二 使徒達――新たな日常①
文字数 13,783文字
放課後。朔耶は疲労感に包まれて、机に突っ伏していた。
そのままの体勢で隣を盗み見ると、今日の朝まで千影の後ろに座っていた男子がさも当然のように帰り支度をしている。
その光景に、千影が世界から忘れ去られた事実を突きつけられているように感じ、朔耶は今日何度ついたか知れない溜息をまたついてしまった。
恐らく誰の記憶にも彼女の姿は残っていないだろう。
だろう、と確証がないのは、誰にも尋ねられなかったからだ。
しかし、休み時間に和也と交わした会話から、彼の記憶に千影が含まれていないことは感じ取れた。
朔耶を通して、たまに一緒に遊んでいた仲の和也でさえ彼女を忘れてしまっているのだから、他のクラスメイトが覚えているはずがない。
正直、今日程授業を苦痛に感じたことはなかった。
もしもパウロから、千影を甦らせられるかもしれない、と聞いていなかったら、己刃に注意されていても大きく取り乱し、結果このクラスでの居場所を失っていたに違いない。
「朔耶、大丈夫か?」
そこへ帰る準備万端という感じの和也が心配そうに声をかけてくれる。
「昼よりも調子悪そうだけど、本当に、早退した方がよかったんじゃないか?」
「いや、大丈夫だよ」
何とか普段通りの笑顔を作ろうとしながら答えると、そうか、と和也は困ったように苦笑した。
やはりぎこちない笑みになっているようだ。
「あー、もしかして、あれか? 昨日、陽菜がはしゃぎ過ぎたせいか?」
「そ、そんなことないって」
和也はそんな朔耶を前に、むしろ冗談めかして悪戯っぽく言った。
普段はそんな彼に釣られて自然と笑みも浮かぶが、今日ばかりは上手く合わせられなかった。
彼が改変された昨日の出来事を話題に出したこともそうだが、それ以上にアノミアから戻り、彼の顔を見た瞬間、一つ思い出してしまったことがあったためだ。
それは、彼には姉がいた、ということだ。
三年もの間、そんな当たり前に知っていた事実を忘却し続けていた。
つまり彼女は三年前にアノミアで死んでいた訳だ。
身近に潜んでいたアノミアの影響。
家族である和也、陽菜、そして彼等の両親も思い出せずにいる事実を知り、知っていながら決して言うことができないもどかしさと申し訳なさ。
改めて、朔耶はかの現象の本当の恐ろしさを知った気がした。
「朝日奈君、早く机下げて」
掃除当番の女子に注意され、謝りながら慌てて机を教室の後ろに下げる。
それから、朔耶は和也と共に廊下に出た。
「あ、いたいた」
と、丁度廊下の少し先から聞き覚えのあるはきはきした声が届き、まだ教室前の辺りにいたクラスメイト達がほぼ同時にその方向へと意識を向ける。
「全く探しちゃったよ。何組か聞いていなかったから」
彼女、鳴瀬己刃は朔耶の目の前で立ち止まると安堵したように微笑んだ。
確実に美人に属する彼女がそんな卑怯とも言える表情をすると、男子は目で追ってしまうに違いない。
「さ、朝日奈君、行こっか」
だから、そんなことを言われては周囲が軽くざわつくのも必然だ。
何か妙な噂にならなければいいが。朔耶はそう思いつつ、ふと間近から感じた視線に顔をその方へと向けると、和也が驚いたように朔耶と己刃を見比べていた。
「お、おいおい、お前、いつの間に……ってか、一体誰だ? 新しい特撮仲間か?」
「と、特撮、仲間?」
意味がよく分からない、という感じの戸惑ったような表情をする己刃。
さすがに知り合って間もない状態の相手にいきなりその手の趣味の話はまずい。
布教するにしても手順があるのだから。いや、それは今関係ないが。
「先輩だよ」
その言葉に和也は驚きを体で表すように大袈裟に仰け反った。
リボンの色から分かるだろうに和也がそんな反応をするので、己刃は困惑の色を強めていた。
「え、えーっと、君、朝日奈君の友達? ちょっと急ぎの用事があるから、もしも何か予定があったのなら、ごめんね」
「え? あ、いえいえ、別に大丈夫です。今日は特に約束はしてないし。あ、でも、こいつ、体調が少し悪いみたいなんで、もしそんなに重要な用事じゃないなら家に帰してやって下さい」
「だから、大丈夫だって」
「ま、そういうことにしておいてやるよ。でも、何があったのかは知らないけど、余り抱え込むなよ? 俺や陽菜はいくらでも相談に乗るからな? んじゃ、朔耶。また明日」
和也は途中まで真剣な口調で、最後だけ普段通りの口調に戻して言うと、片手を軽く上げながら背を向けてその場から去っていった。
「いい友達、みたいだね。……っと、それはともかく、体調、悪いの?」
己刃が心配そうに至近距離で顔を見上げてくるので、朔耶は一歩後退りしつつ答えた。
「や、それは、その、千影が皆から忘れられているのが少々ショックでして……」
内容が少し女々しいような気がして尻すぼみになる。
周囲にはクラスメイトの喧騒があり、声もひそめていたため、もはや言葉尻は自分にも聞こえない程に小さくなっていた。
「……そ、っか。そう、だよね」
しかし、己刃はしっかりと内容を把握したらしく申し訳なさそうに呟いた。
「あの、己刃先輩。それより、これからどうするんですか?」
重苦しい雰囲気になるのを嫌って、朔耶はなるべく明るい声で尋ねた。
「あ、うん。私について来てくれる?」
己刃の確認に、はい、と頷いて、歩き出した彼女の後に続く。
正門から見て右にある高校と左にある中学校の校舎の繋ぎ目、礼拝堂や職員室がある中央の棟の二階に至り、そこから一階へと向かう。
靴を変えずに棟を行き来するには二階の渡り廊下を使用するしかない。
この中央棟、管理棟の一階には開かずの扉が存在し、その先を見た者はいないと言われている。
時折、宿直の先生や警備員がその扉から光が漏れているのを目撃しており、それが噂を呼んで学校の七不思議の一つになっていたりする。
曰く、校則違反者を罰する独房がある。
曰く、学校を隠れ蓑にした秘密組織の隠れ家がある。
曰く、非合法の研究が行われている。などなど妙な噂も流れている。
「ここよ」
己刃が目線で示したのは、一階の奥まったところにある教員の休憩室のさらに一つ奥の部屋だった。
その先には件の開かずの扉が何かの秘密を封じている。
それはともかく、己刃の視線を辿るとその部屋の入口に書かれた文字が目に入った。
「学院会、室? 何ですか? 学院会って」
「えっと、私達使徒――アノミアで力を得た人をそう呼んでいる、と言うより、昔の人が自称したんだけど、この学校の使徒が所属する組織のことよ。まあ、部活の体裁でカムフラージュしているんだけど」
「は、はあ」
となると、この部屋は部室のようなものか。
「使徒はここに集まって、アノミアでの巡回のローテーションを決めたり、今日襲ってきた人達への対策を考えたりするの」
「え、なら先輩以外にも生徒で、その、使徒の人って沢山いるんですか?」
「ううん、今は私と朝日奈君を除くと、生徒で使徒は一人だけ。先生は結構忙しいし、だから、実際のところ普段は二人で雑談しているぐらいなんだけどね」
己刃はそう言うと決まりが悪そうに頬をかいた。
「成程……って、うわっ!」
学院会室の前で話していると、その扉がいきなり開かれる。
引き戸の教室とは違って外開きのドアだったため、鼻先を物凄い勢いで扉がかすめていき、朔耶は驚いて一歩二歩と後退してしまった。
突然のことに心臓も早鐘を打つ。
「己刃、遅いぞ!」
そこから出てきたのは尊大な物言いをする少女。
小柄な千影といい勝負どころか完全に圧勝の、色々な部分が小さい女の子だった。
髪の毛はブロンドでふわふわしているが、それとは対照的に吊り目がちな碧眼からはプライドが高そうな雰囲気がびしびしと感じ取れる。
その容貌が日本人離れした西洋の人形のような美しさを湛えていることからも、少なくとも生粋の日本人でないことは確かだろう。
「ん? 誰だ、こいつは」
彼女は今気づいたというように朔耶へとその澄んだ青色の瞳を向けた。
制服のリボンから高校生、しかも三年生だと分かる。
つまり、こんななりでも朔耶より一つ年上ということだ。
