避退者の少女

文字数 10,093文字

 青味が増してくる灰色の景色の中で、世界各国から派遣された輸送機の垂直尾翼が広くない空港の中で窮屈そうに並んでいる。その光景は獲物に群がるサメの背びれというより、網の中でグルグルと回遊するマグロの尾ひれに似ていると、島田三等空尉は副操縦士席から思った。
 ヨーロッパに近い中央アジア某国で政情不安があり、多くの国々が当該国に滞在している自国民を非難させるために、輸送機や救出部隊を派遣して、日本もその流れに沿って輸送機と救出部隊を派遣したのだったが、地下資源と羊肉料理くらいしか思い当たるものがない中央アジアの小国に多くの国の航空機が集まる光景は、情報に流されやすい意志の弱い人間が、人気スポットに群がって混沌の場を作るのにも似ていた。こんな辺鄙なところに集まって大騒ぎするよりも、もっと人間としてやるべきものがあるだろうと思った。だが人間というのは基本的に人種、民族宗教の違いはあっても基本的に同じものだから、人気スポットに群がるのも政治的理由によって進出するのも、スケールが違うだけで根っこは同じだろうと島田は時折思っていたが、在外邦人の保護に基づく法律に伴う自衛隊出動によって多くの人間が集まる光景を見ればその考えも変わるかもしれないと思っていた島田だったが、実際に出くわすと、むしろその思考は強くなった。
 輸送機の垂直尾翼に書かれていた国籍は様々だった、アメリカ、イギリスを始めとしたNATO加盟国に、中国や韓国、ブラジルやコロンビアと言った南米の国まで見受けられた。その中に日の丸をつけた自分たちのC‐2輸送機が居るのはなんだか不思議な気分がしたが、小さな国際空港に着陸し、駐機エリアに十分もいるとそんな気分もしなくなった。
 副操縦士席から、国外に退避する各国民が集まっている駐機場を見る、所々傷んだコンクリート舗装の駐機場からは、これから自分たちのC‐2輸送機に乗り込んでくる人々が、警護に当たる陸自隊員に護衛されて向かってくるのが見える。陸自の隊員たちは、小松基地のC‐130Hで先発要員と共に派遣されてきた人たちだった。これから六十人前後の日本人とその関係者が、後部のランプドアからぞろぞろと乗り込んでくる。例え方は悪いが、大勢の人間が後部のランプドアから大勢の人間が乗り込む様子はザトウクジラが魚の群れを飲み込んでいるように、島田には見えてしまう。小さな群れが一つの大きな物に取り込まれて、支配されてエネルギーに変換されるのは、海洋生物も人間も世界情勢と同じなのだと思ってしまった。
 時刻は現地時間で午後五時一二分になっていた。東の空から次第に深いしじまが迫ってきて、夜の気配が強くなってくる。夜を迎えて再び朝を迎える時には、この国の姿は今とは違ったものになっているだろう。過去に戻れないのは時間の常だが、混乱や暴力を起点に変化するのは悲劇だなと島田は思った。
「不安か?」
 隣の正操縦士席で、機長の南二等空佐が声を掛けてきた。南は輸送機パイロットとして海外に展開した経験が豊富で、邦人保護の為に出動したのはこれが二回目という実戦経験者だった。逆に島田の方は初の海外への展開任務が今回の任務だった。
「多少は」
 島田は素直な感想をオブラートに包んで短く答えた。今回派遣されている空自の幹部自衛官で、唯一の三等空尉が島田だった。
「こういう時に大切なのは、決められた手順を完全にこなすよりも、人間も機体も何一つ傷着けずに帰還することを第一に考える事だ。平時で手順が違っていれば怒られるが、これは実戦だ。多少のミスがあっても、最後が無事なら何とかなる」
 南のその一言は、島田の中にモヤモヤとしていた気持ちに静寂をもたらしてくれた。そうだ。人間も機体も傷一つなく無事に帰ってきたならそれでいいじゃないか。そう言い聞かせると、各国の国籍表示を描いた軍用機も、小さな国際空港に押し寄せた様々な国の人間たちも、何か特別な物から、意味を持たない無価値なものに思えて、自然と気分が楽になって行った。
