ある人の日記とある人の手紙

文字数 2,202文字

日記の表紙の裏に古ぼけた手紙が挟まっている。

1950年5月3日

 私の言葉の意味がわかりますか?
 私を恐れて嘆くのですか?
 それとも、私を求めてやまないのですか?
 いずれは避けられないとしても、遠ざかる術はあったでしょう。
 孤独と共に歩むこと、人であり続けること、あなたは何からも逃げ出さなかったのに。
 昨晩は盃を交わしまたね お月様を酒の肴に。
 いいえ、あなたの気高さを私は酒の肴にさせていだたいたのですが。
 だから、今はあくまでも私の歌に誘われて、私からは逃げてください。
 そこにたどり着いてはいけません。
 あまりにも絶対的な一方通行から、目を背けてください。
 時と共に歩むこと、愛を語り忍こと、何からも逃げ出さなかったあなたと飲むお酒はとても美味でしょうから。 
 でも唯一、私からは逃げ出さないのですね。

 耳を澄ませてみてください。
 風の音が心地よいでしょう?
 雨の香りを味わってください。
 とても美しいでしょう。
 あなたはそんな美し世界で生きているのです。
 私の姿を思い出してください。
 とてもみにくいでしょう。
 あなたが求めているのは、そんなみにくいものです。
 あなたもいずれはこうなるのだから、今は美しい存在でいてください。

 幼いあなたが空を見つめたのはなぜなのでしょか?
 そこにいずれ至ることを、あなたは気づいていたのですか?
 時と共に歩むあなたであったからこそ、気づいてしまったのですか?
 確かに気づいていても、今は忘れてください。
 それを、見てはいけません、来てはいけません、それを知ってはいけませんし、気にしてもいけません。
 目で見ることも耳で聞くこともできない、それは途方もない静寂な、

 今は私の手紙でも秘匿します。
 生きる喜びを、ただ……味わいつくしてください。

 あなたは言わずとも、海がどこに続いているのか、雲がどこへゆくのか理解しているでしょうから。
 ただ花が枯れ、椛が朽ち、雪が融け、花が咲くのをあなたは受け入れられますもの。
 だから平気です。
 それがありのままだと気づければ、あなたはあなた自身と歩んでいけるでしょう。
 だから、空へ魂を還す日、土へ肉体を還す時、私はあなたに寄り添います。

 あなたは、今あなたがいるところを、ありのままに受け入れてください。
 そうしておとなしく、何も知らずに、いずれ来るその日にただ怯えてください。

 決して、自ら望んで欲してはいけません。

 微笑んでください、悲しんでください。
 悔やんでください、憤ってください。

 だから桜が芽吹くその日に、また会いましょう。いずれ……

ここから日記は続いている。

2015年4月1日

 暦は春を告げた。
 けれども桜はまだ咲かない。
 今年、今年こそは。
 山の桜の木は一向に花を吹かないが、今私が待っているのは花ではない。
 ただあの日交わした約束が成就するかどうか、それだけだ。
 あの日見つけた答えを、自分自身に隠し、黙認し、自分を騙して私はここまで来た。
 自分に嘘をついて今まで生きていたのだ。
 答えを見つけたのに、その事実を、見ないようにしながら。
 それなのに、答えは成就されない。
 自分の答えに殉ずるのはいつのことなのか。
 彼女は生きる喜びを求めろと、そう言い残したが、私にはそんなものはなかった。
 確かに、かすかにはあったかもしれない。
 だが、そんなものは大したことがない。
 眠ることの平穏さ、静謐さ、それに比べれば私の一生のなんとうるさいことだろう。
 生きたいように生きられず、自分が望んだ時に去ることもできない。
 途方もないほどの理不尽の中での一生だ。
 今までずっと一人で歩んできたのだが……人として愛を語り忍んできたのだが……それから目を背けずに生きていたのだが……

 彼女は、それから目を背けて、気にせずに生きろと言ってきた。
 しかしながら、それが出来た日は一日たりとて存在しない。
 今だってこうやって、想いを筆に込めているのに。

 私はいつ消し屑になっても構わないのだが……

 彼女のことを忘れ去ることができた日なんて一度も存在しない。
 ずっと、記憶に残っている。
 頭の片隅に、彼女が伝えたかった想いがずっとある。
 そのことさえも、最近は私の支えにはなってくれない。
 ただ孤独な時間が、私の心をずっと蝕んでいる。
 
 思えば、あの答えにたどり着いた日から、私は私自身ではなくなった。
 私ではないものが私の中にいる、ずっとそんな気がしているんだ。
 自分が自分ではないという矛盾を抱えて生きていくなんて、誰にでもないが怒られてしまう。
 他でもない自分が自分を受け入れてくれない。
 その時のために生きたところで、その時は私を奪っていく。
 私は自分自身にさようならをするのだ。
 そのことを思えば、自分だけの一生を歩むのもバカらしい話だ。

 桜が咲いた日、彼女は迎えてくると言っていたが、一体、それはいつのことなのだろう?


2015年4月2日

 今日、庭の桜だけが咲いた。
 そうか……ここが終の在りかだったか。
 もうすぐ会えるな。

 ここがついのありかか。
 かくもうつくしいところが。

彼の日記はここで終わってる。
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