一つ服装で特徴的なのは、そのほっそりした足は白いタイツで包まれているという点か。
「今日から仲間に加わった朝日奈朔耶君よ、晶」
「ほう。そうか。まあ、立ち話もなんだ。入れ」
簡潔に言って部屋に引っ込む晶と呼ばれた少女に従い、己刃に続いて中に入る。
そこは入ってすぐに一段床が高くなっていて、その上は畳張りだった。
靴を脱ぐスペースには晶のものらしい小さ目の上履きが変に潰れた状態で置かれている。
どうやら彼女はそれを足場にしてドアを開けていたようだ。
やや緊張しつつ畳に上がると己刃が奥から座布団を二枚持ってきて、部屋の中央に据えられたちゃぶ台の前に敷いた。
「あ、ありがとうございます」
己刃に礼を言ってそこに正座すると、座布団の配置のために真正面に晶が座る形になっていた。
彼女は、一本芯が入ったように綺麗に正座する己刃とは全く対照的にあぐらをかいていた。
座り方から何となく性格が分かる気がする。
「さて、まずは自己紹介と行くか。私は橘晶。三年C組だ。勿論、高校のだぞ?」
改めて本人の口から利かされても、内心では彼女が先輩であるという事実を信じられずにいたが、朔耶は表情には出さないように心の内で抑え込んだ。
この手の人は外見で判断されるのを嫌う傾向にあるはずだ。多分。
「に、二年C組の朝日奈朔耶です。よろしくお願いします、橘先輩」
「橘先輩はちょっと硬いな。仲間になるのだから、名前の方で呼んでくれ」
晶はにやりと悪戯っぽく笑った。
尊大そうなのは口調と目つきだけで、案外親しみ易い人なのかもしれない。
ちゃぶ台に肘をついて、あぐらなんかかいている訳だし。
「は、はい。分かりました。晶先輩」
朔耶はそう言いつつ、よく考えたら己刃のことも己刃先輩と呼んでいたが、それでいいのだろうか、と今更思って己刃を見た。
名字よりも先に名前を知ったため、彼女を最初に呼んだ時、つい名前が口に出てしまった。
それ以来、そのまま呼んでいたのだが。
「どうしたの? ……あ、そう! そうなの。朝日奈君が考えている通り、晶はハーフなんだよ。日本人とお父さんとイギリス人のお母さんの」
「は、はあ、そうなんですか」
己刃は何故か嬉しそうに見当違いの返答をした。どうやら彼女は呼び方を特に気にしていないようなので、今更態々問題にする必要はないか。
しかし、晶はやはりハーフだったらしい。
「でも、日本語しか喋れないんだよね?」
己刃が少し意地悪く言うと晶はむっと不満そうに顔をしかめ、それから諦めたように深く嘆息した。
「母上が大の日本好きでな。父上と話をする時も日本語ばかりだった。そのせいで私も日本語しか話せないのだ。しかも、気がついた時にはこの口調だ。まあ、そのこと自体は別にいいのだが、この外見とそのせいで昔は下らないことを言われたものだ」
彼女は腕を組み、そんな過去を射抜くように虚空を睨みつけていた。
細かな差異が争いを作る。現実もそうだし、フィクションでも題材にされる。
有り触れた構造だが、克服できないのは人間の愚かさ故か。
「っと、そんなつまらん話はどうでもいいな。それで、お前の力はどの程度だ? せめて『力天』ぐらいあれば私達も楽になるのだが。ちなみに私は己刃と同じく『座天』だ。どうだ。凄いだろう」
「へ? え、えっと……それ、何です?」
断崖のような胸を精一杯に張った晶だったが、言葉の意味がよく分からない。
困惑しつつ朔耶がそう尋ねた途端、晶は顔を急激に紅潮させて己刃を睨んだ。
「ご、ごめん。まだ、概要の概要しか話してなかったから」
「う、うぅ、これでは私が痛い人間みたいではないか。馬鹿みたいではないか」
ばんばんと本当に恥ずかしそうにちゃぶ台を叩く晶。
何と言うか、体つきが幼いせいで子供が駄々をこねているように見えて何となく微笑ましい。
「い、今、ちゃんと説明するから、ね?」
己刃が宥めるように言うと、晶は台を叩く手を止めて唇をへの字に曲げながら頷いた。
「えっと、まず天使に九つの位階があるのって知っているかな?」
「ああ、あれですか? セラフィムとかケルビムとか」
「そうそう。朝日奈君、博識だね」
「い、いえ、それは、まあ――」
それは勿論、漫画やゲームによく登場する単語だから知っていただけのことだ。
が、どうやら己刃にはそういう方面の知識は全くないようだ。
天使の位階は九つある。上から熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、そして、天使だ。
己刃と晶がそうだという『座天』はそれに倣うなら上から三番目。それがどれ程のものかは分からないが、晶の口振りだとかなり高い位階のようだ。
「それで、私達の力の強さをその位階に当てはめて評価しているの。その上でそれに基づいて、戦力が地域毎に固まらないように調整している訳」
「まあ、ここは重要な拠点だから、ある程度戦力を集中させているのだがな」
機嫌を直したのか己刃の言葉に補足を加える晶。
「それで、朔耶の位階は何だ?」
先程の気まずさを誤魔化そうとしているのか、偉ぶるように腕を組んで晶が尋ねる。
朔耶は何も聞いていなかったため、己刃に視線を向けた。
すると、彼女は真剣そのものの表情で口を開いた。
「私が見たところだと『守護』だね」
「何? それは本当なのか?」
位階に『守護』はないじゃないか、と思った朔耶を余所に、驚愕で目を開く晶に己刃はアノミア内での出来事を語り始めた。朔耶からの伝聞の部分も含めて。
話が進んでいくにつれ、晶は神妙な顔つきになっていく。
その間、朔耶は千影のことを想いながら、時折自分の左手を見詰めていた。
「成程、な。それならば『守護』というのも頷ける」
実際に頷きながら言う晶の目には一瞬だけ憐憫が過ぎった。
「朔耶、お前も中々辛い経験をしたようだな。しかし、取り戻せる可能性がある以上、俯いている暇はない。しっかりと前を向いてその機会を掴むのだぞ。私も手伝ってやる」
「は、はい。ありがとうございます」
「何、感謝される程のことではない。私はお前が気に入った。それだけのことだ」
大事な人を守れなかった情けない話で何を気に入ったというのか、と疑問に思う。
すると、それが表情に出ていたのか、晶は屈託なく笑った。
「何故、と言いたそうな顔をしているな。……それはな。お前が『守護』の位階に属するからだ。何より大事な女のために力を得たというのがまたいい。私はそういう話が好きなのだ。実にヒーローっぽい」
失敗しているじゃないか、という突っ込みは自分にダメージが来るので呑み込む。
「は、はあ。いや、でも『守護』って位階にないですよね?」
「ああ。それは位階で言えば天使に相当するものだ。位階には共通して天使という言葉が後ろにつくからな。天使の位階なのだから当然と言えば当然のことなのだが」
「それは、まあ、そうですね」
「うむ。それで区別するためにそう呼んでいるのだ。実際、守護天使という奴は天使に属する天使、ややこしいな。とにかく、それが勤めることがほとんどらしいしな」
「成程……って、それ、最下位じゃないですか」
弱い自分には適当な位階かもしれないとも思ったが、しかし、いざ順位をつけられて最下位なのは嫌なのが人情というものだろう。
「まあ、実際単純な戦闘力では一番弱いからな」
言葉の内容とは裏腹に、晶は決して馬鹿にした風ではなく全く真面目な表情で言った。
「実はね。位階は基本『熾天』『智天』『座天』『主天』『力天』『能天』『権天』『大天』の八つしか使われないの。純粋な戦闘力の優劣としては、ね」
「なら、『守護』は?」
「力を得るには求めが必要だと聞いただろう? そして、ああいった状況での求めは二つに大別される。即ち周囲の脅威を排除し尽くすための求めと、自分を含めた誰かを守るための求めだ」
確かにあの状況では二つに一つだ。朔耶は納得して頷いた。
「そして、前者は死の欲動と結びつき、後者は生の欲動と結びつく。『守護』は後者によって力を得た者を指す訳だ」
流れるように話していた晶は一旦言葉を区切って一息ついた。