暫くすると、操縦席越しに後部ドアから退避する人間たちが座席に座る感覚が伝わってきた。今年の初めには空挺団の降下始めで、巨大な機体から小さな人間が規則的に落ちてゆく感覚を味わったが、今度は小さな粒のような弱い存在が、大きな存在に身体を結び付けている感覚だ。一般人を乗せて飛ぶのは今回が初めてだったから、自衛隊員とは違う存在を意識しすぎて。それが研ぎ澄まされた神経と反応して奇妙な違和感になっているのかもしれない。と島田は思った。
「避退者搭乗。異常なし」
 カーゴドアを開けた貨物室から、機上作業員の佐久間一等空曹からの通信が入った。彼女は副操縦士の島田と同じ年齢だったが、高校を出てすぐに空自に入ったため自衛官としては少し先輩だった。
「了解、避退者の様子はどうか?」
 通信に応答したのは機長の南だった。
「現在異常なし。心臓に持病がある者が一名、若干体調がよくない現地からの避退者が一名いますが、医務官とメディックが対応しています」
「了解、後部ドアをクローズする。君は余計なことはせず、避退者を不安にさせないようにしろ」
「了解です」
 南の忠告兼アドバイスに佐久間は小さく応じた。こういう小さな心配りが出来るクルーリーダーになるには、後どれだけの時間がかかるだろうかと島田は思った。


 通常はがらんどうの貨物スペースには、青いネットとパイプで作られた座席が設置され、そこに規則正しく多くの避退者が座っている。避難民の多くは当該国から避退する日本人だったが、中には日本との関係が深く、日本への脱出を望む現地人も居た。表情は安堵している者も居れば、まだ不安を隠しきれぬ者、絶望か何かに打ちひしがれていそうな表情の者もいる。それでも乗り込んだ人間が己の感情を表に出さず、自分から言葉を話そうとしないのは、滞在していた国が、流血を伴う大きな混乱が起きたことに由来する恐怖、そして実弾を込めた武器を持った自衛官たちがすぐ近くにいるという、見て明らかな極限状態が、人間の精神を保護するモードにし、感情をセーブさせているのかもしれない。
 正直言って逃げ場のない機内ではいい気分ではないが、ただの荷物になっているならば余計な気配りはしなくて良さそうだと、佐久間は思った。これが平時の民間機だったら、もっと違った光景になっていただろう。すぐ近くに存在する明確な死の恐怖が、傍若無人な現代人を大人しくしつけているのだ。
 そんな感慨に耽っていると、後部ランプドアが閉じる警報ブザー音が鳴り響いた。佐久間は後部ドアの作業パネル前に下がった。そして避難民を機体まで送り届けた陸自の中央即応連隊の隊員に、ドアが閉じるまで敬礼をしてドアが閉じて、ロックが掛かったランプが点灯すると、被っていたヘルメットのインカムから通信が入った。
「まもなくタキシングに向かう。搭乗者の最終確認をもう一度頼む」
 支持を出したのは機長の南だった。佐久間はロードマスター席へ向かう前に、向い合せで座る避難民たちのシートベルトがちゃんと締められているか、他に体調その他に異常が出た人間がいないかを確認した。
 特に異常はないようだと思いかけたその瞬間、十歳くらいの現地人らしい避難民の少女が手に人形らしきものを持ってガタガタ震えているのが見えた。
「大丈夫?」
 佐久間はそっと少女に寄り添い、英語で声を掛けた。
「大丈夫です。ちょっと不安なだけです」
 少女はたどたどしい英語で答えた。まだまだ子供だったが、英語が話せるという事は裕福で高等教育を受けられる身分の出身なのだろう。平和な西側諸国に脱出するのも当然かもしれない。
「大丈夫よ、そのお守りは離陸するときに手放す危ないから、胸に仕舞ってくれる?」
「これはお守りじゃありません。私たちを守ってくださる精霊を呼ぶために使う道具です」
 佐久間の言葉に、少女はまた英語で答えた。一体何のことだろうと一瞬佐久間が考えると、少女は何か念仏のような言葉を唱え始めた。佐久間は他の避退者が取り乱さないようすぐに辞めさせたかったが、どう言葉を掛けてよいのか分からなかった。
「ねえ、他の人が不安になるといけないから、終わりにしてくれる?」
