第5話 噺家

文字数 3,302文字

 芝居を観終わった半吉とお玉が小屋から出た時、まだ待ち合わせの時刻よりやや早かったが、二人は水茶屋で待つことにした。
 二人は水茶屋に入ると、座敷に上がった。半吉は茶と団子を注文する。老夫婦だけで切り盛りしている店のようで、客はまばらだった。話をするには好都合だ。
 運ばれてきた茶と団子を前に、半吉はお玉に訊く。
「芝居はどうでやした?」
「面白かった。筋立ても良かったけど、演技も良かったです。特に三津森鱗三郎が見栄を切ったときには、痺れました。鱗三郎のような男の人を、水も滴るいい男って言うんですよね」
 お玉は興奮した様子で語り、茶をすすった。
「言うほどいい男じゃねえと思うがな」
「何言ってるんですか。ほっそりとした色白の顔にきりりとした目、通った鼻筋と締まった口元。これがいい男じゃなかったら、いい男なんていませんよ」
 お玉はむきになって反論した。鱗三郎の顔立ちにすっかり魅せられたようだ。
 半吉は、そんなお玉の様子が気に入らない。プイっと横を向くと、そこに友鈴が立っていた。
「半吉さん、喧嘩かい?」
 友鈴は冗談ぽく言うと、座敷に上がって座った。
「こちらがお玉さんです」
 半吉に紹介され、お玉は手をついてお辞儀をした。
「玉です。お忙しい中、私の我がままを聞いてくださり、ありがとうございます」
「これはご丁寧に。涼風亭友鈴です。あなたがお玉さんですか。あたしの身の上話を聞きたいんだってね。何を話せばいいのかな?」
「私は旅籠の一人娘で、家業を継がなければならない立場なんです。家業のために婿を取ればいいのでしょうけど、それでいいのか迷っています。友鈴さんも同じような境遇だったと聞きました。なぜ家業を継がなかったのか、後悔していないのか、その辺のことをお聞かせください」
 友鈴は「そういうことですか」と言うと、運ばれてきた茶を一口飲み、喉を湿らせた。
「あたしも商家の一人っ子です。お玉さんと同じで、家業を継がなければならない立場だった。実家は小さなロウソク屋で、子供の頃から商売を手伝わされていた。客先は寺ばかりだったから、よく寺に使いに出されていたよ。小さな頃は寺に行くのが怖くてねえ……、でも店を継ぐのは当然と思っていた。ところが十五、六になると色気づいてきて、相手が坊さんばかりの商売に嫌気がさしてきたんだ。陰気で地味な商売よりも、モテる仕事をしたいと考えるようになったんだ。若かったんだねえ」
「それで落語家に?」
 お玉に訊かれた友鈴はうなずいた。
「噺家の内情なんて分からなかったから、人前で話をするだけでチヤホヤされる噺家が、羨ましくて仕方なかった。それでも店を継がなきゃならないという思いがあったから、諦めるしかないと自分に言い聞かせていたんだ。でもね、抑え込めば込むほど、反対に思いは強くなるものさ。噺家になりたいという思いが抑えきれなくなって、おとっつあんとおっかさんに打ち明けたんだが、頭ごなしに『馬鹿なこと考えてないで、商売に身を入れろ』と言われるだけだった。今考えると、そう言うのも分からなくないんだが、若かったから親と大喧嘩さ。それからというもの、ことあることに喧嘩をするようになって、終いには家を飛び出してしまったんだ。家を出たものの、噺家になる当てがあった訳じゃなかった。それで色んな噺家の師匠の門を叩いたんだが、断られてばかりだった。可哀そうに思ったのか、今の師匠が内弟子にしてくれたんだ。住み込みで師匠の世話をすることになったんだが、曲がりなりにも跡取りとして育てられただろう、何もできなくてさ、毎日怒られてばかりだったよ」
「まあ、そんなことが。逃げ出そうと思わなかったんですか?」
「思ったよ。だけど、勝手に家を飛び出したんだから、実家に帰る訳にもいかなかった。いくら辛くても、辛抱するしかなかったんだ。そんな時、師匠に『他の者が普通にできることを、お前ができないのは、それだけ親に大事にされたってことの証しだ』って言われたのさ。それで親の愛情に気付いた。あれやこれや言うのも、あたしを心配してのことだったんだってね」
