● 二日目

文字数 8,074文字

 朝早く目が覚めてしまって、仕方なしに周辺を歩くことにする。
 さすがにお腹が空いた。そういえば、丸一日以上、食事らしい食事をしていない。
 もうすでに他の宿泊客は活動を始めているらしかった。昨日は見かけなかった、大勢の客が思い思いに朝の空気を楽しんでいる。
 私はそんな彼らを見ながら、ずいぶん冷静だった。
 昨日までの憂鬱な気分は鳴りを潜め、実家のある、あの薄暗い田舎町でこれから何をしようか、などと考えられるほどだ。
「おはようございまーす」
 朝の散歩を楽しむ老夫婦に声をかけられた。見るからに上品な二人。
 こんな風に年齢を重ねられたら、どんなに幸せだろう。
「おはようございます……」
 少し気後れがして、小さな声で答えたが、それが二人の興味を引いてしまったらしい。
「あらあら、お腹が空いているの? 元気がないわねぇ」
「それはいけないね、じゃあ、君も我々と一緒に行こう」
 二人の輝いた笑顔に、一瞬反応が遅れる。
「……え? どこに?」
「どこって、朝カフェでしょ? ……そのために来たんじゃなくて?」
「テレビで紹介されてから、この人が行きたがってうるさいくらいだったんだよ。君もそれできたんではないのかな」
 二人は七十代くらいだろうか。かなり滑舌よく早口だ。理解がなかなかついていかない。
「……テレビ……」
「今の若い人は、テレビなんか見ないんだったか。SNSとかかな」
「旅行サイトとかじゃない? 私、インターネットで見たわよ」
「……あー、いえ、あの」
「じゃあ、いいね、行こうじゃないか」
「……えっ」
 二人は歩くのも早い。最近の高齢者は、という言葉を思う。
 緩く坂道になっているのをふらつきながら歩く私とは対照的に、前を行く二人はなんと明るく健康的なことか。
「ああ、私、まだ名乗ってなかったわね。私は小森谷静乃(こもりたにしずの)といいます、夫は、雄大(ゆうだい)。こう見えても、一昨年までは大学で教えていたのよ。でね、私は食う寝る遊ぶの専門家」
 シズノさんは、全く息切れしていない。
「私は、大津留、把七、です」
「ハナさんね。そういえば、ハナさんはお一人だった?」
「ええ」
「まあ、素敵ね。時には少し羽を伸ばすのが一番だわ」
 やっとついた場所は、あのポスターに映っていたログハウスだった。管理棟兼カフェといったところだろうか。
 朝の光の中では、まるで違う建物のようだ。あの禍々しいような美しさは微塵も感じられない。


