第1話

文字数 3,824文字

「どうして君はそんなに何度も死のうとするの?」小学生のような幼い顔立ちをした中学生の男の子に僕は尋ねた。

 彼は最近になってこの辺りに引っ越してきたらしく、時々公園で目にすることが多かった。僕は、最近自分で企画したビジネスの計画書が銀行の審査に通って借入が可能となったばかりで、明るい気持ちでこの公園に来ては休憩をしていた。

 そんな時に彼に出会った。

 正確に言うと彼の存在は今から2ヶ月前から認識していた。平日の昼間に公園のベンチに1人で座っている子供がいたので気になっていたのだ。最初は何か事情があって不登校になってしまい時間を持て余しているんだろうと思った。しかし私が来る日には必ず彼もいる事に気付いてからは、少し不安になってきた。

 家はあるのだろうか?食事は取れているのだろうか?何か事件に巻き込まれてはいないか?そんな不安が僕の中の臨界点を超えた時、私の足は自然と彼の元へと向かっていた。

「こんにちは。何してるの?」「どうやって死のうか考えてたんだ」それが僕たちの最初の会話だった。それから僕と彼が公園のベンチに腰掛けて、お互いに目を合わせる事のない会話を何度か続けた。彼は死の方法について真剣に考えていた。彼はなるべく幸せな気持ちで死にたいと言っていた。

 彼にとって死ぬことは幸せを手に入れる瞬間でもあった。だからこそ、痛みは最小限に、誰かを恨んだりも、悲観したりもせず、ふと思い立ってコンビニに立ち寄ってレジ横でホクホクに温まったピザまんを食べるように、あっさり日常的に死を迎えたいと願っていた。そして僕はその話を、公園に来るたび彼の口から何度も聞いた。そうしてつい先日「こんにちは。何してるの?」に続く2度目の質問をしたのだ。

 それが「どうして君はそんなに何度も死のうとするの?」だった。

 その日、僕と彼との間にはじめて、あまり歓迎できないタイプの居心地の悪い時間が幾度となく流れた。彼の話す言葉は全てよそよそしく、僕との間に大きな隔たりを作ろうとしていることがはっきりと分かった。そうして彼は言った。「そろそろ行くよ」それからギクシャクしたような不思議な動作で立ち上がって一瞬だけ僕の顔を見た。

「待ってくれよ」僕はそう言って彼の手を握った。彼は僕の手をねじるようにしてそっと振りほどいた。

「明日は来るかい?」「え?」「公園に来るかい?」僕はなるべくゆっくりとした喋り方を心がけて彼に尋ねた。彼はその質問には答えず、そのまま歩き出してあまりにもあっさりと公園を去った。

 翌日、仕事の合間に公園にやってきた。彼と出会ってから初めて、彼の姿の見えない公園を目にした。胸の表面がスッと寒くなるような感覚を覚えた。僕はいつものベンチに座り、彼のために買ってきた、これも初めてのことだが、ペットボトルのホットレモンを脇に置いて何をするでもなく、ベンチの背もたれに寄りかかった。彼に対する心配や、何か得体の知れない不安からか、この日の公園は恐ろしいほどに静かだった。

 昨夜、夢を見た。僕に子供がいて、現実には結婚もしていないし彼女もいないが、その子供を小学校に迎えにいく。僕はありきたりの黒のファミリー向けワンボックスカーに乗っている。もう少しで小学校に到着というところで息子を見つけて、明るい気持ちになって車の速度を落とし徐行しながら息子に近付く。かなり近付いてから窓を開けて歩道を歩く息子に声をかけるが、息子はなぜかチラッとこちらを見て苦笑いするだけで歩くことをやめない。僕は急に不安になって、道路のわきに車を寄せてギアをパーキングに入れて車を飛び出す。それから息子に向かって走り出そうとするが、僕を取り囲む空気がまるで鉛のように重く体が前に進まない。僕は息子に向かって声をかける。どんな言葉をかけたのかは分からない。息子の名前さえ僕には分からないのだから。それでも構わず何度も声をかける。僕の声は次第に大きくなり、やがて大声になる。その間、息子は何度か私の方を振り向くが、相変わらず苦笑いをしながら小さく首を傾げるばかりで冷酷に僕と息子の距離は離れていく。

 夢はそこで終わる。

 目覚めると僕は脇の下にうっすらと汗をかいているのを感じた。朦朧とした頭が徐々に現実味を取り戻しながら冴えていく。今の僕にとってそれは一種の救いだった。洗面所で顔を洗いながら公園で出会った彼を思い出した。そうして今、僕は公園のベンチでペットボトルのホットレモンを脇に置いて、なんの予定もない時間を過ごしている。