「そいつは特殊な能力を持つことが多いのだ。だから区別され、能力によっては重宝される。アノミアにあった私達の教会も『守護』の使徒が過去に作ったものらしい」
「朝日奈君の能力は、精神と魂の保管、かな」
己刃はそう言うと何故か微かに目を逸らすようにして、瞳を自虐の色で染めながら言葉を続けた。
「普通アノミアに入る時は一人きりの時が多いし、タナトスの脅威に晒された上で力を求めるから、ほとんど相手を攻撃するのが主目的の力が生まれるの。でも、朝日奈君の場合は状況が状況だったから、ね」
千影を死なせたくない。そんな想いによって求められ、生じた力。
だから、己刃の言ったような能力になったようだ。
それだけ千影を特別に想っていたのだと実感する。
「まあ、そういうことだ。戦闘は私達に任せ、朔耶は朔耶の目的を果たすといい」
晶はそう言うが、正直不安が募る。
少々特別な能力を持っていても戦闘力は最弱。
それでは目的を果たす以前に、タナトスにすら負けてしまうのではないか、と。
その疑問をそのまま晶にぶつけると、彼女は朔耶を安心させようとしているかのように自信に溢れた笑顔を見せた。
「使徒であればタナトスにはまず負けない。それに私達もいる。だから、心配するな」
「でも、タナトスは死の欲動が具現化したものなんですよね。なら、それの度合いによって強くなるんじゃないですか?」
一度目の時と二度目の時。朔耶から具現化したタナトスは大きさも恐らく強さも違っていた。それはつまりそういうことではないか。
「確かに朔耶の言う通りだ。が、使徒からすれば野良タナトスなど物の数ではないし、私達の手に余るような強大なタナトスを生む程の死の欲動を抱いている者は、既にアノミアに入る前に狂い、どこかで自殺しているか、誰かを傷つけて身を滅ぼしているさ。死の欲動とはそういうものだ」
どこか他人事のように、諦めたように晶は言った。
しかし、それも当然のことだ。
使徒などと言っても、結局は具現化したタナトスを滅ぼしているだけ。
実際に死の欲動に囚われている誰かを直接救うことなどできはしない。
その全てを救うことができるとすれば、社会そのものが持つ力以外にはないだろう。
「……成程。言われてみれば、そう、かもしれません。けど、だったら、その段階に至る前にアノミアに入るはずじゃないですか?」
破壊衝動に身を任せる段階よりも、アノミアに落ちる段階の方が死の欲動のレベルが低いのなら、身を滅ぼす前にアノミアに囚われてもおかしくないはずだが。
「死の欲動は個人の気分、感情だけで決まるものではない。当人を取り巻く環境如何で急激に増減する複合的なものだ。例えば満月の日に事故や事件が増えるように、様々な要因で突然溢て出てきたりする。勿論、蓄積されるものもあるが、多くは野良タナトスとしてアノミアに放出されるし……まあ、一概には言えないがな」
つまり、ちょっとした出来事かがきっかけとなり、アノミアに囚われるレベルを飛び越えて死の欲動に侵されることもある訳だ。
そして、そうなると、この現実世界で破壊衝動に身を任せて犯罪に走ってしまったり、自らを傷つけてしまったりしてしまうのだろう。
あの人が何故、というような行動はこれに由来するのかもしれない。
「しかし、溢れ出てくる、ですか」
その表現が気になって確認するように呟く。
「そうだ。生と死の欲動はどちらも生得的なもの。そして、死の欲動はより根底に存在しているものだ。私達はそれに生の欲動で蓋をして懸命に生きている。しかし、何かの拍子にその蓋、生の欲動が弱まれば、死の欲動が泉のように湧き出てくるのだ」
生の欲動が弱まる原因は色々と考えられるだろう。
人間関係。社会のしがらみ。根本的な生への疑問。あるいは、それこそ病や怪我でその部分の脳機能が阻害されることもあるかもしれない。
「ともかく具現したタナトスなど恐れるに足らん。内なる死の欲動の方が余程恐ろしいものだからな」
「それにアノミアで一番怖いのは奴等、だからね」
己刃が忌々しげに呟く。
奴等、とは今日対峙した彼等のことのようだ。
「彼等は何者なんですか?」
「敵だ。私達の最大の。奴等はグノーシス主義クリストイ派を名乗り、アノミアを神聖視している。それを世界の、即ち神の意思などと考え、世界をタナトスで満たそうとしているのだ。それが世界の死に繋がると理解しながら。奴等、グノーシスの使徒共は異端者でしかない!」
晶もまた同様に渋面で吐き捨てるように言う。
二人共、彼等への嫌悪は相当のもののようだ。
「グノーシス主義では、この宇宙を悪しき不完全な神が創造したものとしているの。そして、その創造物である物質、肉体を悪と考えている。結果、極端な禁欲主義か快楽主義のどっちかに傾くんだけど……」
「つまりグノーシス主義者にとって死は穢れた肉体からの解放、即ち救いになる訳だ。だが、だとしてもアノミアを神聖視するなどふざけている」
晶の声には苛立ちが募っていた。
「……この話は止めだ。胸糞が悪くなる。それよりも――」
その苛立ちを自覚しているのか、自制するように晶は話題を変えようとしていた。
「明日からの巡回はどうする?」
「私達はいつも通り街の巡回。だけど、明日だけは朝日奈君のために皆一緒で、ね」
「そうか。まあ、当然だな。井出教諭と森本教諭は基本学校を離れない訳だし。……本来なら、教諭達が朔耶と千影とやらを助けていただろうに、全く奴等のせいで!」
結局憤慨を抑え切れなかったのか、晶は、がん、とちゃぶ台を思い切り殴り、その痛みに顔を歪ませて涙目になっていた。
「はいはい。晶、その話はやめにしたんでしょ?」
どうどう、という感じで己刃に宥められ、晶はばつが悪そうに顔を背けてしまった。
彼女は不機嫌そうに口を噤み、一瞬部屋を微妙な沈黙が支配する。
ある程度話をしたとはいえ、さすがに初対面の相手との間の無言は気まずい。そう思って朔耶は何か話題の種はないかと部屋を見回した。
「あれ? 晶先輩、それって――」
視界に家で見慣れたものが入り、意識の焦点をそれに向ける。
「ん? おお、これか。これはな」
途端に晶は機嫌を直したように相好を崩し、それを両手で抱えた。
「やっぱり、時界天士ジン・ヴェルトの旧作版BDボックスじゃないですか」
何故この部屋にそれがあるのかは全く分からないが、彼女の手の中にあるのは間違いなくそれだった。
「ほう、朔耶。すぐに旧作版だと気づくとは、お前中々に通だな。驚いたぞ」
晶が勢いよく身を乗り出して、その青い瞳を爛々と輝かせる。
その表情はとても無邪気なもので外見相応。
言えば怒るかもしれないが、とても子供っぽくて可愛らしい。
彼女の動きにふわりと揺れた柔らかな髪から香る甘い匂いは幼さを感じさせる。
「俺も驚きましたよ。これがこんなところにあるなんて。晶先輩のですか?」
「いや、これは私のではない。実はあの作品の原作者は使徒の関係者らしくてな。そういう関係でここに置かれているらしい。私の調べたところによると、だがな」
晶の話に朔耶は驚いた。
思いがけない、というか随分と妙な形で昨日までの日常と現在の非日常との接点が出てきてしまった。
もしかすると日常と非日常の間にある壁は、実は非常に薄く脆いものなのかもしれない。
「勿論、家には同じものがあるぞ。この作品は私も大好きなのだ」
「へえ、よく買えましたね。全話一セットだから、いい値段するのに。俺なんかは貯金を注ぎ込んで何とか買いましたよ」
「ほう、朔耶も持っているのか。それは奇遇だな。私の場合は母上が誕生日に買ってくれたのだ。先にも言ったが、母上は大の日本好きでな。広く、深く様々なものを好んでいた。特に漫画やアニメ、これに連なる文化は世界に誇れると褒めていた。恐らく私の誕生日と言いながら自分も見たかったのだろうがな」
そう言って苦笑する晶の表情には微かに影が落ちていた。
しかし、初対面から深く踏み込む真似はできず、朔耶は深く追求しなかった。
「まあ、そういう訳で気づいた時には私もそういったものが好きになっていたのだ」
何はともあれ、趣味の部分で共通の話題を得たことで妙に親近感が湧く。
