風花・Ⅳ
文字数 2,079文字
カタカゴという名を貰ったのは何時(いつ)だったか。
ついこの間のような気がするし、気の遠くなる大昔だった気もする。
彩雲の中を漂うように、ふわふわと身体の所在がはっきりしない。
周囲の色はデタラメで、靄(もや)と共に通り過ぎる。
「夢・・なのかしら」
昨日、凄く悲しい事と嬉しい事があった筈なんだけれど、忘れてしまった。
もう一度まばたきをすると、小さなパォの室内が見えた。
天井から見下ろす風景。
ベッドに一人の女性。
仰向けのお腹がふっくら丸い。
物もヒトも全て淡色でぼやけた輪郭の中、音も儚く谺(こだま)のように遠い。
二重の御簾が細く開いて、逆光に、小さな子供が入って来た。
ボサボサ頭の、目ばかり大きい、背中に小さい瘤のような羽根痕を持った子供。
――ワ、ヒトガイタ
――フフ、イマシタネ
――アナタ、ダアレ?
――サァ、ダレカシラ
――オナカ、マンマル
――ソウ、オカアサンニナルノ
――オカアサン?
――アナタニモ、イルデショ、オカアサン
――シラナイ
――シラナイノ?
――ウン
――…………
――サワッテモ、イイ?
――……イイヨ
子供はベッドに近寄り、お腹に両手を添えてそぉっと顔を埋めた。
――アッタカイ コレガ、オカアサン
引き戻されるように、巫女は覚醒した。
床に座ってうたた寝していた傍らのベッドには、静かに呼吸をするカワセミの寝顔があった。
この本人さえも忘れていたであろう、幼い頃の記憶。
「初めて逢った時から、このヒトが心配で心配でしようがなかった理由……今、分かったわ、お母さん」
自分が長の事を『お父さん』と呼ぶように、このヒトにも『おかあさん』と呼んだ存在があったんだ。
「そして、そんなに昔に、出逢っていたんですね、お腹の中で」
蒼の長はひと安心の表情で、昨日非礼をしてしまった東の民の元へ、再度発った。
ツバクロとノスリは明け方ちょっと仮眠を取って、その日の任務に飛び立った。
敷物とベッドだけ運び込まれた元馬具置き場では、カワセミの側にカタカゴが、聞き分けのない子供のようにピッタリ寄り添っていた。
昨日で全てのタガが外れ、良識ある控え目な巫女は居なくなってしまった。
「こ奴は一週間位寝ているのはザラじゃよ」
オタネ婆さんはそう言って、巫女の不安顔を拭おうとしたが、今までの、『熱に浮かされて回復の為に寝ている』状態とは明らかに違うのに、自らの胸騒ぎを押さえられない様子だった。
***
夕方、帰還したノスリは、ツバクロに報告書を任せてパォに急いだ。
と、入り口に向いてフィフィが仁王立ちしている。
対面して巫女が、口に手を当ててボロボロと泣いているではないか。
「おい、フィフィ、何をやってる!」
思わず怒鳴って駆け寄ったが、振り向いたお団子娘は眉を上げ、何も言わないで駆け去ってしまった。
「巫女殿、気にせんで下さい。あいつ、子供っ気が抜けないだけで」
カタカゴは目を見開いて、首をブンブン横に振った。
その手には、何やら風呂敷包みが抱えられていた。
カワセミのパォより西寄りの、放牧地の横の干草小屋。
ここの一角が、新たな馬具置き場になった。
フィフィが端から頭絡を掛けている。
「おぅ」
戸口の明かりを塞いで大男が入って来た。
「すまなかったな」
お団子娘は振り向かず、黙々と作業を続ける。
「どうせ、男共はそういう事に気が回んないでしょうと思っただけよ。蒼の里が野蛮でデリカシーのない集団って思われたら嫌じゃない。暗いからそこどいて」
「ああ、わりぃ」
ノスリは逆らわなかった。
フィフィは、巫女に、新しい肌着や布や身の回り品を、親族からかき集めて届けてくれたのだ。
後、水浴び場は夕方過ぎは誰も行かないから使うならその時が安心よ、などと気遣って貰い、巫女はそれまでの心細さもあって、感極まって泣き出したのだった。
ノスリは黙って共に作業を始めた。
「仕事から帰って、早く巫女サマに会いたかったんじゃないの?」
いつもは口喧嘩になる険のある言い方だが、今は何だかそんな気分にならない。
「いや、ここでいいんだ。巫女殿に親切にしてくれて、ありがとうな」
ノスリは淡々と鞍を運ぶ。
頭絡を掛け終えたフィフィが振り向く。
何でかその目は涙で膨らんでいた。
えっ、ちょっ・・! 俺、何か地雷踏んだかっ?
「わ、私も、髪、下ろそうかな!」
「ふぇ?」
間抜けな声が出た。
「だ、だって、あーゆーのが、好みなんでしょ! 私も髪、下ろして腰まで伸ばせば、あーゆー風に、なれるわよっ」
なんって厄介な生き物なんだ、髪型がどーとかじゃないだろっ!