 彼はいつも自分の話をした。最近引っ越してきたこと。妹がいるが自分とは性格が合わず苦しくなることがあること。友人が嘘をつくこと。母親と話す時に気をつかってしまうこと。けれども彼の口からお父さんの話を聞いたことはなかった。

 彼と話していると、年齢や性別を意識しなくてもよいことが心地良いということに気付かされた。彼は、男で、中学生である、ということは彼から聞いたので事実なのだけれど、僕と彼との間にその情報が入り込んで何らかの摩擦を作ることはなかった。

 僕は女性と話すときすごく緊張する。何か僕の知らない部分に壊れやすいものがあってそれに触れないように注意しなければならない感覚だ。そしてそれは時に拒絶的に薄気味悪い感覚として僕を取り巻く空気を汚していく。そういう一種のコンプレックスのようなものを持ち合わせている僕にとって、彼との間にある性への無意識状態は有り難かったし、とても心地良い感覚だった。

 そんな彼が死にたいと願い、そうして姿を消した。姿を消したと言っても1日だけなので、僕の早合点なのは分かる。でも不安は僕の冷静さを超えて僕の心を確実に乱している。彼が団地住まいなのか、一軒家なのか、貧乏なのか、裕福なのか分からない。

 でも彼には僕とピントが合う瞬間があった。それは僕たちが本当は幸せを望んでいないことだった。むしろ幸せになろうとしている人を遠ざける生き方を選んでいた。そうして自分自身が幸せになったと感じると同時に不安も感じていた。もちろん、それが世間的にはすごく異常なことだと感じていたし、相対的に信じようと努力さえしていた。そんな中、僕は彼に出会ってひとつだけ明るい気づきを得た。僕たちは幸せではなく平和を望んでいる。それを今日は彼に伝えようと思ったのだ。きっと彼はそのことに気づいていないだろうと想像したから。

 彼との時間は平和だった。僕たち2人が喋っている時間が幸せを運んでくれていた。いや、少なくとも僕にとってはということなのだが。彼と話していて「ああそうか」と思う瞬間があった。そんな中、僕の思いなんて関係なく彼の話は続く。

 彼の話の内容が徐々に消えていき、彼の言葉は公園で揺れる木々や遠くで聞こえる子供たちの笑い声と混じり合って心地良い音楽のように聞こえる。その時、思ったのだ。「ああ、そうか。やっぱりそうだ。そういうことだったんだ」その答えが「平和な状態が幸せを作っている」だ。

 幸せだからといって平和がやってくることはない。傘を買ったからといって雨が降り出すのではない。雨が降るから傘を買うのだ。人が幸せを求める時、その姿勢は攻撃的なほどに積極的で周囲への慈しみの心が薄まる。その空気感が僕は昔から苦手だった。当時は、理由が何だか分からず、ただ人の思いの強さに圧倒されていた。次第に、そういった思いの強さが社会の中で生きて行く上でとても有効な武具になって人々を奮い立たせ、時には困惑させるのだろう、ということにも気がついた。

 それに気がついた時、僕は自分が生きている世界を可能な限り自分で作り上げることに決めた。そうして、あまり好きではない銀行に、あまり好きではないお金を借りにいったのだ。想像してみてほしい。傘を買った友人が冗談ではなく本気で雨が降ると信じて疑わなかったら、僕はそんな友人を心配するし、不気味だし、恐ろしいなとも思う。でも何故か人は平和を作ることなく幸せを求めに突き進む。突き進むことで、草木を薙ぎ倒し、時には自らの身体まで傷付けてしまうこともあるというのに。

 だから僕は彼に伝えたいのだ。

 君は平和を自分で作り出せないと思っているだろう?それは違うよ。幸せを手放すんだ。幸せであろうとすることを手放すんだ。そんなものは最初から無かったんだよ。仲間と馬鹿騒ぎしている時、僕たちは幸せのことなんか考えもしない。ただただそこに平和があるだけだ。それだけだ。そしてその平和はとても素晴らしくて失いたくないとさえ思う。だから僕たちは平和を維持しようと試みる。それがラップカルチャー的にはリスペクトと呼ばれるものなのかもしれない。仲間を思う気持ち、子供への愛、彼女や彼氏や家族への愛。それは平和があるからこそ生まれるものなんだよ。だから僕たちは手放さなければ、それを漠然とした何かではなく、しっかりと「幸せ」として、輪郭を持ったはっきりとした認識で自覚し、その上で手放すんだ。だから頼む。まだ死ぬなよ。僕たちなら平和を生み出せる。そうすれば、僕たちが離れ離れになってもほぼ永久に平和を生み出せると思うんだ。君と出会えてよかったよ。

 遠くの方で彼の姿が見えた気がした。丸々と太った欅の幹の影にその姿を見た気がした。でもそれは錯覚だった。僕の周りには誰もいない。ベンチの上にはもう冷めてしまったホットレモンがあるだけだ。
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