「では、家を出たことを後悔したんですか?」
「後悔しなかったといえば嘘になる。だけど、噺家になりたいとも思っていたから、立派な噺家になって安心させることが親孝行になると思うことにした」
「今はもう後悔していないんですか?」
「どうだろうね。家を出てしばらくした後、実家一帯が火事になったんだ。心配になって実家を見に行ったら、灰になっていた。二親(ふたおや)の行方を訊いて回ったんだが、生きているのか死んでいるのか、それさえ分からなかった。ところが、最近になって、おとっつあんは火事で亡くなり、おっかさんは商売を諦めて長屋で一人暮らしをしているのを知った。あたしが家を飛び出さなきゃ、こんなことにならなかったかもしれないと考えると、家業を継いだ方が良かったと思うこともあるよ」
 お玉は「そうですか」と言って、黙り込んでしまった。
「アッシみてえな者からすると、継げる家業があるってえのは羨ましい限りだが、家業があるってえのも面倒なもんなのかもしれねえな」
 二人の話を聞いていた半吉は、腕を組んだ。
 重苦しい雰囲気を破るように、友鈴がお玉に訊く。
「お玉さんは、何かやりたいことはあるんですか?」
「親の期待に従って家業を継ぐのが当然と思っていましたから、自分自身が何をやりたいかなんて考えてもいませんでした。今も……」
「特にないってことですか?」
「はい。自分が何をやりたいのか思い付かなくて」
「やりたいことなんて無理に考え出すものではないと思いますよ。そうですよね、半吉さん」
 半吉は突然話を振られ、まごついた。
「ア、アッシに訊くんでやすかい。アッシなんかやりてえことばかりだからよ。鉄火場に行きてえし、吉原(なか)にも行きてえ。そうそう一度やってみてえと思ってるんだが、大きな酒樽に飛び込んで死ぬほど酒を飲んでみてえ」
 友鈴は笑った。
「それじゃ、蜂の子の酒漬けみたいになるじゃないか。そういうことじゃなくて、お玉さんはどんな生き方をしたらいいのか悩んでいるんだと思うよ」
「生き方って言われてもよ、こちとらその日その日を生きるのに精一杯なんだ。そんなことを考えている暇ねえや。江戸の庶民なんてよ、皆そんなもんだぜ」
「半吉さんの言うことは分かるよ。あたしは名人と言われるような噺家になりたいって思っているけど、その日やる事をこなすのに手一杯だから。でもね、お玉さんは人生の岐路に立っていて、どの道を行けば後悔しないのか考えているのだと思う。お玉さん、違うかい?」
 お玉は背筋を伸ばした。
「友鈴さんの言う通りかもしれません。もう後で、あの時こうしたら良かったって思いたくないもの。実は……、私は家に迎えた婿と離縁したんです。家業を守り、次の代に渡すのが私の役目と考え、親に勧められるまま好きでもないのに一緒になったんです。でも、結局離縁することになりました。だから、縁談が持ち上がったときに、断った方が良かったのではないかと後悔しているんです。」
「お玉さん、あたしはね、後悔しない人生なんてないって思うんだ。例えば、陸路と海路があって、陸路を選んだとする。追剥に遭ったら、海路を選んだ方が良かったと思うだろう。でも、海路を選んだ場合のことは分からないんだ。もしかしたら、船が難破したかもしれない。その場合は、陸路を選んでおけば良かったと後悔するだろう。人間生きていれば後悔することも起こる。後ろを振り返ってみたって、仕様がないんだ。自分の選んだ道を信じて進むしかないんじゃないのかい」
「信じた道か……。私は家業を守るのが役目と信じて祝言を挙げました。でも失敗して、信じていたことが間違っていたのではないかと考えるようになったのです。一度くらいの失敗で、めげていてはダメですね」
 お玉は、霧が晴れたような表情になった。
「そうですぜ、また婿を迎い入れりゃいいじゃねえですかい。子供でもできりゃあ、迷っていたことも思い出になりまさあ」
 半吉はそう言いながらも、腹の中では良い風向きになったと喜んでいた。
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