 佐久間はできるだけ優しい声で少女に語りかけたが、少女は応じずに祈りの言葉をつづけた。どうしようか悩んでいると、背後から今回の任務の為に派遣されてきたメディックの白井一等空曹がやって来た。
「下手に止めさせるくらいなら、そのままにしておこう。これだけしっかり両手で持っていれば、大丈夫だよ」
「でも」
 佐久間が言葉を遮ると、今度は後方に控えていた医務官の北岡一等空尉が声を出した。
「一人の為に全体を危険にさらす事は出来ない。問題が無いなら離陸しよう」
 佐久間は形にならない自分の意見を胸の中で弄んだが、言葉としてまとまる前に胸に仕舞った。
 佐久間はヘルメットのインカムのスイッチを押し「異常なし」と南に報告して、ロードマスター席に向かった。


 派遣されたアメリカ空軍の管制官から指示を受けると、退避する日本人とその関係者を乗せた航空自衛隊のC‐2輸送機は、ゆっくりと誘導路を進んで滑走路に進入した。重い貨物を積んでいないから、最短の飛行ルートを選択すれば経由地のパキスタンまで四時間で飛んで行ける計算だ。現地から提供された情報によれば、飛行ルート上に安全を脅かす存在も天候にも問題は無い。ちゃんと無事に飛行させることが出来ればそれで大丈夫だと、副操縦士の島田は思った。
 滑走路に入り、島田は離陸前の最終確認を行った。攻撃された時に備えて使用するチャフとフレアの装置も、問題が無い事を確認して機長の南に伝えた。
 最終確認が終わった事を管制塔に伝えると、管制塔に居るアメリカ空軍の管制官から通信が入った。
「日本空軍の輸送機コスモ12へ、予定されていた飛行ルートは隣国が西側航空機の飛行禁止を通告したため飛行禁止。代替ルートは離陸後空中管制機からの指示に従え」
「こちらコスモ12。飛行禁止になったのか?」
 南は管制官に英語で訊き返した。
「そうだ。代替ルートは指示する」
「こっちは燃料の関係で遠回りはできないんだ」
「燃料が足りなければ、途中に待機している空中給油機から給油を受けよ。すでに予定されている代替ルート付近にすでに展開している」
「了解」
 途中で給油できるから問題ない。という話なのかと南は毒づきたかったが、胸にしまい込んだ。
「決められた基準を守るよりも、無事に帰る事を最優先にしましょうよ」
 島田が歯ぎしりしそうな南をなだめるように呟くと、南は「そうだな」と小さく答えて、離陸を管制官に伝えた。
 ほどなくしてC‐2輸送機は滑走路から離陸して、当該国の大地から離れた。だがまだ領空を出るまでは安心できなかったし、何よりも予定されていた飛行経路が使えなくなったのが大きな懸念材料だった。
 高度と速度を上げて、巡行高度まで上昇する。すでに太陽は落ち、闇が機体を包んでいたが、管制システムに制御されているおかげで飛行に問題は無かった。すると、近くの空域に展開しているフランス空軍のE‐3空中管制機から通信が入った。
「こちら空中管制機グリーンエルク、NATO所属。日本空軍コスモ12へ、貴機は南勢方面からでA22空域を飛行せよ。高度は二七〇〇〇フィート、速度は四七〇ノット」
 通信に入った英語はフランスの訛りがあった。機長の南はすぐに英語で答えた。
「こちら日本空軍コスモ12。その空域は政府軍および武装勢力の交戦地域に近い。当該空域の安全はちゃんと確保されているのか?」
 南の言葉は何時になく真剣だと、隣に座る島田は思った。飛行予定のA22空域のすぐ隣のB23空域の地上では反政府軍と政府軍による戦闘が行われており、政府軍を支援するために米英仏の戦闘機が空爆を行っている空域だった。安全のため日本を含む国外退避用の輸送機は飛行が禁止されているが、反政府軍が旧ソ連製の地対空ミサイルシステムを保有していた場合、完全に射程距離に入ってしまう。反政府軍の理屈に沿えば、政府軍に味方する西側の軍用機などすべて攻撃対象になっているはずだった。さらにその提示された飛行ルートは、本来の飛行時間より二時間も遠回りになってしまう。非武装の、それも第三国に脱出しようと輸送機を長時間危険にさらす事になる。
 もし攻撃があれば、間違いなくオランダのハーグかスイスのジュネーブの裁判所が動くことになるぞ。と島田は思った。
