私は、眠れなくなってから加速度的におかしくなっていった気がする。
 眠りたいのに眠れない。いや、眠りたいけれど眠りたくないというのが正しい気もする。私は眠りたくないのだ。脳も体も完璧で純粋な安息を求めているというのに私はそれを時に無視し、時に受け入れる振りをしながら数時間だけ目を閉じる。そうしてやってくる悪夢。元々良くない夢見が更に悪くなったのもこの頃からだった。





 ざくざく、ざくざく。夢の中で私は小気味良い音を立て砂を踏みしめる。ざくざく、ざくざく。砂はスニーカー越しでも分かるくらいに熱い。ざくざく、ざぐざぐ。潮風が髪に絡まって重さを感じる。砂も水分を含み始めた。ざぐざぐ、ざござご、重たくなった足元を見るとスニーカーは砂という砂にまみれて無残な姿で身体を支えている。じっと見つめるとスニーカーが可哀想になり脱ぐことにした。置いて行くことはしない。手で持って行ってやろうという算段だ。

 しかし靴は脱がされたくないらしかった。脱ごうと片足を上げ踵に手をかけた途端、靴紐が解け足首に巻き付いて命綱のように本体を繋ぎ止める。つま先だけが引っかかった状態で、さーっと音を立てて入り込んでいた砂が落ちていくのを私は唖然として見ていた。この靴はそんなにも脱がされたくないのだろうか?持ち主である私の意思すら超えて?

「…………」

 僅かな苛立ちを感じてもう一度手をかけ、脱ごうとすると今度は軸足にしていた方の靴が爪先に向かって思い切り引っ張られた。私はバランスを失い前のめりにそのまま砂へとダイブする。湿った砂は容赦なくシャツに貼り付き、肌にじわりと海が広がった。あーあ、このシャツは気に入ってたから汚したくはなかったなぁ。
 

 考えてみれば靴と言うのは履かれるために存在しているのだから汚れたからといってそれを可哀想と思うのは私のフィルターを通した世界であり、靴からしてみれば手で運ばれるなど存在意義の消滅、死刑宣告だったか。
 悪いことをしたと思い丁寧に靴を履き直す。一瞬驚いたように靴の挙動が止まったが、すぐにまた力の限り脱がされまいと存在主張を開始する。最終的には靴紐を無理矢理に強く結び、ぎゅっと押さえつけた。とりあえずはこれでいい。


 未だにバタバタと暴れる靴に大丈夫だよとの意味を込めて爪先で地面を二回蹴った。そのまま顔を上げると見えるのは海。どこまでも広がる大海原。海に来た覚えは特にないが海にいるということは私が海にやってきたということに他ならない。けれども一人で海に来ることはないだろうから誰かと一緒に来たのだろうか。

 はて、思い出せない。記憶を遡ってみても戻れるのはほんの数分前の歩き始めたところからで、その先は目の裏側に違和があるような、鼻の奥がむず痒くなるような、簡単に表すと物の名前が思い出せなくてすっきりしない時によく似ている。

「あーあああー」

 聞こえてくる声は間違いなく私のもので高くもなく低くもない、正確にいえば平均からすると少しばかり低いその音は私の口から発せられ鼓膜を震わせる。自分の声を認識できるなら、とりあえず記憶喪失であったとしても大丈夫そうだ。直前の記憶がなくなるより自分自身が認識できなくなる方が恐ろしいと私は思う。五感が一致していて「わたし」という意識を括る名前を失わなければそれでいい。

 耳に届くという仕事を果たした声はやる気を失って足元に墜落していた。それを丹念に踏み潰しながら私はそんな事を考えるのだった。






 目を開けるとまぶたを閉じてから一時間しか経っていなかった。悪夢。まさに悪夢だ。

 なぜ靴の意思を尊重する夢に、睡眠を邪魔されなければならないのか。理不尽さを感じながら毛布を足元へと蹴り飛ばす。
 元々苛立ちやすかった私は、眠れなくなってから加速度的に苛立つようになった気がする。隠すことも飲み込むこともせずに苛立ちを出していく。一人で住むことの利点は苛立ちを他人にぶつけずに済むことだ。哀れな毛布や枕、時には私自身が跳ねのけられ、そのたびにいびつに歪んでいくがそれは仕方のないことだ。生きるための必要経費、死なないための命綱。それによって「何か」が確実に削られていくとしても、それもまた仕方のないことだ。





 そもそもこれは。
 潮風を感じながら足元の靴を見つめていると、それって結構やばくないですかぁ?と、擦り切れて角が取れたような声が横から投げられる。内容の割に危機感は全くなく、語尾が伸びたような話し方は何故だか耳触りで不愉快な気分にさせられる。せっかく色が抜けてグラデーションのようになっている髪には好感を持てそうだったのに残念だ。
 代り映えのしない浜辺を歩き続けていると靴がもう砂は我慢ならないと癇癪を起こし、どうにもならなくなっているところに彼女は現れた。