「あ、あのー、二人共……」
おずおずと声をかけられ、慌てて二人同時に振り向く。
すっかり己刃のことを失念していた。
忘れられていた彼女はどことなく寂しそうだ。
「あのね。まず先に巡回の話と連絡を終わらせちゃっていい?」
「あ、は、はい。すみません、己刃先輩」
失敗した。妙な印象を与えてしまったかもしれない。
そう思って、朔耶は心の中で溜息をついた。
本当に、つい話に夢中になってしまった。
晶の方も再び決まりが悪そうに視線を逸らしている。
「えっと、朝日奈君。明日はアノミアに入ったらすぐに校門まで来てね。そこで合流してから皆で街を巡回するから」
「はい。分かりました」
「後、この一週間以内に緊急招集がかかると思うから、それは覚悟しておいてね」
「はあ。召集、ですか?」
毎朝九時に起こるアノミアだけに注意していればいいのではないか、と首を傾げる。
そんな朔耶に対し、己刃は表情を引き締めて口を開いた。
「これは照屋さんを甦らせることにも関係あるんだけど――」
その言葉にハッとして彼女の声に全神経を集中させる。
「あの時、彼女のデュナミス――魂の欠片はグノーシスの使徒だけでなく、タナトスにも奪われていたの」
「ちなみに、デュナミスとはタナトスによって破壊された魂、その欠片のことだ」
晶が補足してくれるが、逆に特別な名を持つ理由を疑問に感じてしまう。
彼女はそれを察知したように補足を続けてくれた。
「本来、アノミアで死ぬと魂は即座に世界に還元される。だが、タナトスに殺された場合は、アノミアの時間で三日間維持され、その後四〇日をかけて還元される。どういう仕組みかは知らないが、そうなる理由は恐らくタナトスが必要としているから、だろうな」
「えっと、あの、タナトスが必要としている、ってどういうことですか? あれってアノミアにいる人間を殺すだけじゃ……」
「それだけじゃないの。タナトスはデュナミスを得ようとする。魂は精神と肉体を繋ぐものだから。タナトスはそれを利用して、この現実世界とアノミアを一時的に繋げてアノミアに似た中間的な世界、擬似アノミアを作り、そこに顕現しようとする。存在全てに死を与えるためにね」
その言葉に朔耶は衝撃を受けた。
タナトスがこの現実にまで侵食してくる危険な存在だとは思っていなかった。
アノミアに迷い込んでしまった者の安否だけを気にかければいい訳ではないようだ。
「迷い子を守ると同時にタナトスを殲滅する。それはこのためでもある。ちなみにグノーシスの使徒共がそれを狙うのは、アノミアと現実世界を統合することによって世界そのもののタナトスを具現化し、この宇宙、森羅万象を殺すためだ」
冷静を装っているが、やはり晶は彼等を相当嫌っているようで、その表情からは激しい嫌悪感が伝わってきた。隣の己刃も彼女と同じように眉をひそめている。
「森羅万象を殺す……」
どこのゲームのラスボスかと思う。
まさか、世界を滅ぼすなどという物語染みたことを実際になそうとする者がいるとは夢にも思わなかった。できる可能性があるからと言って、そんなことを現実に行おうとするなど正気の沙汰ではない。
己刃は嫌悪を全て吐き出すように一つ息を吐いてから口を開いた。
「で、話は戻るんだけど、照屋さんのデュナミスを持ったタナトスが一週間以内に擬似アノミアを形成して顕現するはずだから」
それで召集がある、ということのようだ。
「そのタナトスを倒せば、デュナミスを取り戻せる、という訳だ。その後は……分かっているな?」
晶の確認に頷いて答える。
その後更に、グノーシスの使徒と呼ばれる彼等から千影のデュナミスを奪い返すことができれば、千影と共にまた日常を過ごせるようになるかもしれないのだ。
それはかつての日常とは大きく異なるものに違いない。しかし、それでも彼女が確かに存在してくれるなら、傍にいてくれるなら、きっと変わらず歩んでいけるはずだ。
「とりあえず、これで今日しないといけない話は全部、かな。ごめんね。折角二人で楽しく話しているところを途中で邪魔しちゃって。後にして忘れると困るから」
申し訳なさそうにする己刃に、慌ててそんなことはないと手を振る。
「そんな、俺の方こそ、ついはしゃいじゃって。すみません。それに千影のために何をすればいいのか教えて貰えてよかったです」
「己刃の生真面目さには慣れているからな。私にまで謝る必要はないさ」
朔耶と晶がそう言うと己刃は安堵したように、うん、と頷いた。
晶の評価通り、どうにも己刃は根が真面目のようだ。
「あの、ところで、その召集っていうのは授業中にもあり得るんですか?」
「ん? ああ、そうだな。可能性はある。タナトスが現実化するタイミングは、経験則で一週間以内と分かっているが時間帯はランダムだからな。しかし、心配するな。授業中に発生ても公欠扱いになるし、その上、体を張る訳だから特別な手当も出る」
「と、特別な手当ですか?」
何だか、いきなり俗っぽくなった気がして朔耶は首を傾げた。
「そう。アフェシス派の教会からね。私達使徒の生活を全面的にサポートしてくれるの」
「代わりに、まあ、滅多にはないが、欠員が出た地区に突然転勤、転校させられることもあるがな。大分前、それで一人男の使徒がなって早々に転校していった。あれは力が弱かったせいというのもあるが」
「じゃあ、この学校もそのサポートの一端を?」
「そうだ。だからこそ、公欠などという扱いも可能な訳だ。そして、それだけアフェシス派は潤沢な資金を持っているということでもある」
晶はそこまで言ってから何かを思い出したように声を潜めた。
「……ちなみに、旧作版ジン・ヴェルトで大量の火薬が惜しげもなく使われた理由や当時は微妙な人気だったにもかかわらずリメイクされた理由もそこにある。単純にスポンサーに金があったからだ」
「そ、それは、何とも……」
リメイクでは真っ当に人気が出たのだから、と朔耶はその辺りのことは目を瞑っておくことにした。
「あ、そろそろ下校時間だね」
「もうそんな時間か。朔耶、どうする? 別にもうしばらくここにいてもいいが」
「い、いえ、今日のところは帰ります。けど、先輩方はどうするんですか?」
「私達はこの学校に住んでいるからな」
「は、はい?」
晶の言葉を一瞬理解できず思考が止まる。
「だから、この棟の地下は私達使徒の住居となっているのだ。そこの開かずの扉の先に地下に繋がる階段とエレベーターがあるぞ」
「え、ええ!? じゃあ、あの七不思議って」
「ああ、私達が原因だろうな。全く迷惑な話だ」
「私達、じゃなくて、晶があの部屋の電気をつけっ放しにしたからでしょ?」
「む、そ、そうだったか?」
突っ込む己刃に対してとぼける晶。
確かに人が存在するのであれば、光が漏れていても不思議はない。
しかし、七不思議の噂の方が似たような話をよく聞く分現実味があるように錯覚してしまうのは、それだけ現実が非常識な上に珍しいからだろう。
「何なら見学していくか? かなり住み心地はいいぞ。ちゃんと風呂もトイレもキッチンも個人用で完備しているしな。私物だがテレビもゲームもある」
「い、いえ、それはまた次の機会に。今日は帰ります。何だか疲れたので」
「そうか。まあ、それはそうだろうな。今日はゆっくり休むといい」
「はい、ありがとうございます」
「うむ。では、また明日だ。朔耶」
「じゃあね。朝日奈君」
「はい。先輩方、また明日」
小さく手を振る己刃と横柄に頷く晶に一礼してその部屋を出る。
そして、二人には届かないように静かに息を吐く。
「今日は色々と、あり過ぎたな」
絶望、怒り、無力感、そして提示された救い。亀裂の入った日常。
今日経験した感情の起伏は一生でもそうないものだろう。大分落ち着いた今でも、まだ本当に冷静な思考は取り戻せていないかもしれない。
それでも一つ確かなことはある。感情も理屈もそれを支持している。
必ず千影を取り戻すこと。
この先常識では考えられない事態がいくつも訪れるかもしれない。しかし、その意思は全ての道標となってくれるに違いない。