「一応は確保されている、もし問題があればすぐに警報を発する」
「了解」
 南はそう答えて無線を切った。顔も知らない外国の人間と、何百マイルも離れた大空の上で言い争っても、不毛なだけだった。
 島田は操縦桿を握ったまま何を話そうか考えた。だが不安な言葉を話す事も出来ないし、主人公気取りで気丈な言葉を口にする事も出来ない。大空の上で逃げ場がなく思いつめてしまう経験は、島田にはまだなかった。
「島田三尉」
 不意に南が口を開いた。
「ここから先は俺も経験したことが無い領域だ。だから何が起きても大丈夫なように最善を尽くそう。万が一の事があれば、責任は俺が持つ」
 南は覚悟を決めたようだった。その言葉を聞いた瞬間、島田に実弾を薬室に送り込み、引き金に指を掛けて銃口を相手に向ける時の、戦いに赴くときの感覚とイメージが自然に降りてくるのが分かった。
「了解」
 島田は静かに答えて、闇に染まった遠くの空を見つめた。


 機体が安定飛行に入ると、座席に座っている避退者の何人かは安堵する表情の者が現れたが、多くの人間は暗い表情のままだった。夜間に点灯する赤い光のせいで、余計に不安そうな表情に見えるのかもしれない。
 佐久間はロードマスター席から避退者の姿を見た後、先程念仏のような呪文を唱えていた少女の事を再び見た。声のトーンこそ落ちたようだが、赤い光の中で例のお守り手に持ち、まだ何かを唱え続けている。隣には日本人の中年ビジネスマンが乗っていて、最初は不快そうな表情をしていたが、今はもうあきらめた様子だった。
「佐久間さん、聞こえます?」
 被ったヘルメットのインカム越しに、島田からの声が届いた。佐久間はインカムのスイッチを押して応答する。
「はい」
「ちょっとした問題があって、予定されていた飛行経路とは違う経路になりました。佐久間さんはロードマスターとして、避退者が荷物のままでいるように心がけてください」
「了解」
 佐久間は島田の言葉に簡潔に答えた。予定が変更されたことを後出しで言われるのは、一般人なら不満に感じるだろうが、自衛官である佐久間はそれを不満とは思わない訓練と教育を受けていた。
 佐久間はロードマスター席から、座席に着いた避退者たちを改めて見回した。体内に爆発物を仕込んだ人間爆弾が居る可能性はゼロだったが、異変を感じて取り乱す人間が居る可能性も捨てきれない。呪文を唱える少女以外にも、問題を起こしそうな人間がいないか見当をつけておく必要があった。
「ちょっといい?」
 不意にロードマスター席の近くに座っていた、メディックの白井が声を掛けた。
「あの現地から避難してきた女の子、離陸前からぶつぶつしゃべっているけれど、魔術の詠唱でもしているのかな?」
「知らないわ。宗教的なものかもしれない。もし魔術の詠唱なら、機体を魔方陣で覆って安全な空域へ瞬間移動できる転移魔法をかけてほしいわね」
 佐久間は小さな軽口を叩いた。生きるか死ぬかの瀬戸際だったが、多少の精神的な息抜きは必要だった。
 だがその瞬間、小さく呪文を唱えていた少女の言葉が止まって急に眼を見開いた。何かあったのかと佐久間が身構えると、少女は座席に座ったまま大きな悲鳴を上げた。その悲鳴で他の避難者たちが俯いていた顔を見上げた。
「何があったの?大丈夫!?」
 佐久間はロードマスター席から飛び出し少女の元に駆け寄った。そのあとにすぐメディックの白井も続く。少女は先程よりも激しい様子で、また何かを唱え続けている。それは災いを遠ざけるための呪文というより、得体のしれない何かを自分の元に引き寄せようとする詠唱に近かった。
「大丈夫なのか?この子は」
 向かいの席にいた中年男は不安と不満が半々に入り混じった声を漏らした。周囲の避退者も一斉に不安そうな声を上げ始めたが、メディックの白井が「皆さん、落ち着いて」と必死に周囲の人間をなだめた。
「何、どうかしたの?」
 英語で佐久間は少女に問いかけたが、少女は何かにとりつかれた様にぶつぶつしゃべるだけで、佐久間の言葉に聞く耳を持たなかった。
 困り果てた佐久間がどうしようと思考を巡らせていると、再び少女は機内全部に響く悲鳴を上げた。