 煮詰められたカラメルのような頭頂部から新鮮な卵を使って作ったプリンのような髪色、本来ならば毛先まで傷んでいる筈の色合いを持つその髪は先端まで美しいキューティクルを保っており、私はそれに目を奪われた。地団駄を踏む靴に向かって彼女が微笑みかけるとあんなに暴れていた靴は借りてきた猫のように大人しくなった。ああいや、借りてきた靴だろうか。
 先程まで己の存在を掛けた主張をしていた筈なのだが。まあそんな現金な自分の靴が私は好きだ。

「何それ。思い出せないってそんなにまずい?」
「どうですかねぇ、それは人によるというか」
「じゃあ私は困ってないから問題ないね」
「いや、困らないことはないと思うんですけどぉ…」
「……そう?」
「そうですよぉ、例えば帰る場所とか」
「どこでもいいよ」
「夜は寒いですよぉ?意外と冷えます」
「とすると?」
「夏なので死なないとは思いますけどぉ…一人で寝てたら襲われるかも」
「え、あんたも一緒じゃないの?」
「え、どうして私が一緒なんですかぁ」
「それもそうか」
「それに、一緒だったとしても襲われたら意味ないと思いますよぉ」
「そもそも」
「……はい?」
「何に襲われるんだ?」





 大きく息を吸い込んで飛び起きる。全身がじっとりと濡れていて私の周りだけ湿度が狂ったようになっている。本当になんて夢だ。
 私は眠るたびにやってくる悪夢に辟易していた。悪夢のせいで眠れないのか、眠れないから悪夢を見るのか、あの夢は何を意味しているのか、本当にただの夢なのか。

「意味が分からない…」

 クッションに顔をうずめて呟く。もう毛布を蹴り飛ばす気力もない。
 元々涙腺が壊れていた私は、眠れなくなってから加速度的に泣けなくなった気がする。

 泣きたい、意味の分からない悪夢も眠れないこの状況も気が狂いそうな砂浜も全てかなぐり捨てて泣きたい。私は眠りたいのではなく苛立ちたいのでもなく、ただただ声を上げて泣きたいのだ。

 そう思っても目元は枯れ果て少しの水分も感じない。
 身体のコントロール権が一つずつなくなっていく感覚。自身がばらばらになって手の届かないところへ離れていく。こんな感覚知りたくなかった。精神だけが置き去りにされて立ち止まったままぼんやりと「わたし」を見ている。

 行動も思考も何一つ一致しない責め苦は私をおかしくする。いや「わたし」は元々おかしかったのだろうか。元々、もともと……………

「あれ?」

 何故だろう。何故気が付かなかったのだろう、何故、気が付いてしまったのだろう。
 元々の、眠れなくなる前の苛立つ前の泣けなくなる前の私は、どこにも居ないということに。

 鼓膜の内側で波の音が重奏していた。鼻腔の奥で潮風の匂いを感じていた。両の手の裏側でざらついた砂の粒をなでていた。私は、わたしは。






「…大丈夫?ね…起きて…」

 名前を呼ばれるとともに軽く揺さぶられ覚醒する。
 強い照り返しと網膜を焼く光。目の前には心配そうな顔をした友人がいる。

「熱中症かな?頭痛い?気持ち悪くない?」
「…うたた寝してただけ」

 一度に質問され、ああ本当に心配されていたんだなと的外れな事を思いつつ、ゆるい海風がパラソルの端を揺らしているのが目に入る。

「体調悪いならもう切り上げようか」
「違う違う、大丈夫だから行ってきていいよ」
「…ちゃんと水分取ってね?」
「はいはい」
「…ちょっとでも変だった言ってね?」
「分かった、ちゃんと言うから」

 明らかに信用していない顔で何度も念を押すと友人は波打ち際に戻っていく。

「…変な夢」




 元々おかしかったわたしは、居眠りをするようになってから加速度的におかしくなっていった気がする。
 眠る気がないのに寝てしまう。いや、眠りたくないけれど、眠りたいというのが正しい気もする。わたしは眠りたいのだ。脳も体も完璧で純粋な活動を求めているというのにわたしはそれを時に無視し、時に受け入れる振りをしながら数分だけ目を閉じる。そうしてやってくる夢。

 夢の中では靴に意思があり砂浜はどこまでも続く。言葉は墜落して語尾が伸びたような話し方をする女性に会うのだ。そしてそれらを夢で見る私。夢の中の夢。いや夢の向こう側の夢だろうか。

 夢の向こう側の私は眠れないままに夢を見続け、少しずつ正気を失っていく。
 最初から正気など、持ち合わせていないというのに。

 眠れないから狂うのではない。
 夢が悪夢だから眠れないのでもない。
 苛立ちも泣けないことも関係なく、
 



 元々の部分を生きてきたわたしはそれを知っている。それでも更におかしくなっていくことが心地良く、快感であり、愛おしいからこそわたしは眠りたいのだ。
 眠る程にわたしがおかしくなり、私は狂っていく。それがただの夢だとしてもそうでなくとも、嗚呼、なんて。

 小さく笑うと広げたレジャーシートから、はみ出た手に感じる砂の感触がクッションの布地に変わった気がした。






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