しかし涙がいまにも決壊しそうだ、こ、こんな時、どー答えりゃいいんだ。
『女の子って、迷子になっちゃうんです』
以前巫女殿に教わった言葉が浮かんで来た。
そうか、迷子になってんだ。
だったら、見付けてやりゃいい。
「おぅ、お前は、お団子がいいぞ。」
「えっ?」
「お前は世界一お団子が似合う。俺はお団子の方が好きだ。一生お団子でいろ」
ノスリは何だか一生分の『お団子』という単語を喋ったような気がした。
ついこの間のような気がするし、気の遠くなる大昔だった気もする。
彩雲の中を漂うように、ふわふわと身体の所在がはっきりしない。
周囲の色はデタラメで、靄(もや)と共に通り過ぎる。
「夢・・なのかしら」
昨日、凄く悲しい事と嬉しい事があった筈なんだけれど、忘れてしまった。
もう一度まばたきをすると、小さなパォの室内が見えた。
天井から見下ろす風景。
ベッドに一人の女性。
仰向けのお腹がふっくら丸い。
物もヒトも全て淡色でぼやけた輪郭の中、音も儚く谺(こだま)のように遠い。
二重の御簾が細く開いて、逆光に、小さな子供が入って来た。
ボサボサ頭の、目ばかり大きい、背中に小さい瘤のような羽根痕を持った子供。
――ワ、ヒトガイタ
――フフ、イマシタネ
――アナタ、ダアレ?
――サァ、ダレカシラ
――オナカ、マンマル
――ソウ、オカアサンニナルノ
――オカアサン?
――アナタニモ、イルデショ、オカアサン
――シラナイ
――シラナイノ?
――ウン
――…………
――サワッテモ、イイ?
――……イイヨ
子供はベッドに近寄り、お腹に両手を添えてそぉっと顔を埋めた。
――アッタカイ コレガ、オカアサン
引き戻されるように、巫女は覚醒した。
床に座ってうたた寝していた傍らのベッドには、静かに呼吸をするカワセミの寝顔があった。
この本人さえも忘れていたであろう、幼い頃の記憶。
「初めて逢った時から、このヒトが心配で心配でしようがなかった理由……今、分かったわ、お母さん」
自分が長の事を『お父さん』と呼ぶように、このヒトにも『おかあさん』と呼んだ存在があったんだ。
「そして、そんなに昔に、出逢っていたんですね、お腹の中で」
蒼の長はひと安心の表情で、昨日非礼をしてしまった東の民の元へ、再度発った。
ツバクロとノスリは明け方ちょっと仮眠を取って、その日の任務に飛び立った。
敷物とベッドだけ運び込まれた元馬具置き場では、カワセミの側にカタカゴが、聞き分けのない子供のようにピッタリ寄り添っていた。
昨日で全てのタガが外れ、良識ある控え目な巫女は居なくなってしまった。
「こ奴は一週間位寝ているのはザラじゃよ」
オタネ婆さんはそう言って、巫女の不安顔を拭おうとしたが、今までの、『熱に浮かされて回復の為に寝ている』状態とは明らかに違うのに、自らの胸騒ぎを押さえられない様子だった。
***
夕方、帰還したノスリは、ツバクロに報告書を任せてパォに急いだ。
と、入り口に向いてフィフィが仁王立ちしている。
対面して巫女が、口に手を当ててボロボロと泣いているではないか。
「おい、フィフィ、何をやってる!」
思わず怒鳴って駆け寄ったが、振り向いたお団子娘は眉を上げ、何も言わないで駆け去ってしまった。
「巫女殿、気にせんで下さい。あいつ、子供っ気が抜けないだけで」
カタカゴは目を見開いて、首をブンブン横に振った。
その手には、何やら風呂敷包みが抱えられていた。
カワセミのパォより西寄りの、放牧地の横の干草小屋。
ここの一角が、新たな馬具置き場になった。
フィフィが端から頭絡を掛けている。
「おぅ」
戸口の明かりを塞いで大男が入って来た。
「すまなかったな」
お団子娘は振り向かず、黙々と作業を続ける。
「どうせ、男共はそういう事に気が回んないでしょうと思っただけよ。蒼の里が野蛮でデリカシーのない集団って思われたら嫌じゃない。暗いからそこどいて」
「ああ、わりぃ」
ノスリは逆らわなかった。
フィフィは、巫女に、新しい肌着や布や身の回り品を、親族からかき集めて届けてくれたのだ。
後、水浴び場は夕方過ぎは誰も行かないから使うならその時が安心よ、などと気遣って貰い、巫女はそれまでの心細さもあって、感極まって泣き出したのだった。
ノスリは黙って共に作業を始めた。
「仕事から帰って、早く巫女サマに会いたかったんじゃないの?」
いつもは口喧嘩になる険のある言い方だが、今は何だかそんな気分にならない。
「いや、ここでいいんだ。巫女殿に親切にしてくれて、ありがとうな」
ノスリは淡々と鞍を運ぶ。
頭絡を掛け終えたフィフィが振り向く。
何でかその目は涙で膨らんでいた。
えっ、ちょっ・・! 俺、何か地雷踏んだかっ?
「わ、私も、髪、下ろそうかな!」
「ふぇ?」
間抜けな声が出た。
「だ、だって、あーゆーのが、好みなんでしょ! 私も髪、下ろして腰まで伸ばせば、あーゆー風に、なれるわよっ」
なんって厄介な生き物なんだ、髪型がどーとかじゃないだろっ!
しかし涙がいまにも決壊しそうだ、こ、こんな時、どー答えりゃいいんだ。
『女の子って、迷子になっちゃうんです』
以前巫女殿に教わった言葉が浮かんで来た。
そうか、迷子になってんだ。
だったら、見付けてやりゃいい。
「おぅ、お前は、お団子がいいぞ。」
「えっ?」
「お前は世界一お団子が似合う。俺はお団子の方が好きだ。一生お団子でいろ」
ノスリは何だか一生分の『お団子』という単語を喋ったような気がした。
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