 その悲鳴と当時に、島田と南が座る操縦席には警報音が鳴り響いていた。反政府勢力が保有するソ連製地対空ミサイルの索敵・補足レーダーに捉えられたのだ。
「敵に見つかった」
 南はできるだけ冷静に今の状況を判断した。そして攻撃を受ける時の脅威探知・警報システムの表示パネルに目を凝らした。脅威探知は長距離地対空ミサイルによる攻撃を表示していた。
「後部の乗員へ、急降下があるから身体を固定しろ!」
 島田は無線機越しに叫んだ。
 その指示を受け取った機内後部の佐久間と白井は、身体を固定するためのストラップを貨物室床面の取り付け部に固定した。それと同時に緊急事態を報せるブザーが、機体天井部のスピーカーから鳴り始めた。
「頭を下げて、両手で守るようにして!」
 座席の避退者たちに向かって叫んだのは白井だった。避退者たちは悲鳴を上げたが、大人しく指示に従った。佐久間と白井が身をかがめたその瞬間、機体が一気に急降下して身体が浮き上がるようなマイナスGが身体にかかった。急激な空気抵抗の変化で、主翼に吊り下げられた二基のエンジンが雄叫びの様な轟音を上げた。佐久間も訓練で回避起動の中で身体を固定してGに耐えた事はあったが、邦人保護任務という実戦では初めてだった。
 身体が浮き上がりそうになりながらも、佐久間は身体を低くして床面にしがみつき、下っ腹に力を入れて正気を保った。突然の高架に泣き出し、悲鳴を上げる避退者がいる中で、佐久間が目の前の少女を見ると、少女はGの変化に耐えるようにして例のお守りを持ち何かを祈り続けていた。
 この子は何者なのだろうか?と疑問に思った瞬間、彼女が持っていた例のお守りが青白く光り、視界が消えて何も見えなくなった。視界が光によってかき消されると同時に、佐久間の意識も消えてしまった。


 操縦席の島田は機体後部から発行した謎の青白い光が自分を包んだと思った時、地対空ミサイルに核弾頭が搭載されていたのだと思った。そして自分の意識と感覚が消えたのを感じて、死後の世界とはどんな場所だろうか思った瞬間、目の前には闇に染まった大空が広がり、自分が操縦席に座っている事を思い出した。
「あっ」
 島田は小さく自己確認するようなうめき声を上げると、島田は自分の感覚を取り戻すかのように計器盤を見た。計器盤に表示された数値や状態はすべて問題がなく、高度計に視線を移すと、管制機から指定された高度と速度、そして方位で飛行しているのが分かった。
「何があったんです?」
 島田は正操縦士席の南に声を掛けた。
「さあな。警報が鳴って回避起動があったのは知っているが」
 南も半ば呆然とした様子で答えた後、思い出したように無線を繋いだ。
「こちら日本空軍の輸送機コスモ12、本機の周辺に異常は無いか?」
 しばらくしてフランス空軍の管制機から連絡が入った。
「こちら管制機、周辺空域に異常はない。そちらは何か問題が発生したのか?」
「何かミサイル攻撃か何かを探知しなかったか?警報が鳴って回避起動を行ったんだが」
 南の言葉に、フランス空軍の管制官はあきれたような声で答えた。
「おいおい、大丈夫か?ずっとモニターしていたが異常は何も無かったぞ。レーダー上はクリアだ」
「そうか」
 英語で南は安堵した声を漏らした。
「そういえば、NATO司令部から連絡があった。政府軍と武装勢力が四十八時間の戦闘停止で合意したそうだ。まだどうなるかはわからんが」
「そうか、ありがとう」
 南はそう答えて無線を切った。確かに異変はあったはずなのに、それが起きていないのは不思議な気分だったが、しつこく確かめる気にもなれなかった。
 落ち着きを取り戻すように一息をつくと、南は島田にこう指示を出した。
「島田、キャビンの様子を確認してきてくれ。五分で戻って来いよ」
「了解です」
 島田は副操縦士席から立ち上がり、操縦室を出た。ずっと座って疑問を抱き続けるよりも、何か仕事を一つこなしたかった。
 島田が操縦席から一段下にある乗組員区画を抜けて、避退者が座席に着席しているキャビンに入る。キャビンの中は不気味な静寂に包まれていて、貨物室というより夜中の墓場のような不気味さがあった。