 なぜか、私は二人と同じテーブルに案内された。二人も当たり前のように私と同席した。
「マルシェセットを三人分」
 勝手に頼まれてしまう。あ、私、そもそもお財布持ってない。
「どうしたの?」
「ああ、私手ぶらで来ちゃって」
「いやね、私たちがお誘いしたんだから、そんなの気にしないの」
 シズノさんは当たり前のように言う。まるで分かり切った答えを間違えた学生に言うみたいだ。
「いえ、そんな訳には」
「いいんだよ、何も気にせず、年寄りの道楽に付き合ってほしい」
「……」
「本当に気にしないで。うちの人は昔から、学生に何か食べさせるのが趣味みたいなものなの。退官してから、とても寂しく思っていたから、ちょうど良かったわ。……本当は息子と孫も一緒に来たかったんだけど、まだ眠っていたから」
「……じゃあ、どうもすみません……」
 もう少し気の利いたことを言いたかったが、シズノさんの前では頭が働かない。自信溢れる彼女の顔を見ていると、まるで口頭試問でも受けているような気がした。
 ……それにしても、見当たらないな。
 シズノさんのお喋りを聞きながらも、つい、店内を見回してしまう。
 昨夜ユーマは、ここのスタッフだと言っていた、よね?
「そう言えば、ハナさんは、学生さん?」
「そ、そうです。……前期の試験が全部終わったから」
「何を勉強していらっしゃるの?」
「い、医療系、ですね」
 医療系だった、だけど。
「医学生? すごいわねぇ、大変でしょう、学ぶことが多くて」
「ああ、まあ、そうですね」
 普通、女子学生が医療系だと言うと、必ず看護学生だと勘違いされる。今まで、一度も一発で医学生だと言われたことはない。なんだか、不思議な気がした。
「うちの人はね、文化人類学。何を専門にしてるんだったかしら」
「ネイティブアメリカン史だよ」
「そうそう、土着信仰とか? ハナさんはあまり興味ないかしら」
「う、そうですね……わりと、文系科目、苦手で」
「ふふ、私もそうよ。全然興味ないし、分からないの。でも、この人がとても楽しそうに毎日を過ごしているのは嬉しかった」
「……羨ましいです」
 つい、本音が口をついて出る。
 そんな相手と、残りの人生をゆったり過ごす。本当に絵に描いたような理想的な老夫婦だ。私には縁がない類の。
「ハナさんも、いつか、そんな人に出会うわよ。私は出会うのに、五十年以上かかってしまったけど」
「えっ……」
「人の出会いなんて、そんなもの。ハナさんも、何も慌てることはないわ」
 ……何か、見透かされているんだろうか。
「お節介なことを言って、ごめんなさいね。だってハナさん、とても寂しそうに見えたんだもの」
「こらこら、静乃、踏み込みすぎだよ。すまんね、ハナさん、この人はいつまでも女学生気分で、申し訳ない」
「いえ……そう、かもしれないので」
「大丈夫、時間は誰にでも平等に流れていくし、どんなに辛いことがあっても、必ず傷は癒えるからね」
 ユウダイさんの言葉は、まるで自分に言い聞かせるように聞こえた。
「……そう、ですよね、そうだといいな……」
 結局、私はせっかくの朝食の味がまるで分からなかった。


 カフェの前で二人と別れ、私はゲートハウスへ足を向けた。
 ゲートハウスにもユーマはいなかった。
 もしかして、騙されたのかも。
 一般客が、従業員のフリして、私をからかったのかも。
 女の一人旅なんて、ワケアリに決まってる。多分、興味本位で近づいて、思っていたのと違っていたんだろう。それとも今朝、チェックアウトしただけなのか。
 そう思ってみても、全くすっきりしない。
 ……私は多分、ちょっと心が弱ってるだけなんだ。


 結局夕方まで、何となくソワソワしながら場内をうろついて時間をつぶした。テントの中にいるのは、一人が強く感じられて息が詰まった。
 実家に帰れば、一人っ子の責務として母と借金をなんとかしなくてはいけない。こんな自由な時間は、もうしばらくこない。
 そんなことを頑なに思っているから、かえって時間の流れが早すぎる気がする。
 まだ、日の入りまで一時間近くあるのに、私は砂浜へ向かう。することがないなら、砂浜でぼんやり待っていても同じこと。
 ……一体私は何を待つつもりだろう。
 のんびり歩く。他のテントはそれぞれ、違った趣向が凝らされ、そのどれにも、幸せそうな人々が集っている。
 今日が土曜だからか、家族連れが多いようだ。子どもたちのはしゃぐ声が辺りに響く。
 砂浜にも、先客がいた。カップルが離れて二組。
 手前側の二人は、二十代半ば過ぎ、落ち着いた雰囲気で、ゆったりと立って喋っている。
 向こう側の二人は、おそらく大学生だろう、人目も気にせずわりと大胆にくっついている。
 困る、どこにいても、いたたまれない。
 あと少し、というところで立ち止まってしまう。しかし引き返すこともできず、私はしばらくその光景を見ていた。
「ハナ、何やってんの?」
 思わぬところから声をかけられて、私はまた、飛び上がった。……どうして毎回いきなり声をかけてくるんだろう。
「……何で、驚かすの」
 振り返ると、思った通り、ユーマがいた。……幼女を連れて。
 ……子ども、いるんだ……いや、私には関係ないけど。
「どうしてこんなところに突っ立ってんだ? ……ああ……」
「別に」
 無視して歩き出す。……別に、私は何も気にしてないし。
「ちょちょっと、待って、どうした急に」
「私に構わず、早くご家族のもとへ帰れば」
「はあ? ……ああ、この子?」
 ふ、と口の端を歪めた顔を見てしまって、さらに苛々した。
「興味ないけど、そんな小さい子を遅くまで連れ歩くのは感心しないわ」
 ハハ、と小さく笑ってユーマは、答えた。
「迷子。迷子を捕獲したの」
 ……オレの子なわけねーじゃん……、と付け加えたのもしっかり聞こえた。
「だから、別に興味ないってば!」
「変なお姉ちゃんだねー」
 幼女を軽々と抱き上げると、要らないことを言う。
 その子は、三歳くらいに見えた。はっきりした目鼻立ちのとても可愛い子だ。ユーマに抱っこされて、ニコニコしている。
 ……こんな小さい子でも人の顔の良し悪しがわかるんだ。
「とりあえず、この子を親のところに帰してやんなきゃならないから、ハナ、付き合って」
「え、何で、私、客だよ?」
 そうは言っても、あの砂浜に一人で残るのは気が進まない。まだ夕日が沈むまではだいぶ時間がある。しかたないか。
「さて、君のお母さんはどこかなー?」
「みうのママはおそら」
「ん?」
「ママはおそらにいるんだよ、いいでしょう」
「……んん?」
 ユーマは変な顔をして、慌てて取り繕った。
 ……まさか。私はとてもイヤな想像をしてしまった。もしかして、この子の母親、亡くなってるんじゃないよね?
「そっか、お空にいるんだね……このお姉ちゃんもお空が大好きだから、おんなじだね」
 おそらくユーマも私と同じことを予想しているんだろう。ひどく苦い顔をしている。
「じゃあ、ミウのパパはどこかなー?」
「パパはじいじとばあばといっしょだよ」
「おお、じゃあ、パパとじいじとばあばのところに戻ろうぜ」
 ユーマはミウちゃんをもう一度しっかり抱いて、足早に歩き出した。
 私も慌ててついていく。何となく、彼女が無事に親の元に戻るところを見届けたかった。