そう。薄氷の上に立つ日常、千影のいない時間の中であっても。
そのままの体勢で隣を盗み見ると、今日の朝まで千影の後ろに座っていた男子がさも当然のように帰り支度をしている。
その光景に、千影が世界から忘れ去られた事実を突きつけられているように感じ、朔耶は今日何度ついたか知れない溜息をまたついてしまった。
恐らく誰の記憶にも彼女の姿は残っていないだろう。
だろう、と確証がないのは、誰にも尋ねられなかったからだ。
しかし、休み時間に和也と交わした会話から、彼の記憶に千影が含まれていないことは感じ取れた。
朔耶を通して、たまに一緒に遊んでいた仲の和也でさえ彼女を忘れてしまっているのだから、他のクラスメイトが覚えているはずがない。
正直、今日程授業を苦痛に感じたことはなかった。
もしもパウロから、千影を甦らせられるかもしれない、と聞いていなかったら、己刃に注意されていても大きく取り乱し、結果このクラスでの居場所を失っていたに違いない。
「朔耶、大丈夫か?」
そこへ帰る準備万端という感じの和也が心配そうに声をかけてくれる。
「昼よりも調子悪そうだけど、本当に、早退した方がよかったんじゃないか?」
「いや、大丈夫だよ」
何とか普段通りの笑顔を作ろうとしながら答えると、そうか、と和也は困ったように苦笑した。
やはりぎこちない笑みになっているようだ。
「あー、もしかして、あれか? 昨日、陽菜がはしゃぎ過ぎたせいか?」
「そ、そんなことないって」
和也はそんな朔耶を前に、むしろ冗談めかして悪戯っぽく言った。
普段はそんな彼に釣られて自然と笑みも浮かぶが、今日ばかりは上手く合わせられなかった。
彼が改変された昨日の出来事を話題に出したこともそうだが、それ以上にアノミアから戻り、彼の顔を見た瞬間、一つ思い出してしまったことがあったためだ。
それは、彼には姉がいた、ということだ。
三年もの間、そんな当たり前に知っていた事実を忘却し続けていた。
つまり彼女は三年前にアノミアで死んでいた訳だ。
身近に潜んでいたアノミアの影響。
家族である和也、陽菜、そして彼等の両親も思い出せずにいる事実を知り、知っていながら決して言うことができないもどかしさと申し訳なさ。
改めて、朔耶はかの現象の本当の恐ろしさを知った気がした。
「朝日奈君、早く机下げて」
掃除当番の女子に注意され、謝りながら慌てて机を教室の後ろに下げる。
それから、朔耶は和也と共に廊下に出た。
「あ、いたいた」
と、丁度廊下の少し先から聞き覚えのあるはきはきした声が届き、まだ教室前の辺りにいたクラスメイト達がほぼ同時にその方向へと意識を向ける。
「全く探しちゃったよ。何組か聞いていなかったから」
彼女、鳴瀬己刃は朔耶の目の前で立ち止まると安堵したように微笑んだ。
確実に美人に属する彼女がそんな卑怯とも言える表情をすると、男子は目で追ってしまうに違いない。
「さ、朝日奈君、行こっか」
だから、そんなことを言われては周囲が軽くざわつくのも必然だ。
何か妙な噂にならなければいいが。朔耶はそう思いつつ、ふと間近から感じた視線に顔をその方へと向けると、和也が驚いたように朔耶と己刃を見比べていた。
「お、おいおい、お前、いつの間に……ってか、一体誰だ? 新しい特撮仲間か?」
「と、特撮、仲間?」
意味がよく分からない、という感じの戸惑ったような表情をする己刃。
さすがに知り合って間もない状態の相手にいきなりその手の趣味の話はまずい。
布教するにしても手順があるのだから。いや、それは今関係ないが。
「先輩だよ」
その言葉に和也は驚きを体で表すように大袈裟に仰け反った。
リボンの色から分かるだろうに和也がそんな反応をするので、己刃は困惑の色を強めていた。
「え、えーっと、君、朝日奈君の友達? ちょっと急ぎの用事があるから、もしも何か予定があったのなら、ごめんね」
「え? あ、いえいえ、別に大丈夫です。今日は特に約束はしてないし。あ、でも、こいつ、体調が少し悪いみたいなんで、もしそんなに重要な用事じゃないなら家に帰してやって下さい」
「だから、大丈夫だって」
「ま、そういうことにしておいてやるよ。でも、何があったのかは知らないけど、余り抱え込むなよ? 俺や陽菜はいくらでも相談に乗るからな? んじゃ、朔耶。また明日」
和也は途中まで真剣な口調で、最後だけ普段通りの口調に戻して言うと、片手を軽く上げながら背を向けてその場から去っていった。
「いい友達、みたいだね。……っと、それはともかく、体調、悪いの?」
己刃が心配そうに至近距離で顔を見上げてくるので、朔耶は一歩後退りしつつ答えた。
「や、それは、その、千影が皆から忘れられているのが少々ショックでして……」
内容が少し女々しいような気がして尻すぼみになる。
周囲にはクラスメイトの喧騒があり、声もひそめていたため、もはや言葉尻は自分にも聞こえない程に小さくなっていた。
「……そ、っか。そう、だよね」
しかし、己刃はしっかりと内容を把握したらしく申し訳なさそうに呟いた。
「あの、己刃先輩。それより、これからどうするんですか?」
重苦しい雰囲気になるのを嫌って、朔耶はなるべく明るい声で尋ねた。
「あ、うん。私について来てくれる?」
己刃の確認に、はい、と頷いて、歩き出した彼女の後に続く。
正門から見て右にある高校と左にある中学校の校舎の繋ぎ目、礼拝堂や職員室がある中央の棟の二階に至り、そこから一階へと向かう。
靴を変えずに棟を行き来するには二階の渡り廊下を使用するしかない。
この中央棟、管理棟の一階には開かずの扉が存在し、その先を見た者はいないと言われている。
時折、宿直の先生や警備員がその扉から光が漏れているのを目撃しており、それが噂を呼んで学校の七不思議の一つになっていたりする。
曰く、校則違反者を罰する独房がある。
曰く、学校を隠れ蓑にした秘密組織の隠れ家がある。
曰く、非合法の研究が行われている。などなど妙な噂も流れている。
「ここよ」
己刃が目線で示したのは、一階の奥まったところにある教員の休憩室のさらに一つ奥の部屋だった。
その先には件の開かずの扉が何かの秘密を封じている。
それはともかく、己刃の視線を辿るとその部屋の入口に書かれた文字が目に入った。
「学院会、室? 何ですか? 学院会って」
「えっと、私達使徒――アノミアで力を得た人をそう呼んでいる、と言うより、昔の人が自称したんだけど、この学校の使徒が所属する組織のことよ。まあ、部活の体裁でカムフラージュしているんだけど」
「は、はあ」
となると、この部屋は部室のようなものか。
「使徒はここに集まって、アノミアでの巡回のローテーションを決めたり、今日襲ってきた人達への対策を考えたりするの」
「え、なら先輩以外にも生徒で、その、使徒の人って沢山いるんですか?」
「ううん、今は私と朝日奈君を除くと、生徒で使徒は一人だけ。先生は結構忙しいし、だから、実際のところ普段は二人で雑談しているぐらいなんだけどね」
己刃はそう言うと決まりが悪そうに頬をかいた。
「成程……って、うわっ!」
学院会室の前で話していると、その扉がいきなり開かれる。
引き戸の教室とは違って外開きのドアだったため、鼻先を物凄い勢いで扉がかすめていき、朔耶は驚いて一歩二歩と後退してしまった。
突然のことに心臓も早鐘を打つ。
「己刃、遅いぞ!」
そこから出てきたのは尊大な物言いをする少女。
小柄な千影といい勝負どころか完全に圧勝の、色々な部分が小さい女の子だった。
髪の毛はブロンドでふわふわしているが、それとは対照的に吊り目がちな碧眼からはプライドが高そうな雰囲気がびしびしと感じ取れる。
その容貌が日本人離れした西洋の人形のような美しさを湛えていることからも、少なくとも生粋の日本人でないことは確かだろう。
「ん? 誰だ、こいつは」
彼女は今気づいたというように朔耶へとその澄んだ青色の瞳を向けた。
制服のリボンから高校生、しかも三年生だと分かる。
つまり、こんななりでも朔耶より一つ年上ということだ。