 島田は周囲を見回すと、ロードマスターの佐久間がぐったりしている現地から避退した少女についているのに気づいた。少女は座席から降ろされて床になり、メディックの白井と医務官の北岡が少女の体調を見ていた。少女の近くの避退者たちは不安そうな目でその様子をじっと見つめていたが、取り乱すような恐れは無かった。
「どうかしたんですか?」
 島田は質問した。
「彼女、念仏みたいな言葉をずっと唱えていたんですが、急に叫んだと思ったら気を失ったんです」
 佐久間が答えた。
「容体は?」
「気を失っているだけだ。命に別状はないがちょっと衰弱している」
 医務官の北岡が少女の脈を取りながら確認した。医務官が命に別状はないと言うなら安心だったが、少女をこのままにしておくことは出来なかった。
「乗組員用の仮眠ベッドがありますから、とりあえずそこに運びましょう」
「そうしよう」
 島田の提案に北岡が乗ると、北岡は白井と共に少女を抱えて、一緒に乗組員区画に運んだ。少女をベッドに寝かせると、リラックスできるのに身体が気づいたのか少女の表情が少し柔らかくなった。
「飛行時間はあとどれくらいだ?」
 少女が横になる一部始終を見つめていた島田に北岡が質問した。急に質問された島田は近くにあった操縦室との通話用無線機を手に取った。
「機長、飛行予定時間はあとどれくらいですか?」
「三時間ちょっとだ。キャビンの異常はないのか?」
 南の返事と同時に状況報告を島田に求めた。
「現地から避退した少女が一名、体調不良により少し衰弱しています。今は乗員用仮眠ベッドに寝かせて、医務官が容体を看ています。他の避退者に異常はありません」
「よし、お前もすぐに戻って来い」
「了解」
 島田は答えると、不安そうに彼を見上げていた佐久間に「大丈夫」とアイコンタクトを送って会釈し、操縦室に戻った。



 避退者を乗せたC‐2輸送機はその後空中待機していた韓国空軍のKC‐330空中給油・輸送機から空中給油を受けて、当該国の領空を抜けだした。その事を機長の南が伝えると、キャビンの避退者たちは歓声を上げて、口々に感謝の言葉や国粋主義的な言葉を日本語で口にした。佐久間は緊張の糸が解けた避退者の表情に、安堵感とも失望ともつかない複雑な感情を抱いた。そして安心感は異なる、感情の昂ぶりの後に残った虚しさが、胸の中で次第に大きくなるのを感じた。
 パキスタンのイスラマバード国際空港に着陸したのは、現地時間の二十一時二十五分だった。ここで避退者を一旦下ろして、政府専用機のB777‐300ERに乗り換える事になっている。様々な航空機の航空灯に、誘導灯や空港施設の明りに照らされたその光景は、戦争という恐怖の政治的状況に満たされた空間から、一応の平和という政治状況に満たされた空間に移ったという実感が、彼らに精神的な落ち着きをとり戻させた。
 例の衰弱してしまった現地人の少女は、医務官の北岡の意見により現地の医療施設に引き渡すことになった。担架に乗せられ北岡と共に救急車に乗り込む少女を佐久間は見送ると、彼女は猛烈な疲労感に襲われた。可能ならシャワーではなく湯船に入って、そのままベッドの中で誰かともつれたいような、溜まった何かを吐き出したい気分に駆られた。
「大丈夫?」
 ぼんやりと夜の空港の景色を眺めていると、背後から島田が声を掛けてきた。同い年で階級が上なのに、他人行儀な言葉遣いだったはずの彼がフランクに声を掛けてきたのは、今回が初めてだった。
「すごく疲れました。何せ初めての海外任務で、よくわからない事が起きたので」
 佐久間はわめくような声で答えた。場所と勢いがあれば、島田と寝てもいいと思うくらい、自分という人間のいろいろな部分が熱疲労していた。
「俺もさ、でも機体も傷付かずに一応無事に帰れたのだからよかったんじゃないかな」
 島田はぼんやりと答えた。彼も疲れているようだった。


(了)
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