「由真さーん!!! 由真さーーーーん!!」
 大声で誰かが走って近づいてくるのが見えて、私達は足を止めた。
「どうした」
「由真さん、大変、来てくださいっす、人が、人が」
「落ち着けよ、どうした」
 近づいて来たのは、やや大柄な男性だった。歳は三十前半くらいだろうか。生真面目が服を着て歩いている、みたいな人だ。今は汗びっしょりになって、目を見開き唇が戦慄いている。
「ひ、人が、あ、あの。客の前では」
「ああ、そうだな……ハナ、ちょっと悪い、この子、見ててくんない? ……ゆっっくり、事務所に歩いて、連れて来て」
 ユーマがミウちゃんを下ろす。ユーマの顔は冷たく張り詰めていた。
「うん、分かった」
「じゃ、ミウちゃん、このお姉ちゃんと一緒に、パパんとこ、帰ろうな。……ハナ、ごめん頼むわ」
 ユーマはすぐに男性と何処かへ走っていった。
「じゃあ、ミウちゃん、お姉ちゃんと行こっか」
 小さな子どもの扱いなど全く分からない。それでも私は必死にミウちゃんの手を繋いだ。
 ミウちゃんはしっかり手を握り返して、ニッコリと笑顔を見せてくれる。
「おねえちゃん、ベルみたいで、きれいね!」
「え?」
「おひめさまみたい、とってもきれい」
「……ハハ、ありがと」
 容姿を褒められて嬉しかったのは初めてだ。