一つ服装で特徴的なのは、そのほっそりした足は白いタイツで包まれているという点か。
「今日から仲間に加わった朝日奈朔耶君よ、晶」
「ほう。そうか。まあ、立ち話もなんだ。入れ」
簡潔に言って部屋に引っ込む晶と呼ばれた少女に従い、己刃に続いて中に入る。
そこは入ってすぐに一段床が高くなっていて、その上は畳張りだった。
靴を脱ぐスペースには晶のものらしい小さ目の上履きが変に潰れた状態で置かれている。
どうやら彼女はそれを足場にしてドアを開けていたようだ。
やや緊張しつつ畳に上がると己刃が奥から座布団を二枚持ってきて、部屋の中央に据えられたちゃぶ台の前に敷いた。
「あ、ありがとうございます」
己刃に礼を言ってそこに正座すると、座布団の配置のために真正面に晶が座る形になっていた。
彼女は、一本芯が入ったように綺麗に正座する己刃とは全く対照的にあぐらをかいていた。
座り方から何となく性格が分かる気がする。
「さて、まずは自己紹介と行くか。私は橘晶。三年C組だ。勿論、高校のだぞ?」
改めて本人の口から利かされても、内心では彼女が先輩であるという事実を信じられずにいたが、朔耶は表情には出さないように心の内で抑え込んだ。
この手の人は外見で判断されるのを嫌う傾向にあるはずだ。多分。
「に、二年C組の朝日奈朔耶です。よろしくお願いします、橘先輩」
「橘先輩はちょっと硬いな。仲間になるのだから、名前の方で呼んでくれ」
晶はにやりと悪戯っぽく笑った。
尊大そうなのは口調と目つきだけで、案外親しみ易い人なのかもしれない。
ちゃぶ台に肘をついて、あぐらなんかかいている訳だし。
「は、はい。分かりました。晶先輩」
朔耶はそう言いつつ、よく考えたら己刃のことも己刃先輩と呼んでいたが、それでいいのだろうか、と今更思って己刃を見た。
名字よりも先に名前を知ったため、彼女を最初に呼んだ時、つい名前が口に出てしまった。
それ以来、そのまま呼んでいたのだが。
「どうしたの? ……あ、そう! そうなの。朝日奈君が考えている通り、晶はハーフなんだよ。日本人とお父さんとイギリス人のお母さんの」
「は、はあ、そうなんですか」
己刃は何故か嬉しそうに見当違いの返答をした。どうやら彼女は呼び方を特に気にしていないようなので、今更態々問題にする必要はないか。
しかし、晶はやはりハーフだったらしい。
「でも、日本語しか喋れないんだよね?」
己刃が少し意地悪く言うと晶はむっと不満そうに顔をしかめ、それから諦めたように深く嘆息した。
「母上が大の日本好きでな。父上と話をする時も日本語ばかりだった。そのせいで私も日本語しか話せないのだ。しかも、気がついた時にはこの口調だ。まあ、そのこと自体は別にいいのだが、この外見とそのせいで昔は下らないことを言われたものだ」
彼女は腕を組み、そんな過去を射抜くように虚空を睨みつけていた。
細かな差異が争いを作る。現実もそうだし、フィクションでも題材にされる。
有り触れた構造だが、克服できないのは人間の愚かさ故か。
「っと、そんなつまらん話はどうでもいいな。それで、お前の力はどの程度だ? せめて『力天』ぐらいあれば私達も楽になるのだが。ちなみに私は己刃と同じく『座天』だ。どうだ。凄いだろう」
「へ? え、えっと……それ、何です?」
断崖のような胸を精一杯に張った晶だったが、言葉の意味がよく分からない。
困惑しつつ朔耶がそう尋ねた途端、晶は顔を急激に紅潮させて己刃を睨んだ。
「ご、ごめん。まだ、概要の概要しか話してなかったから」
「う、うぅ、これでは私が痛い人間みたいではないか。馬鹿みたいではないか」
ばんばんと本当に恥ずかしそうにちゃぶ台を叩く晶。
何と言うか、体つきが幼いせいで子供が駄々をこねているように見えて何となく微笑ましい。
「い、今、ちゃんと説明するから、ね?」
己刃が宥めるように言うと、晶は台を叩く手を止めて唇をへの字に曲げながら頷いた。
「えっと、まず天使に九つの位階があるのって知っているかな?」
「ああ、あれですか? セラフィムとかケルビムとか」
「そうそう。朝日奈君、博識だね」
「い、いえ、それは、まあ――」
それは勿論、漫画やゲームによく登場する単語だから知っていただけのことだ。
が、どうやら己刃にはそういう方面の知識は全くないようだ。
天使の位階は九つある。上から熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、そして、天使だ。
己刃と晶がそうだという『座天』はそれに倣うなら上から三番目。それがどれ程のものかは分からないが、晶の口振りだとかなり高い位階のようだ。
「それで、私達の力の強さをその位階に当てはめて評価しているの。その上でそれに基づいて、戦力が地域毎に固まらないように調整している訳」
「まあ、ここは重要な拠点だから、ある程度戦力を集中させているのだがな」
機嫌を直したのか己刃の言葉に補足を加える晶。
「それで、朔耶の位階は何だ?」
先程の気まずさを誤魔化そうとしているのか、偉ぶるように腕を組んで晶が尋ねる。
朔耶は何も聞いていなかったため、己刃に視線を向けた。
すると、彼女は真剣そのものの表情で口を開いた。
「私が見たところだと『守護』だね」
「何? それは本当なのか?」
位階に『守護』はないじゃないか、と思った朔耶を余所に、驚愕で目を開く晶に己刃はアノミア内での出来事を語り始めた。朔耶からの伝聞の部分も含めて。
話が進んでいくにつれ、晶は神妙な顔つきになっていく。
その間、朔耶は千影のことを想いながら、時折自分の左手を見詰めていた。
「成程、な。それならば『守護』というのも頷ける」
実際に頷きながら言う晶の目には一瞬だけ憐憫が過ぎった。
「朔耶、お前も中々辛い経験をしたようだな。しかし、取り戻せる可能性がある以上、俯いている暇はない。しっかりと前を向いてその機会を掴むのだぞ。私も手伝ってやる」
「は、はい。ありがとうございます」
「何、感謝される程のことではない。私はお前が気に入った。それだけのことだ」
大事な人を守れなかった情けない話で何を気に入ったというのか、と疑問に思う。
すると、それが表情に出ていたのか、晶は屈託なく笑った。
「何故、と言いたそうな顔をしているな。……それはな。お前が『守護』の位階に属するからだ。何より大事な女のために力を得たというのがまたいい。私はそういう話が好きなのだ。実にヒーローっぽい」
失敗しているじゃないか、という突っ込みは自分にダメージが来るので呑み込む。
「は、はあ。いや、でも『守護』って位階にないですよね?」
「ああ。それは位階で言えば天使に相当するものだ。位階には共通して天使という言葉が後ろにつくからな。天使の位階なのだから当然と言えば当然のことなのだが」
「それは、まあ、そうですね」
「うむ。それで区別するためにそう呼んでいるのだ。実際、守護天使という奴は天使に属する天使、ややこしいな。とにかく、それが勤めることがほとんどらしいしな」
「成程……って、それ、最下位じゃないですか」
弱い自分には適当な位階かもしれないとも思ったが、しかし、いざ順位をつけられて最下位なのは嫌なのが人情というものだろう。
「まあ、実際単純な戦闘力では一番弱いからな」
言葉の内容とは裏腹に、晶は決して馬鹿にした風ではなく全く真面目な表情で言った。
「実はね。位階は基本『熾天』『智天』『座天』『主天』『力天』『能天』『権天』『大天』の八つしか使われないの。純粋な戦闘力の優劣としては、ね」
「なら、『守護』は?」
「力を得るには求めが必要だと聞いただろう? そして、ああいった状況での求めは二つに大別される。即ち周囲の脅威を排除し尽くすための求めと、自分を含めた誰かを守るための求めだ」
確かにあの状況では二つに一つだ。朔耶は納得して頷いた。
「そして、前者は死の欲動と結びつき、後者は生の欲動と結びつく。『守護』は後者によって力を得た者を指す訳だ」
流れるように話していた晶は一旦言葉を区切って一息ついた。