 とりあえず、事務所に向かって歩いた。ミウちゃんは文句も言わずに素直に歩いてくれた。
 例のログハウスが見えて来て、ついに私たちは足を止めた。ミウちゃんは疲れたんだろうし、私は目の前に広がった夕焼けにびっくりしたからだ。
 ちょうど視線と同じ高さに夕日があった。やけに大きく朱に輝いている。
「ミウちゃん、ほら、見て。……夕焼け、きれいだね」
「うわーとってもきれい!」
「すごいね、本物は……こんなに綺麗なんだ……」
 空は藍と朱が混じり合って……不吉なほど美しい。
実有(みう)!」
「あ、ばあば」
「シズノさん?」
 見間違えようもない、シズノさんが髪を振り乱して駆け寄って来る。ミウちゃんが彼女に向かって走っていく。
「ハナさん!」
 私はびくっとして、しどろもどろに答えた。
「あ、いや、ミウちゃんが迷子」
「ハナさん、本当に有難う!」
「あ、いや、私は別に」
「本当に……本当に……実有が貴方と一緒で、本当に良かった」
「え?」
「実有……」
 ミウちゃんを抱きしめ泣き出してしまったシズノさんを、私は混乱しながら、じっと見守った。
「ばあばー、どうしたの?」
「ううん、実有、何でもないの、ちょっと……ビックリしただけよ」
「ホント、あの、私……」
「ハナさん、本当に有難うございました。貴方が実有を……守ってくれたのね」
「いえ、そんな」
「本当に有難う。……このお礼は後で、ちゃんとさせて?」
「いえ、それは結構です。私は何もしてないし」
 迷子のミウちゃんを見つけたのはユーマだし。
「さ、実有、ばあばと帰りましょ」
「うん、じゃあねー、おねえちゃん! またね!」
「うん、バイバイ」
 シズノさんがミウちゃんの手を引いて去っていくのを、手を振って見送った。
 しばらくバカみたいに立っていた。夕空を眺めて、ただ立っていた。
 頭は真っ白だった。
 私は、またログハウスに向かって歩き出した。


 ログハウス前の広場には大勢の人間が集まっていて、皆、激しく興奮して大声で何かを叫び合っている。
 話は全然聞き取れないが、楽しい内容じゃないことは、ひしひしと伝わって来た。
「新井さん!!」
 渦巻く声の中で、突然その声は私に突き刺さった。
「君は陽司(ようじ)に会ったんじゃないのか? 君はあいつに何を言ったんだ?」
 声に引き寄せられるように歩く。
 ……ユウダイさん?
「君は、陽司に何を言ったんだ?!」
 私は走った。
 ユウダイさんがユーマの首を締めるように掴みかかっているのが見える。
 大勢の男達が、ユウダイさんを取り押さえる。
「教授……私は何も」
「陽司は、実有を君に会わせに行くと言ったんだ、最後に会ったのは君だろう?!」
「……」
「君が陽司を説得してくれれば、こんなことにはならなかったっ!!」
 ユウダイさんは叫び散らしている。
 ユーマはぼんやりそれを見ている。
 ……異様な光景だ。
「おい、アンタ、ここで何している?」
 突然背後から肩を掴まれた。私は飛び上がった。ザッと振り返ると、見るからに良くない人相の中年男性が二人、見たことがある制服を着て立っている。
「警察?」
「ここの宿泊客かね? 見世物じゃない、自分のテントに戻りなさい」
「いや、私は」
「とにかく、今はバタバタしているんだ、邪魔だから」
「何があったんですか」
「どうせすぐにネットニュースとかで見るだろ」
「……」
 私を通すまいと立ちはだかる二人には敵いそうにない。私はノロノロと自分のテントまで戻った。


 場内は異様な静かさに包まれていた。皆が息を潜めるように、でも物凄い熱量を持って喋り合っているのを肌で感じる。
 テントに戻ってすぐにスマホで検索した。こんな時、ネットはいいのか悪いのか。
 知りたい情報は、もうあちこちに拡がっていた。
 管理棟の向こう側は海に面して崖になっていて、どうやらそこから人が転落したらしい。
 小森谷陽司。事故と自殺の両方の可能性で捜査中。
 ……頭が混乱しているようで冷静でもあった。
 小森谷。多分、亡くなったのはあの夫婦の息子だ。今朝、まだ眠っていると言っていた、息子さん。
 じゃあ、ミウちゃんは小森谷ミウちゃんだ。もしかして……パパも星になった。
 でもそれがユーマと何の関係があるんだろう。
 ネットにはすごい勢いで情報が投稿されている。
 二年前も同じ場所で自殺した人間がいる、とか。
 その人の名前は、小森谷香耶(かや)、とか。
 ……このグランピング場の元オーナーだった、とか。