「そいつは特殊な能力を持つことが多いのだ。だから区別され、能力によっては重宝される。アノミアにあった私達の教会も『守護』の使徒が過去に作ったものらしい」
「朝日奈君の能力は、精神と魂の保管、かな」
己刃はそう言うと何故か微かに目を逸らすようにして、瞳を自虐の色で染めながら言葉を続けた。
「普通アノミアに入る時は一人きりの時が多いし、タナトスの脅威に晒された上で力を求めるから、ほとんど相手を攻撃するのが主目的の力が生まれるの。でも、朝日奈君の場合は状況が状況だったから、ね」
千影を死なせたくない。そんな想いによって求められ、生じた力。
だから、己刃の言ったような能力になったようだ。
それだけ千影を特別に想っていたのだと実感する。
「まあ、そういうことだ。戦闘は私達に任せ、朔耶は朔耶の目的を果たすといい」
晶はそう言うが、正直不安が募る。
少々特別な能力を持っていても戦闘力は最弱。
それでは目的を果たす以前に、タナトスにすら負けてしまうのではないか、と。
その疑問をそのまま晶にぶつけると、彼女は朔耶を安心させようとしているかのように自信に溢れた笑顔を見せた。
「使徒であればタナトスにはまず負けない。それに私達もいる。だから、心配するな」
「でも、タナトスは死の欲動が具現化したものなんですよね。なら、それの度合いによって強くなるんじゃないですか?」
一度目の時と二度目の時。朔耶から具現化したタナトスは大きさも恐らく強さも違っていた。それはつまりそういうことではないか。
「確かに朔耶の言う通りだ。が、使徒からすれば野良タナトスなど物の数ではないし、私達の手に余るような強大なタナトスを生む程の死の欲動を抱いている者は、既にアノミアに入る前に狂い、どこかで自殺しているか、誰かを傷つけて身を滅ぼしているさ。死の欲動とはそういうものだ」
どこか他人事のように、諦めたように晶は言った。
しかし、それも当然のことだ。
使徒などと言っても、結局は具現化したタナトスを滅ぼしているだけ。
実際に死の欲動に囚われている誰かを直接救うことなどできはしない。
その全てを救うことができるとすれば、社会そのものが持つ力以外にはないだろう。
「……成程。言われてみれば、そう、かもしれません。けど、だったら、その段階に至る前にアノミアに入るはずじゃないですか?」
破壊衝動に身を任せる段階よりも、アノミアに落ちる段階の方が死の欲動のレベルが低いのなら、身を滅ぼす前にアノミアに囚われてもおかしくないはずだが。
「死の欲動は個人の気分、感情だけで決まるものではない。当人を取り巻く環境如何で急激に増減する複合的なものだ。例えば満月の日に事故や事件が増えるように、様々な要因で突然溢て出てきたりする。勿論、蓄積されるものもあるが、多くは野良タナトスとしてアノミアに放出されるし……まあ、一概には言えないがな」
つまり、ちょっとした出来事かがきっかけとなり、アノミアに囚われるレベルを飛び越えて死の欲動に侵されることもある訳だ。
そして、そうなると、この現実世界で破壊衝動に身を任せて犯罪に走ってしまったり、自らを傷つけてしまったりしてしまうのだろう。
あの人が何故、というような行動はこれに由来するのかもしれない。
「しかし、溢れ出てくる、ですか」
その表現が気になって確認するように呟く。
「そうだ。生と死の欲動はどちらも生得的なもの。そして、死の欲動はより根底に存在しているものだ。私達はそれに生の欲動で蓋をして懸命に生きている。しかし、何かの拍子にその蓋、生の欲動が弱まれば、死の欲動が泉のように湧き出てくるのだ」
生の欲動が弱まる原因は色々と考えられるだろう。
人間関係。社会のしがらみ。根本的な生への疑問。あるいは、それこそ病や怪我でその部分の脳機能が阻害されることもあるかもしれない。
「ともかく具現したタナトスなど恐れるに足らん。内なる死の欲動の方が余程恐ろしいものだからな」
「それにアノミアで一番怖いのは奴等、だからね」
己刃が忌々しげに呟く。
奴等、とは今日対峙した彼等のことのようだ。
「彼等は何者なんですか?」
「敵だ。私達の最大の。奴等はグノーシス主義クリストイ派を名乗り、アノミアを神聖視している。それを世界の、即ち神の意思などと考え、世界をタナトスで満たそうとしているのだ。それが世界の死に繋がると理解しながら。奴等、グノーシスの使徒共は異端者でしかない!」
晶もまた同様に渋面で吐き捨てるように言う。
二人共、彼等への嫌悪は相当のもののようだ。
「グノーシス主義では、この宇宙を悪しき不完全な神が創造したものとしているの。そして、その創造物である物質、肉体を悪と考えている。結果、極端な禁欲主義か快楽主義のどっちかに傾くんだけど……」
「つまりグノーシス主義者にとって死は穢れた肉体からの解放、即ち救いになる訳だ。だが、だとしてもアノミアを神聖視するなどふざけている」
晶の声には苛立ちが募っていた。
「……この話は止めだ。胸糞が悪くなる。それよりも――」
その苛立ちを自覚しているのか、自制するように晶は話題を変えようとしていた。
「明日からの巡回はどうする?」
「私達はいつも通り街の巡回。だけど、明日だけは朝日奈君のために皆一緒で、ね」
「そうか。まあ、当然だな。井出教諭と森本教諭は基本学校を離れない訳だし。……本来なら、教諭達が朔耶と千影とやらを助けていただろうに、全く奴等のせいで!」
結局憤慨を抑え切れなかったのか、晶は、がん、とちゃぶ台を思い切り殴り、その痛みに顔を歪ませて涙目になっていた。
「はいはい。晶、その話はやめにしたんでしょ?」
どうどう、という感じで己刃に宥められ、晶はばつが悪そうに顔を背けてしまった。
彼女は不機嫌そうに口を噤み、一瞬部屋を微妙な沈黙が支配する。
ある程度話をしたとはいえ、さすがに初対面の相手との間の無言は気まずい。そう思って朔耶は何か話題の種はないかと部屋を見回した。
「あれ? 晶先輩、それって――」
視界に家で見慣れたものが入り、意識の焦点をそれに向ける。
「ん? おお、これか。これはな」
途端に晶は機嫌を直したように相好を崩し、それを両手で抱えた。
「やっぱり、時界天士ジン・ヴェルトの旧作版BDボックスじゃないですか」
何故この部屋にそれがあるのかは全く分からないが、彼女の手の中にあるのは間違いなくそれだった。
「ほう、朔耶。すぐに旧作版だと気づくとは、お前中々に通だな。驚いたぞ」
晶が勢いよく身を乗り出して、その青い瞳を爛々と輝かせる。
その表情はとても無邪気なもので外見相応。
言えば怒るかもしれないが、とても子供っぽくて可愛らしい。
彼女の動きにふわりと揺れた柔らかな髪から香る甘い匂いは幼さを感じさせる。
「俺も驚きましたよ。これがこんなところにあるなんて。晶先輩のですか?」
「いや、これは私のではない。実はあの作品の原作者は使徒の関係者らしくてな。そういう関係でここに置かれているらしい。私の調べたところによると、だがな」
晶の話に朔耶は驚いた。
思いがけない、というか随分と妙な形で昨日までの日常と現在の非日常との接点が出てきてしまった。
もしかすると日常と非日常の間にある壁は、実は非常に薄く脆いものなのかもしれない。
「勿論、家には同じものがあるぞ。この作品は私も大好きなのだ」
「へえ、よく買えましたね。全話一セットだから、いい値段するのに。俺なんかは貯金を注ぎ込んで何とか買いましたよ」
「ほう、朔耶も持っているのか。それは奇遇だな。私の場合は母上が誕生日に買ってくれたのだ。先にも言ったが、母上は大の日本好きでな。広く、深く様々なものを好んでいた。特に漫画やアニメ、これに連なる文化は世界に誇れると褒めていた。恐らく私の誕生日と言いながら自分も見たかったのだろうがな」
そう言って苦笑する晶の表情には微かに影が落ちていた。
しかし、初対面から深く踏み込む真似はできず、朔耶は深く追求しなかった。
「まあ、そういう訳で気づいた時には私もそういったものが好きになっていたのだ」
何はともあれ、趣味の部分で共通の話題を得たことで妙に親近感が湧く。
「あ、あのー、二人共……」
おずおずと声をかけられ、慌てて二人同時に振り向く。
すっかり己刃のことを失念していた。
忘れられていた彼女はどことなく寂しそうだ。
「あのね。まず先に巡回の話と連絡を終わらせちゃっていい?」
「あ、は、はい。すみません、己刃先輩」
失敗した。妙な印象を与えてしまったかもしれない。
そう思って、朔耶は心の中で溜息をついた。
本当に、つい話に夢中になってしまった。
晶の方も再び決まりが悪そうに視線を逸らしている。
「えっと、朝日奈君。明日はアノミアに入ったらすぐに校門まで来てね。そこで合流してから皆で街を巡回するから」
「はい。分かりました」
「後、この一週間以内に緊急招集がかかると思うから、それは覚悟しておいてね」
「はあ。召集、ですか?」
毎朝九時に起こるアノミアだけに注意していればいいのではないか、と首を傾げる。
そんな朔耶に対し、己刃は表情を引き締めて口を開いた。
「これは照屋さんを甦らせることにも関係あるんだけど――」
その言葉にハッとして彼女の声に全神経を集中させる。
「あの時、彼女のデュナミス――魂の欠片はグノーシスの使徒だけでなく、タナトスにも奪われていたの」
「ちなみに、デュナミスとはタナトスによって破壊された魂、その欠片のことだ」
晶が補足してくれるが、逆に特別な名を持つ理由を疑問に感じてしまう。
彼女はそれを察知したように補足を続けてくれた。
「本来、アノミアで死ぬと魂は即座に世界に還元される。だが、タナトスに殺された場合は、アノミアの時間で三日間維持され、その後四〇日をかけて還元される。どういう仕組みかは知らないが、そうなる理由は恐らくタナトスが必要としているから、だろうな」
「えっと、あの、タナトスが必要としている、ってどういうことですか? あれってアノミアにいる人間を殺すだけじゃ……」
「それだけじゃないの。タナトスはデュナミスを得ようとする。魂は精神と肉体を繋ぐものだから。タナトスはそれを利用して、この現実世界とアノミアを一時的に繋げてアノミアに似た中間的な世界、擬似アノミアを作り、そこに顕現しようとする。存在全てに死を与えるためにね」
その言葉に朔耶は衝撃を受けた。
タナトスがこの現実にまで侵食してくる危険な存在だとは思っていなかった。
アノミアに迷い込んでしまった者の安否だけを気にかければいい訳ではないようだ。
「迷い子を守ると同時にタナトスを殲滅する。それはこのためでもある。ちなみにグノーシスの使徒共がそれを狙うのは、アノミアと現実世界を統合することによって世界そのもののタナトスを具現化し、この宇宙、森羅万象を殺すためだ」
冷静を装っているが、やはり晶は彼等を相当嫌っているようで、その表情からは激しい嫌悪感が伝わってきた。隣の己刃も彼女と同じように眉をひそめている。
「森羅万象を殺す……」
どこのゲームのラスボスかと思う。
まさか、世界を滅ぼすなどという物語染みたことを実際になそうとする者がいるとは夢にも思わなかった。できる可能性があるからと言って、そんなことを現実に行おうとするなど正気の沙汰ではない。
己刃は嫌悪を全て吐き出すように一つ息を吐いてから口を開いた。
「で、話は戻るんだけど、照屋さんのデュナミスを持ったタナトスが一週間以内に擬似アノミアを形成して顕現するはずだから」
それで召集がある、ということのようだ。
「そのタナトスを倒せば、デュナミスを取り戻せる、という訳だ。その後は……分かっているな?」
晶の確認に頷いて答える。
その後更に、グノーシスの使徒と呼ばれる彼等から千影のデュナミスを奪い返すことができれば、千影と共にまた日常を過ごせるようになるかもしれないのだ。
それはかつての日常とは大きく異なるものに違いない。しかし、それでも彼女が確かに存在してくれるなら、傍にいてくれるなら、きっと変わらず歩んでいけるはずだ。
「とりあえず、これで今日しないといけない話は全部、かな。ごめんね。折角二人で楽しく話しているところを途中で邪魔しちゃって。後にして忘れると困るから」
申し訳なさそうにする己刃に、慌ててそんなことはないと手を振る。
「そんな、俺の方こそ、ついはしゃいじゃって。すみません。それに千影のために何をすればいいのか教えて貰えてよかったです」
「己刃の生真面目さには慣れているからな。私にまで謝る必要はないさ」
朔耶と晶がそう言うと己刃は安堵したように、うん、と頷いた。
晶の評価通り、どうにも己刃は根が真面目のようだ。
「あの、ところで、その召集っていうのは授業中にもあり得るんですか?」
「ん? ああ、そうだな。可能性はある。タナトスが現実化するタイミングは、経験則で一週間以内と分かっているが時間帯はランダムだからな。しかし、心配するな。授業中に発生ても公欠扱いになるし、その上、体を張る訳だから特別な手当も出る」
「と、特別な手当ですか?」
何だか、いきなり俗っぽくなった気がして朔耶は首を傾げた。
「そう。アフェシス派の教会からね。私達使徒の生活を全面的にサポートしてくれるの」
「代わりに、まあ、滅多にはないが、欠員が出た地区に突然転勤、転校させられることもあるがな。大分前、それで一人男の使徒がなって早々に転校していった。あれは力が弱かったせいというのもあるが」
「じゃあ、この学校もそのサポートの一端を?」
「そうだ。だからこそ、公欠などという扱いも可能な訳だ。そして、それだけアフェシス派は潤沢な資金を持っているということでもある」
晶はそこまで言ってから何かを思い出したように声を潜めた。
「……ちなみに、旧作版ジン・ヴェルトで大量の火薬が惜しげもなく使われた理由や当時は微妙な人気だったにもかかわらずリメイクされた理由もそこにある。単純にスポンサーに金があったからだ」
「そ、それは、何とも……」
リメイクでは真っ当に人気が出たのだから、と朔耶はその辺りのことは目を瞑っておくことにした。
「あ、そろそろ下校時間だね」
「もうそんな時間か。朔耶、どうする? 別にもうしばらくここにいてもいいが」
「い、いえ、今日のところは帰ります。けど、先輩方はどうするんですか?」
「私達はこの学校に住んでいるからな」
「は、はい?」
晶の言葉を一瞬理解できず思考が止まる。
「だから、この棟の地下は私達使徒の住居となっているのだ。そこの開かずの扉の先に地下に繋がる階段とエレベーターがあるぞ」
「え、ええ!? じゃあ、あの七不思議って」
「ああ、私達が原因だろうな。全く迷惑な話だ」
「私達、じゃなくて、晶があの部屋の電気をつけっ放しにしたからでしょ?」
「む、そ、そうだったか?」
突っ込む己刃に対してとぼける晶。
確かに人が存在するのであれば、光が漏れていても不思議はない。
しかし、七不思議の噂の方が似たような話をよく聞く分現実味があるように錯覚してしまうのは、それだけ現実が非常識な上に珍しいからだろう。
「何なら見学していくか? かなり住み心地はいいぞ。ちゃんと風呂もトイレもキッチンも個人用で完備しているしな。私物だがテレビもゲームもある」
「い、いえ、それはまた次の機会に。今日は帰ります。何だか疲れたので」
「そうか。まあ、それはそうだろうな。今日はゆっくり休むといい」
「はい、ありがとうございます」
「うむ。では、また明日だ。朔耶」
「じゃあね。朝日奈君」
「はい。先輩方、また明日」
小さく手を振る己刃と横柄に頷く晶に一礼してその部屋を出る。
そして、二人には届かないように静かに息を吐く。
「今日は色々と、あり過ぎたな」
絶望、怒り、無力感、そして提示された救い。亀裂の入った日常。
今日経験した感情の起伏は一生でもそうないものだろう。大分落ち着いた今でも、まだ本当に冷静な思考は取り戻せていないかもしれない。
それでも一つ確かなことはある。感情も理屈もそれを支持している。
必ず千影を取り戻すこと。
この先常識では考えられない事態がいくつも訪れるかもしれない。しかし、その意思は全ての道標となってくれるに違いない。
そう。薄氷の上に立つ日常、千影のいない時間の中であっても。