 私は、自分のテントから、海を見ていた。
 いつの間にか、空は濃い藍に変わっていた。砂浜では何も知らない人たちが、のんびり月見をしているのが見える。
「もう……早く帰りたい」
 実家に帰れば、退屈な平和が待っている。
「おい、警察です、扉開けて!」
 大声と共にドアをガンガン叩き壊そうとする音が聞こえて、私の心臓は確実に一瞬止まった。
「な……何」
 私は慌てて、鍵を開けた。
「警察です、ちょっと伺いたいことが」
「入ってこないで! 外でお話します」
 テントから出ると、さっきとは違う二人の制服警官がいた。
「あなた一人ですか?」
 明らかに不審そうな顔をしている若い方が言った。
「……知っているんでしょう」
「……へぇ」
 確実に何か疑われたようだけれど、そんなことを気にしていられない。
「じゃあ、女性警官を呼びましょうか?」
 年配の方は常識的な話ぶりで、上辺は気遣いを見せてくれた。
「結構です。ってか、何の用ですか」
「いえ、このキャンプ場で事故がありまして。念のため、皆さんにご存知のことがあったらお聞きしたいと思いまして」
「何も知りません」
「さっき、管理棟にいらしたようですが?」
「ちょっと用事があって」
「差し支えなければ、どのような用件かお聞きしても?」
「……迷子を管理棟に連れて行こうとして」
「その迷子は?」
「途中でおばあさんに会って無事に帰りました」
「ふうん。で?」
「でって、それだけですけど」
「貴方は、小森谷夫婦と顔見知りでしたね。お孫さんとも親しかったんですか」
 いきなり問われても動揺は見せない。私はぐっと耐えた。
「ご夫婦とは今朝が初対面です。ミウちゃんがお二人のお孫さんであることも知らなかった。探していたシズノさんに会って初めて知ったんです」
「貴方は新井由真さんとも親しかった」
 今度は心臓が一回跳ねた。
「……いえ」
「新井さんのお姉さんは、実有さんの母親ですよ。知らなかったはずはない」
「……知らないです」
 目眩と吐き気がする。急激に動悸が始まり、恐怖が迫り上がってくる。
「まあ、今日は、この辺で。また何かあったらお話聞かせて下さい」
「……」


 話は単純だと思うのに、頭の中が洗濯機で洗われるみたいになってしまって考えがまとまらない。
 私は一体、何に巻き込まれてしまっている?


 全然空腹感は感じなかったが、このままでは戦えない気がして、トランクから銀色の菓子缶を取り出した。
 仲の良かった子達に、別れの挨拶がわりに配った残りだ。喜んで退学するのだと印象付けるために配った。
 缶を開けると、可愛らしい菓子が詰まっている。見るからに甘そうだ。
 私は一つだけ取り出して、あとはまたしまった。


 いつの間にか私は眠っていた。それに気付いたのは、電話がかかってきたから。
 時計はすでに日付が変わって一時四十七分。
「……はい」
 普段なら知らない番号に応答はしない。しかし今はそんなことをしてられない。もし警察だったら疑われてしまう。
「……もしもし、大津留です」
「……ごめん、こんな時間に、非常識にもほどがあると思う、けど」
「……ユーマ……」
 尋ねたいことは沢山ある。でも何も言葉が出てこない。
「あのさ、申し訳ないけど、お願いがあって」
「……何」
「明日、もう一泊して、実有預かってもらえないかな、数時間」
 どうして?
 問いたい気分だったが何も言えなかった。何かを口にすれば、余計な情報まで聞こえてしまいそうで。
「もちろん、宿泊費はかからないから」
「それは、まあ」
「いい?」
「……いいよ」
「じゃあ、朝、八時頃連れてくから」
「ねえ」
「……何」
「いや、何でもない」
 何も聞かないでくれてありがとう、と遠い向こうで聞こえた気がした。
「じゃあ、また」
 ユーマの返事を聞く前に電話を切った。


 またあの夢を見た。二日連続で見たのは初めてだった。
 小六の二学期が始まって最初の土曜、母は親戚の葬式に出かけていた。
 やたら暑くて夜中に目が覚めたら、父親が上に乗っていた。
 私と目があった瞬間、逃げていった。私が声を上げる隙もなかった。
 あの日以来、私達は家族であって家族じゃなくなった。
 そう言えば、帰ってきた母は言っていた、死は連鎖する、と。あれがどう言う意味だったのか未だに分からない。
 その後、父は隣町で開業し、家にはほとんど帰ってこなくなり、母はいつもぼんやりするようになった。
 夜中に目をあけると、思う。今のは夢だった、と。
 もしかしてあの時も夢だったんじゃないか、と。
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